地球へめぐり紀行本編

中国大陸西端の町カシュガル(1994年8月)

私は、1994年8月27日、新疆ウイグル自治区のウルムチから汽車でカシュガルに着いた。着いてすぐに、ウイグル族の居住地域の中心地、エイディガール広場を訪ねた。 カシュガル中心地エイディガール広場に立つ筆者 イスラム教のエイディガール寺院 寺院…

ベセクリク千仏洞

トルファンから約50キロ北東の火焰山の北麓の谷間に、ベセクリク千仏洞がある。 火焔山北麓の谷間 谷間の上から見たベゼクリク千仏洞 ベセクリク千仏洞の始まりは、6世紀の高昌国時代で、最盛期は西ウイグル王国時代の9世紀頃。当時のウイグル族は仏教を…

高昌故城とアスターな古墳壁画

トルファンの町から東へ45キロの火焰山の麓にある高昌城は、前漢が紀元前68年頃、西の交河城の東師前王国に対して、屯田の兵が駐屯する要塞を設けたのが始まりであるとされている。 高昌の王城と町の遺跡についての説明版 トルファン盆地は、雨の少ない…

トルファンの交河故城

自然環境の厳しいトルファン盆地には、古代からいろいろな民族が住み、栄えては侵略を受けて滅びた国の遺跡が乾燥しているが故に今も残っている。 交河故城の入口にある案内図 交河故城への道 現在のトルファンの町の西14キロのところには、紀元前2世紀頃…

トルファンの歌と踊り

私はトルファンを1979年9月と1990年8月の2度訪れたが、トルファンを訪れると、歓迎用に必ず楽団付きの歌と踊りが催される。踊りはタンバリンを叩いてリズミカルにくるくる回るのが、ウイグルダンスの特徴。 葡萄だな下での演奏 日本からの訪中団…

トルファンのぶどう(1979年9月)

トルファン盆地は、8、9月を除いて1年中雨は降らないが、天山山脈の雪解け水を426本もの地下水溝で引いて、いつでも水が豊富であり、日照量に恵まれているので、農産物、特にぶどうには大変な好条件で育ち、トルファンの特産品になっている。 葡萄畑を…

トルファンの町の様子(1990年8月)

私は、新疆ウイグル自治区のトルファンには、1979年9月と1990年8月の2回訪れた。 新疆ウイグル自治区のトルファン駅 トルファンの漢字表記 トルファン盆地は、周りを丘や岩山に囲まれている。最も低いところは、海面下150メートルで大変暑く、…

赤褐色の火焰山(1990年8月)

私は、1990年8月に新疆ウイグル自治区のトルファンを訪れ、火焰山を見た。トルファン盆地にある火焰山は、草木の生えていない、南斜面の凹凸の襞が多い赤褐色の岩山。 トルファンから火焔山への道 遠くに見える山が火焔山 火焔山への標識 火焔山近くの…

万里の長城西端の嘉峪関(1990年8月)

私は、1990年8月、敦煌を見学した後、柳園駅から汽車で嘉峪関に向かった。 中国大陸西域の天下の関所、嘉峪関を一度見ておきたくて、単純な気持ちで訪ねた。 嘉峪関駅の標識 嘉峪関駅のプラットホームから見た嘉峪関 嘉峪関全景 嘉峪関の西側にさらに伸…

敦煌の鳴沙山と月牙泉(1990年8月)

私は敦煌には2度訪れた。2度目は1990年8月6日だった。敦煌のホテルに泊まって、翌8月7日は1日ツアーのバスで、敦煌の南約5キロの砂漠の中にあるオアシス月牙泉を訪ねた。 西安駅から乗った汽車を柳園駅で下車し、ここからバスで敦煌へ 二泊した…

上海 青年との交流(1984年10月)

10月6日朝、武漢を飛び立って、上海には昼前に着いた。上海空港でも、鳴り物入りの大がかりの歓迎行事が催された。北京、武漢、上海といずれの空港でも歓迎行事は大変華やかで、日本人の度肝を抜くように催された。 昼前に武漢から着いた上海空港 日本で…

武漢 青年との交流(1984年10月)

10月4日、我々一行は北京から武漢へ飛んだ。空港には沢山の若者たちが出ており、いろいろな行事で華やかに迎えてくれた。 武漢空港での出迎え 空港での大太鼓の演奏 空港での出迎えの人々 空港での出迎えに、小太鼓を打ち鳴らす少女たち 当日、湖北省博物…

日中青年三千人友好交流Ⅱ(1984年9月)

9月30日は、北京体育館での青少年による大歓迎会があり、歌あり、踊りあり、演舞ありで、至れり尽くせりの大変楽しい一日であった。 9月30日、北京体育館前の歓迎の様子 体育館の中 青年が手を携えて日中の平和、友好の21世紀を迎えようとの標語幕 日本人の…

日中青年三千人友好交流Ⅰ(1984年9月)

1984年(昭和59)年9月29日から10月8日までの10日間、中華全国青年連合会など、中国の3団体から招待を受けた日本の青年たち、総勢3000人に及ぶ訪中団が、北京を起点とし、西安、杭州、南京、武漢の4コースに分かれ、各地で熱烈な歓迎を…

西インド諸島.ドミニカの子どもの遊び調査行③(2002年2月)

歌と踊りのドミニカ共和国 私は、2002年2月1日の朝、キューバの首都ハバナからカリビアン航空でキューバ東部の町サンティアゴ・デ・クーバに飛び、その日の午後1時に乗り継いで、ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴには午後2時半に着いた。 ドミニカ…

西インド諸島 キューバの子どもの遊び調査行②(2002年1月)

社会主義の国キューバ 私は、2002年1月29日の午後6時25分、ジャマイカ航空の双発機で、首都キングストンから約2時間で、キューバの首都ハバナへ飛んだ。 キューバに入国するにはツーリストカードが必要だが、出国前に取っていたのでスムーズに入…

西インド諸島 ジャマイカの子どもの遊び調査行①(2002年1月)

レゲエ音楽のジャマイカ ジャマイカは、カリブ海諸島の中で3番目に大きな島国で、北に一番大きいキューバ、東に2番目に大きいエスパニョーラ島がある。面積は約1,100平方kmで、岐阜県や秋田県とほぼ同じ広さがあり、人口は約260万。 1962年…

アクラの市場街 ガーナ

アクラは、カカオの産地で知られたガーナ共和国の首都で、最大都市でもあり、当時の人口は150万人くらい。 アクラは、日本人にとっては、黄熱病を研究した野口英世博士で有名で、博士の銅像もあり、立派なアクラ大学もある。 私が訪れた1970年9月当時は…

半世紀前のテマ港 ガーナ

テマは、アクラ近くの大西洋東端のギニア湾に面した人口10万くらいの町であったが、1961年に港湾が建設され、ガーナ最大の港になった。 しかし、私が訪れた1970年9月頃には、まだ普通の港町でしかなかったが、漁港は大変活気があり、沢山の漁船が…

トーゴの首都ロメ トーゴ共和国

私はナイジェリアの首都ラゴスからダホメ・トーゴを陸路で通ってガーナに向かう途中、トーゴの南西部の沿岸に位置する首都ロメに一泊した。町中の市場を見ただけであったが、一般的に、日本人があまり訪れることのない国であり町なので、1970年9月当時…

古都イバダンの子供たち ナイジェリア

私は、お世話になった日本人の車で、ラゴスから約150キロ北のイバダンの街を訪れた。途中、大蛇の仔を捕えた子どもたちに会い、撮影した。 イバダンへの道沿いで蛇を持つ筆者 イバダンはオヨ州都で、人口約200万のナイジェリア3番目に大きな都市。ヨ…

日本人の多いラゴスの女性たち ナイジェリア

私は、1970年9月にナイジェリアの首都ラゴス(当時)を訪れた。ラゴスは、ナイジェリア南西端に位置し、人口は1千万近くもある大都会。西アフリカ最大の商工業の中心地で、日本の帝人やナイジェリアとの合弁会社、JETROなどの事務所もあり、日本…

ガンビエの水上部落(1970年9月)ベナン

私は、西アフリカのギニア湾に面した旧仏領ダオメー(現ベナン共和国)を、1970年9月に訪れた。ダオメーは南北に細長い小国である。同じ赤道アフリカでも東と西とではえらく違う。東は高地で住みやすいが、西は低地で、湿気が多く、病原菌が巣くってお…

イソカ刑務所の中で(1966年12月)ザンビア

タンザニアの首都ダルエスサラームから,1,000キロ以上も離れたタンザニアとザンビアの国境ツンヅマ村まで、バスやおんぼろトラックの助手台に便乗してやって来ると、タンザニア側に国境警備兵の大きなテントが2つ張られ、兵隊が鉄砲を抱いて坐っていた…

ゲリラの国境に日本企業(1970年8月)タンザニア

私は1970年8月、タンザニアを訪れ、首都ダルエスサラームからバスで12時間半、ガタゴト道にゆられて、国境の町ムトワラに着き、降りた所で褐色の青年から声を掛けられた。 「お前は日本人か?」 5~6,000人の中国人が中国本土からやって来て、軍…

野生のゴリラを求めて②(1970年8月)ルワンダ

7匹のゴリラとの対面 翌日はだめだった。新しい巣や糞を見つけ、跡をつけてみたがとうとう発見できなかった。 3日間ゴリラ探索をしてわかったことは、午前中に発見しなければ午後は雨と濃霧でどうしようもないことだった。8月中旬には全くきまったように…

野生のゴリラを求めて①(1970年8月)ルワンダ

ビソケ山のゴリラ探索 ウガンダの首都カンパラに滞在中、ルワンダ共和国のビソケ山中に野生のゴリフが棲息しているという確かな情報を得た。カンパラからバスとタクシーとトラックの乗り継ぎで、中央アフリカの奥地まで1人でやってきた。 アフリカ中央部の…

キリマンジャロの登山②(1970年7月)タンザニア

岩と氷と寒風の世界 私は、又寝入ることができなかった。疲れきっているし、睡魔に取り付かれているはずなのに寝入ることが出来ない。頂上の酸素量は地上の僅か45%しかないし、気圧の低いせいかもしれないが、まるで頭の中が空っぽのようだ。自己催眠を掛…

キリマンジャロの登山①(1970年7月)タンザニア

第2のホロンボ・ヒュッテから キリマンジャロと最初に出会ったのは高校2年生の時、アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの短編、『キリマンジャロの雪』の日本語翻訳本を読んだ時だった。それ以来、キリマンジャロの頂上に立つことを夢想するよう…

東アフリカの野生動物たち(1970年7月)

東アフリカにあるナショナル・パークとは、野生の動物が人間から自由と生命の尊重を認められている広い地域であり、ここでは、人間が、車や檻の中に入って動物を見なければならないのである。パークといつでも、関東平野や四国の半分ほどの広さのものもあり…