地球へめぐり紀行

ミャンマー北部探訪 編

キリマンジャロの登山②(1970年7月)タンザニア

岩と氷と寒風の世界

 私は、又寝入ることができなかった。疲れきっているし、睡魔に取り付かれているはずなのに寝入ることが出来ない。頂上の酸素量は地上の僅か45%しかないし、気圧の低いせいかもしれないが、まるで頭の中が空っぽのようだ。自己催眠を掛けて全神経を一点に集中させると、細胞の一つずつが疲れている肉体は簡単に活動を停止する。

 午前1時半、フレシがランプを手にして起こしにきた。彼がノックする前に足音をちゃんと聞き知っていた。肉体の細胞は活動を停止していたのだが、脳の神経細胞は興奮状態で覚め続けていたので、重い頭痛がして起き上がるのが苦痛だった。

 寒さに緊張しながらも、起き上がってすぐに身支度をし、軍手を2枚重ね、その上に大きな皮手袋をして出発の準備をした。そして、フレシと2人で、午前2時に予定どおり小屋を出た。ポーターたちはここから上にはもう登らない。彼らは、私たちが帰ってくるのをここで待つのである。

 山の上のほうは曇って何も見えなかった。小屋のすぐ上から石ころと砂地が続いた。体が冷えていることもあり登りづらかった。

「ワアー」

 暗い頂上の方に向かって大声で叫ぶと、前を行くフレシが驚いて振り返った。

「ヨーシ、登るぞ!」

 目本語で叫び、気合を入れた。手にしている懐中電灯に照らされる足元以外は、暗くて何も見えず、寒さと頭痛で気がめいっていたので、自分自身を励ますためであった。そして、3回大きく深呼吸して足を前に進めた。

 やがて積雪地帯にさしかかる。風が強いので、雪は砂に絡まりついていた。ストックで突いてみると砂は凍結していた。足元では粉雪が風に舞うように散っていた。一メートル先を行くフレシの靴のかかとを見ながらゆっくり登る。

 歩けども歩けども砂と石ころばかりだ。何より斜面をジグザグに登って行くのは辛い。呼吸と歩数を合わせようと、1歩ごとに2回呼吸をする。酸素量が少ないので多量に空気を吸い込まなければならない。呼吸の回数を多くすれば頭痛は確かに少し和らぐ。しかし、疲れる。楽しいとか、面白いとか、生きがいを感ずるとか、充実感があるとか、そんなことは少しも感じられない。ただ苦しいだけ。

 迷いながら登っているうちに、少し強く息を吸い込むと鼻腔がピタリとくっ付くのには驚かされた。そのたびに急いで鼻に息を送った。これはえらいことになった、鼻の穴がくつ付いてしまったら死ぬかもしれない。そう思ったので息を口で吸って、暖かい空気を鼻に送り出した。

 顔、特に唇と鼻先には日焼け止めクリームをこってり塗りつけていた。鼻汁が出るので手袋でふき取ると、鼻から10センチも離れると白く凍りついた。直接風に触れる顔があまりにも寒いのと、鼻腔が凍りつくのでタオルでマスクすると、吐息のかかるところが、息と息との間に凍りつくので呼吸がし辛かった。

 頭が痛い、疲れた、眠りたい、休みたい、寒い・・・。

 頂上近くまで来て、フレシが高山病になってダウンした。休息すると寒くてかなわないので、少々辛いが動いているほうが良かった。フレシはかなり激しく頭痛がするらしく立ち上がっては休んでいた。彼に歩調をあわせていると体が冷えるので先に登ることにした。

 しかし、私には登るルートが分からなかった。人跡は強風に消されていたが、迷っていられないので、誰かが通った形跡のあるところを慎重に手探りで登った。凍てついた岩をつかむ皮手袋の手先が千切れるほど痛い。手先を何とか暖めないと、凍傷にかかるかもしれない。しかし、どうすることも出来なかった。

 もう太陽が昇り始めたのか、東の雲間が少し明るくなった。ふと見返すと、昨日見たマウェンジの頂上よりも高い所にいた。もう5,950メートルくらいだろう。ずっと下のほうに第3ヒュッテが豆粒のように見える。第一火口の砂地が悪魔の口のように黒く広がっている。

 頂上近くは火山岩だった。足を踏みはずしたら大変なことになる。なるべく下を見ないようにして、まるでヤモリのように両手両足で岩肌を這い上がった。

 頂上に数メートルまで近づいて、初めて、6,000メートルと言う山の高さの厳しさを知らされた。富士山より高い山の経験がなかったとは言え、本やテレビではかなりの知識があった。しかし、本の中で表現されている山も、テレビの画像になった山も、本当の厳しさを教えてくれてはいなかった。知っていた高い山の厳しさは、頭の中で想像された厳しさで、フラスコの中のピラニアでしかなかった。

 標高6,007メートルの頂上はもうすぐだ。しかし、3日間も眠れていないので、思考力は散漫で、何を考え、何をしているのか、何処にいるのかすらもはっきりしていない。

 岩と氷の凍てついた稜線を、上を見つめながら這い上がる。そして、赤と白の凍りついた旗を頭上に見た。ふと、右前方を見ると、キボで有名な幾何学的な階段状になった氷が、青白く、宝石のように美しく輝いていた。雪が何百年も積もり積もって出来た氷河が、風によって削り取られたのか、階段状になった氷の造形物は、世界でも珍しい自然現象。それは、キリマンジャロの頂上でしか見られない、雪と氷の織り成す自然美なのだ。

 第2火口の外輪にあるギルマス.ポイントまで後1メートル。赤と白の粉雪にまみれた旗がもう手に届く。右前方の眼下には、火口の岩と氷と雪の世界が広がっている。

 腕時計を見ると、7時20分を指していた。耳元に時計を当てたが、コチコチと言う聞き慣れた音は、キリマンジャロの叫びのような、鋭い破風の音にかき消されて聞き取れなかった。零下30度くらい。いやもっと低いかもしれないが、秒針は確かに動いていた。

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頂上近くになって高山病になって座り込んだフレシ

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頂上近くに座って夜明けを迎えたガイドのフレシ

  下を見ると、フレシが苦しそうに必死に這い上がっている。ガイドである彼は、キボホテルが発行する登頂証明書にサインをしなければならない。フレシは、私の登頂成功を証明しなければならないのだ。

 最後の岩場を全身の力を振り絞って這い上がった。そして、そこに立っていた白いポールを握り締めた。長い間の興奮状態から冷め、全身の力が干潮のように抜けていくのを感じた。 

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頂上近くの岩と雪

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キリマンジャロの第二火口の中

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頂上のギルマス.ポイントに立つ紅白の旗

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ギルマス.ポイントから見た第二火口の中

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厚く積もった火口の中の雪

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キリマンジャロのキボ火口にある階段状の雪景

 体がだんだん冷え、まつ毛が白く凍リ、キリマンジャロの白い雪肌を感じている私の上にはもう何もなかった。ただ、突き抜けるような青い空だけが広がっていた。

「おう!神様」

 雲間に昇った太陽の光が、凍てついた顔の肌に降り注ぐ暖かさに、神の慈悲を感じて思わず叫んだ。7月21日の早朝、いるはずのない私がキリマンジャロの峰の岩の上に座して両の手を合わせ、あふれる涙にかすむ太陽の輝きに、生きている暖かさを感じて「おう!神様」と何度もつぶやいた。

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頂上近くにあった強風にあおられた雪

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頂上に達した私を確かめて、砂走りを下山するフレシ

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頂上から下山中に見た第一火口

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下山中に標高5,000メートル近くから見下ろした雲海

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ギルマス.ポイントで朝日を浴びて座る筆者、フレシ撮影

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1977(昭和52)年に出版した拙著