地球へめぐり紀行

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ユーラシア大陸横断鉄道の旅 編

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑭ 新義州→丹東

新義州の駅を出ることは出来なかったが、改札口までは行けた。主にプラットホームを歩きながら出発を待った。 新義州駅の出口に立つ筆者 汽車は午後5時10分に新義州の駅を発った。間もなく鴨緑江にかかる鉄橋にさしかかる。幅500メートルほどの川は、…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑬ 平壌→新義州

平壌駅は、外観は大変立派なのだが、校内には市民生活を潤すものがなにもなく、時刻表や運賃表すらない。まったく殺風景な構内だが実に広々としている。 立派な建物の平壌駅 駅構内で切符を求める人たち 平壌駅の改札口 だたっぴろいプラットホーム 平壌駅の…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑫ 平壌

4月23日の平壌は快晴だった。新義州への汽車の発車時刻は正午なので、午前中に市内見物をする。 町は、5年前に訪れた時よりも活気があり、人や物が多く、ずいぶん明るい雰囲気になっている。5年前と比べると、車の数が増え、信号機が設けられ、バスの運…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑪ 開城→平壌

ユーラシア大陸横断鉄道の旅を、開城の町から再び始めるために、ずいぶん遠回りをさせられたが、鎖国状態のような北朝鮮を、こうして旅が続けられることだけでも幸運なのかもしれない。 金日成主席の若き日の写真を正面に掲げた開城駅には、構内に時刻表はあ…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅➉ 開城→板門店

平壌からの夜行列車は、4月22日午前6時に着いた。開城には外国人旅行者用の車がないので、ソウルから来た車と太さんが待っていた。私は、その車で太さんと共に駅から民族旅館に直行した。 早朝の開城駅 開城の民族旅館 民族旅館の筆者が逗留した部屋 部…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑨ 仁川→威海→煙台→北京→平壌

板門店を越えて北へ行けないので、仁川から中国・山東半島の威海へフェリーで渡ることにした。 4月8日の朝、ソウルは小雨まじりであったが、50キロ離れた仁川に11時半に着いたときにはもう晴れていた。 仁川の港のフェリー乗り場の入口 仁川港で中国の…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑧ ソウル

板門店を通過して北へ行くことができないので、仁川から黄海を渡って中国の山東半島の威海の町に行き、北京経由で北朝鮮の平壌に行く方法しかない。仕方なくソウルで一泊することにした。 街中から見たソウル駅 日本時代の古くからあるソウル市庁舎 市庁舎前…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑦ 板門店南側

ソウルから北へ60キロの道程にある板門店には、個人が自由に訪れることはできない。外国人ならば、大韓旅行社(KTB)が取り仕切っている1日バスツアーに参加して、土曜、日曜、祭日以外の日には訪れることができるが、韓国人はまだ行くことができない…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑥ ソウル→汶山

私は、その日のうちに韓国最北端の駅「汶山」まで乗り継ぐ予定になっていた。出発時刻は午後5時。朴さんの案内で急いで汶山行きの普通列車に乗り換えた。 汶山行きのプラットホーム入り口 汶山行きの汽車 車両は見るからにローカル線らしく、扉の開閉もまま…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑤ 釜山→ソウル

釜山駅 フェリボートの中央埠頭近くにある釜山駅に、午前11時40分に着く。金さんの案内で改札口を入り、すでに入線していた韓国版新幹線「セマウル号」の5号車17番の座席に荷物を置いた。列車は流線形ではなく、紺色の普通の客車が箱形のディーゼル機…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅④ 釜山

フェリー発着場出口の前からタクシーに乗った。中央洞の市庁舎前を通って、南浦洞の映画館街でタクシーを降りた。ここで金英姫さんの知り合いのカバン屋に私の荷物を預けた。 南浦洞の映画街 街頭に座り込んで商売するおばさんたち 彼女の案内で町を見て歩く…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅③ 下関→釜山

春の天候は変わりやすい。午前中は晴れていたが、正午過ぎから雲行きがおかしくなってきた。関釜フェリーの発着港である、下関国際ターミナルに着いた午後3時頃には、雨雲が重く垂れ込んでいた。 出国手続きを終え、フェリーに乗り込む時には小雨が降って、…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅② 下関

下関駅近くの高台にある亀山八幡宮の境内には砲台の跡がある。江戸時代末に、長州藩が英米仏蘭4ヶ国連合と紛争を起した時、関門海峡を航行する商船を砲撃するために作ったものだ。騎兵隊を組織した高杉晋作や薩長連合を画策した坂本龍馬、西郷隆盛、そして…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅① 東京→下関

1992(平成4)年4月14日、東京駅から鉄道でユーラシア大陸の西端リスボンのサンタ・アポロニア駅まで旅をすることにした。 東京駅は夕暮れの春雨に霞んでいた。東京駅舎のステーションホテル2階で、私の壮行会が催され、6時過ぎまでには、友人・知…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅 

はじめに 人間は、いつの時代にも白い雲に乗って、大空を自由に飛び回る夢を見る。それを青春というなら、私は青春の証明を求めて旅に出る。時には、無謀ともいえる未知への旅こそ新たなる人生の道標となるだろう。 私は、多くの国でさまざまな列車に乗った…

西インド諸島.ドミニカの子どもの遊び調査行③(2002年2月)

歌と踊りのドミニカ共和国 私は、2002年2月1日の朝、キューバの首都ハバナからカリビアン航空でキューバ東部の町サンティアゴ・デ・クーバに飛び、その日の午後1時に乗り継いで、ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴには午後2時半に着いた。 ドミニカ…

西インド諸島 キューバの子どもの遊び調査行②(2002年1月)

社会主義の国キューバ 私は、2002年1月29日の午後6時25分、ジャマイカ航空の双発機で、首都キングストンから約2時間で、キューバの首都ハバナへ飛んだ。 キューバに入国するにはツーリストカードが必要だが、出国前に取っていたのでスムーズに入…

西インド諸島 ジャマイカの子どもの遊び調査行①(2002年1月)

レゲエ音楽のジャマイカ ジャマイカは、カリブ海諸島の中で3番目に大きな島国で、北に一番大きいキューバ、東に2番目に大きいエスパニョーラ島がある。面積は約1,100平方kmで、岐阜県や秋田県とほぼ同じ広さがあり、人口は約260万。 1962年…

アクラの市場街 ガーナ

アクラは、カカオの産地で知られたガーナ共和国の首都で、最大都市でもあり、当時の人口は150万人くらい。 アクラは、日本人にとっては、黄熱病を研究した野口英世博士で有名で、博士の銅像もあり、立派なアクラ大学もある。 私が訪れた1970年9月当時は…

半世紀前のテマ港 ガーナ

テマは、アクラ近くの大西洋東端のギニア湾に面した人口10万くらいの町であったが、1961年に港湾が建設され、ガーナ最大の港になった。 しかし、私が訪れた1970年9月頃には、まだ普通の港町でしかなかったが、漁港は大変活気があり、沢山の漁船が…

トーゴの首都ロメ トーゴ共和国

私はナイジェリアの首都ラゴスからダホメ・トーゴを陸路で通ってガーナに向かう途中、トーゴの南西部の沿岸に位置する首都ロメに一泊した。町中の市場を見ただけであったが、一般的に、日本人があまり訪れることのない国であり町なので、1970年9月当時…

古都イバダンの子供たち ナイジェリア

私は、お世話になった日本人の車で、ラゴスから約150キロ北のイバダンの街を訪れた。途中、大蛇の仔を捕えた子どもたちに会い、撮影した。 イバダンへの道沿いで蛇を持つ筆者 イバダンはオヨ州都で、人口約200万のナイジェリア3番目に大きな都市。ヨ…

日本人の多いラゴスの女性たち ナイジェリア

私は、1970年9月にナイジェリアの首都ラゴス(当時)を訪れた。ラゴスは、ナイジェリア南西端に位置し、人口は1千万近くもある大都会。西アフリカ最大の商工業の中心地で、日本の帝人やナイジェリアとの合弁会社、JETROなどの事務所もあり、日本…

ガンビエの水上部落(1970年9月)ベナン

私は、西アフリカのギニア湾に面した旧仏領ダオメー(現ベナン共和国)を、1970年9月に訪れた。ダオメーは南北に細長い小国である。同じ赤道アフリカでも東と西とではえらく違う。東は高地で住みやすいが、西は低地で、湿気が多く、病原菌が巣くってお…

イソカ刑務所の中で(1966年12月)ザンビア

タンザニアの首都ダルエスサラームから,1,000キロ以上も離れたタンザニアとザンビアの国境ツンヅマ村まで、バスやおんぼろトラックの助手台に便乗してやって来ると、タンザニア側に国境警備兵の大きなテントが2つ張られ、兵隊が鉄砲を抱いて坐っていた…

ゲリラの国境に日本企業(1970年8月)タンザニア

私は1970年8月、タンザニアを訪れ、首都ダルエスサラームからバスで12時間半、ガタゴト道にゆられて、国境の町ムトワラに着き、降りた所で褐色の青年から声を掛けられた。 「お前は日本人か?」 5~6,000人の中国人が中国本土からやって来て、軍…

野生のゴリラを求めて②(1970年8月)ルワンダ

7匹のゴリラとの対面 翌日はだめだった。新しい巣や糞を見つけ、跡をつけてみたがとうとう発見できなかった。 3日間ゴリラ探索をしてわかったことは、午前中に発見しなければ午後は雨と濃霧でどうしようもないことだった。8月中旬には全くきまったように…

野生のゴリラを求めて①(1970年8月)ルワンダ

ビソケ山のゴリラ探索 ウガンダの首都カンパラに滞在中、ルワンダ共和国のビソケ山中に野生のゴリフが棲息しているという確かな情報を得た。カンパラからバスとタクシーとトラックの乗り継ぎで、中央アフリカの奥地まで1人でやってきた。 アフリカ中央部の…

キリマンジャロの登山②(1970年7月)タンザニア

岩と氷と寒風の世界 私は、又寝入ることができなかった。疲れきっているし、睡魔に取り付かれているはずなのに寝入ることが出来ない。頂上の酸素量は地上の僅か45%しかないし、気圧の低いせいかもしれないが、まるで頭の中が空っぽのようだ。自己催眠を掛…

キリマンジャロの登山①(1970年7月)タンザニア

第2のホロンボ・ヒュッテから キリマンジャロと最初に出会ったのは高校2年生の時、アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの短編、『キリマンジャロの雪』の日本語翻訳本を読んだ時だった。それ以来、キリマンジャロの頂上に立つことを夢想するよう…