新制中国の望郷編➉ 越王公践の“臥薪嘗胆”
1993年1月7日午前10時には雨が止んだ。2500年もの歴史がある紹興の街には、心が弾むような木々の茂る府山があり、その南麓には越王台と越王殿がある。越王勾践(在位紀元前496~465)が、閲兵したといわれる、越王台に立って南を見る。大地は平坦で、家々が明るい緑の樹の間に見える。ここ紹興は“会稽”と呼ばれ、古代越国の首都であった。
”呉越同舟“で知られた春秋時代の呉と越の国は、江南地方にあり、今日の杭州湾から銭塘江を境に向かい会っており、同族であるがゆえに絶えず戦っていた。北の呉の首府は現在の江蘇省蘇州に、南の越の首府会稽は浙江省紹興にあった。越王勾践は、紀元前494年に呉王夫差とこの地で戦って負けた。
戦いに負けた勾践の2人の大臣、文種と范蠡は、呉王夫差にたくさんの土産と越国一の美女西施を差し上げ、勾践の命乞いをした。夫差は、勾践に3年間の馬飼いの使役を命じた後、追放した。
勾践は会稽に戻り、文種や范蠡とともに働き、「会稽の恥」を忘れるなとばかりに、薪の中に臥して我が身を苦しめ、苦い肝を嘗めては屈辱を思い出す。まさに”臥薪嘗肝”の歳月を20年間過ごし、徐々に国力を高めた。
そして、勾践は再び夫差に戦いを挑み、紀元前473年に夫差を大敗させ、呉を滅亡させた。
越は、その後江南地方全土を支配する大国となっていたが、紀元前334年には西の大国楚によって滅ぼされた。そして、越国の多くの民は南へ逃げ、後に”百越”と呼ばれるほど多くの国々を興す。中には東の舟山群島に逃げた人々もいただろう。
こうした戦いの同じころの出来事として、日本への稲作文化の渡来がある。渡来の中心時代は紀元前400年前後とされているので、呉の国が滅びてから越の国が滅びる約150年の間に適応する時期である。大陸の古代の戦いには、多くの人や物を玉突き状に動かしたり、長距離の危険な移住や移動を促したりした。
越は銭塘江から東にあった国で、この紹興を中心とする余姚、寧波など、日本に最も近い中国大陸の江南地方の国であった。当時でも江南地方から東シナ海の舟山群島を経て、日本列島への集団移住は可能であったと思われる。
尚、紹興には、中国大陸における古代の治水の英雄”大寓"の陵もある。
2022年3月25日追記