新制中国の望郷編⑲ 武夷の古い下梅村と城村
紀元前324年に、楚の国に越が滅ぼされた後、越王は南の武夷山中に逃げ込み、現在城村と呼ばれている地に居城を築いて、越の末裔たちを集め、”閩越国”を建て、王都としたと言われている。
越渓と呼ばれる川沿いを中心に、閩越国は少々栄えていたが、紀元230年頃、漢の武帝の10万もの大群が押し寄せて、閩越国は滅びた。越族の多くは南の湖南、広西、貴州、雲南省へと逃亡や移住をした。しかし、城は焼かれたが、まだ残っている多くの越系民族を漢化させるため、中原から李、林、趙の三姓を中心とする漢民族が送り込まれ、移住してきた。
閩越の首都であった城跡は、今発掘されて「古越城」として遺跡になっているが、越族の居住地域であったこの地域には、漢化を促すため、最初は漢時代、次は南宋時代、そして明時代の3回にわたって漢民族の移住があった。
この城村の近くに、1千年前からの村「下梅」がある。下梅村は、越系民族と漢民族が混住する村で、古越と漢の合流した、大変古い村だとのことで、武夷山市旅游協会副会長の王公紅さんに、是非訪ねて見るようにと勧められた。
下梅村は、1000年以上も前に、鄒家がつくった村で、今では500軒2000人が住む大きな村になっている。村長の家は400年前に建立されたそうだ。何より、村全体の建物が古く、野外博物館のようになっている。言葉も漢語とは少々違って、米・メイ、白飯・ビン、川・カイ、水・シュー、火・フィ、はし・タウ、家・チョーなどである。
下梅村から10キロも離れていない城村を訪ねた。村の現在の人口は2500人だそうだが、清朝時代には多く、1万人以上も住んでいたそうだ。
古代の閩越国の首都であった城村は、今日崇陽渓と呼ばれる川沿いにあった。この川は、明・清時代には淮渓、閩越時代には越渓と呼ばれていた。その川沿いの古い埠頭近くに、樹齢900年の楠の大木があった。
この村には、清朝時代の初めに作られたという、村全体が見 渡せる楼「聚景楼」があったが、今はないそうだ。城村は一度破壊されて、時代と共にできたのでまとまりがなく、雑然としていたが、下梅村は、破壊されなかったので、1千年前とあまり変わらないような、古色然とした家々が建ち並ぶ通りがあり、古代越系と漢民族文化を止めているような珍しい街並みであった。
2022年4月6日追記