新制中国の望郷編⑰ 福建省 南山畲族の稲作文化
浙江省南部の景寧畲族の村は訪ねたが、最も畲族の多い福建省北部の寧徳地方をまだ訪れていなかった。
1995年10月9日の夕方、北京から福州へ飛んだ。翌日の朝、通訳兼案内人の陳凡氏(25歳)と、劉建輝氏(38歳)運転の車で、139キロ北の寧徳へ向かった。
人口37万人の寧徳は、畲族の人々が多い大変古くからの港町で、唐時代には福寧府と呼ばれていた。私たちは、海岸近くの閩東大酒店に泊まった。北京を出る前に、古い友人の国家旅游局次長何光偉氏に福建省に行く旨を伝え、協力をお願いしておいた。省旅游局から寧徳旅游局に連絡があったそうで、午後6時前に、雷愛花女史(33歳)が訪れた。そして、彼女が全責任を持って、明日から南山地方を案内すると告げてくれた。
翌10月11日、雷さんが9時にホテルへ来て、すぐに出発した。途中、南山地方管理事務所に立ち寄って、外国人の私が、村に滞在(宿泊)できる許可を取った。
午後1時に南山村に着いた。南山村はこの辺7カ村の中心的村で、26軒、120人が住んでいる。山奥のシャ族は、まだ漢民族との混血はあまりなく、比較的純粋な越系民族の末裔である。
南山地区共産党委員会書記の雷細木氏(49歳)の指示で、近辺の村人が呼び集められ、歓迎用に歌や踊りを披露してくれた。
世界中どこに行っても歌がある。楽器は感情を表現し、歌詞は心を表現する。彼らの歌の中には「田植え歌」もあった。
“4月22日には田植えする人がいっぱいいて、左手に苗を持ち、右手で田圃に苗を植えます。5月9日になると、すべての田に苗が植えられて、緑がいっぱいになります”
彼らの暦は旧暦(農暦)で、田植えの時と方法を歌にして伝えている。村人たちが、年間の稲作労働の作業中によく歌うのは”造田歌”である。
南山村には平地は少ないが、山のゆるやかな斜面に棚田が広がっている。旧暦4月に植えて8月に収穫するので、すでに刈り入れは終わっている。
村の全ての家の収穫・脱穀を終えた後、7ヶ村の村長が集まって、年に一度の“ギー”と呼ばれる祭りの日を決める。その日は、まず自分の家で新米を炊いて神座に供え、家族全員が一緒に御馳走を食べる。その後、村人たちが集まって歌ったり、踊ったりして楽しむ。これは、日本の皇室にもある、天皇が神と共に新米を食べる“新嘗祭”に共通する祭りである。
餅つきは、旧暦11月1日に一度だけ行う。3月3日は“サンゲサン”と呼ばれ、木の葉に包んだ飯を皆で一緒に食べ、5月5日には“モチョン”と呼ばれる粽をつくって食べる習慣がある。
南山村では雷細木さんの家で世話になった。彼の家は木造の2階建てで、1階を増改築していたが、その部屋を1つ与えてくれた。彼の家族は、妻と78歳の父親、子ども2人、娘の夫と孫が1人の合計7人。
彼の家で昼食も夕食も、大勢の村人たちと一緒に食べた。畲族の料理は日本人の口に合う味で、漢民族料理のように脂っこくはない。
夜遅くまで村人が集まり、焼酎を飲み、たばこを吸って、楽しげによく話す。通訳が1人なので、情報は私の好みによって制限されるが、村人たちは私に何かを伝えたいのだろうが、全部は聞けない。
彼らは日本を知っていた。繁栄国日本のイメージが強く、私に大変な興味と関心を持ち、日本人を見たくて、話がしたくて、次から次にやって来る。彼らは私を見て笑い、驚き、「なんだ、同じ顔をしているではないか」といわんばかりに近づいて手を握ったり、話しかけたりしてくる。
私からすると、彼らは皆、日本人と同じような、稲作農耕民の顔。40数年前の故郷の人のような人々ばかりで、なんとなく懐かしく、親しみがある。そのせいか、私もつい笑って親しく手を握ってしまう。時間が少ないので気は焦るが、酔いも回って調査や取材などできないまま、時が過ぎた。