新制中国の望郷編⑱ 武夷の崖墓と祖霊信仰の起こり
江南地方には、古くから懸崖(人が登ることのできない絶壁)の高い所に棺が安置されていることはよく知られていた。懸崖の棺は、一般的に懸棺と呼ばれ、その場所は崖墓と呼ばれいた。
崖墓の最も古いものは、福建省武夷山市の大王峰にある崖墓。最初に武夷山市の崖墓を見たのは、1995年1月。それ以来、崖墓と祖霊信仰と稲作文化のかかわりについて考えるようになった。そして、1997年10月29日、再び武夷山市を訪れた。
私は、10月23日から28日まで、江西省の南昌で開催されていた「第2回農業考古国際学術討論会」に出席し、多くの専門家たちから情報を得た。
討論会が終わった後、南昌から車で武夷山市に入った。ホテルは国家旅游局直営の玉女大酒店。通訳は、寧徳地方の畲族を訪れた旅に同行し、すでに2回も私を案内している福建省青年旅行社の陳凡さん。
翌30日、朝一番の飛行機で、この辺の崖墓の専門家である林忠于教授が、私を案内するために福州からやってきた。彼とは旧知の仲で、すぐに武夷宮にある博物館を訪れた。館長の鄭さんは林さんの友人で、私たちは陳列品を見ながら、崖墓について話し合った。
武夷地方でいちばん古い崖墓は、武夷博物館の後ろにそびえ立つ岩山「大王峰」にあったもので、炭素14で木棺を調べた結果、3000年以上古いとされている。武夷山市に崖墓は多いが、いちばんよく見えるのは、九曲下りで有名な九曲渓を竹の筏で下り、四曲にある大蔵峰の崖墓である。筏から下りて、懸崖の対岸の山に登り、望遠鏡で見れば、穴の中までよく見える。
私たちは昼まで話し合い、館長も交えて昼食を共にした。
午後2時から、武夷宮から15キロ離れた大廟村にある、巨大な岩壁になっている蓮花峰の白岩崖墓を訪ねた。
私達は、高いところにある崖墓を見上げながら、何故こんな高いところに棺を引き上げたのかについて話し合った。
武夷地方にある葫芦山頂上に、四角形の祭壇の遺跡が発見されている。これは3000年ほど前の西周時代に、天を祭る儀式用に使われたものとされている。
当時の人々は、神は天にいるものと思い、天に近い高い山を恐れた。すべての現象は神のなせる業と思い、自然災害を防ぐ方法として、60歳以上長生きした生命力の強かった先祖の霊を天に遣わし、神との連絡役をしてもらおうと考え、他人に暴かれない、より高い安全な所に長命であった親の棺を安置することに、最善の努力を尽くした。
人々は、先祖の霊が天に行き、神との連絡役をしてくれれば、子孫に災害が及ばなくなり、平和に安心して暮らせると思ったようだ。しかも、先祖霊が天の神に会えなかったとすれば、それは子孫の努力不足であったと思わざるを得なかったのである。
人々は、神に祈るとき、高い祭壇を設けたり、高い山に登ってより近いところに参上した。当時の人々の天神崇拝の工夫と努力が、懸崖に棺を引き上げる行為を神聖化したとされている。
当時の稲作農耕民たちは、自然災害は天の神によるものと考え、天により近い高い山を神聖化し、雨乞いなどの神への連絡役ができるのは、生命力の強かった祖霊であると考えることによって、天(神)、山(自然)、祖霊(人)が一体化することを願った。それこそ、天・地・人の道理を確立する基本理念だ。その理念を応用した社会生活の知恵が「天の時、地の理、人の和」なのだろう。
祖霊とは、家族または血縁集団の祖先の霊魂のことだが、生者との相互依存関係によって、祖先崇拝が強く現れる社会状態を「祖霊信仰」と呼んでいる。
自然の営みの中で生きる稲作農耕民たちは、自然の偉大さ、怖さ、豊かさを全身に受けとめ、自然と先祖霊をほぼ同じものとして考え始めた。だからこそ毎年新しい米を収穫すると、まず祖霊に供えて新嘗の儀式をし、感謝の祭りをする。
こうした考えから、先祖崇拝という「祖霊信仰」の精神世界が発展したのだろう、と林教授と話し合った。
2022年4月5日追記