新制中国の望郷編㉔ 貴州省 苗族の新嘗祭
初めて貴州省を訪れたのは、1983年9月であった。それ以来96年8月までに2度訪れ、江南地方の江西省から移住してきた越系の稲作農耕民であった苗族や侗族・布衣族などの村々で、彼らの生活文化を踏査した。知れば知るほど日本の生活文化と類似する点があり、疑問と関心が強くなった。
貴州省は、もっとも漢民族化の遅れている地域で、46もの少数民族がいる。総人口約2855万人の内、少数民族は742万人。その内苗族が最も多く、約258万人とされている。
貴州省凱里県に住む苗族は、今から5~600年前の明朝時代初期頃に、江南地方の江西省から移住してきた越系民族の末裔。その苗族に、日本の皇室行事と同じような、新米を食べる「新嘗祭」があるという。
私は、1996年8月29日(旧7月10日)に凱里県の翁項村を、地元の通訳兼案内人の熊邦東さん(25歳)の案内で訪れた。
翁項村は、標高700メートルの南斜面にあり、約40軒300人が住んでいる。村の下にある水稲の棚田はすでに色づいている。
私たちは村の中を見て歩いた。そして、熊さんが息子さんと顔見知りであるという、ヤン・ウージさん(59歳)の家を訪ねた。彼女は気持ちよく迎えてくれ、明日の新米を食べる祭り「ノウモー」にも招待して下さり、しかも村で一番物知りのパン・ツオンミンさん(68歳)のところへ案内してくれた。
苗語の「ノウモー」の「ノウ」は食べる、「モー」は12支の4番目の「卯」のこと。しかし、正確には「ノウモーケーキー」だそうだ。「ケー」は米、「キー」は新しいであり、「卯の日に新米を食べる」、すなわち「新嘗祭」のことである。
この地方の苗族は、旧暦4月第一卯の日から40日以内に田植えをし、7月に収穫する。ノウモーの頃は貯蔵米がなくなる時だが、ノウモー以前に稲を刈り取ってはいけないという。
「私たちのすべては先祖が伝えてくれたものだ。新しい米が出来れば、まず先祖に感謝してシャンホ(神棚)に供える。それをしなければ、家族に不幸が訪れ、来年は不作になる」 パン・ツオンミン老人が教えてくれた。それに、神棚に供えた稲穂は翌年まで放置され、いざという時には種籾にもなるそうだ。
私は、翌8月30日の朝9時に、ヤン・ウージさんの家を訪れた。彼女は30数年前にパン家に嫁ぎ、2男2女の母親だが、5年前に夫を亡くし、今では家長的存在。私たちは、彼女の行う「ノウモー」の儀式を見せてもらった。
彼女は、9時過ぎに、3歳の孫を背負って家を出た。10分ほど坂道を下って、自分の好きな田に行き、孫と一緒に稲穂を9本抜き取った。
10時前に家に戻ると、稲穂に水をかけて洗った。そして、2本ずつ結んで神棚にかけた。
苗族の家には、入口を入った突き当りに大きな神棚があり、家の外に小さな神棚がある。大きい方には祖霊神が、小さい方には祖霊神にはれなかった霊が戻るという。
彼女は、あっさりと大きい方に4本、小さい方にも4本の初穂を捧げた。そして、残った穂から籾を取り、籾殻を爪で剥がし、玄米を朝蒸しておいた白い飯の上にパラパラと撒いた。以前は新米を蒸したが、今は、おこわの上に置くだけだそうだ。
10時過ぎからお嫁にいっている長女、長男の嫁、次女、そして彼女の弟1人が、忙しげに料理をつくり始めた。そして、午後1時前に、大きな神棚の前にたくさんのご馳走が並べられた。彼女は1人で、大きな神棚の前に立ち、よく聞きとれない声で口をもぐもぐさせながら、床に糯米の甘酒と粳米の焼酎を少し注いだ。そして、おこわと料理を少量ずつ落とした。
「先祖の皆さん、今年も良い米がとれました。どうぞ召し上がってください」
彼女はこのようなことをつぶやいたそうだが、手を合わせたり、頭を下げたりすることはしなかった。
その後、家族や親族が集まって料理を食べた。午後はずっと飲み、食い、談笑が続いた。
ノウモーの1日目は女の振る舞いを中心とする儀式的なのに比べ、2日目の闘牛大会は、村の男たちが楽しむために行われた。
3日目の午後5時頃には、翁項村の三辻のようになった広場に、翁項郷の村々から沢山の人が集まり、6時頃から芦笙が吹き鳴らされ、12から16歳までの未婚の娘たちが、銀製の装飾品を身につけて、暗くなるまで踊り続け、ノウモー3日間の祭りは終わった。
2022年4月13日追記