新制中国の望郷編㉝ 海南省 リ族の酒談話(最終回)
私は、1982年12月26日に海南島を訪れた。島の中央部に標高1867メートルの五指山があり、その南に人口2万人の町、通什がある。
周囲を山に囲まれた通什は、標高800メートルの盆地にあり、山間にはリ族と呼ばれる少数民族が住んでいる。
私は、通什の町に2泊して、史さんと劉さんの2人の通訳とともに、リ族の生活文化を踏査するために、村を訪ね歩いた。
海南島の南部に約70万人いるといわれるリ族は、約千年前に福建省の方から海南島に移住してきた、越系民族の末裔たちである。
最初に案内されたのは、街から3~4キロの蕃芽(バンモー)村であった。この村は近代化しておりもっとも素朴な村を見たい旨を伝えると、村の生産隊長ワンチン・ファンさん(40歳)が他の村を案内してくれることになった。
リ族は漢語で“黎族”と表記されるが、海南語では“ロイ”。村人たちは自分たちのことを“ゲイ”と呼んでいた。ゲイの意味を尋ねたが、誰も教えてくれなかった。
通什の町から別の谷間を約6キロ入った什馬(タバン)村が素朴で良かった。何より、車の通れる道がなく途中から歩いた。ゆるい斜面に棚田が広がり、茅葺きの家があったが、この辺では一番古い村だそうだ。
什馬村のチュン・シンさん(25歳)の家でいろいろ聞き取りをした。村人の30数歳から下は学校に通い、漢語が話せるが、それ以上の人は理解できない。通訳は日本語から漢語、漢語からリ族語なので、なかなかうまくゆかない。
チュン・シンさんの家に村人十数人が集まってくれ、“ビヤン”と呼ばれる酒を飲みながら話を聞いた。リ族は、人が集まるとお茶代わりに酒を飲むのだそうだ。ビヤンは、アルコール度10%もない。しかし、更に2~3週間もすると、アルコール分30%の強い酒になるという。
リ族の家は、本来竹と茅や藁だけで作っていたが、今では土壁で囲い、屋根を茅または藁で葺いている。土間で煮炊きをするので、家の中には煙が漂い、目にしみた。
水稲は二期作で、まず2~3月に田植えをして、5~6月に収穫。次には7~8月に田植えをして、10~11月に収穫する。12月の今は農閑期だが、多くの村人が苗代を作っているとのこと。
リ族にとって最も盛んな行事は、”トプセ”と呼ばれる”竹踊り”だそうだ。若い男女にとって見合いや顔見せを兼ねているとのこと。
その竹踊りを是非見たいと頼むと、明日、蕃芽村で行われるとのことだったので、ワンチン・ファンさんに頼んで見せてもらうことになった。
翌12月18日、午前9時に蕃芽村を再訪した。リ族は、日常的な衣服は西洋風になっているが、12名の若い男女が、リ族の衣服を身につけていた。
村の広場に村人が集い、若い男女が歌ったり踊ったりした。そして、10時頃から竹踊りを始めた。それは、歌やかけ声でリズムをとりながら、飛んだり跳ねたりして、2本のローンと呼ばれる棒竹に挟まれないようにする遊びだった。
棒竹をリズミカルに上手く飛び越せばよいが、挟まれると失格。敏捷でない者は、足を取られて笑い物になる。男女とも敏捷な者が村人の注目を浴び、好感がもたれる。
竹踊りは昼前に終わり、12時から竹踊りをした若い女性ワントン・チュー(20歳)さんの家で、リ族料理の昼食をごちそうになった。リ族は男も女も5~6歳からビヤンをよく飲むそうで、女性も強かった。いろいろ質問したので、酒入りの談話がしばらく続いた。
「新制中国の望郷」編を長くご覧くださいましてありがとうございます。このシリーズはこれで終わります。次は、私が最初に取り組んだ民族踏査「内蒙古のモンゴル族」について、報告しようと思っています。私は、内蒙古自治区には1982年以来8回訪れ、沢山の記録写真がありますので、写真中心に考えています。写真整理に少々時間を置きますが、知られざる騎馬民族の末裔の生活を紹介しますので、ぜひ続けてご覧ください。
2022年4月26日追記