新制中国の望郷編㉗ 広西壮族自治区 駱越の末裔・壮族
中国大陸東南部に住んでいる壮族(チュワン)族は、12世紀の南宋時代には「力強く抵抗する」という意味で「撞」と記され、明・清時代には「獞」の字が当てられていた。そして、中華人民共和国になった1949年以後は「僮」と表記されていたが、1964年に現在の「壮」の字になった。いずれも中央政府からの呼称で、壮族自身の呼称ではないが、今日では現地でも一般的に壮である。
広西壮族自治区の成立は1958年で、総人口3300万人のうち1000万人が壮族であり、雲南・貴州・四川省などにも100万人いる。中国55の少数民族の中では最も人口の多い越系の民族である。
私は、広西壮族自治区をこれまでに3度訪れている。4度目は、96年1月に、越系民族の「稲作文化」を踏査するためであった。
区都南寧から約60キロ北の武鳴県には、多くの壮族が水稲栽培を生業として生活している。生活形態は既に漢民族化しており、家はもともと木と竹の高床式住居で、階下は家畜用であったが、今では平屋の煉瓦造りになっている。
しかし、彼らは今も稲作農耕民で、稲作起源の伝説や新嘗の祭り、雷神の子であるカエルをトーテムとする風習などがある。燕を益鳥として大切にし、川魚の草魚を生で食べる。
壮語で草魚のことを「ラクワン」という。長さ30センチほどのラクワンのうろこをとり、三枚におろす。ラクワンには小骨が多いので薄く千切りにする。それに菜種油などをかける。そして、セリ、香草、唐辛子、生姜、らっきょう漬けなどを細かく切り刻んだ薬味につけて食べる。これは、刺身というより「ぬた」に近い。それにしても中国大陸で生魚を食べるのは壮族だけである。
正月には草木で着色した赤・白・黄色の3色おこわで祝い、糯米の焼酎や酒を飲み、男女が対歌をする。
また、2次葬の習慣があり、骨壺を絶壁に安置する「崖墓」をつくる。これらは、駱越民族の末裔である壮族だけでなく、越系民族独特の風習である。
古代の越族は、紀元前5世紀頃には、現在の浙江省、福建省、江西省などを中心に住んでいたが、紀元前4世紀末に楚の国の侵入を受けて滅びた。支配階級の多くは南の方へ逃げたが、一般の庶民は居残っていた。しかし、紀元前3世紀頃から漢民族の侵入によって楚も滅び、江南地方の越系民族の多くは、徐々に南へ移住した。そして、越南とも呼ばれる現在のベトナムまでに至る、「百越」と呼ばれるほど多くの国をなし、広範囲に住むようになった。
たとえば、紀元前2世紀頃の漢時代には、浙江の「鷗越」、福建の「閩越」、広東の「南越」、広西とベトナム北部の「駱越」などである。壮族は、この駱越の末裔とされている。
その後、江南地方では漢民族文化の浸透によって、越系文化は衰退したが、都市部から離れた雲貴高原や広西壮族自治区、ベトナム北部などの僻地では、今もまだ色濃く残っている。しかし、時代の流れとともに薄れている。
2022年4月18日追記