新制中国の望郷編㉛ 雲南省 景洪タイ族の正月
西暦1980年4月は、雲南省シーサンパンナの景洪タイ族の暦では、1342年6月となり、正月にあたる月である。これは、雲南省東南部の景洪地区に移住した越系民族の末裔であるタイ族の年代である。
タイ族は、紀元前には現在の江西、湖南や広西壮族自治区に住んでいた越系民族であったが、漢民族などの侵入によって、多くの人々が徐々に南へ移動した。遠くはビルマ北部のシャン地方からタイ北部、ラオス、ベトナム北部やシーサンパンナにかけて移住し、いろいろな王国を建国しながら独自の生活文化を維持してきた。特にシーサンパンナの景洪に住むタイ族は、20世紀に至るまで西洋文化の影響を殆ど受けていなかった。稲作農耕民のタイ族は、どちらかといえば女性が良く働き、前に出がちな母系社会である。
越系民族の稲作文化を知るには、まさにうってつけの民族ではないかと思い、景洪タイ族のお正月を踏査することにした(今日のタイ王国とほぼ同じ民族)。
シーサンパンナ・タイ族自治州に、外国人が入域できるようになったのは、1980年4月11日で、私たちが昆明からバスで入域した日である。
午後4時、摂氏33℃もある景洪の町に着き、景洪第一招待所に案内された。迎えてくれたのはタイ族の案内人タオさん。自治州都の景洪は、標高500メートルで、人口2万人余りだそうだ。
翌4月12日はタイ族の正月・元旦。午前7時半に食堂に入ると、丸いテーブルには、タイ族の正月料理がいっぱい並べられていた。
粥が白粥と紫色の粥2種類があり、紫色の粥の原料は紫米であった。芭蕉の葉で巻いた”カオン”という粽があった。味はかしわ餅と変わりない。日本と同じような赤飯もあった。タイ族は粘りのある糯米を好むそうだ。とにかく、”ハロソ””カツオク”などと呼ばれる糯米料理が多い。
ガイドのタオさんは、明るくて良くしゃべる。長い黒髪を後頭部にくるくるとうず高く巻き上げ、ピンや櫛でしっかりと止めて、花やカンザシを刺している。
私は、村の様子を見たくて、カメラ1台を肩に掛けて1人で歩いた。男たちはどこかの家に集まって酒でも飲んでいるのだろうか殆ど見かけない。習慣なのか、女は家の前を私が通りかかると、「スザオリ(こんにちは)」と笑顔で声をかけてくれる。
歩いていると、ある家の前で30代と思われる美しい婦人に呼びかけられ、中に入るように勧められた。高床式の家の木の階段を上った。床に置いた木の食台に正月用の糯米料理やバナナ、スイカ、マッコラなどの果物が置いてあった。彼女は親しげに微笑み、茶碗に入った焼酎をすすめる。恐れや疑いのない表情で、焼酎を振る舞ってくれ、果物を手渡ししてくれる。
「トハ、モープー、カムタイ(私は、タイ語を話せません)」と言ったが、彼女は、そんなことはどうでもいいといわんばかりに、まるで肉親のように振る舞って笑う。
私は、タイ族の女性の一献に正月を2、3度同時に迎えたような気分になった。
彼女にお礼を述べて外に出た。村の広場では水かけ祭りが始まっていた。水をかけられると一年間の厄払いができると信じているので、人々は競って水をかけ合う。
私は正午前に全身びしょ濡れになって招待所に戻った。カメラなどにも無頓着に水を浴びせるのには驚かされた。
景洪郊外のタイ族の家はいずれも高床式で、木製の梯子がついている。その家の茅葺き屋根には、日本の神社に見られる「千木」や「かつお木」と同じような物がついている。千木やかつお木と類似するものは、茅葺き屋根を補強するにはなくてはならないもの。もし、それがなければ屋根は風雨に弱く、一度の嵐で吹き飛ばされてしまう。稲作文化としての高床式入母屋造りの建築文化は、日本にもある。
私たちが泊まっている招待所の裏は段丘になっており、その向こうがメコン川の上流であるランツアン川。正月2日目は竜船祭。
長さ20メートル、幅約1メートルの竜船に4、50人の漕ぎ手が乗って、村対抗の競漕。男11組、女3組が参加している。女も男も白、赤、青、黄、緑、桃色など、色とりどりの布で頭に鉢巻きをし、大変勇ましい姿。
赤い旗が振り下ろされると、短い櫂を持った漕ぎ手たちは、銅鑼の音に合わせ、掛け声もろとも一斉に漕ぎ始める。
川幅400メートルの対岸に到着する速さを競う。一等は賞金100元(時の月給50現)がもらえ、全員に酒がふるまわれる。大変にぎやかで勇ましい正月行事であった。
2022年4月22日追記