地球へめぐり紀行

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ユーラシア大陸横断鉄道の旅 編

ユーラシア大陸横断鉄道の旅 

はじめに

 人間は、いつの時代にも白い雲に乗って、大空を自由に飛び回る夢を見る。それを青春というなら、私は青春の証明を求めて旅に出る。時には、無謀ともいえる未知への旅こそ新たなる人生の道標となるだろう。

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 私は、多くの国でさまざまな列車に乗ったが、乗るたびに初めて乗ったような心地がする。そして、車窓から外のいろいろなものや光景を眺めるのが好きなのだ。何より、座っていれば地球上の光景が自分を中心に動いているようで、夢見る少年のように楽しいのである。

 今まさに、アジア大陸東端の先にある日本から、朝鮮半島、中国、中央アジアを通ってヨーロッパ大陸西端のポルトガルまで行く、二万キロにも及ぶユーラシア大陸を、鉄道で横断する世界で初めての新たな旅が始まった。これからの線路沿いに、偉大なる自然の変化と、さまざまな人々の有様などをどれだけ垣間見ることができるのだろう。

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中国西端の駅”阿拉山口”のプラットホームに立つ筆者

 さあ!、これから夢と希望に胸躍らせながら、私が撮影した多くの写真と簡単な文章による、痛快な楽しいユーラシア大陸横断鉄道の旅に、私と共に白い雲に乗って出かけよう。

この「横断鉄道の旅」の行程表

東京→ 下関 → 釜山(韓国) → ソウ ル→ 汶山 →(仁川、威海、北京、平壌)開城(北朝鮮)→ 平壌新義州 → 丹東(中国)→ 瀋陽 → 天津 → 北京 → 石家荘 → 西安 → 蘭州 → 酒泉 → 柳園 → 哈密 → 烏魯木斉 → 石河子 → 阿拉山口 → アルマアタ(カザフスタン)→ シュムケント →グズルオルダ → アクチュビンスク → サラトフ(ロシア)→ ミチュリンスク → モスクワ→ ミンスクベラルーシ)→ ワルシャワポーランド)→ ベルリン(ドイツ)→ フランクフルト → パリ(フランス)→ マドリード(スペイン)→ リスボンポルトガル

 

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平成6年に角川書店から出版された拙著

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑭ 新義州→丹東

 新義州の駅を出ることは出来なかったが、改札口までは行けた。主にプラットホームを歩きながら出発を待った。

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新義州駅の出口に立つ筆者

 汽車は午後5時10分に新義州の駅を発った。間もなく鴨緑江にかかる鉄橋にさしかかる。幅500メートルほどの川は、まさしく中国大陸と朝鮮半島の境である。冬は凍結するので歩いて渡れるが、春から秋にかけては、昔から越すに越せない大河であった。 

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 新義州駅から丹東の方を見る

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丹東に向かう機関車「東風」

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機関車についていた標識

 歴史書によると、東北アジアから南下してきた遊牧騎馬民族は、この川にずいぶん悩まされたとある。そしてまた、絶えず朝鮮半島支配下に置こうとした漢民族も、この川にはてこずったそうだ。まさしく民族の住み分けを可能にした天然の境界であった。 

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北朝鮮側の鴨緑江沿いにある公園

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北朝鮮側から見た鴨緑江

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鴨緑江沿いの北朝鮮の検問所

 朝鮮戦争当時、中国からの物資輸送路を断つために、アメリカ国連軍によって爆破された古い鉄橋が、川の中程で切れたまま残っている。40年もの歳月が流れているのだが、錆びた鉄の固まりは、今もまだ頑なに戦争の破壊や残虐行為を語り続けている。 

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鉄橋の上から丹東側を見る

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朝鮮戦争当時爆破されたままの古い鉄橋の残骸

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鴨緑江沿いの丹東側

  北朝鮮と中国の国境である鴨緑江にかかる新しい鉄橋を渡ると、もう中国側の丹東。川を挟んで新義州の対岸にある町だが、時差が一時間あり、丹東駅には現地時間の4時半に着く。この間わずか20分足らずである。 

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鴨緑江沿いの中国側検問所

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丹東駅のプラットホーム

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丹東駅プラットホームにある事務所

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プラットホームにたたずむ税関の職員たち

 丹東駅で車内に入ってきた税関員は、客の持ち物をうるさく調べ、所持金までチェックした。驚いたことに外国人である私の所持金まで数えた。あまり気持ちのよいことではないが、ここはまだ国際的によく知られているわけではないし、欧米や日本からの旅行者が多いわけではないので、彼らは、十把一からげに扱い、一方的に、しかも不信感をあらわにして調べるのである。

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丹東の駅前

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丹東駅前のバス発着所

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丹東駅前通

 私は、事細かく調べられて気分を悪くさせられたが、文句を言っても仕方がないだろうと、彼らの要求に任せた。何かを要求されることはなく、調べ終わると、何事もなかったかのように去って行った。

 駅から出ることはできなかったが、駅構内やプラットホームから周囲を眺めながら出発待った。 

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丹東駅の線路

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丹東 北京間の特急標識

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丹東駅のプラットホームに立つ筆者




 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑬ 平壌→新義州

 平壌駅は、外観は大変立派なのだが、校内には市民生活を潤すものがなにもなく、時刻表や運賃表すらない。まったく殺風景な構内だが実に広々としている。

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立派な建物の平壌

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駅構内で切符を求める人たち

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平壌駅の改札口

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だたっぴろいプラットホーム

 平壌駅の幅30メートルはあろうかと思われるプラットホームに、北京行きの国際列車が停まっていた。ディーゼル機関車の次は郵便車で、その次の2両が北京まで行くのだが、あとの15両は国境の町、新義州行き。

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新義州まで行く機関車

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殺風景なプラットホーム

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平壌から北京までの標識

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平壌のプラットホームで見送る人たち

 日本では見られないような、広くて何もないガランとした構内を、記念にと思って撮影していると、「早く、早く」と係員と太さんに急き立てられて汽車に乗り込んだ。 私の席は、2両目の12号車4号室14番上段のベッドである。4人用のコンパートメントで、中国の瀋陽まで行く北朝鮮人2人と、北京に向かうエチオピア人が相客。

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寝台車の様子

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寝台車の通路で遊ぶ子供たち

 定刻の正午になると「ピリピリ」という笛を合図に発車した。私は部屋には入らず、通路に立って窓外を眺める。25分後に平壌飛行場の脇を通ったが、飛行機は見かけなかった。

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線路沿いに見えた村

 線路沿いの大地は赤褐色で、一見して枯れ野だ。水田よりも畑が多く、土地は痩せている。ところどころにビニールで被った稲やコウリャン、トウモロコシなどの苗床がある。山には背丈の低い松が生えているが、地肌が見える。桃や杏の花が咲いているものの、空気が霞んでいるせいか、大地の色に消されて美しさを感じない。この辺まで北上すると、ヤマザクラはもう見られない。

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線路沿いに見えた朝鮮ニンジンの栽培地か?

  太さんが、午後1時に昼食を予約しておいたので、食堂車に行き、朝鮮料理を食べる。客は北京行きの国際列車に乗っている人だけで、一般車両の人々はいなかった。

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食堂車内

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食堂車の朝鮮料理

 2時35分に宣川という駅を通過する。線路沿いに山が見えるが、標高100メートル以下の小山ばかりである。冬用の防寒のためなのか、窓は目張りされているので開かない。それに窓ガラスが汚されているので、風景を楽しむことも出来ない。移り行く車窓の光景を楽しむことのできない汽車の旅は、何とも味気ない。

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寝台車用のトイレ

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寝台車用の洗面所

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新義州近くの村

  3時50分、新義州に到着。ここでディーゼル機関車を替え、北京行きの2両以外は切り離された。国際列車の客は、ロシア、エチオピア、モンゴル、インドネシアシンガポールの人のほかは、中国人と朝鮮人である。

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新義州駅のプラットホーム

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新義州駅の出口

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新義州駅前の広場

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新義州駅前の通り

 1時間以上も停車するというので、駅構内から外の光景を眺めた後、駅舎の2階に上がってみる。バーに入ると、キリンとアサヒの缶ビール、かっぱえびせんなどを売っていたが、いずれも日本より安い。インスタントコーヒー1杯が缶ビール1個よりも高価で、180円であった。私は、缶ビールを買って飲みながら出発を待った。

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駅構内のバー

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新義州駅での筆者 












 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑫ 平壌

 4月23日の平壌は快晴だった。新義州への汽車の発車時刻は正午なので、午前中に市内見物をする。

 町は、5年前に訪れた時よりも活気があり、人や物が多く、ずいぶん明るい雰囲気になっている。5年前と比べると、車の数が増え、信号機が設けられ、バスの運行数も多く、路面電車も走るようになっている。

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平壌中心街の建物

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平壌の中心街

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平壌の中心街を走る路面電車

 東洋一の高さ(300メートル)を誇る105階建てのピラミッド型ホテルは、市内のどこからでも見える。在日朝鮮人たちの協力によって建設が進んでいるのだが、日本の経済不況で建設資金が不足しているそうだ。しかし、この秋には完成させるとのことだった。

 すでに4年前に完成しているルンナ競技場は、収容人員がなんと15万人で、世界一大きな規模を誇っている。

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高さ300メートル、105階建てのピラミット型ホテル

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収容人員15万人のルンナ競技場

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学生少年宮殿前の広場

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人民文化宮殿

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巨大な金日成銅像

 人口150万の平壌には、空高くそびえる「チュチェ思想塔」「千里馬銅像」「凱旋門」「人民文化宮殿」「人民大学習堂」「学生少年宮殿」など、巨大な建造物が多い。人々は高層住宅で生活し、一階は商店、食堂、理髪店、雑貨屋などになっている。ご自慢の幸福通りやスポーツ通りなどは、あまりにも立派すぎて、かえって政治力の凄さを見せつけられ、権力者の一方的都市計画が露骨に見え、なんだか身の縮む思いがする。

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北朝鮮自慢の近代的な幸福通り

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幸福通りの高層ビル

 旅行者の通訳兼案内人である太さんの月給は、120ウォン。1ウォン約61円なので7320円である。この国では1月に50から80ウォンあれば十分生活ができ、住宅費は不要であるという。他国の事情をあまり知らない太さん自慢の鼻息は、かなり荒い。

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学校の校庭に立つ生徒たち

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街頭にたむろしていた生徒たち

 外国人用の高級商店には、日本製品の電気製品、菓子、タバコ、ビール、酒、雑貨などがあふれている。街を走る中古車も大半が日本製。正式な外交はないのだが、在日朝鮮人たちの裏ルートを通して行う、血の出るような努力と苦労が実を結んでいるのだろう。

 北朝鮮は、主義思想の形よりも、建国と近代化への道を突き進んできたのだろうが、あまりにも強い権力の集中化は、恐怖心を煽りこそすれ、民主的ではない。

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平壌の中央を流れる大同江

 平壌は確か近代的な立派な町である。しかし、人々の住宅街としての暖かさが少ない。外見はよいのだが、中身が透けて見える。なんだか人々がいつも背伸びしたり、足踏みをしたりしていような落ち着きのない感じがする。もう少し泥臭いところがあれば良いのだが、まるで秀才ばかりが集まっているような街なので、面白みに欠けている。しかし、町の中央をゆったり流れている大同江に抱かれた天然の要塞都市で、自然環境や立地条件には恵まれている。

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外観が素晴らしい平壌駅の建物

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平壌駅の広いプラットホームに立つ筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑪ 開城→平壌

  ユーラシア大陸横断鉄道の旅を、開城の町から再び始めるために、ずいぶん遠回りをさせられたが、鎖国状態のような北朝鮮を、こうして旅が続けられることだけでも幸運なのかもしれない。

 金日成主席の若き日の写真を正面に掲げた開城駅には、構内に時刻表はあったが運賃表がなかった。改札口には係員がいないので自由に出入りできる。しかし、人々は群れをなして切符を買い求めていた。プラットホームには屋根がなく、ハングルで駅名が書いてあるだけの素朴な駅である。  

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若き日の金日成の写真を掲げた開城駅

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開城駅内の時刻表

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開城駅のプラットホームでの筆者

 通訳兼案内人の太さんは、監視役でもあるのか、駅の構内を撮影すると、「あまり良い光景ではないですね」と言うし、人のいるプラットホームを撮ると、「軍人さんを撮りましたね。私は知りませんよ」などと、なかなか口うるさい。しかし、よく気のつく親切な青年で、単に注意を促すだけであった。

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開城駅での列車清掃情景

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開城から平壌への機関車

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女性の車掌たち

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出発前のプラットホーム

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プラットホームでの見送り

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開城近くの車窓に見えた住宅群

 午後6時40分、大勢の人を乗せた平壌経由新義州行きの列車は、何の合図もなく発車した。ディーゼル機関車が15両の客車を引いている。その最後尾は、昨夜、平壌から私を運んできた専用の特別車両だ。国賓でもない私一人のために特別車両が付けられたのは、もしかすると、私たちが金日成主席と並んでいる写真のおかげなのかもしれない。 

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私の寝台室内

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私が乗った専用車両の通路

 今年(1992)4月15日、金日成主席80歳の誕生日を記念する事業の一つとして,平壌→開城間160キロの高速道路が完成したので、外国人の開城への往来は車を利用することになっていた。汽車での所要時間は6時間なのだが、車だとわずか2時間で着く。

 私が平壌に着いた時、太さんに車での往復を決まりごととして強要されたので、またもや主席との記念写真を見せて交渉した。この写真は、まるで水戸黄門の葵の紋章のような威力があるのか、なかなか同意しなかった彼の態度が一変し、「わかりました、できるだけの努力はします」と言って上司に電話してくれた。それからのいきさつは、まるで小説の世界のように、私に都合よく進行し、専用車両が付けられたのである。そして、車は運転手1人で開城に向かい、太さんは私と同じ汽車の車両で開城について私を迎えたとのことだった。

 板門店を訪れた後市内を観光し、夕食をとって太さんと2人でその専用車両の3号室に再び乗り込む。置いてあったビールやシャンペンを太さんと共に飲み、まるで国賓にでもなったかのようにゆったりとする。

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平壌への専用車両内での筆者

  この特別車両には、私への車内サービスのために2人の女性車掌と一人の技師が同乗していた。隣の車両へ通じる扉には鍵がかけられていて、前の車両に行くことはできなかった。

 午後7時5分、リヨーヒョン駅に着く。ハングル文字の駅名を太さんが読んでくれた。やがて夕闇が迫り、何も見えなくなった。私はアルコールと疲労のせいで、間もなく寝入ってしまった。

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夕暮れ近くになって通ったリョーヒョン駅?

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夕暮れに平壌に向かって走る列車

 平壌には午前0時15分に着き、明かりのないホームに降りる。太さんの案内で、暗くて静かな駅舎を通り抜けて、街灯の少ない歩道を5分ほど歩いて高麗ホテルに着いた。

 真夜中のロビーは人影もなく閑散としていた。係員から鍵を受け取って、1人でエレベータに乗り、31階の7号室に入る。私の荷物がそのまま置いてあった。もう午前1時を過ぎていたが、西洋式の風呂に浸かってから横になった。

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翌朝ホテルの窓から撮影した平壌の町

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ホテルの窓から見た朝の出勤風景

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平壌駅近くの朝の列車

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地下深くの地下鉄の出入口と路面電車

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立派な平壌駅舎

ユーラシア大陸横断鉄道の旅➉ 開城→板門店

 平壌からの夜行列車は、4月22日午前6時に着いた。開城には外国人旅行者用の車がないので、ソウルから来た車と太さんが待っていた。私は、その車で太さんと共に駅から民族旅館に直行した。

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早朝の開城駅

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開城の民族旅館

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民族旅館の筆者が逗留した部屋

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部屋に設置されたテレビ

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民族旅館の朝食を準備する女性

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民族旅館の朝食

 人口30万の開城は板門店の南にあり、38度線近くの西に位置し、朝鮮戦争当時は国連軍の支配下にあったので、アメリカ軍の空襲を受けなかった。そのため北朝鮮で古い街並みがそのまま残っている唯一の町となった。この古い街並みをうまく利用して町の一角を博物館とし、昔の建物をそっくりそのまま民族旅館としている。

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開城の中心を流れる川

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開城の古い民家で、博物館になっている一角

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開城の町を歩く婦人

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開城の街中

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街中での野菜の配給

 開城は、10世紀から14世紀にかけて栄えた高麗王朝の首都であった。当時から朝鮮人参の産地として知られていたが、今も栽培は続けられている。韓国や北朝鮮が英語で“KOREA”と呼ばれるのは、この高麗王国当時の名前の名残である。 

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朝鮮ニンジン栽培地の横を通学する女子学生たち

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高麗王朝の墓地前での筆者

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高麗王朝の墓地に咲いていた山さくら

 民族旅館で朝食をとった後の9時半、8キロ北へ離れた板門店に向かう。完成したばかりの高速道路は素晴らしく、すぐに板門店近くに着く。ここで、板門店近辺の模型を使って簡単な説明があった。模型には、今はない開城から汶山までの京義線も造られていた。韓国側で宣伝村と呼ばれている境界線近くにある、高い塔の建っている近代的な村は、「板門店里」のことで、実際に200家族、1000人が住んでいる農村地帯であった。

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板門店への道

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板門店入り口でのチエックポイント

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チエックポイントの係員と筆者

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板門店近辺の模型 高い塔が立っているところは1000人が住む板門店里という村

 説明のあと、私たちの車に軍人が一人乗り、軍の車の先導で走る。同乗の軍人は40歳くらいで、にこやかな明るい表情をしていた。

 板門店に着くと「板門閣」と呼ばれる建物の中で状況説明があり、グラス一杯の水を出してくれた。板門閣にいる係員たちは大変親切で、人当たりがよく、撮影もさせてくれた。

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板門閣から南を眺め筆者

 南側の戦時態勢下のような緊張した雰囲気はなく、なんとなく穏やかである。戦争と平和の意味を世界に向けて問い続けている板門店は、東アジアの悲劇の象徴であるが、そんな気負いは見られない。

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北からの見た板門店の境

  板門閣を出て軍事境界線の方に向かった途端、急にアメリカ国連軍のMPたち5、6名が銃を持って出て来て、ものものしい警戒ぶりになったが、私は気にもせず北側に立って記念写真を撮ってもらった。

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軍事境界線の北側に立つ筆者

 私は、係員の案内で会議場内に入り、5日前と同じ場所の分断ラインを今度は北からまたいだ。この一歩のために2000キロも迂回したのだ。

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板門店の国際会議場北側に座る筆者

 朝鮮半島の南北分断が続く限り、南の汶山と北の開城間の鉄道の旅は不可能だ。しかし、東アジアの安定と経済的繁栄のためには、1年でも早く再開されることが望ましい。

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1953年7月23日、休戦協定が結ばれた会議場

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開城出発前に民族旅館で朝鮮料理の夕食をとる筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑨ 仁川→威海→煙台→北京→平壌

 板門店を越えて北へ行けないので、仁川から中国・山東半島の威海へフェリーで渡ることにした。

 4月8日の朝、ソウルは小雨まじりであったが、50キロ離れた仁川に11時半に着いたときにはもう晴れていた。

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仁川の港のフェリー乗り場の入口

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仁川港で中国のフェリーに乗り込む

 4800トン、475人乗りの「威東航運有限公司」という中国のフェリーが1年半前に就航したばかりだという。満員の乗客の荷物が多いので、客室と荷物室が分かれており、乗船前に荷物を預けることになっていた。

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フェリー上での筆者

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仁川港の運河

 午後1時半に受付して、2時半に乗船。そして4時55分にやっと出発。仁川は遠浅の海岸で、潮の干満に関係なく船舶が航行できるように、運河が建設されていた。約30分を要して運河を抜け黄海に出る。フェリーの乗客のほとんどが朝鮮系中国人の担ぎ屋たち。

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フェリーの寝台客室

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フェリーでの夕食

 フェリーで一夜を過ごした4月19日、午前8時に威海に着き、10時過ぎに下船した。威海は人口23万もの大きな近代的な町で、保養地として温泉もある。今まさに韓国人と韓国資本が流入し、市場経済活動が始まったばかりで、威海衛大廈という立派な国際ホテルで昼食をしたが、韓国人が多かった。

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4月19日の朝、フェリーから見た中国山東半島の威海の町

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威海のフェリー着場

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威海の埠頭

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威海港の出入り口

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威海の国際ホテル

 この町は、日本とのかかわりもある。昭和12年に起った日中戦争の戦艦による激戦地であり、湾内の島には当時の遺品を集めた戦争博物館もある。 

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煙台駅の入口

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煙台港の出入り口

 威海から車まで1時間、麦畑の中の道を走って人口60万の煙台の町に着いた。ここから、中国東方航空公司のMU5123便で北京へ飛んだ。ホテル・ニューオータニの系列である“長富客飯店”では、中国青年旅行社の日本部部長の郭暁林さんが待っていて、いろいろ世話をしてくれた。 

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北京駅

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北京の天安門前広場での筆者

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北京の薬局店、同仁堂

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北京の街頭で水餃子が売られていた

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牛肉ラーメン屋

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街頭でサンザシを砂糖で絡めた串刺しを売っていた少年

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北京街頭の売店

 翌20日の午前10時前に、北朝鮮の大使館を訪ねる。日本を出発する前に、東京の朝鮮総連で、北京でビザがとれる手筈になっていたが、北京の大使館で何度説明しても入国許可が出なかった。

 5年前、考古学者の江上波夫先生を団長とする、徳興里古墳の壁画を見る目的の“文化使節団”の一員として北朝鮮を訪れた際、私たちは金日成主席の私邸に招かれた。そして、日本語で「いつでもご招待しますので、是非また来てください」と言われ、主席とならんで写真を撮った。その写真を東京の朝鮮総連でも見せたが、こまった時にはと思い携えていたのでホテルに戻り、それを持って再度大使館を訪れて見せた。すると、係員の態度が一変して対応が良くなった。

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中央は金日成主席 その左は江上波夫教授 左から2番目は筆者 日本人は4人 

1987年10月当時の写真

 指定された午前9時半に大使館を訪れると例の写真が効を奏したのか、係員は何も言わず、すぐに訪問ビザを発行してくれ、その日の午後3時半発の飛行機で北京から平壌へ飛ぶことができた。 

 1時間ほどで着いた広い飛行場でタラップを降り、歩いて空港ビルに入る。愛想のない係員たちを相手に入国手続きをして、5時頃にロビーに出る。小柄で角張った顔の青年が私に近づいてきて「森田さんですね」と言った。彼は朝鮮旅行社の日本語通訳で、29歳の太さんだった。

 太さんが、スウェーデン製のボルボの新車で、町の中心地にある33階建ての立派な高麗ホテルに送ってくれた。

 ここでも問題が発生した。開城への往復をハイウェイができたので外国人は車で行くことになっていると言う。そこで、例の写真を見せ、鉄道による往復を主張すると、太さんが驚いて、すぐにどこかに携帯で電話をした。そして一時間後にOKが出た。しかも、私専用の車両をつけてくれることになった。

 やはり、件(例)の写真は大きな威力があるようだ。私はホテルの一室でしばらく休憩し、深夜の12時20分発の夜行列車で開城に向かった。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑧ ソウル

 板門店を通過して北へ行くことができないので、仁川から黄海を渡って中国の山東半島の威海の町に行き、北京経由で北朝鮮平壌に行く方法しかない。仕方なくソウルで一泊することにした。

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街中から見たソウル駅

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日本時代の古くからあるソウル市庁舎

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市庁舎前の噴水

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市庁舎横の徳寿宮

 私は、すでにソウルには3回来たことがあるので、見物したい所はなかった。多くの日本人が韓国を訪れているし、特にソウルはよく知られているので、近代的な街の情影ではなく、1992(平成4)年代の、なるべく素朴な街の有様を写真で簡単に紹介する。

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洋画劇場

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南大門近くの商店街

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大きなイチゴを買って食べる若者

 ソウルは、人口1000万近くもある巨大な近代都市で、大変華やかなのだが、はげしく変化している部分と、まだそうでない古いソウルが残っている地域もある。

 以前にも泊まったことのある、ホテル・プレジデントに泊まって、ホテルの近くを1人で見て歩いた。

 日本の昭和30年代や40年と同じような、なるべく素朴な古いソウルをと思いつつ、カメラを向けた。

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昔ながらの商店街

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古い商店

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雑貨屋

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山と積まれた朝鮮人

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ソウルにももつ煮を売る露店があった

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ソウルの食堂で食べた参鶏湯(サンゲタン)

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夕食に参鶏湯を食べる筆者

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翌日の朝ソウルの駅前での筆者 これから仁川へ行く

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑦ 板門店南側

 ソウルから北へ60キロの道程にある板門店には、個人が自由に訪れることはできない。外国人ならば、大韓旅行社(KTB)が取り仕切っている1日バスツアーに参加して、土曜、日曜、祭日以外の日には訪れることができるが、韓国人はまだ行くことができない。私は、翌4月17日、ソウルから板門店を訪れることにした。

 ソウルからバスで統一路を北へ向かう。汶山を過ぎてしばらく行くと、臨津(イムジン)江にかかる「自由の橋」を渡る。ここから先はしばらく撮影禁止。

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韓国人はイムジン川手前のここまで来られるが、これから北へは行けない

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鉄条網の向こうに見えるイムジン川にかかる自由の橋

 38度線に沿った軍事境界線は、幅4キロ、長さは東西241キロに及ぶ。その中に設けられた直径800メートルの円形の共同警備区域が板門店である。

 まず、アメリカ軍のキャンプで、スライドを見せられ、板門店についての研修を受ける。

 「1945年9月2日の日本の敗戦によって、米ソ両国は、日本軍の武装解除作業の名のもとに、北をソ連、南をアメリカが担当し、38度線を便宜上の分断ラインとした。1947年、南に李承晩政府が誕生すると、北はソ連の後押しで、金日成を中心とする新政府が樹立され、38度線が事実上の国境線となり、南北に分断された。

 1950年6月25日、北鮮軍が38度線を南へ突破することによって、朝鮮戦争が始まり、53年7月の休戦協定の結果、38度線が軍事境界となり、今日に至っている」

 説明のあと、「国連は貴方の生命の保障に責任は持てない」という書類に同意するサインをさせられた後、国連軍将校用の食堂で、大きなビーフステーキとポテト、グリーンピース、人参などとパンのついた昼食をとった。

 昼食後、バスの前を国連軍のジープがエスコートし、中にも軍人一人が乗り込んで板門店に向かう。

 「個人的行動は厳禁。北に向かって手を振らない。笑いかけない。ガイドの注意を守る」

 バスの中でこんな注意を受ける。

  板門店についてバスを降りると、休戦委員会の専門ガイドがやって来て、さも重大なことのように、しかも慇懃(いんぎん)に案内してくれる。

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板門店軍事境界線上に並ぶ建物

 簡易兵舎のような建物が五棟ほど東西に並んでいる。真中の建物が、テレビなどでよく見る南北の会議場。私たちは、案内されてその建物の中に入った。会議用の長いテーブルが休戦ラインの上にあり、建物の中央を南北分断ラインが通っている。

 会議場内は中央線を越えて自由に歩ける。南からの訪問者があると北側の入り口を閉ざし、北からの訪問者があると南側の扉を閉める。 

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会議場内の分断ライン上に立つ筆者

  私は、半年以上も前から、両国にここから北へ通過させてくれるよう、日本の政治家などを通じて頼んでいたが、許可を得ることはできなかった。万策尽きて仕方がなく、この会議場内の南北分断ラインを南北からまたぐことによって通過の証明とすることにした。だから、これから5日後には、北から入ってこの分断ラインをまたぐことになっている。

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南側の見張り台から見た北の風景、鉄塔の下には村がある

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南側が言う北の宣伝村 5,6階建てのアパートのような建物が並んでいる

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板門店にある、南から北への雄一の道にかかる橋。しかしここを通過することはできない

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板門店に咲いていたつつじ

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板門店に咲いていたレンギョの花

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板門店に咲いていた山桜

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山桜の花

 板門店に40分ほど滞在した後、南側の軍事境界線近辺を観光してからソウルに戻った。

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平成6年に角川書店から出版した拙著

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑥ ソウル→汶山

 私は、その日のうちに韓国最北端の駅「汶山」まで乗り継ぐ予定になっていた。出発時刻は午後5時。朴さんの案内で急いで汶山行きの普通列車に乗り換えた。

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汶山行きのプラットホーム入り口

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汶山行きの汽車

 車両は見るからにローカル線らしく、扉の開閉もままならない。通学・通勤の利用客が多く、立っている人もいる。近郊に住む人だろうか、2人がけの座席に3人でかけ、おしゃべりに夢中である。車内販売もあり、パンやピーナッツなどを食べている人もおる。セマウル号の車内とはちがって、こちらは素朴で賑やかだ。昭和30年代の日本のローカル線のようで、初めて汽車に乗ったときのことを思い出す。

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汶山行きの車内

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車内販売

 私と朴さんが座っている席に、50代の女性が割り込んできた。朴さんが、私は外国人であると説明すると、彼女は私を見てニイッと笑って立ち上がった。その表情は明るく愛嬌があった。

 私たちが日本語で話していると、後の席に座っていた60代と思える男性が身を乗り出して、「私は大阪に住んでいたことがある」と、日本語で親し気に話しかけて来た。日本には戦前から朝鮮半島の人々が多く住んでいたが、今でも大阪を中心に70万人もいる。

 「これは昔の京義線だよ。ソウル(京城)と北の新義州の間をはしっていたんだ」

 彼は得意になっていろいろ説明してくれた。乗客の中には、彼の話す日本語に耳を傾けている人がいたが、別に反感はなかった。

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汶山行き車内での筆者

 ソウルから汶山までの線路区間は約46キロ、1時間10分の旅である。この線路はかつて京城と呼ばれていたソウルと、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)と中国(中華人民共和国)との国境の町、新義州の間の460キロを結んでいた京義線の一部なのである。

 1950年に始まった朝鮮戦争は、1953年休戦状態になり、北緯38度線で北と南に分断されたので、汶山から1キロほど北へ行ったところで線路が遮断され、その先へは鉄道では行けない。線路が北のピョンヤンから南へ延びてきている、北朝鮮の開城までは汶山から15キロ。ユーラシア大陸横断鉄道の旅では、釜山からリスボンまでの間で、このわずか15キロ間だけ線路上を汽車が走ることは出きない。国境の38度線を越えて北へ行くこともできないので、大きく迂回して、中国の北京経由で開城に行くしかない。

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汶山プラットホームの標識

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到着した時の汶山駅のプラットホーム

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汶山駅のプラットホームからの出口

 午後6時10分、田んぼの中にある汶山駅に到着した。これから先に進むには、直線距離で約8キロ先の板門店まで車で行き、南北の境界線をまたがなければならないが、国境である板門店は国連が管理しているので、自由に行くことはできない。

 私は、荷物をソウル駅に預けて来ているので、ショルダーバッグとカメラ2台を首と肩にかけ、駅前を歩いて見物した。小さな町の夕暮れで、人出もなくただ駅前に寂しい通りがあるだけだった。

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汶山駅

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汶山駅前に立つ筆者

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汶山駅から北を見る

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この約一キロ先で線路が止められている

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北の開城への線路が止められている場所 黒いビニールは朝鮮ニンジンの栽培地

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北への線路が止められている現場のアップ

 朴さんに駅舎の前で記念撮影してもらい、足早にプラットホームに戻る。そして、6時20分発の、来た時と同じ汽車に乗ってソウルまで引き返した。

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汶山からソウルへの戻りの汽車

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汶山駅のプラットホームでの筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑤ 釜山→ソウル

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釜山駅

 フェリボートの中央埠頭近くにある釜山駅に、午前11時40分に着く。金さんの案内で改札口を入り、すでに入線していた韓国版新幹線セマウル号」の5号車17番の座席に荷物を置いた。列車は流線形ではなく、紺色の普通の客車が箱形のディーゼル機関車に牽かれている。日本の特急「あさかぜ」号と同じような形。 

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釜山駅の中

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駅構内の切符を買う場所

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釜山駅構内の運賃表

 私は、このユーラシア大陸横断鉄道の旅で最初の汽車なので、プラットホームを歩いて先頭の機関車まで行き、記念撮影をする。さらに出発直前のプラットホームの風景を撮影していると、金さんに早く乗車するよう何度も促されたが、女性の車掌や列車に駆け込む人を貪欲に撮影する。

 

 

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釜山駅を出発する前のセマウル号の機関車

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釜山駅出発直前のプラットホーム

 「ブー・・・・・・」とブザーが鳴ったので車内に駆け込む。セマウル号は、正午定刻にソウルに向かって動き始めた。撮影に忙しく歩き廻っていた私を冷ややかな目つきで笑っていた、プラットホームの金さんに手を振って頭を下げた。

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釜山→ソウルの標識

 京釜線の汽車は町を出ると洛東江に沿って走る。線路沿いの畑にはビニールハウスが続く。そのビニールの切れっぱしが川面や川岸の柳の木の枝にたくさん引っ掛かっている。一種の公害だろう。釣り糸を垂れている人や春を告げる若菜を積む女たちがあちこちに見られる。 

 時速200キロくらいで走る車両の内部はモダンな造りで、窓が大きく車内は明るいが、窓を開けることはできない。二人がけの指定席はほぼ満席。乗客の大半は新聞や雑誌を読んでいるか眠っているので静かだ。

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多くの乗客が眠っている車内

 40分も走ると緩やかな丘陵地帯に入る。谷間の斜面の畑に桃の花や菜の花が咲き、線路沿いにレンギョウユキヤナギの花も咲いている。

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セマウル号のトイレ

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セマウル号の洗面所

 

 午後1時14分、大邱に着き、1分間停車。ほとんどの客はソウルへ行くのか、降車客は数人しかいない。発車音が鳴ると同時に扉が閉まり、正確な時刻に発車した。速く走るのはよいが、旅を楽しもうとする者には余裕がない。より早く便利になった反面、乗車したらただひたすら目的地に着くことを待つだけになっている。これはすでに旅ではなく、目的地への単なる移動である。

 

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大邱駅のプラットホーム

 少々遅くなったが食堂車へ行く。赤いじゅうたんを敷いた、派手な感じのする食堂車内は明るい。若いウェイトレスが注文をとりに来たので、焼き肉定食のプルコギ(675円)を頼む。韓国の物価からすると、少々高額だ。添えられていたキムチは、あまり辛くなかった。

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食堂車内

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セマウル号車内の焼肉定食

 セマウル号朝鮮半島を北上するにつれ、車窓に見える自然環境も変化し、大田近くになると野山に花が少なくなった。まだ早春の枯れた山に白い山桜の花が所々に見られた。釜山以後、線路沿いに植えられたソメイヨシノ桜が時々見られたが、この山桜は自然木である。

 朝鮮半島南部や済州島にはソメイヨシノが植えられているが、山桜が生えていることは知らなかった。自然に生えている山桜は、黒松や落葉樹林の中で、存在を主張するかのように、白くうきたって見える。

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駅構内のロッカー

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駅構内の男子用トイレ

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駅構内の待合室

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ソウル駅

 セマウル号は、大田を過ぎ、午後4時15分に首都ソウルに無事着いた。しかし、プラットホームに来てくれる手配になっていたはずの迎えの人が見当たらなかった。待つこと20分。やっと朴承美という27歳の案内人が来てくれた。丸顔の色白で、年齢よりも若く見える彼女は、悪気もなくソウルから汶山へ乗り継ぐ汽車の乗車券を渡してくれた。

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釜山出発前にセマウル号の前に立つ筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅④ 釜山

 フェリー発着場出口の前からタクシーに乗った。中央洞の市庁舎前を通って、南浦洞の映画館街でタクシーを降りた。ここで金英姫さんの知り合いのカバン屋に私の荷物を預けた。

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南浦洞の映画街

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街頭に座り込んで商売するおばさんたち

 彼女の案内で町を見て歩く。なんだか九州の長崎の街のような雰囲気だが、道の中央に座り込んで物を売る女たちが賑やかに話すのは韓国語。

 屋台では、モツの煮込みやおでん、そして「キンパ」と呼ばれる日本と同じのり巻きやスルメなども売られている。珍しいのは、チルギーという葛の根のしぼり汁。グラス一杯1000ウォン(約90円)。この生臭い灰色の汁は、自然飲料で身体に良いと勧められ、この旅の道中における健康を願って飲む。 

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街頭で売られていたスルメ

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モツ煮を売る露店

  海岸の方へ3ブロック歩くと、チャガイチ市場に至る。チャガイチとは砂利浜を意味するそうなので、昔は砂浜で市場が開かれていたのだろう。ここには海産物は何でも売られているが、特に生きたままの魚介類を食べさせる店が多いのが特徴だそうだ。実際に、私は1匹5000ウォン(450円)のイイダコを生きたまま切ってタレをつけて食べてみた。口の中でうごめき、吸盤が吸いついたりしたが、なかなかの味だった。

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海岸近くのチャガイチ市場

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まがつお(マナガツオ)を売る婦人

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新鮮な魚介類を売る店

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生きたイイダコを食べさせる店

  今がシーズンなのか、赤褐色の鮮やかな色をした日本と同じホヤ貝が山と積まれていた。アジュモニ(おばさん)たちの元気な呼びかけ声が響く。チャガイチ市場は魚の臭いと買い物客と売り子の声で活気に満ちていた。

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チャガイチでホヤを売る人たち

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その場でホヤを食べさせていた

  海岸通りに出ると、岸壁には新造船に極彩色の大漁旗が沢山はためき、日本の九州や四国の漁港と同じような光景が見られた。言葉は通じないし、ハングル文字は読めないが、売られている物や魚介類はよく似ている。やはり、日本にいちばん近い外国なのだ。

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チャガイチの海岸

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海岸の大型漁船群

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日本と同じように大漁旗を立てた新造船

  釜山で最もよく知られた龍頭山公園を訪れた。釜山タワーから見下ろすユーラシア大陸東端の町は、明るく活気に満ち、日の昇る勢いが感じられた。 

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龍頭山公園の釜山タワー

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龍頭山公園から見た釜山

 私は、これから始まるユーラシア大陸西端への鉄道の旅を考えながら、もう20数年も前に一度訪れたことのある、終着の町リスボンの古めかしくて活気のない静かな街を思い出し、太陽の昇る東と、沈む西の町のちがいを感じていた。それは、東洋と西洋の町の有様の違いでもある。

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釜山駅前の高層ビル

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釜山駅前の広場

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釜山駅前に立つ筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅③ 下関→釜山

   春の天候は変わりやすい。午前中は晴れていたが、正午過ぎから雲行きがおかしくなってきた。関釜フェリーの発着港である、下関国際ターミナルに着いた午後3時頃には、雨雲が重く垂れ込んでいた。

 出国手続きを終え、フェリーに乗り込む時には小雨が降って、肌寒かった。"Ferry Pukawan Pusan”と記された2000トン級の船。一等室B-13番に入る。4人部屋だが、乗客は私一人であった。

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下関国際ターミナル入り口

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下関国際ターミナルのフェリー登乗口

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ターミラル内の切符売り場

 出港時刻の5時頃には雨が止んでいたが、風がやや強く、雲がちぎれ飛んでいた。本州の下関と九州の門司の間にある関門海峡は、幅500~1300メートル。中でも門司と下関を結ぶ関門橋のかかる「早鞆瀬戸(はやともせと)」は、幅わずか150メートルに過ぎない。

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下関のフェリー発着埠頭

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響灘の方から見る関門海峡にかかる橋

 午後6時半頃には響灘(ひびきなだ)を過ぎ、外洋に出た。夕暮の海は3、4メートルもの高波で、荒れ模様。春の息吹を吹き飛ばすようなシベリアからの季節風にあおられて、鉄船を激しく叩く波の音が、まるで出陣太鼓の響きのように聞こえる。

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フェリー内の二段ベッドになっている四人部屋

 古代から多くの人や物品が日本と朝鮮半島を往来したが、どのようにして渡っていたのだろうか。冬から春にかけては海が荒れて小舟で渡ることはできない。海の静かな夏から初秋にかけて渡ったのであろう。

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早朝フェリーから眺めた釜山

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早朝に見た釜山南側の端の方

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早朝の釜山港

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釜山の南側

 翌早朝3時頃のまだ暗いうちに、フェリーは釜山湾内について停泊していた。朝6時に韓国語でアナウンスがあり、6時半からの朝食。メニューは米飯、のり、生卵、みそ汁、漬物であり、まだ日本の食文化圏。しかし、周囲の乗客や自然の景色を見回すと、すでに韓国に来ていることを痛感する。時差も1時間ある。

 デッキにあがると、雲一つない、抜けるような青空が広がっている。東の日本海から昇ったばかりの朝日に、ユーラシア大陸東端の町、釜山のカラフルな建物の多い街が輝いていた。よく晴れた日には、釜山の南東にある影島の大宗台から対馬が見えるそうだ。

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釜山中央部

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釜山のフェリー発着埠頭

 午前7時半、時間待ちで停泊していたフェリーがゆっくり動き始め、埠頭に向かって進んだ。船上から眺める釜山は、山麓の横に広がる大きな町。高層ビルと色とりどりのマッチ箱のような民家が所狭しと競い合うように建っている。やはり日本とは違うカラフルで華やいだ町の風景が見られる。

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釜山のフェリー発着場

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釜山中央北側

 4月10日の午前8時15分、関釜フェリーはターミナルの第一埠頭に接岸する。入国手続きはいたって簡単で、パスポートと入国カードに必要事項を記入して入国審査を受けるだけ。

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釜山中央南側

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釜山港の埠頭に接岸した関釜フェリー

  手続きを終えて外に出ると、私の名前を書いた紙を持って、案内人の金英姫さん(24歳)が立っていた。正午発車のソウル行「セマウル号」に乗るまで、彼女と釜山の市場を見ることにした。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅② 下関

 下関駅近くの高台にある亀山八幡宮の境内には砲台の跡がある。江戸時代末に、長州藩英米仏蘭4ヶ国連合と紛争を起した時、関門海峡を航行する商船を砲撃するために作ったものだ。騎兵隊を組織した高杉晋作薩長連合を画策した坂本龍馬西郷隆盛、そして、多くの血気盛んな若者たちが、ここに立ってこの関門海峡の海を眺めたであろう。

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下関の観光地図

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関門海峡の「早鞆瀬戸」にかかる橋

 そうした若者たちに必要なものは、心のよりどころであった。それは、人物であったり、物であったり理論だったり、宗教であったりする。いつの時代も、人は行動の裏付けに観念の世界を求めがちなのである。

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亀山八幡宮の拝殿

 山陽道の出発点でもある亀山八幡宮から東へ進むと、日清講話会議の記念館である「春帆楼」があり、その近くに赤間神宮がある。お伽ばなしに出てくる龍宮城のような赤い建物が連なる神宮は、海彦が住む南国的情緒にあふれている。

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赤間神宮入り口の門

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赤間神宮の絵馬

 私は、南国土佐の生まれのせいか、南国的な雰囲気が好きだ。寒さよりも暖かさが、秋よりも春が、山よりも海が好きなのである。私の心の支えは、南国的な自然の成り立ちによって培われている。

 しばらく眺めていた赤間神宮のたたずまいには、何となく日本文化の「故郷」のような安らぎを覚えた。これからの長い鉄道の旅が安全に続けられるように念じ、お守りとして小さな鈴を1つ買った。

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赤間神宮の拝殿

 鈴の音は悪霊を払い、迷いを諭すと言われている。それは、四国八十八カ所を巡る巡礼者たちの手による鈴の音を、幼い頃から聞き覚えた私の観念の世界でもある。鈴を手にすることによって、なんとなく、日本を離れて遠くへ行く心の準備ができたような気がした。「行ってきます」。拝礼して門を出た。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅① 東京→下関

 1992(平成4)年4月14日、東京駅から鉄道でユーラシア大陸の西端リスボンのサンタ・アポロニア駅まで旅をすることにした。

 東京駅は夕暮れの春雨に霞んでいた。東京駅舎のステーションホテル2階で、私の壮行会が催され、6時過ぎまでには、友人・知人が80名ほど集まってくれた。

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4月14日の夕方、大手町側からのかすんで見える東京駅

 出発の緊張感はなかったが、前年には旧ソ連が崩壊し、南北分断の朝鮮半島、中国と旧ソ連(カザフ共和国)の国境地帯などの緊張が続く地域を越えて行き、中央アジアシルクロードを走る鉄道をうまく乗り継いでいけるかどうかが、不安だった。

 しかし、「迷ったら行動する」の信念でこれまでやって来たので、実行するしかないと自分を励ましながら、いつものように明るく笑って皆に応対した。

 集まった仲間たちに激励され、花束までもらった。7時過ぎに、東京駅の駅長さんの案内で、貴賓室から赤いじゅうたんを敷いてある特別な通路を通ってプラットホームへ出る。既に小雨はあがり、駅の明かりが輝いていた。 

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東京駅貴賓室で駅長さんと筆者

 プラットホームで私の5人の子どもや妻、兄、そして沢山の仲間たちに見送られ、東京駅19時20分発「あさかぜ3号」下関行き寝台特急に乗り込んだ。 

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私の五人の子供たちと妻

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プラットホームに張られた横断幕の前での筆者

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大学後輩の応援歌による激励

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家族や仲間たちの見送り

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色々な人の見送り

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駅長さんと次女朋依その他の見送り

 壮行会でアルコールが入り、出発準備で忙しかったので心身ともに疲れているにもかかわらず、なかなか寝つかれない。これからヨーロッパ大陸西端の町リスボンまで、西へ西へと2万キロにも及ぶ、世界で初めてのユーラシア大陸横断鉄道の旅をする。そんな思いで気分が高揚しているのだろうかー。

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特急「あさかぜ」の乗車券

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あさかぜの寝台

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あさかぜの車掌さん

  窓の外は暗く何も見えない。聞き慣れた車輪の音が、心臓の鼓動のように流れる時を追いかけている。まるで子守歌でも聞くように感じられ、しばらくしているうちにいつの間にか寝入っていた。

 翌朝、目覚めると、もう岩国近くだった。空は青く、よく晴れわたり、目にする光景が春の光に輝いている。新緑の季節にはまだ早いが、瀬戸内の春は東京よりも早く、線路沿いにはレンゲソウや菜の花、山桜が咲き、竹林が多い。

 何事にも始まりは、明るく楽しいにこしたことはない。車窓の光景に春らしさが充ちているのは、この旅立ちを祝ってくれているようで、いっそう楽しい。 

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翌朝車窓外を眺める乗客

 午前9時45分に、本州西端の駅、下関に着いた。古くから朝鮮半島への玄関口で、日本から朝鮮半島へ渡る貨客船であるフェリーボートが、釜山港へと運んでくれる。

 私は、活気のない構内にたたずんで、江戸末期から下関がかかわった時世の移りゆきを考えながら、しばらく周囲を眺めた。釜山へ渡る関釜フェリーの出発は夕方なので、それまで市内観光をすることにした。

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乗客が去り、がらんとした下関駅のプラットホーム

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下関駅

ユーラシア大陸横断鉄道の旅 

はじめに

 人間は、いつの時代にも白い雲に乗って、大空を自由に飛び回る夢を見る。それを青春というなら、私は青春の証明を求めて旅に出る。時には、無謀ともいえる未知への旅こそ新たなる人生の道標となるだろう。

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 私は、多くの国でさまざまな列車に乗ったが、乗るたびに初めて乗ったような心地がする。そして、車窓から外のいろいろなものや光景を眺めるのが好きなのだ。何より、座っていれば地球上の光景が自分を中心に動いているようで、夢見る少年のように楽しいのである。

 今まさに、アジア大陸東端の先にある日本から、朝鮮半島、中国、中央アジアを通ってヨーロッパ大陸西端のポルトガルまで行く、二万キロにも及ぶユーラシア大陸を、鉄道で横断する世界で初めての新たな旅が始まった。これからの線路沿いに、偉大なる自然の変化と、さまざまな人々の有様などをどれだけ垣間見ることができるのだろう。

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中国西端の駅”阿拉山口”のプラットホームに立つ筆者

 さあ!、これから夢と希望に胸躍らせながら、私が撮影した多くの写真と簡単な文章による、痛快な楽しいユーラシア大陸横断鉄道の旅に、私と共に白い雲に乗って出かけよう。

この「横断鉄道の旅」の行程表

東京→ 下関 → 釜山(韓国) → ソウ ル→ 汶山 →(仁川、威海、北京、平壌)開城(北朝鮮)→ 平壌新義州 → 丹東(中国)→ 瀋陽 → 天津 → 北京 → 石家荘 → 西安 → 蘭州 → 酒泉 → 柳園 → 哈密 → 烏魯木斉 → 石河子 → 阿拉山口 → アルマアタ(カザフスタン)→ シュムケント →グズルオルダ → アクチュビンスク → サラトフ(ロシア)→ ミチュリンスク → モスクワ→ ミンスクベラルーシ)→ ワルシャワポーランド)→ ベルリン(ドイツ)→ フランクフルト → パリ(フランス)→ マドリード(スペイン)→ リスボンポルトガル

 

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平成6年に角川書店から出版された拙著