新制中国の望郷編㉝ 海南省 リ族の酒談話(最終回)
私は、1982年12月26日に海南島を訪れた。島の中央部に標高1867メートルの五指山があり、その南に人口2万人の町、通什がある。
周囲を山に囲まれた通什は、標高800メートルの盆地にあり、山間にはリ族と呼ばれる少数民族が住んでいる。
私は、通什の町に2泊して、史さんと劉さんの2人の通訳とともに、リ族の生活文化を踏査するために、村を訪ね歩いた。
海南島の南部に約70万人いるといわれるリ族は、約千年前に福建省の方から海南島に移住してきた、越系民族の末裔たちである。
最初に案内されたのは、街から3~4キロの蕃芽(バンモー)村であった。この村は近代化しておりもっとも素朴な村を見たい旨を伝えると、村の生産隊長ワンチン・ファンさん(40歳)が他の村を案内してくれることになった。
リ族は漢語で“黎族”と表記されるが、海南語では“ロイ”。村人たちは自分たちのことを“ゲイ”と呼んでいた。ゲイの意味を尋ねたが、誰も教えてくれなかった。
通什の町から別の谷間を約6キロ入った什馬(タバン)村が素朴で良かった。何より、車の通れる道がなく途中から歩いた。ゆるい斜面に棚田が広がり、茅葺きの家があったが、この辺では一番古い村だそうだ。
什馬村のチュン・シンさん(25歳)の家でいろいろ聞き取りをした。村人の30数歳から下は学校に通い、漢語が話せるが、それ以上の人は理解できない。通訳は日本語から漢語、漢語からリ族語なので、なかなかうまくゆかない。
チュン・シンさんの家に村人十数人が集まってくれ、“ビヤン”と呼ばれる酒を飲みながら話を聞いた。リ族は、人が集まるとお茶代わりに酒を飲むのだそうだ。ビヤンは、アルコール度10%もない。しかし、更に2~3週間もすると、アルコール分30%の強い酒になるという。
リ族の家は、本来竹と茅や藁だけで作っていたが、今では土壁で囲い、屋根を茅または藁で葺いている。土間で煮炊きをするので、家の中には煙が漂い、目にしみた。
水稲は二期作で、まず2~3月に田植えをして、5~6月に収穫。次には7~8月に田植えをして、10~11月に収穫する。12月の今は農閑期だが、多くの村人が苗代を作っているとのこと。
リ族にとって最も盛んな行事は、”トプセ”と呼ばれる”竹踊り”だそうだ。若い男女にとって見合いや顔見せを兼ねているとのこと。
その竹踊りを是非見たいと頼むと、明日、蕃芽村で行われるとのことだったので、ワンチン・ファンさんに頼んで見せてもらうことになった。
翌12月18日、午前9時に蕃芽村を再訪した。リ族は、日常的な衣服は西洋風になっているが、12名の若い男女が、リ族の衣服を身につけていた。
村の広場に村人が集い、若い男女が歌ったり踊ったりした。そして、10時頃から竹踊りを始めた。それは、歌やかけ声でリズムをとりながら、飛んだり跳ねたりして、2本のローンと呼ばれる棒竹に挟まれないようにする遊びだった。
棒竹をリズミカルに上手く飛び越せばよいが、挟まれると失格。敏捷でない者は、足を取られて笑い物になる。男女とも敏捷な者が村人の注目を浴び、好感がもたれる。
竹踊りは昼前に終わり、12時から竹踊りをした若い女性ワントン・チュー(20歳)さんの家で、リ族料理の昼食をごちそうになった。リ族は男も女も5~6歳からビヤンをよく飲むそうで、女性も強かった。いろいろ質問したので、酒入りの談話がしばらく続いた。
「新制中国の望郷」編を長くご覧くださいましてありがとうございます。このシリーズはこれで終わります。次は、私が最初に取り組んだ民族踏査「内蒙古のモンゴル族」について、報告しようと思っています。私は、内蒙古自治区には1982年以来8回訪れ、沢山の記録写真がありますので、写真中心に考えています。写真整理に少々時間を置きますが、知られざる騎馬民族の末裔の生活を紹介しますので、ぜひ続けてご覧ください。
2022年4月26日追記
新制中国の望郷編㉜ 雲南省 雲南諸民族の踊り
雲南省南東部の景洪の町には、タイ族にとっての元日の正午前から、シーサンパンナの少数民族が、民族衣装を着飾って集まり、ニッパヤシの広い並木道が約5万人の人で埋まった。そして、民族ごとに集まって、歌い踊るので身動きできないほどであった。
私は、タイ語通訳のタオさん、漢語通訳の呉さんの案内で、大混雑と耳慣れない歌や打楽器の音、それに見慣れない踊りに、少々興奮気味に歩き廻って撮影した。
町の中央にある景洪百貨店前の十字路が、回転交差になっている。ここから四方へ広い並木道が走っているのだが、東側と北側は人で埋まっている。西側はそれほどでもないが、自由市場が開かれている南の方にも人が多い。
いろいろ見て回ったが、最も活発で、豪快に歌い踊っていたのはチンポー族であった。チンポー族は、山岳農耕民であり、お茶を栽培している。景洪から20キロくらいの所にある彼らの村には、樹齢千年を超える茶の木があると言われている。村には「若者宿」があり、自由恋愛で女性が妊娠してから夫を指名する風習があるそうだ。
チンポー族の男たちは、直径60センチの丸木をくり抜いた太鼓を力強く叩き、銅鑼を打ち鳴らし、シンバルを打ち合わせて、かけ声をかける。そして男女ともに足を踏み出し、両手を交互に突き上げながら、かけ声と共に張り切って踊る。
「ヨーソレソレソレソレ・ソーレ、ソレソレソレ、ヨーヨ、ヨーホイ、ソーイソイ」
日本的なこんなかけ声があり、耳に大変なじみやすかった。
次によく目についたのはハニ族であった。ハニ族の男は勤勉で勇敢だといわれ、女性は働き者で銀の飾りを好むと言われている。彼らは水稲と茶を栽培する稲作農耕民である。
彼らの歌は胡弓のような弦楽器を弾きながら、男と女が交互に合唱する。女性はソプラノで、透き通った声が風のように流れる。それに合わせて、民族衣装の娘たちが、チンポー族と比べやや動きが小さく、ゆったりと踊る。
蝶蝶の仮装をしたタイ族の娘たちの踊りは、島根県津和野の鷺舞に似た、ゆっくりした踊りだった。娘たちは両手をゆるやかにあげたり、さげたり、回したりして、日本舞踊に似た仕種である。
男たちは象脚鼓と呼ばれる、象の足のような細長い筒状の太鼓を打ち鳴らして、左右に身体をひねりながら踊る。
他にワ、プーラン、ジノー、サニー、ラフ族などの踊りを見た。野外での踊りを見て気づいたのだが、踊りに2つの型があった。それは、チンポー・ジノー・ワ・プーラン・サニ・ラフ族のなどのように、大変活発で動きが激しく、飛んだり跳ねたりする踊りの型と、タイやハニ族のように、動きが小さく、ゆったりと優雅に踊る型である。
日本舞踊は庶民的な踊りではないが、盆踊りは庶民の踊りで、動きが大きく活発である。それからすると、タイやハニ族の踊りは日本舞踊に通ずるものがあり、チンポー・ジノー・ワ・プーラン族などの踊りは盆踊り的であった。
2022年4月25日追記
新制中国の望郷編㉛ 雲南省 景洪タイ族の正月
西暦1980年4月は、雲南省シーサンパンナの景洪タイ族の暦では、1342年6月となり、正月にあたる月である。これは、雲南省東南部の景洪地区に移住した越系民族の末裔であるタイ族の年代である。
タイ族は、紀元前には現在の江西、湖南や広西壮族自治区に住んでいた越系民族であったが、漢民族などの侵入によって、多くの人々が徐々に南へ移動した。遠くはビルマ北部のシャン地方からタイ北部、ラオス、ベトナム北部やシーサンパンナにかけて移住し、いろいろな王国を建国しながら独自の生活文化を維持してきた。特にシーサンパンナの景洪に住むタイ族は、20世紀に至るまで西洋文化の影響を殆ど受けていなかった。稲作農耕民のタイ族は、どちらかといえば女性が良く働き、前に出がちな母系社会である。
越系民族の稲作文化を知るには、まさにうってつけの民族ではないかと思い、景洪タイ族のお正月を踏査することにした(今日のタイ王国とほぼ同じ民族)。
シーサンパンナ・タイ族自治州に、外国人が入域できるようになったのは、1980年4月11日で、私たちが昆明からバスで入域した日である。
午後4時、摂氏33℃もある景洪の町に着き、景洪第一招待所に案内された。迎えてくれたのはタイ族の案内人タオさん。自治州都の景洪は、標高500メートルで、人口2万人余りだそうだ。
翌4月12日はタイ族の正月・元旦。午前7時半に食堂に入ると、丸いテーブルには、タイ族の正月料理がいっぱい並べられていた。
粥が白粥と紫色の粥2種類があり、紫色の粥の原料は紫米であった。芭蕉の葉で巻いた”カオン”という粽があった。味はかしわ餅と変わりない。日本と同じような赤飯もあった。タイ族は粘りのある糯米を好むそうだ。とにかく、”ハロソ””カツオク”などと呼ばれる糯米料理が多い。
ガイドのタオさんは、明るくて良くしゃべる。長い黒髪を後頭部にくるくるとうず高く巻き上げ、ピンや櫛でしっかりと止めて、花やカンザシを刺している。
私は、村の様子を見たくて、カメラ1台を肩に掛けて1人で歩いた。男たちはどこかの家に集まって酒でも飲んでいるのだろうか殆ど見かけない。習慣なのか、女は家の前を私が通りかかると、「スザオリ(こんにちは)」と笑顔で声をかけてくれる。
歩いていると、ある家の前で30代と思われる美しい婦人に呼びかけられ、中に入るように勧められた。高床式の家の木の階段を上った。床に置いた木の食台に正月用の糯米料理やバナナ、スイカ、マッコラなどの果物が置いてあった。彼女は親しげに微笑み、茶碗に入った焼酎をすすめる。恐れや疑いのない表情で、焼酎を振る舞ってくれ、果物を手渡ししてくれる。
「トハ、モープー、カムタイ(私は、タイ語を話せません)」と言ったが、彼女は、そんなことはどうでもいいといわんばかりに、まるで肉親のように振る舞って笑う。
私は、タイ族の女性の一献に正月を2、3度同時に迎えたような気分になった。
彼女にお礼を述べて外に出た。村の広場では水かけ祭りが始まっていた。水をかけられると一年間の厄払いができると信じているので、人々は競って水をかけ合う。
私は正午前に全身びしょ濡れになって招待所に戻った。カメラなどにも無頓着に水を浴びせるのには驚かされた。
景洪郊外のタイ族の家はいずれも高床式で、木製の梯子がついている。その家の茅葺き屋根には、日本の神社に見られる「千木」や「かつお木」と同じような物がついている。千木やかつお木と類似するものは、茅葺き屋根を補強するにはなくてはならないもの。もし、それがなければ屋根は風雨に弱く、一度の嵐で吹き飛ばされてしまう。稲作文化としての高床式入母屋造りの建築文化は、日本にもある。
私たちが泊まっている招待所の裏は段丘になっており、その向こうがメコン川の上流であるランツアン川。正月2日目は竜船祭。
長さ20メートル、幅約1メートルの竜船に4、50人の漕ぎ手が乗って、村対抗の競漕。男11組、女3組が参加している。女も男も白、赤、青、黄、緑、桃色など、色とりどりの布で頭に鉢巻きをし、大変勇ましい姿。
赤い旗が振り下ろされると、短い櫂を持った漕ぎ手たちは、銅鑼の音に合わせ、掛け声もろとも一斉に漕ぎ始める。
川幅400メートルの対岸に到着する速さを競う。一等は賞金100元(時の月給50現)がもらえ、全員に酒がふるまわれる。大変にぎやかで勇ましい正月行事であった。
2022年4月22日追記
新制中国の望郷編㉚ 雲南省 五果村のサニ族
1982年4月、私は雲南省昆明に2度目の訪問をし、駱越民族の末裔と思われるサニ族を踏査することにした。
奇岩の多い石林の近くにある五果村は、昆明から126キロ東南にある。私は、22歳の通訳兼案内人の李君と、車をチャーターして4月8日午前9時に出発した。
石林には12時すぎに着いた。ここは、鋸歯状の石灰岩が広範囲に露出したカルスト地帯で、世界に知られた奇観の名所である。
この石林の中の広場で、旧暦6月14日には、近隣のサニ族が集まってタイマツ祭りがあり、青年男女が一晩中歌い踊るそうだ。
五果村は石林近くの小高い丘にあり、村の中にも石柱があった。私は李君の案内で村を見て歩いた。簡単な英語が話せる彼は昆明生まれだが、2年間石林に住んでいたので、五果村の事情に詳しい。
五果村は、五つの樹がある村という意味で、百二十七軒、六百七十六人の村人がいるそうだ。漢語では「サニ族」だが、彼らの言葉では「ニーモ」で「ニー族」になるそうで、シャ族の「シェー」に近い発音になる。
道沿いに高い壁に囲まれた家があった。李君は壁の中ほどにある潜戸を押し開けて中に入った。中庭には左右に家があり、左は家畜用、右側の方が2階建ての住居。その入口には、赤紙に文字を書いて貼ってあった。
中に入ると、土間に老人が円筒形の椅子に座っていた。老人は、私に椅子に座るよう勧めてくれた。彼は、ブー・ブンッンという名前で68歳。そばにいた笑顔の女性は妻のリ・ナインさんで64歳だそうだ。
李君の知人の家で、リ・ナインさんは、遠来の友を迎えるかのように笑い、李君を抱きしめて歓迎してくれた。私たちはこの家で世話になることになり、しばらく座っていたが、また村を見て歩いた。
午後5時半頃になると、村人が野良から戻ってき始め、これまでいなかった水牛や牛、ヤギなどの群れが戻って来た。村人たちは、麦の束を背負ってもどり、共同収納庫に入れた。
村人が戻り、家畜が多くなると、大変騒がしくなり、人の声に混じって犬や豚の鳴き声もする。夕餉の支度が始まり、村に煙がたなびく。野良仕事から戻って家の前の道端に座って雑談している女性たちは、手を休めることなく刺繍をしている。
私は、気の進まない李君を連れて村を隅から隅まで全部歩いた。習いたてのサニ語を交えながら、いろいろ話しかけたのだが、私に興味を示してくれる村人はいなかった。
翌日、村は昨日と一変して活気があった。昨日村を見て歩いたことから、気分的に余裕があった。鶏が鳴き、豚が走り、犬が吠え、雀までが泣き叫び、村人の話す声がリズミカルだった。
行き交う人に「ネフー」と声をかけると、驚いた表情で視線を向けるが、口を開いてくれない。村人たちは「こんにちは」の挨拶用語など使わず、会えば、お互いによく知っているので、大声で話し始める。形式的な言葉など必要ないのだろう。
リ・ナインさんの家で昼食をとった。彼女が飯櫃の蓋を取ると、湯気が湧き上がり、白い米飯の上に黄色のトウモロコシ飯があり、更におかずの入った2つの鉢があった。1つは肉と青ネギを炒めたもの、もう1つはトウガラシをつぶして油で練ったもの。リさんは、茶碗に白い米飯とトウモロコシ飯をよそってくれた。
ジャガイモの煮物もあったが、味付けはすべてトウガラシで、塩をあまり使っていない。この辺では塩が十分ではなかったのか、トウガラシが基本的な調味料である。米飯に辛いおかずをつけると食が進み、私は2杯食べた。
夕食後の8時から、石林飯店の食堂で五果村の青年による歌と踊りが披露された。2人の娘には村で会っていた。1人の17歳の娘は池で洗濯をしていた。もう1人は野良から母親と牛を追って戻ってくる時に出会い、撮影させてもらった。
男たちは紺色のズボンに白いシャツ、そしてカツと呼ばれる白いチョッキを着用し、頭には黒い布を巻いている。娘たちは全員同じ衣装で、色彩豊かなウジェーを被っている。
青年たちはいろいろ歌い踊った。最後に、「サニは米作りに忙しい」という歌を歌った。娘たちが忙しげに田植えの仕草をしながら歌う、一種の田植え歌であった。
村の周囲にある棚田は、あと3週間もすれば、田植えが始まり、一面が早苗の緑に染まる田園になるそうだ。
新制中国の望郷編㉙ 広西壮族自治区 壮族の二次葬
1996年1月、南ベトナムから国境を越えて花山岩画を踏査した後、区都南寧から60キロ北の武鳴県馬頭郷前蘇村を訪ねた。この村は、稲作の純農業地帯で、約200家族、700人の小さな村で、小学校が1つある。
村は水田地帯の丘のような所にあり、一番上に小学校がある。私は、通訳の李さんの案内でウン・ヨーウさん(35歳)の家を訪れ、この地方の生活文化を調べることにした。
私の同行者はビデオカメラマンの小森君と、通訳の李譍剛さん、自治区博物館の主任研究員で、民俗学の専門家である鄭超雄さんと現地の案内人である。
午前10時頃、カメラを肩にかけて村を見て回っていると、小学校近くの蘇明華さん(40歳)の家で、親類縁者が集まって先祖祭りをしていた。
息子が言うには、今日は占いによると吉日なので、3年前の5月15日に70歳で亡くなった父親の2次葬をしているのだそうだ。
長男の蘇明華さんや縁者の男たちの多くが、墓地に行って洗骨しているというので、次男に相談したところ、取材することを承諾し、案内してくれた。
村から1キロほど西へ戻った村道近くに墓地があった。ゆるい丘になっており、黒松がまばらに生えている。木棺は地中に埋めるのではなく、半分ほど埋まっているが地上に置いているので、一種の風葬だ。
15名の男たちはすでに棺を開け、白い柔らかな紙ですべての骨を拭き清めていた。清めた骨は竹製の箕に入れて、稲わらの煙で2~3分燻した。そして、高さ40センチほどの壺に足の骨から順々に収めた。最後に頭蓋骨を置き、壺の口に赤い布をかけて栓をした。この間、男たちは祈ることもなく、にこやかに会話し、明るい雰囲気であった。
長男の蘇明華さんが、その壺を竹かごにいれて背負い、村の入口まで運んだ。占いで決められた村の入口にある丘の南向きの斜面をうがって壺を安置した。
鶏と豚の肉、米を供え、紙銭を燃やし、線香を点した。近い親戚縁者だけが線香を手にして拝礼し、大地に膝と掌をついてひれ伏した。
正午ごろ、蘇さんの家に戻った男たちは、酒とご馳走を振る舞われた。村人たちは米の焼酎に鶏の胆汁を入れ、緑色にした焼酎を大きな茶碗で飲む。目がよく見えるようになるということだった。
2次葬にかかる費用は5~800元。村の平均月収は200元(約2500円)なので、貧しい家庭は2次葬ができず、そのまま放置し、10年もすると地上の棺は朽ち、骨が露出する。
「昔は、骨壺を岩山の高い穴に安置した。今では金はないし雨乞いもしなくなったので、村の近くの低いところに安置するだけだ」 村人たちは淋しげに言った。
死後の肉体は土に還るが、魂は子孫へ伝わるので永遠だし、霊力のある祖霊は山に住み、子孫を助けるので、岩山の高いところに安置して崖墓をつくりたいのだが、たくさんの費用がいる。いまではそんな余裕はないのだそうだ。
2022年4月20日追記
新制中国の望郷編㉘ 広西壮族自治区 越系民族の花山岩画
中国大陸東南端にある広西壮族自治区のベトナム国境近くに、古代の越系民族が描いたものと思われる“花山岩画”がある。
これは、左江の支流、明江の右岸にある、高さ290メートル、幅250メートルもの壁の下層部に描かれている。私は、1990年1月と96年1月の2回、この地を訪れた。
区都南寧から南へ200キロ、舗装された道を車で3時間走ると寧明に着く。ここからは道がないので、左江の支流である明江を川船で2時間下り、パンロン村に着く。さらに川船で40分下ると花山である。
高さ45メートル、幅210メートルの岩肌に、朱色で奇妙な体形の人物像が、約1800体も描かれている。朱色の塗料は、酸化鉄と牛の血、牛乳、樹脂などを混ぜたもので、竹かしゆろの毛などの刷毛で描いた素朴な画。
この塗料を炭素14で調べると、2500~1800年前のものと判明した。まさしく岩画貴跡だ。
96年1月に同行してくれた自治区博物館の研究員鄭超雄さん(45歳)が、専門家の立場でいろいろ説明してくれたので、1回目には分からなかったことが絵解きされた。
これらの画は、いくつもの集団になって、村の長、尊長の死を記念して描いている。死者は腰に環刀をつけて犬の背の上に立っている。その周囲の人物は裸体に近い。
山は神の家であり、それを守っているのが犬。死者の魂は、この犬に導かれて山に入る。現在ではこの山は“花山”と呼ばれているが、本来は「ピャライ」と呼ばれていた。その意味は「草木の茂るところ」。当時の越系民族にとって、犬は特別な意味があったらしく、いろいろなところに描かれている。このようなことから、漢民族に、越系民族の末裔であるシャ族が、「先祖は犬」と表現されたのかもしれない。
頭に羽根をつけた羽人がいる。頭髪を角のように2つにした双髪は男性。一角のような単髪は女性。西洋料理人の帽子のような高髪は男性で、英雄の象徴。戦勝記念もあれば雨乞いもある。雨乞いは高い帽子を被って踊る女たちで、戦い行事は男たちのカエルのような蹲踞の姿勢で表現されている。
尊長と思われる人物が犬の背に立っている姿が大小31体あり、大きいものは19体ある。とすると、少なくとも19世代、多くて31世代の首長が描かれている。1世代約20年とすると、380年から600数十年もの間にわたって描かれていることになる。
湾曲した川面に面した花山の岩壁は、南西方向に向いている。岩壁全体がやや湾曲し、上部が前にせり出ているので、岩画には雨水はめったにかからないし、陽ざしはほとんどない。そのせいか、外気に触れているにもかかわらず、2000年近くも原型をとどめ、いまだに変色の少ない不思議な現象だ。
この花山岩壁は、古代越人たちが、死者の魂を天に送るに最もふさわしい所で、しかも、先祖霊が告げる天の声を聞く場所として長く聖地の役目を果たしていたのだろう。
しかし、やがて宋時代になると、山東半島から漢族系の軍隊が侵入し、越系民族を追い払い、この地方を支配下にした。この近辺に住む今日の人々は、漢族系の軍人と現地女性との混血児の末裔で、岩画については何も知らなかった。
2022年4月19日追記
新制中国の望郷編㉗ 広西壮族自治区 駱越の末裔・壮族
中国大陸東南部に住んでいる壮族(チュワン)族は、12世紀の南宋時代には「力強く抵抗する」という意味で「撞」と記され、明・清時代には「獞」の字が当てられていた。そして、中華人民共和国になった1949年以後は「僮」と表記されていたが、1964年に現在の「壮」の字になった。いずれも中央政府からの呼称で、壮族自身の呼称ではないが、今日では現地でも一般的に壮である。
広西壮族自治区の成立は1958年で、総人口3300万人のうち1000万人が壮族であり、雲南・貴州・四川省などにも100万人いる。中国55の少数民族の中では最も人口の多い越系の民族である。
私は、広西壮族自治区をこれまでに3度訪れている。4度目は、96年1月に、越系民族の「稲作文化」を踏査するためであった。
区都南寧から約60キロ北の武鳴県には、多くの壮族が水稲栽培を生業として生活している。生活形態は既に漢民族化しており、家はもともと木と竹の高床式住居で、階下は家畜用であったが、今では平屋の煉瓦造りになっている。
しかし、彼らは今も稲作農耕民で、稲作起源の伝説や新嘗の祭り、雷神の子であるカエルをトーテムとする風習などがある。燕を益鳥として大切にし、川魚の草魚を生で食べる。
壮語で草魚のことを「ラクワン」という。長さ30センチほどのラクワンのうろこをとり、三枚におろす。ラクワンには小骨が多いので薄く千切りにする。それに菜種油などをかける。そして、セリ、香草、唐辛子、生姜、らっきょう漬けなどを細かく切り刻んだ薬味につけて食べる。これは、刺身というより「ぬた」に近い。それにしても中国大陸で生魚を食べるのは壮族だけである。
正月には草木で着色した赤・白・黄色の3色おこわで祝い、糯米の焼酎や酒を飲み、男女が対歌をする。
また、2次葬の習慣があり、骨壺を絶壁に安置する「崖墓」をつくる。これらは、駱越民族の末裔である壮族だけでなく、越系民族独特の風習である。
古代の越族は、紀元前5世紀頃には、現在の浙江省、福建省、江西省などを中心に住んでいたが、紀元前4世紀末に楚の国の侵入を受けて滅びた。支配階級の多くは南の方へ逃げたが、一般の庶民は居残っていた。しかし、紀元前3世紀頃から漢民族の侵入によって楚も滅び、江南地方の越系民族の多くは、徐々に南へ移住した。そして、越南とも呼ばれる現在のベトナムまでに至る、「百越」と呼ばれるほど多くの国をなし、広範囲に住むようになった。
たとえば、紀元前2世紀頃の漢時代には、浙江の「鷗越」、福建の「閩越」、広東の「南越」、広西とベトナム北部の「駱越」などである。壮族は、この駱越の末裔とされている。
その後、江南地方では漢民族文化の浸透によって、越系文化は衰退したが、都市部から離れた雲貴高原や広西壮族自治区、ベトナム北部などの僻地では、今もまだ色濃く残っている。しかし、時代の流れとともに薄れている。
2022年4月18日追記
新制中国の望郷編㉖ 貴州省 侗族の鼓楼
貴州省の東端に「サオ」と呼ばれる侗族の村がある。私は、1996年8月29日に訪れ、3日間滞在して稲作文化を踏査した。
サオ村は山々に囲まれ、平地の水田と山麓の棚田がある。村は標高4~500メートルで、谷間の川に沿った1本道に家が建ち並んでいる。家は木造の2階建てで、屋根は灰黒色の平板な瓦で覆われている。約800家族、4000人が住んでいる。
サオ村の人々の先祖は、今から700年ほど前の南宋時代の終わり頃、漢民族に追われて江西省吉安市の辺りからこの地に移住してきた越系民族の末裔で、江南地方の生活文化を今もとどめている。
サオ村は大家族制で、5つの地区に分かれている。そして共同生活組織の単位である地区ごとに、象徴的な楼閣、鼓楼がある。
鼓楼には必ず飲水源と池、そして花橋(飾橋)と劇場が附属する。村の中を流れる小川にかかる屋根付きの花橋は木造で、両側に長い椅子が取り付けられ、画や木彫などの飾りが施されている。
花橋は、朝から夕方まで村人たちの憩いの場、社交の場であり、子どもたちの遊び場でもあるが、夜は若者たちの出逢いの場、恋愛の場となる。
地区ごとにある池では鯉や鮒の稚魚が育てられ、収穫直前までの約4カ月間水田に放たれる。魚は収穫祭などの時に料理される。
鼓楼は必ず奇数層からなり、小さいもので5層、大きいもので13層で、高さ30メートルもある。13層の楼は、直径40センチの柱4本が中心で、四方に直径34センチの柱が12本立ち、合計16本の柱で支えている。
鼓楼には梯子がついており、上層の床がある所に長い筒型の木太鼓が吊るしてある。長さ2メートル、直径30センチのくり抜き太鼓は、両端に牛革を張ってあり、直径2センチ、長さ30センチほどの細長いバチで叩く。
鼓楼は、「見張台」「警報台」「集会場」などの役割を果たしている。日本の弥生時代の集落にあった「楼閣」に似ており、太鼓は、「集会」「敵襲」「長老の死」「火事」などを知らせるときに叩かれる。
格鼓楼には「チョオー」と呼ばれる4~50代の伝達係がいて、彼が太鼓を叩くことになっている。
「トントントン………」
1拍子で3回続けて叩き、それを繰り返すと「緊急事態発生」。「トントントントントン………」と急いで連続的に叩くと「緊急集会」を意味し、村人はいっせいに戻ってくる。
サオ村の鼓楼は文革中に破壊され、1982年に再建されたものだが、木太鼓は吊るされていなかった。今日、太鼓が使用されているのは、後日訪ねた高僧村の鼓楼だけであ
2022年4月15日追記
新制中国の望郷編㉕ 貴州省 旁海苗の豊年祭
私は、1983年9月4日、貴州省の凱里から山の尾根を北東へ35㌔ほど離れた、大きな谷間の清水江沿いにある旁海村を訪ね、午前11時頃着いた。
江南地方を大故郷とする越系民族の末裔である苗族(畲族と同類)は、大半が稲作農耕民で、9月4日から始まる芦笙節は、豊年を祝う「豊年祭」で、日本の秋祭りと同じような意味をもった行事だが、革命以後は儀式的なことは禁じられている。
旁海村では、凱里市政府の楊さんの紹介で、副区長の宝金さんに会い、事情を説明して、滞在中の手配をお願いした。彼は大変親切に色々と世話をしてくれた。
芦笙節の豊年祭初日の今日は、村々から人が集って自由市場の開く日で、旁海村の人口は約3000人だが、なんと1万人もの苗族が集まって大きな市場が開かれていた。
野菜、果物や肉類、川の魚類は言うに及ばず、酒、たばこ、竹や木製の家具、鉄器、陶器、衣類、雑貨類、食品類、できたての豆腐やこんにゃく、ビーフン料理、そして日本とおなじような蓑、笠、草履など、ありとあらゆるものが売られている。
私は、村を見て歩き、昼食は雷応忠さん(70歳)の家に呼ばれて苗料理を食べた。私の他には苗族の10数名の客が土間の食台に向かい合って座っていた。外国人は私一人だが、彼らは気にすることなく騒がしく酒を飲み、料理を食べていた。
料理は鯉こくと野菜料理が3種類と野菜スープ。主な味付けは塩と唐辛子だが、隠
し味のすっぱさが口に残った。尋ねると「オーショ」と呼ばれる酸味のある汁であった。
苗族には、日本の酢や漢民族の醋に相当するものはなく、このオーショを先祖代々壺に入れ、次々に足し加えて保存し続け、煮物料理などの味付けに利用するとのこと。
祭りには遠くから親族が訪れる。来客にはまずお猪口で2杯酒を飲ませる。これは、2本足で歩いて来てくれたことへの感謝の表現だという。ときには食べることや飲むことを強いる。お互いに飲ませ合う習慣もある。酔っ払ってくると、食べるよりも飲んで、手を取り合って歌う。
私は、昼食後、雷さんの孫娘スパオさん(16歳)に盛装してもらって撮影した。家の前の庭では脱穀した籾を乾していた。
午後5時頃村を引き上げ、凱里に戻った。そして翌5日の午前中は、別の船渓苗の村を訪ね、昼食後再び旁海村を訪ねた。
清水江のほとりにある旁海村は、もともと交易の場で、川を道として船で上り下りする人々の娯楽や社交の場でもあった。だから、10数ヶ村の人々が集まり、いろいろなグループが笙を吹く習わしになっており、凱里地方では最も大きな芦笙節で、毎年沢山の人が集う。
村に着くと人が少なかったが、対岸の川原に沢山の人が集まっていた。私は、ニヤンと呼ばれる小舟で対岸に渡った。
昼間は暑いので、夕方から始まると聞いていたので、午後3時過ぎに着いたのだが、すでに群衆の中にいくつもの輪ができており、男たちは大小5本の笛が組みになって、小型の芦笙や大型の高さ3メートルもある芦笙を吹いていた。
芦笙は、神である祖霊に祈りを捧げる合図のようなもので、より大きな音が望まれて大型化したと言われている。革命以前はいろいろな儀式があったが、今では儀式はない。
午後2時頃から人が集まり始めたそうだが、4時頃にはすでに1万人を越した。着飾った娘たちが、いろいろな村からやって来て、数人または7、8人が連れ立っている。
なかには母親に付き添われて、現地で装飾品を身につける12~3歳の娘もいるが、どちらを向いても、少なくても5キロ、重いと15キロもの銀製の装飾品を身につけて、はなやかさを競うかのように誇らしげな表情の娘たちが練り歩く姿が見られる。
娘たちが銀製品を着飾るのは、元気な働き者で家が豊かだという証明で、より良い男から求婚されるからだという。これらの装飾品は財産として結婚する時持参するが、結婚後身につけることはほとんどなく、すべて娘に譲ってしまう。なんといっても豊年祭の主役は娘たちで、まるで結婚相手を求める集団見合いのごとく、見栄の張り合いのように着飾っている。
若い男たちは、豊年を感謝し、全身汗まみれて芦笙を吹き続け、豪華に着飾った娘たちは、まるでお姫様のようにしとやかに、左回りにゆっくり踊る。
老若男女沢山の人々の注視の下、芦笙の音に浮かれた神々とともに踊っているかのような、着飾った娘たちの満ち足りた表情は美しい。
2022年4月14日追記
新制中国の望郷編㉔ 貴州省 苗族の新嘗祭
初めて貴州省を訪れたのは、1983年9月であった。それ以来96年8月までに2度訪れ、江南地方の江西省から移住してきた越系の稲作農耕民であった苗族や侗族・布衣族などの村々で、彼らの生活文化を踏査した。知れば知るほど日本の生活文化と類似する点があり、疑問と関心が強くなった。
貴州省は、もっとも漢民族化の遅れている地域で、46もの少数民族がいる。総人口約2855万人の内、少数民族は742万人。その内苗族が最も多く、約258万人とされている。
貴州省凱里県に住む苗族は、今から5~600年前の明朝時代初期頃に、江南地方の江西省から移住してきた越系民族の末裔。その苗族に、日本の皇室行事と同じような、新米を食べる「新嘗祭」があるという。
私は、1996年8月29日(旧7月10日)に凱里県の翁項村を、地元の通訳兼案内人の熊邦東さん(25歳)の案内で訪れた。
翁項村は、標高700メートルの南斜面にあり、約40軒300人が住んでいる。村の下にある水稲の棚田はすでに色づいている。
私たちは村の中を見て歩いた。そして、熊さんが息子さんと顔見知りであるという、ヤン・ウージさん(59歳)の家を訪ねた。彼女は気持ちよく迎えてくれ、明日の新米を食べる祭り「ノウモー」にも招待して下さり、しかも村で一番物知りのパン・ツオンミンさん(68歳)のところへ案内してくれた。
苗語の「ノウモー」の「ノウ」は食べる、「モー」は12支の4番目の「卯」のこと。しかし、正確には「ノウモーケーキー」だそうだ。「ケー」は米、「キー」は新しいであり、「卯の日に新米を食べる」、すなわち「新嘗祭」のことである。
この地方の苗族は、旧暦4月第一卯の日から40日以内に田植えをし、7月に収穫する。ノウモーの頃は貯蔵米がなくなる時だが、ノウモー以前に稲を刈り取ってはいけないという。
「私たちのすべては先祖が伝えてくれたものだ。新しい米が出来れば、まず先祖に感謝してシャンホ(神棚)に供える。それをしなければ、家族に不幸が訪れ、来年は不作になる」 パン・ツオンミン老人が教えてくれた。それに、神棚に供えた稲穂は翌年まで放置され、いざという時には種籾にもなるそうだ。
私は、翌8月30日の朝9時に、ヤン・ウージさんの家を訪れた。彼女は30数年前にパン家に嫁ぎ、2男2女の母親だが、5年前に夫を亡くし、今では家長的存在。私たちは、彼女の行う「ノウモー」の儀式を見せてもらった。
彼女は、9時過ぎに、3歳の孫を背負って家を出た。10分ほど坂道を下って、自分の好きな田に行き、孫と一緒に稲穂を9本抜き取った。
10時前に家に戻ると、稲穂に水をかけて洗った。そして、2本ずつ結んで神棚にかけた。
苗族の家には、入口を入った突き当りに大きな神棚があり、家の外に小さな神棚がある。大きい方には祖霊神が、小さい方には祖霊神にはれなかった霊が戻るという。
彼女は、あっさりと大きい方に4本、小さい方にも4本の初穂を捧げた。そして、残った穂から籾を取り、籾殻を爪で剥がし、玄米を朝蒸しておいた白い飯の上にパラパラと撒いた。以前は新米を蒸したが、今は、おこわの上に置くだけだそうだ。
10時過ぎからお嫁にいっている長女、長男の嫁、次女、そして彼女の弟1人が、忙しげに料理をつくり始めた。そして、午後1時前に、大きな神棚の前にたくさんのご馳走が並べられた。彼女は1人で、大きな神棚の前に立ち、よく聞きとれない声で口をもぐもぐさせながら、床に糯米の甘酒と粳米の焼酎を少し注いだ。そして、おこわと料理を少量ずつ落とした。
「先祖の皆さん、今年も良い米がとれました。どうぞ召し上がってください」
彼女はこのようなことをつぶやいたそうだが、手を合わせたり、頭を下げたりすることはしなかった。
その後、家族や親族が集まって料理を食べた。午後はずっと飲み、食い、談笑が続いた。
ノウモーの1日目は女の振る舞いを中心とする儀式的なのに比べ、2日目の闘牛大会は、村の男たちが楽しむために行われた。
3日目の午後5時頃には、翁項村の三辻のようになった広場に、翁項郷の村々から沢山の人が集まり、6時頃から芦笙が吹き鳴らされ、12から16歳までの未婚の娘たちが、銀製の装飾品を身につけて、暗くなるまで踊り続け、ノウモー3日間の祭りは終わった。
2022年4月13日追記
新制中国の望郷編㉓ 越系民族の懸崖墓地
崖墓の発祥地は、3000年ほど前の福建省武夷山であるが、そこから120キロほど西の江西省龍虎山には、2400~2500年前の春秋戦国時代の崖墓が沢山あると言うので、1991年8月に江西省都の南昌から訪ねることにした。
南昌から約200キロ東南に鷹潭市がある。そこから更に30キロほど南に走ると、龍虎山があり、武夷山脈西麓から流れる白塔川に出る。南東から北西にゆったり流れる、幅100メートル程もある白塔川の上清渓は、両側に高さ6、70メートルもの岩山が林立し、川面を航行する船からの眺めは、一幅の画を見るような景観。
私は、舟をチャーターして、通訳の張さんと2人で撮影しながらゆっくり見物した。
岩山は疑灰岩で浸食されやすく、川沿いに絶壁が続いている。川に面した左岸の絶壁には多くの洞穴や棚がある。朝日の当たる東から東南に面した絶壁には棺が安置されているのだが、下からはよく見えない。
長さ3キロくらいにわたる絶壁は、下ほど浸食が激しく、オーバーハングしているので、下から崖墓に上るのは容易ではない。高いものでは川面から45メートル、低いものでも9メートルもあるので、十分な調査ができていない。そのため、どのくらいの数の崖墓があるかは未だ判明していない。
下から上がることも、上から降りることも容易ではないのに、長さ3、94メートル、高さ1、22メートルもあるような、大きな屋根型木棺をどのようにして運び上げたのだろう。しかも、ロッカーのようになって無数にある。
ここの崖墓群の一部が初めて調査されたのは、1976年のことで、足場を組み上げて棺や副葬品を運び出したそうだ。なんでも副葬品などは盗難されていなかったという。
江南地方には、漢や唐時代に北の河南省の辺りから漢民族系の人々が移住し、先住民の越系民族を追い出したとされているので、こうした崖墓は越系民族のものである。
古代の越族や後の閩越の人々が、死者を人が近づけない縣崖に葬ったのは、祖霊を天の神への使者にしたことや、太陽に少しでも近づいて、より早く朝日を迎え、”御来光”に接するためだと言われている。
有力な権力者ほど高い洞穴に葬られたというが、機械力の貧しい当時、どのようにして、どのくらいの人数が携わったのだろう。ここの崖墓は、数は多いが、数百年以上もの間のことなので、有力者のみのものだろう。それでは、一般人はどのように葬られたのかは知る由もない。
現在、この崖墓群の中に村があるのだが、村人たちは数百年前に福建省の方から移住してきた人々で、崖墓については何も知らなかったし、関心も示さなかった。
中国大陸の西や北から東南部の江南地方に侵入してきた漢民族は、先住民族の歴史を明らかにすることには関心が薄く、今も放置しがちになっている。2600年近くも眠り続けているこの崖墓も、いまだに全容は解明されていない。
2022年4月12日追記
新制中国の望郷編㉒ 江西省 野生稲の群生地
1990年9月に、江西省東部の東郷県にあると言われる、野生稲の生えている現場を訪ねることに失敗してから、しばらく経った97年10月下旬、私は再度現地視察を試みた。
野生稲は、東郷の町から南東へ約26キロ離れた、嵩上鎮青湖光家新村中塘と呼ばれる所にあるという。そこへは、以前より簡単に行けることが分かり、密かに案内してもらうことになった。
東郷から南へ20キロの嵩上鎮まで舗装された道を15分で着く。以前は、この道が未完成で通れなかった。人口数千人の嵩上鎮から東へ折れ、田圃の中の田舎道を進む。
砂糖黍畑と稲田の続く中にある小さな光家新村を過ぎ、赤土の大地を4キロほど進むと、道が2つに分かれていた。支道の北東方向へ折れ、中国杉の林や竹林、雑木林などの中を激しく揺られながら、2キロほど進むと丘に出た。車はそこで止まった。
「あそこの白い壁の中に野生稲がある」
案内してくれた男の指さす先の低地の方に下り、小道を3、4百メートル歩くと、白壁の手前に大きな掲示塔があり、「江西省東郷野生稲簡介」と記してある。そこには、
“ここの野生稲は最北端にあり、水稲起源の研究上大変重要なので、1986年に保護区として保存することにした。1997年8月”
とあった。なんと、私が訪ねる2ヶ月前の設置であった。
私は、高さ1、5メートルのコンクリートと石で造られた壁の上に立った。長径7、80メートル、短径2、30メートルの楕円状の囲いの中には水が溜まり池のようになって、周辺に禾本科の草が群生している。水の中にはマコモも生えており、来る途中には茅やネコジャラシなどの禾本科の草が生えていた。壁の内側に下りて、禾本科の草が群生する中を歩いたが、どれが野生稲なのか分からない。
「この草が野生稲ですよ」
案内してくれた男に教えられてやっと野生稲が確認できた。貧弱な穂らしきものを手にして良く見ると、確かに小さな籾がついている。しかも、細長い実の殻についている硬い毛の芒が長い。まさしく野生稲の特徴だ。
野生稲は大きな株になっている。背丈が伸びすぎて茎が倒れ、細長い葉や穂が立ち上がっている。稲株が大地を覆い、盛土のようになって沼地で島をなしている。その上に足を踏み入れても沈むことはなく、立っていることができる。
野生稲の茎は細くて長く伸び、葉も細くて長い。実のつく穂も小さい。実も小さく、数が少ない。実は熟した順に落ちるそうだ。籾の色は黒褐色、赤褐色、黄金色などいろいろあるが、籾殻を手で破ると、中から白い小さな粒が出て来た。小さいが確かに米だ。
今日の栽培稲と比較すると大変貧相であるが、人類にとって都合のよいようには何も手を加えられていない、自然のままの稲なのだ。稲草そのものが、生き延びるために自然環境に順応してきた姿である。
その野生稲は、育種学的、または稲作起源的に考える必要がなければ、あまり価値はないので、不要な野草でしかない。野草として見慣れてきた地元の人々にとって、これを保護する考えはおこりにくい。しかし、私は、10数年間にわたっていろいろな苦労と努力を重ね、やっとこの地にたどり着き、この保護された野生の稲草を現場で見ることができた。これで中国大陸の江南地方が稲作文化の発祥地だと、確信が持てる。
それにしても、一見粗末な稲草の実を、食糧として発見し、品種改良や改善を加えて、今日の稲草の実、籾に仕立て上げた人類は、やはり知恵ある動物に違いない。
私たちは、この野生の稲草を栽培稲に仕立て上げ、今日まで栽培し続けてきた先祖たちの努力と工夫に、畏敬と感謝の念を忘れてはならない。その心得が、稲作文化として今日まで伝わってきた、諸々の風習であり、祭りや年中行事、そして米の食文化なのだろう。
2022年4月11日追記
新制中国の望郷編㉑ 江西省 稲作文化の発祥地
私は、1980年に稲策文化を求めて中国大陸の雲南地方を訪れて以来、中国大陸東南部地域を毎年訪れ、1985年頃から稲作文化の発祥地は、揚子江(長江)下流域の江南地方だと考えるようになった。その裏付けには、野生稲の存在が必要なので、1987年頃から野生稲踏査の旅が始まった。
1990年1月には、湖南省長沙の稲作試験場で移植された野生稲を見たが、自生している現場ではなかった。
1990年9月4日、私は再び湖南省の長沙から汽車で江西省の南昌に向かい、夜8時に着いた。出迎えてくれたのは、ガイド兼通訳の張伊林さん(33歳)。そして、青山湖賓館で待っていたのは旧知の江西省社会科学院の陳文華研究員。
翌9月5日の朝、陳さんと張さん、それに運転手の王さんの4人で、南昌から南へ88キロの樟樹市に向かった。野生稲が生えている現場の東郷県に行く許可は取れていなかったが、古くからの稲作地帯で、野生稲があるかもしれないと言う樟樹地方に行く許可は取れていた。
樟樹地方は、4~5千年前から人が住んでいた。10数年前に紀元前4~5世紀当時の貴族の墓が発掘され、この地方が当時“越”の国であったが、後に楚の軍隊が侵入してきたことが分かった。
私たちは陳さんの知人、樟樹市博物館長黄さんの案内で、樟樹の町から10キロほど進んだ、観上郷の上湖村を訪れ、村人たちと昼食を共にした。
上湖村は、人家60軒、400人が住む平地の水田地帯。この村は14世紀頃から続いているそうだが、それ以前には“しゅう”と呼ばれる人々が住んでいたという。“しゅう”とは越人のことである。
ちなみに、福建語で畲族を「シェ」、漢語では「シャ」と呼ぶが、畲族は閩越族の末裔とされている。ということはこの地方には、古くから越系の民族が住んでいたのだ。明時代の政策で、江 南地方の 越系民族の多くは、漢族系の人々によって追い出され、はるか南の雲貴高原の方へ移住又は逃亡したとされている。
昼食後、胡樹根さん(66歳)と胡仛呪さん(60歳)の2人の農民に、革命以前の少年時代の風習を尋ねた。
当時は、旧暦3月に田植えをし、7月に刈り取った。田植えの終わった2~3日後、各家で“だんご”をつくり、神や先祖に供え、豊作を祈って食べた。その時、草で龍をつくり、人々がそれを担いで田圃の周囲を回った。それは雨乞いの儀式であった。
収穫後は、新米でまん丸い握り飯をつくって、天の神に豊作を感謝して捧げた。そして越劇などを呼んで楽しんだ。
このような稲作文化は、麦作を中心としてきた純粋な漢民族にはない。たぶん、越系民族との混血漢民族文化として現地に存続してきたものだろう。
私は、陳さんに頼んで、この辺には野生稲はないだろうかと尋ねさせた。すると、なんと2人の胡さんが、目を輝かせて言った。
「野生の稲ならこの辺にいっぱいあったよ。しかし、今は見かけない」
この辺では野生稲のことを「ヤワ」と呼ぶ。ヤワは雑草として処置した。背丈は1メートルくらいで、葉や茎が赤褐色になり、籾は小さいが、稲と同じ型や色で、籾についているひげの芒(のぎ)は大変長い。村人たちは、この小さな実を「クイク(鬼の米)」と呼んだ。
「クイクは小さくて家畜の飼料にもならないし、何の役にも立たなかった」
陳さんは、彼らが話すヤワの特徴が、学者にしか分かっていない野生稲の特徴に類似しているので、ヤワは野生稲なのだろうと言った。
この辺には、ヤワは昔からあり、野草と見なしてきたが、1950年頃から稲の二期作が始まり、麦が植えられなくなった64年以後からは、徐々に見かけなくなり、今は全く見かけないとのこと。
学問的には立証されていないが、陳さんは、多分この辺には野生稲があったのだろうと、老人たちに同意した。
雲貴高原の越系少数民族の大故郷と見なされている江西省の樟樹地方で、ヤワと共に生活していた老人たちの話を聞いて、稲作文化の発祥地を訪ねたような思いをしたが、野生稲が生えている現場を見ることは、まだ出来ていない。
2022年4月8日追記
新制中国の望郷⑳ 華僑たちの郷里
福建省の厦門から西へ210キロの山奥に龍岩市がある。そこから更に南西に80キロ進むと、福建華僑の郷里とも言われる湖坑郷がある。
山が多く、谷間に水田が広がる光景は日本によく似ているが、この地方には、円形や方形の”土楼”と呼ばれる、大家族が共に生活する大変珍しい巨大な家、土楼がある。
私は、1990年9月に、土楼を調べるため、現地を訪れて村人たちと寝食を共にした。
湖坑郷の2つの村を訪ねた。人口8000人の湖坑村は大半が李姓であり、今から900年ほど前の宋時代に、西の甘粛省から移住市してきたという。人口2000人の洪坑村はすべて林姓で、500年前の明朝時代初期に、福州から移住してきたそうだ。
彼らの先祖がこの地に移住した当時は、越系の先住民が住んでおり、畲族のような先住民族との戦いが絶えず、その自衛策として大家族主義になり、四角や円形の土楼が作られ、徐々に増改築して今日のような巨大な土楼になったそうだ。
土楼の外壁は、木や竹を骨組みとして、蒸した糯米と石灰と土をよくつき混ぜて造る。壁の厚さは1.2メートルもあり、まるでコンクリートのように堅くて風雨に強く、500年は持つそうだ。
円形土楼は直径60メートルくらい、高さ25メートルくらいある。1階の部屋の奥行は10メートルあるが、4階は5.5メートルと、上のほうが狭くなっている。
200年前に5年の歳月をかけて建築された”環興楼”という名の土楼は、今も李姓ばかりが37家族、206人も住んでいる。この土楼は、最初1階だけを造り、徐々に2階、3階、4階と積み上げたそうだ。
楼の外側は土であるが、内側の部屋は木材が使われ、1周する廊下や階段も木製である。防火用と盗難防止を兼ねて、土楼内は8つに土壁で区切られている。火事になっても、その一つが上下に燒失するだけで、全体が燃えるようにはなっていない。
土楼の中には祖霊神を祭る祠があり、井戸や便所、それに豚小屋がある。1階は炊事場、食堂、作業場、2階は物置や食糧庫。3階と4階が住居になっており、廊下に小便用の陶器のつぼが置いてある。外壁には2階または3階以上にだけ窓があり、下部は土壁だけで入る余地はなく、まるで要塞だ。巨大な土楼は、新しく侵入してきた漢民族が、現地に住む異民族との闘いで集団的に身を守ための要塞でもある。
1泊させてもらった振成楼は、たった5家族、29人しか住んでいなかった。家族の大半は香港、台湾、インドネシア、アメリカなどに住んでおり、春節(正月)に戻ってくると、250人ほどになるそうだ。
そういえば、ここには台湾の元総統の李登輝さんの土楼があり、地元では有名で大きな看板が掲げられていた。
華僑、それは外国で商業に従事する漢族系の中国人のことであり、本国への送金は国際収支に重要な役目をなしてきたし、2重国籍者が多い。中でもここ湖坑郷出身の福建華僑が多いが、それはこの巨大な土楼によるとも言える。
元、明、清時代と社会情況が安定するに従って、大家族主義の必要性がなくなり、多くの者が、イギリスの植民地であった香港を経由して外国に出稼ぎに出て行き、郷里の土楼に住む人たちに送金をし続けてきた。
因みに、人口2000人の洪坑村から出ている華僑は、約1000人いるそうだ。
華僑たちが、郷に入っても郷に従わないのは、長男の家族や親族が守っている土楼に、いつでも帰れる自分の部屋がある安心感のせいかもしれない。
2022年4月7日追記
新制中国の望郷編⑲ 武夷の古い下梅村と城村
紀元前324年に、楚の国に越が滅ぼされた後、越王は南の武夷山中に逃げ込み、現在城村と呼ばれている地に居城を築いて、越の末裔たちを集め、”閩越国”を建て、王都としたと言われている。
越渓と呼ばれる川沿いを中心に、閩越国は少々栄えていたが、紀元230年頃、漢の武帝の10万もの大群が押し寄せて、閩越国は滅びた。越族の多くは南の湖南、広西、貴州、雲南省へと逃亡や移住をした。しかし、城は焼かれたが、まだ残っている多くの越系民族を漢化させるため、中原から李、林、趙の三姓を中心とする漢民族が送り込まれ、移住してきた。
閩越の首都であった城跡は、今発掘されて「古越城」として遺跡になっているが、越族の居住地域であったこの地域には、漢化を促すため、最初は漢時代、次は南宋時代、そして明時代の3回にわたって漢民族の移住があった。
この城村の近くに、1千年前からの村「下梅」がある。下梅村は、越系民族と漢民族が混住する村で、古越と漢の合流した、大変古い村だとのことで、武夷山市旅游協会副会長の王公紅さんに、是非訪ねて見るようにと勧められた。
下梅村は、1000年以上も前に、鄒家がつくった村で、今では500軒2000人が住む大きな村になっている。村長の家は400年前に建立されたそうだ。何より、村全体の建物が古く、野外博物館のようになっている。言葉も漢語とは少々違って、米・メイ、白飯・ビン、川・カイ、水・シュー、火・フィ、はし・タウ、家・チョーなどである。
下梅村から10キロも離れていない城村を訪ねた。村の現在の人口は2500人だそうだが、清朝時代には多く、1万人以上も住んでいたそうだ。
古代の閩越国の首都であった城村は、今日崇陽渓と呼ばれる川沿いにあった。この川は、明・清時代には淮渓、閩越時代には越渓と呼ばれていた。その川沿いの古い埠頭近くに、樹齢900年の楠の大木があった。
この村には、清朝時代の初めに作られたという、村全体が見 渡せる楼「聚景楼」があったが、今はないそうだ。城村は一度破壊されて、時代と共にできたのでまとまりがなく、雑然としていたが、下梅村は、破壊されなかったので、1千年前とあまり変わらないような、古色然とした家々が建ち並ぶ通りがあり、古代越系と漢民族文化を止めているような珍しい街並みであった。
2022年4月6日追記