地球へめぐり紀行

ミャンマー北部探訪 編

ミャンマー北部探訪 序章

はじめに

 私は1965(昭和40)年2月に初めてビルマ(現ミャンマー)を訪れて以来、日本の民族的、文化的源流を探捜する目的で、中国大陸東南部から南下してきたと思われる、ミャンマー北部の山岳地帯に住む、越系民族を踏査することもあって、これまでに8回訪れた。最近では、一昨年の2018年4月であった。

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西北部シュエボの稲作地帯で稲を運ぶ牛車

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北端の町ミッチーナでの少数民族と筆者

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カチン州ミッチーナでの踊る祭典”マナウ”

 今、ミャンマー国軍がクーデターを起こして、いろいろ注目されているが、日本とは深いつながりがある。1942~1945年までのビルマ戦線において、ミヤンマー北部へ日本軍の将兵が10万以上も参戦し、多くの人が戦病死しているが、日本人には知られていないことが多い。しかし、遺族や将兵の関係者には知りたいことが多いだろうと思う。西北部地方のビルマ族発祥の地、マンダレー周辺を中心に、写真と簡単な文章で40~50回紹介する。

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マンダレー近くのミングオン・パヤの上に立たす筆者

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ミングオンの寺院

 ついては、今回再度のクーデターを起こした国軍が、旧日本軍と関係が深く、日本軍の協力の下に独立できたと思っているビルマ族の人々は、今も日本に親しみを持っている経過を、簡単に説明しておく。

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マンダレーのゼーチョーマーケットで餅を売る婦人

 多民族社会のミャンマー(旧ビルマ)は、西北部のビルマ族を中心とするビルマ王国を建国していたが、その首都であったマンダレーが、1885年にイギリス軍に占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。今日のミャンマーは、イギリスの軍事力によって作られたビルマ国の領土をそのまま引き継いでいる。

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マンダレーの新王宮

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新王宮のらせん階段上からマンダレーヒル方への景観

 その後、1942年に旧日本軍がミャンマーに進駐し、日本で教育されて帰国していたアウンサン(スー・チーさんの父親)らが率いる、ビルマ独立義勇軍が立ち上がり、当時の植民地国イギリスに対して日本軍と共に戦い、インドに駆逐して、長年の支配から脱出した。そして1943年8月には日本軍の支援の下、再びビルマ国が建国された。しかし、日本軍は、インド東部のインパールに駐屯していたイギリス軍との戦いに失敗し、1945年に敗退した。

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インドのインパールに近い西北部の町、タムの市場で川魚を売る女性

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市街地を托鉢する尼僧たち

 戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、日本軍の指導を受けていたアウンサンやネ・ウインらが中心に独立運動を続けた。イギリスからの独立の道筋をつけたアウンサン将軍は、1947年7月に暗殺された(その後建国の父となる)。ビルマミャンマー)は、その翌年の1948年1月に、ビルマ族を中心とする国軍によって、ビルマ連邦国として独立することが出来た。しかし、その後、カレン、シャン、カチン族など他の民族の叛乱や内乱、政変などがあった。しかし、宗主権を握っていた国軍が独立を守り続け、1989年6月に国名をミャンマーへと変更した。そして、スー・チーさんが率いる政党(NLD)が、昨年、2020年11月の選挙で大勝したのだが、国軍はそれを認めなかった。

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ザガインの丘の日本パコダ

 今日のミャンマー国軍は、戦前の日本軍の指導を受けて誕生したビルマ独立義勇軍が基盤になっていることもあって日本色が強く、保守的でもある。いずれにしても日本軍に親しみを持っていたビルマ族の人々は、今も対日感情が良い。

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1939~1945年における戦没者の共同墓地

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共同墓地の中

 ミャンマー北部を紹介するに当たり、まず北東部のタイとの国境の町、タチレイから始め、西北地方へと移動することとする。

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北東部の町、タチレイのタイからの入口

ミャンマー北部探訪㊴ 日本の敗残兵が埋もれたモーライク

 12月15日、午前11時過ぎにカレワから北のモーライクへ向かった。

 カレワの数キロ川上には、チンドゥイン川に架かる2番目の橋が建設中で、日本の会社もかかわっており、もうかなり工事が進んでいた。

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建設中のチンドウイン川第二の鉄橋の東側

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建設中のの第二の鉄橋西側

 12時36分には、左岸にマセインと言う大きな村が見えた。この村の丘には小さな白いバコダが沢山並んでいた。後で聞いたのだが、この村にも日本軍が駐留していたそうだ。

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左岸のマセイン村全景

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川沿いのマセイン村

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マセイン村北側の丘にある白いパコダの列

 午後1時半頃、チンドウィン川をゆったりと下っている家形の大きな竹の筏を見かけた。

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家型の竹の筏

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四角い箱型に組んだ竹の筏

 午後2時20分にはモーライクに着いた。川面から4~50メートルも高くなっている岸辺の階段を上がった所にAKZゲストハウスがあった。我々一行はここに泊まることにした。人口1万ほどのこの町には、ここに勝る宿泊所はなかった。

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モーライクの船着き場

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乾季の船着き場から上がる長い階段

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AKZゲストハウス前の我々一行

 我々は荷物を部屋に運び込んで、すぐに外に出た。そして、戦争当時にこの地に起ったことを聞くために、70歳以上の老人を捜して歩いた。最初に会ったのが、90歳の老婆、キンタさんだった。彼女は、16、7歳の時、マセイン村に駐屯していた日本兵から習ったそうで、「あなた、ありがとう、村長、娘、かわいい」等の日本語をまだ覚えており、久し振りに会った我々日本人に、懐かし気によくしゃべった。しかし、彼女は結婚してからこの町に来たので、戦争当時のモーライクに関することは何も知らなかった。その彼女に紹介されたのが、モーライク生まれの76歳の老人ウー・タンセンさんであった。

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モーライクの町中の通り

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モーライクの街を歩く人々

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道沿いに干した洗濯物

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マセイン村出身90歳のキンタさん

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76歳のウー・タンセンさん

 彼は、この町で英語塾を開いている英語の先生であった。「私の幼少年時代の記憶は確かではないので、当時のことをよく知っている女性を紹介する」と言って、彼の家から道を挟んで反対側にある大きな家に案内してくれた。2階に続く木製の階段を音高く踏み鳴らし、大きな声で女性の名前を呼びながら上がった。2階の板の間に、日本人のような、眼鏡をかけた老婆が1人座っていた。

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88歳のドー・ベインチンさん

 ウーさんが事情を説明してくれ、彼女が当時のことを話してくれることになった。我々は88歳になるドー・ベインチンさんを囲んで座り、チョーさんとモンさんの通訳でインタビューした。

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熱心に話してくれたドーさん

 インパール作戦に失敗してこの地に退散してきた日本兵は、傷つき、飢えと病気でひどい状態であった。彼女たちは、初め日本兵たちに食べ物を与え、世話をしていた。しかし、あまりにも数が多くなったことと、悪臭がひどいのとで途中から世話するのを諦めた。彼女の家の近くにビルマ人の医者がいたが、手の施しようがなくなって逃げた。何よりイギリス空軍の爆撃が激しく、町の人々も大半山の方へ逃げた。

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大木に覆われた古くからの建物

 日本兵の多くは、イギリス空軍の激しい爆撃で死んだり、病気や飢えで死んだりしていた。その数は無数で数え切れず、どこもかしこも死体や遺骨が溢れていたそうだ。

 1944年のインパール作戦が終わって1カ月後くらいの9月ころに、町の人々が戻ってきて、街を清掃するために、30人が1組で4グループ作り、日本兵の遺体を集めた。そして、それらをチンドィイン川に投げ入れたり、爆弾の跡の穴にゴミと一緒に投げ入れて埋めたりした。

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モーライクの朝市

 当時15歳であった彼女は、そのグループの一員になって、日本兵の遺体を来る日も来る日も集めたと、暗い表情で語った。

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米の粉を練って蒸しパンを作る女性

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米の粉の蒸しパン

 遺体を投げ入れて埋めた所は、今では家が建てられたり、道や沼地、林になったりしていて、その場所がはっきりしていない。唯彼女の記憶によると、森林署の建物があった所の大きな穴には、特に沢山の遺体を投げ入れたそうだ。戦後再建された今の森林署の建物の下には、今も沢山の遺骨が埋まっているとのことだった。

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国営森林署の入口

 私たちは、彼女に礼を述べて家を出た後は、北の方へ500メートルほど離れた国営の森林署を訪ねた。門番はいなかったので、国旗が掲揚されていた庭に入った。やがて2人の女性が出て来たので、日本から来た旨を伝え、許可をもらって皆が入った。

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国営森林署の庭

 私は、かがみこんで、多くの将兵の遺骨が埋まっているだろう床下を見詰めながら、「ごくろさんでした」と呟きながら合掌した。

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町の北側にある時計塔

 私たちは、暗くなりかけたモーライクの町を歩き、街の北側にある大きな時計塔の横を通ってチンドィイン川沿いに出た。そして寺院の建ち並ぶ川沿いの道を歩いて、街の南側にあるゲストハウスに戻った。

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雨季との水面差が40メートルほどあるそうだ

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モーライクの川沿いにある寺院群

 

ミャンマー北部探訪㊳ 大蛇のいるシュエジン村

 チンドゥイン川の左岸にあるシュエジン村は、南北を低い砂岩の山に挟まれた谷間にあり、入口は幅200メートルくらいで狭いが、奥行きがあるのか、小川が流れ出ており、砂の多い重厚な砂地が続いている。カレワから10数分下って来た船は、その砂浜に乗り上げるように停泊し、私たち一行は下船した。川辺には沢山の長い竹が運び出されており、竹の筏を組んでいる人がいた。

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舟から見たシュエジン村の入口 右に小川の出口がある

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我々の船は、シュエジン村の砂地に乗り上げて停泊した

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村の南側を流れる小川の出口

 砂地の坂道を上った所に、コックベンと呼ばれる大木があり、その近辺にニッパヤシの葉で葺いたり、トタン屋根の高床式の家が散在していた。

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乾季で干上がった川床の砂地

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砂地を耕して落花生を植えていた

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村の入口にある”コックベン”と呼ばれる大木

 我々がやってくるのを見ていた村人たちが、すぐにコックベンの木の下に集まって来た。そして、モンさんやチョーさんの説明を聞いた、村長だと言う55歳のウ・テンマンさんが対応してくれた。

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村長のウ・テンマンさん

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村の高床式住居

 この村は、以前は大きかったが、戦後まもなくから村人の多くが仕事を求めて村を出て、今では14軒、50数人の小さな村になっているそうだ。

 戦争当時、最初はイギリス軍が駐屯していたそうだが、やがて日本軍がやって来て、激戦の末イギリス軍を追い出した。その後日本軍がやって来て、一部の兵は残ったが、多くの兵はイギリス軍を追って川を渡ったそうだ。

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戦争当時の武器の残骸を見る筆者

 村人たちは、当時の銃剣や中型爆弾、機関銃の弾、鉄兜などの遺留品を次々と家から持ち出してきた。もちろん日本軍が駐屯していたこと、多くの戦病死者がいたこと、遺体を川に捨てたことなど、まるで現場を見たかのようにさまざまなことを話してくれた。

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村の奥へ通じる道

 しかし、こんな小さな村に、イギリス軍や日本軍が何故駐屯していたのか疑問にかられ、私は村の奥の方へ向かった。

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村の入り口から300メートルほど入った平地

 300メートルほど中に入って山陰になっていた奥の方を見ると、村の入口の狭さと違って、小川のある広い谷間に田畑が広がっており、この村の食料生産量が多かったことが解った。

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広い谷間の田園地

 稲が実っている広い稲田のあぜ道に立って眺めていると、村人たちがやって来て、この広い稲田は、日本軍が駐屯していた場所で、傍らの赤い花をつけた“パウ”と呼ばれる大木は、通信用のアンテナとして使われており、当時この木に打ち込んだ白い碍子が、木の成長によって食い込まれ、わずかに頭を出していた。

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かつて日本軍が駐屯していた跡地にできた広い稲田 この辺に大蛇がいるのだそうだ

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日本軍が通信用に使っていたという駐屯地傍の大木、バウ

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大木パウの木肌に食い込んで残っている碍子

 驚いたことに、この広い稲田には、5、6メートル以上もある大蛇がいるそうだ。大蛇は水田の神様で、村人たちは大蛇を恐れることもなく、守るように共存しているそうだ。

 今もいるかと尋ねると、「その辺にいるか、山にいるか分からない」と答え、村人たちは楽し気に笑っていた。

 食糧が乏しかった当時の日本兵は、蛇やトカゲを食べたと聞いていたのだが・・・。50代の村人が子どもの時からいたそうなので、もしかすると日本兵にも喰われずにいたのかもしれない。

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谷間の奥から”ワ”と呼ばれる竹を切り、水牛にひかせて運び出す村人

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谷間の奥から切り出された竹 川で筏に組んで南へ運ぶ

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チンドウイン川沿いの砂地に立つ村の娘たち

 この谷間の奥は、“ワ”と呼ばれる竹の生産地でもあり、長い竹竿を10数本束ねて、牛に引かせて川辺に運び出していた。となると、食糧になる筍も豊かなのだ。

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チンドウイン川で洗濯しようとしている村の婦人

 南北を砂岩の山に挟まれ、西側をチンドゥイン川に守られて東へと延びているこの谷間は、小川沿いの農耕地に恵まれた要塞の地であった。そんなこともあって、日本軍は、この地を食糧供給地として確保していたようだ。

ミャンマー北部探訪㊲ カレワの町

 カレワはチンドゥイン川沿いの古い小さな町で、外国人が泊まれるようなホテルはなかった。ここから45キロ西のカレーミョまで行き、そこのモダンなホテルに泊まった。

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舟から見たカレワ全景

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船溜まりが二つの川の合流点

 12月15日、カレーミョからメタ川沿いに車でカレワに戻った。メタ川とチンドゥイン川が合流する三角状の頂点近くの、小高い丘の上にあるシュエモト・パヤから街を一望することにした。  

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右メタ川 左チンドウイン川の合流点 向こうは南北に走るメンゲン山脈

 1944年当時は、この町にも日本軍が駐屯していたし、インパール作戦に失敗して敗退してきた多くの将兵が、ここからチンドゥイン川を東に渡ったそうだが、その当時にもあった古い寺で、多くの日本兵が訪れていた。

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カレワの町の中心地

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カレワ中心地の米屋のコメをついばむ雀たち

 私たちは、その寺院に下で靴を脱いで素足になり、長い階段を上った。丘の上の寺の入口には、寺院再建のために募金をしている人が椅子に座っていた。我々6人の突然の訪問に驚いた表情の彼は、急いで立ち上がり、笑みを浮かべて迎えてくれた。

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丘の上の寺院の中にある仏塔

 私は、1年前に訪れた時も寄付をして、僧侶から手書きの立派な領収書をもらっていた。今回も1万チャット紙幣を差し出した。他の日本人も寄付したので、彼は大変喜んで、破顔一笑した。

 59歳のキンマウン・シエンさんは僧侶ではなく、午前中だけ奉仕で募金係をしているとのことだった。

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募金係をしていたキンマウン・シエンさん

 標高135メートルのカレワの町は、東と南西側を川に、西北側を標高2~3百メートルの山に囲まれた、三角形状の平地にある。ニッパヤシニセアカシアなどの高木の茂る、緑の多い町だが、これ以上発展するには地理的条件が悪い。

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寺の境内から見たカレワの町

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町の西北側にある山

 カレワは、川を利用した交通の便の良い商業地で、古くから栄えた町であったが、今ではこの西の平原にあるカレーミョの方が、陸路の交通の便が良いので繁栄している。しかし、この寺の境内から一望できる山と川と町並の眺めは素晴らしいので、今後は観光地として有望な所である。

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舟から降ろされた商品としてのツボ

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右側の小屋はカレワの船着き場の食堂

 キンマウンさんは、戦争当時のことを多くの人から聞いて、いろんなことを知っていた。

 日本軍は当時、西の山の麓に駐屯しており、町には沢山いて、この寺にもいたそうだ。イギリス空軍の飛行機に爆撃されて町は焼けた。この寺には当時落とされた爆弾を鐘として吊るしており、今も使っていた。

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左につるされているのは、イギリス空軍が投下した爆弾

 この町でも沢山の日本兵が死んだそうだが、その後どうなったかは聞いていない。多分、チンドゥイン川に流したのだろうとのことだった。ミヤンマーの仏教徒は、輪廻転生を信じる小乗仏教なので、埋葬して墓は作らない。一般的には焼き捨てるか川に流す。

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カレワ近くに建設中の鉄橋

 多くの日本兵が、インドの方から戻って来て、ここから川を東へ渡った。彼らが目指したのは、5、6キロ南の対岸にあるシュエジン村であったと教えてくれた。

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丘の上の寺の境内から見たチンドウイン川上流

 私は、この1月にモンさんと2人で、川上のトンビン村近くで、チンドゥイン川を西から東へ渡るフェリーボートの船上で、シュエジン村出身の40代の船員たちに会った。彼らによると、子どもの頃、村の近辺では時々日本兵の骨が発見されていた。村人たちは遺留品を保管したり、売ったりしたが、骨は素焼きの壺に入れ、チンドィイン川に流したと言っていた。

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カレワの昼間の船着き場の様子

 私は、皆に話して、シュエジン村を訪ねることにした。

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丘の上の境内に咲いていた花

 

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詳しくは拙著「チンドウイン川紀行」をご覧ください

ミャンマー北部探訪㊱ モンユワからカレワへ

 私たち日本人4人は、モンユワから570キロ北のホマリンまで、ミャンマー北西部を北から南へ流れるチンドゥイン川を船で遡上する、かつての「インパール作戦」において、チンドゥイン川沿いで、戦病死した万を超すとも言われる日本兵の霊を弔う、「チンドゥイン川慰霊の旅」に出た。

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モンユワのチンドウィン川岸の客船

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モンユワの対岸への渡し船

 2016(平成28)年12月14日午前6時すぎ、一隻の客船をチャーターしてモンユワを出発した。私達日本人一行はNHKエンタープライズディレクター新山賢治、カメラマンの新田義貴、若い田中教伍と私の4人。そして私の通訳として何度か旅を共にした女性のモンさん、それに新山さんの通訳兼現地コーディネーターの50歳代男性チョー・メエツウーさんの合計6人。それに船長と助手が2人の全員9人の乗船である。

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私たち一行4人と通訳のモンさん

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船長のアウン・ミヨーメイ(41歳)さん

 モンユワを出発して間もなく、川床の砂利を採取する船が10数艘もいて、早朝から活動していた。川の両側には山などなく平原が続いており、午前6時45分に東の空に太陽が昇り、川面が一段と明るくなった。

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川床の砂利を採取する 採石船  

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砂利採り舟のかなたに橋が見える

 午前7時頃、チンドウィン川にかかる唯一の大きな鉄橋の下をくぐった。大陸の大川にかかる橋は、日本では想像もつかないほど巨大な規模だ。

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チンドウイン川唯一の橋

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巨大な鉄橋の下をくぐって行く

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航行の安全を願って舳先に生けた神柴 「タビエ」

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船の艫にある厠

 船の舳先には、若芽が赤褐色で美しい葉をつけた“タビエ”と呼ばれる神柴が円筒形の筒に数本活けられている。船長によると、航行中の安全祈願のためで、枯れないように毎朝水を注ぎたして世話をするそうだ。

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川面より10メートル近く上にある村

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雨季には川面が10メートル近く上がる

 午前11時20分、乾季で水量が少なくなって干上がった、右岸の広い川床の川沿いに、竹やヤシで造った小屋が並ぶ村を見かけた。村人たちは、川から1キロも離れた雨季の村から出て、乾季の臨時の村だそうだ。大陸の大きな川沿いに住む人々の生活の知恵で、広い川床を耕して作物を栽培し、川魚を採って食べる、古来の特徴的な生活様式だそうだ。

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乾季用臨時の村

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川床の幅が1キロ近くもある

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竹と椰子の葉で作られた乾季用の家

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乾季の川沿いの人々

 これから度々使われる“右岸”と“左岸”の呼称は、国際的慣例で川の上流から見た右側を右岸、左側を左岸とするとされている。

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乾季でも川幅が1キロ以上もあるところがあるチンドウイン川

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村々を結ぶ貨客用の舟

 チンドウィン川には、川を下る竹の笩や竹船が多い。ミャンマーの南の方には、節の長い、肉の厚い“ワ”と呼ばれる竹はないので、川下のパガンや遠くヤンゴンまで、1ヶ月も2ヶ月もかけて下って売り払う。この竹はパガン地方の特産の竹かごや漆器の原材料となり、ヤンゴンでは、高い建物を建てる時の足場を組むに必要な建築材になる。

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ゆったり流れる竹の筏

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竹を運ぶ竹の筏舟

 11時41分、川幅500メートルほどの右岸にできた乾季用の村テンドーに接岸した。川面から10メートルも高い斜面に建てた簡易レストランで昼食。広く干上がった白い砂地を見渡しながらいろいろ想像した。

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昼食用に停泊したテンドー村 白い屋根がレストラン

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テンドー村での昼食

 雨季には数キロにも及ぶ大陸の川の異常に変化することを知らなかった、7、8月の雨季に直面した日本の兵隊さんたちは、さぞ困ったことだろう。何より、このチンドウィン川には万を超す日本兵の遺体が沈み、その遺骨は川床の砂となって、今は干上がった白い砂の粒になっているのかもしれない。

 昼食後、12時30分に出発した。川沿いにはあまり村は見えない。雨季の増水時には危険なので、川沿いから離れた安全な場所にあるのだろう。

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ミンゲン村

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林の中に見えるミンゲン村の仏塔

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川で水浴びや洗濯する女性たち

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ミンゲン村のはずれで水辺に座る娘たち

 2時30分、右岸の林の中に見えたミンゲン村を通過し、村はずれで水浴びをしたり、洗濯をしたりしている女性や子どもたちがいた。そして、川沿いの干上がった川床を牛に犂を引かせて耕している人がいた。この地方では、乾季の始まる10月下旬から川床を耕し始め、豆類、瓜類、落花生、トマトなどを栽培し、2月から3月には収穫し終わるそうだ。

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耕された川床 雨季には水没する

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川床を行く農夫

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牛にスキを引かせて川床を耕す農夫

 大陸における農業は、川沿いで始まったとされている。そして、古代において発展した町は大抵大川沿いにあった。それは、雨季に上流から肥沃な土が運ばれ、途中の川床に堆積し、乾季にその川床で作物を栽培し、食料が確保できたからだ。

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川辺に佇む女性

 午後5時15分には、チンドゥインがメンゲン山脈を西から東へと突っ切った、砂岩の岩壁が続く所を通った。川の流れが徐々に浸食した岩壁の間を抜けると、目の前にカレワの町が見えた。

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カレワ近くの砂岩の絶壁

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カレワの川辺

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カレワの船着き場

 初日の目的地カレワは、北からのチンドゥイン川と西のカレーミョーから流れるメタ川が合流している三角状の台地にある。午後5時22分、無事カレワの接岸地に着いた。

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川から見たカレワの町

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詳しくは拙著「チンドウイン川紀行」をご覧ください

ミャンマー北部探訪㉟ メイッティーラの慰霊所

 私は、ビルマ戦線における最後の激戦地ともいえるエーヤワディ会戦の、最終地であったメイッティーラの慰霊所を、2016年1月20日に通訳兼ガイドのモン女史と共に、マンダレーから車をチャーターして訪ねた。

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マンダレーから南のヤンゴンまで600キロも続くハイウエイ

 マンダレーから高速道路を南へ160キロ走った先のメイッティーラは、平地の中にあるメイッティーラ湖の湖岸にある人口約9万人の町。古くからの交通の要所で、町の中心に大きな時計塔があることで知られていた。町の中のメイッティーラ湖にかかる大きな橋の袂には、巨大な鳳凰鳥の形をした黄金の寺院ファンドーウー・パヤがある。 

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メイッテイラー中心地の時計塔

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鳳凰鳥の形をした寺院 ファウンドーウ・バヤー

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メイッテイラー湖にかかる大橋

 その大橋を西側に渡って100メートルも行くと、北側の右に、「世界平和祈念パコダ」の名で知られたナガヨン・パヤがある。この仏塔は、この辺の激戦で生き残って帰国できた、元日本兵の寄付によって1987(昭和62)年に建立されたものだそうだ。

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日本人が建設費を寄付したナガヨン・パヤ

 そのナガヨン・パヤから3、4キロ東へ行った湖畔に、古くからのトーンボ僧院がある。この僧院には、メイッティーラ地域で戦死した多くの日本兵の遺骨が埋葬されているとのことだったので、モンさんの案内で訪ねた。

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トーンボ僧院入口にある日本語の墓標

 木製の簡単な門から中に入ると、直ぐの右側に日本語の墓標があった。その反対の左側には日本兵の慰霊小屋がある。モンさんが寺の事務所から案内役として連れて来たのは、41歳のウー・ビニヤ・ソーダ僧であった。

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案内してくれたウー・ビニヤ・ソーダ

 彼がまず案内してくれたのは慰霊小屋で、熊本県の諏訪ハツノさんが寄贈したものだった。 

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慰霊小屋にあった碑文

“第四十九師団歩兵第百六十六聯隊 故陸軍大尉 諏訪利市之霊 昭和二十年三月二日 メークティーラに於いて戦死 熊本 諏訪ハツノ”と記された墓標の横には、“丸二式歩兵砲”が置いてあった。その砲には、“No.10241 昭和十七年製 名古屋陸軍兵廠”と明記されていた。

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丸二式歩兵砲

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歩兵砲に明記されていた文字

 諏訪さんが亡くなられたのは3月2日とあるので、メイッティーラが2月17日に一度イギリス軍に占領された後、日本軍が兵力を集結して逆襲し、激戦を展開した時だ。

 インド東北部のインパール攻略に失敗して退却した日本軍は、チンドゥイン川を西から東へ渡って、マンダレー近辺までやっと戻って来た疲弊した敗残兵を再度集結し、南下してくるイギリス軍をこの地で食い止めようとしたが失敗し、3月30日の夜中に、東へ後退したと言われている。

 この僧院は、旧日本軍駐留時代からあり、日本軍が近くに駐屯していたこともあって、日本兵の遺骨が集められている慰霊所があるとのことだったので、そこへの案内を頼んだ。

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慰霊碑の前に立つ案内してくれた僧

 僧は、入口から200メートルほど先の小さな広場に案内してくれた。そこには、広場を囲っているコンクリートの壁際に、緑色の碑が3個並んでいた。真中の大きな墓碑の前には卒塔婆が7枚立てかけてあった。

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真ん中の慰霊碑前に7本の卒塔婆がたてられている

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慰霊碑に明記された碑文

 墓碑は、一辺3メートルほどのコンクリートで仕切られた土の上に立っていた。僧によると、この土の下に日本兵の遺骨が埋葬されているとのことだった。このことは日本政府も承知しているとも言った。

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日本から持参した小瓶から土の上に酒を注ぐ筆者

 私は、日本から持参した日本酒の小瓶を取り出して、卒塔婆の前の土に注ぎ、「ご苦労様でした」と合掌して、自分も瓶の蓋に注いで飲んだ。

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酒を注いだ後、小蓋に入れて酒を飲む筆者(モンさん撮影)

 何体埋葬されているのか、僧は知らなかったが、1976(昭和51)年に生き残った旧日本軍の兵士や遺族たちがやってきて、この辺で戦病死した遺骨を集めて埋葬し、帰らざる兵士たちの法要を営んだそうだ。 

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メイッテイラーで食べた昼食 左の黒いのは小鳥の丸焼き

ミャンマー北部探訪㉞ インドとの国境の町タム

 2015年1月当時、ミャンマーはまだ外国人が旅行できない地域があった。1月10日頃、マンダレーミャンマー観光案内所に、インド東北部のインパールに最も近い国境の町、タムへの旅行許可願いに訪れた時、対応してくれた事務員は、次のように話した。

 「外国人は、カレーミョーまでは行けますが、その先のタムへは治安が不安定なので行かないでください」

 インド人以外の外国人は、タムへは行かないそうだが、別に罰せられることはないとのことだったので、旧日本軍がインパール作戦敗退後の現地の様子を見ようと思い、意を決してタムまで行くことにした。

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カレーミョー空港

 カレーミョーのホテル従業員によると、カレーミョーからタムまでは131キロあるそうだが、タム行きの直行バスがあるとのことだった。1月16日の早朝ホテルを出て、午前8時発の乗り合いバスに3000チャット払って乗り、運転手隣の壊れかけた古い席に座った。

 バスは前世紀物のオンボロ。客は現地人が20数名乗っている。ガタガタ、ブルブルと変な音を立てながら走るので、時代スリップしたような感じがするが、前を向いて座っている限り、ちゃんと進んでくれるので何も問題はない。道は、インドへ通じる通商路なので、舗装された2車線を、50代後半と思える運転手は、慣れた手つきでオンボロバスをいたわりつつ走らせる。

 3時間以上も運転手の横に座っていたので、片言英語を話す彼と親しくなった。タムの入り口で搭乗者のチェックがあったが、運転手がうまく取り計らってくれた。

 午前11時35分、タム中心街の三叉路の所でバスは止まった。運転手が親切に三輪タクシーを呼んでくれ、カレーミョーから電話予約をしていたホテルへ案内するよう指示してくれた。

 タムの町は晴れていた。ホテルの3階から西の方へは、インドの山々が見える。街はトタン屋根の家と2~3階のコンクリートの建物があり、新旧入り混じった街並みで、道はまだ整備がされていない。タムはチンヒル北部の東麓にある、まだあまり発展していないチン族中心だが、ビルマ族の植民地のようになった町。チン族、ナガ族、マニプル人、山岳民族、そしてビルマ族などが入り乱れて混住しているので、町の人口数はまだ分かっていないそうだ。私が見た限りでは、近郊も入れると少なくて2万、多くても4万人くらいのようだ。それに町の地図などはまだなかった。

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池の上に作られた立派なレストラン

 ホテルから約500メートル離れた三叉路近くに“Water World”と表記した、池の上に出来たレストランがあったので昼食をした。インド人らしい客が多く、100人は入れるくらいの広さで、夜は飲食兼用のクラブになるようだ。

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タム中心近くの丘の上に立つ古い見張り塔

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丘の上から見下ろしたタムの町

 昼食後、近くの丘に上って、見張り塔の上から街を見下ろした。タムの町は木が多くはっきり見えないが、もう戦争当時の残像はなく、かなり広範囲に広がっていた。

 1944年当時のインパール作戦中には、ここタムや隣のインド側の町モレーに沢山の日本軍人が駐屯し、インパール作戦の最前線は、モレーの低い山をもう1つ越したチャモールであったと言う。そして多くの戦病死者がモレー近辺に埋葬されているとのことだったので、タムからモレー近くまで行って見ることにした。

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インドとの国境の川沿いに立つ国境事務官 鉄橋の白い方がインド側

 私は三叉路近くで、体格の良い英語を話せる34歳のゾー・ミュー・メーンと言うタム出身で、チン族の男が運転する、サイカ(三輪タクシー)をチャーターして、モレー近くのナンファロー・マーケットへ案内してもらった。

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ナンファロー・マーケットの行きどまりにあるインドへの出入り口

 このマーケットはモレーに接しており、客の大半はインド側から来ているそうだ。マーケットの行き止まりが、インドへの出入口。係員に話しかけたのだが、インド側へは一歩も入れず、悪いことに、ここは外国人立ち入り禁止の地域だと言うことで、変な雰囲気になった。ゾー君が突然に私のメモノートを要求し、ここに来る前に立ち寄った国境事務所の移民官に、私の英文の名刺を渡した時に書いてもらっていた名前を見せ、彼の許可でここに来た旨を伝えると、係員が怪訝な表情で怯んだので、早々に引き返して助かった。

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マーケット沿いにある民家の屋上から見たモレーの町

 マーケットの途中にある民家に頼んで屋上に上げてもらい、インド側のモレーの町を眺めた。1944年7月に、インパール作戦を中止して日本軍がこの地から撤退して以来、日本人がこの地を訪れたのは、私が初めてではないだろうか。そんな思いにかられ、モレーに向かって両手を合わせて黙祷した。その後、タムに戻った。

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タムの大きな市場

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川魚を量り売りする女性

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自家製の食料品を売る女性たち

 1泊した翌日の早朝、1人で市場を見物した。市場の大きさと人出の多い活気からすると、2-3万人は住んでいる町なのだろう。

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自作の野菜を売る農家の人々

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市場では花も売られていた。

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朝市で「タビエ」と呼ばれる神柴を売る女性。

 日中は近郊の村々を、現地案内人と共に見て歩いた。タムには2泊3日滞在したが治安に問題はなく、無事であった。

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詳しくは拙著をご覧ください。

ミャンマー北部探訪㉝ モンユワの日本人墓地

 マンダレーからモンユワまでは西へ約160キロ。道の両側には稲の収穫が終わった切株田が続いているが、時々横切る小さな川には水がない。乾燥に強いねむの木科の木やユーカリなどが生えているが、大地は乾燥して、木々はあまり成長していない。

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モンユワ駅前の筆者

 沿道には家が少なかったが、平成27年1月12日午前11時40分にモンユワ郊外のバスセンターに着いた。親しくなったバスの運転手に相談して、シュエ・タウン・ターンという安いホテルを紹介してもらい、三輪タクシーの”サイケ”でホテルに向かった。モンユワ訪問の目的は、この地に作られている、日本兵が葬られている墓地を訪ねて、現状を確認することである。

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日本人墓地近くの大きな道の沿道風景

 ホテル1階のフロントで、日本人墓地に行きたい旨を伝え、案内人を頼んだ。午後1時過ぎに42歳のパティがオートバイでやって来た。少々話し合った後、1時半に彼のオートバイの後ろに乗って出発した。

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民家の間の細い道

 モンユワ中心地の十字路に、アウンサウン・スーチーさんのお父さんで、建国の父と言われているアウンサン将軍の馬に乗った銅像がある。そこから大通りを北西に約2キロ走り、サッカー場を通り過ぎてから右方向の東へ折れた。町中の道を800メートルほど進み、今度は左折して人家の間を通る小さな道を300メートルくらい走ると、人家がなくなり、ビニール袋などが散乱するゴミ捨て場のような小さな広場があった。パティさんは、オートバイを止めて、ここだと言う。

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ビニールが散乱するごみ捨て場のようなところ

 オートバイを離れて周囲を見ると、茂みの向こうの空き地に墓石のような物があった。茂みをかき分けて中に入ると、前4基、後ろに2基の慰霊碑が横に並べて建立されていた。

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ビニールが散乱する茂みの向こうに墓石が見える

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モニワ(モンユワ)日本人墓地の標識

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右の端にある慰霊碑

 最初の慰霊碑には、“水上勤務第三十八中隊”とあった。次は“鎮魂”と記され、その下には、“三十三師団二一五聯隊一同”とあり、“鎮心安魂魄(こんぱく) 昭和五十五年八月十五日建立”と明記されている。

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”鎮魂”の碑

 これらの墓碑が建立された当時は整地され、墓地らしかったのだろうが、30数年後の今は周囲にいばらや雑木が生え、墓地内は雑草が生い茂っている。

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墓石の下部に表記された文字盤

 モンユワは、昭和50年から55年当時、日本人がミャンマー国内を訪ねることのできる西北端の町であったので、この近辺で、またはこれから更に西北のチンヒルインパール・コヒマ・そしてタムの山や森で戦病死された兵士のために、生き残った仲間たちが熱い思いで建立したであろう碑は、草に埋もれてはいるが、今もしっかりと建ち続けている。

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日本人墓地のほぼ全景

 私は、それぞれの碑の前に立って黙祷し、線香と日本酒を供え、哀悼の意を捧げた。そして、次のように告げた。

 「日本から来ましたよ。日本は平和で豊かな国になり繁栄しています。そのおかげで私は一人で地球上を一周するこができました。みなさんの死は無駄ではなかったのですよ。ありがとうございました。どうか安らかにお眠りください」

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殉国碑の前で哀悼の意をささげた筆者

 ミャンマー北部の旅は、日本国を思い、遠く離れた異郷の地で若くして戦病死された、帰らざる兵士たちに、日本の現状を伝え、戦中、戦後を生き抜き、世界各国を探訪することができた日本人の1人として、自分なりの感謝の気持ちを伝え、心の整理をするためでもあった。

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当時日本軍が見張り台にしていた、日本人墓地近くの鉄製の水道塔(2016年12月撮影)

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イギリス空軍の襲撃で穴が開いた鉄柱。このときに死亡した兵士の埋葬地が今の日本人墓地になっている。

 

ミャンマー北部探訪㉜ ピュー世界文化遺産

 シュエボの町から25キロ東の平原の中に、紀元1世紀頃の“ピュー世界文化遺産”があると言うので見学に行くことにした。

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シュエボでチャーターした三輪タクシー 途中での修理中

 1月18日午前10時、三輪タクシーをチャーターして、モンさんの案内でシュエボを出発して、遺跡のあるハーンレンの町に向かった。山など見えない平坦な田園地帯を走る。何故か、道は舗装、未舗装が交互に続く。とにかく、悪路で三輪タクシーの揺れが激しく、のんびりとはゆかなかった。

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周囲5,6キロの城壁に囲まれていたピュー遺跡の図

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世界文化遺産標識前の案内人モンさんと筆者

 人口数千人の小さな町ハーンレンには午前11時20分に着いた。この町には13世紀のパガン時代の遺跡もあった。町から2キロ程離れた平地には、赤茶けたレンガを積み上げた王城の城門近くの壁跡があった。紀元1世紀頃、この地方で栄えたピュー時代の古びたレンガの、高さ5~60センチの壁が残っているだけで、他には見る物はなかった。しかし、いずれにしても2000年も前のレンガの壁がそのまま残っている。

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2000年前の城門近くのレンガの壁と石畳

 ピュー時代のこの城塞都市の城壁の長さは5~6キロもある巨大なもので、大変珍しい貴重な遺跡なのだそうで、ユネスコ世界文化遺産に認定していた。その立派な標識が城門跡近くに建立されている。しかし、まだあまり知られていないので現地の人々や国際的な観光客はなく、我々だけで閑散としていた。

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草木が生えて荒れ地になっている城壁内を、のんびり進む牛車 

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世界文化遺産標識前の筆者

 事務所や説明する人はなく、囲いはあるが、鍵がなく誰でも自由に中に入れる。ユネスコ世界文化遺産に指定し、立派な石の標識はあるのだが、野ざらし状態である。

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城壁の南側にある宗教儀式が行われたであろう場所の遺跡

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宗教儀式に使われたらしい8本の石板

 城門近くの城壁の外の南側に、古代からの墓地があり、現場を家で囲んで、そのまま博物館になっていた。現場の案内人と共に中に入って説明を受けた。

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博物館内の墓地を上から見た様子

 なんと一番上の層が紀元1世紀のピュー時代で、焼いた骨を壺に入れて埋葬している。2層目は鉄器時代、3層目は銅器時代で、死体と共に銅製品が多く埋められている。一番下の4層目が石器時代で、遺体がそのまま埋められていた。乾燥した砂地なので、保存が良かったそうだ。なんと石器時代までが同じ場所に層になっていたそうで、そっくりそのまま層にして保存しているのだと言う。

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階層になった古代の墓

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一番上のピユー時代の骨壺

 この辺で発掘された出土品の多くが別の博物館に陳列されていたが、その多さと多種にわたっていたのには驚かされた。何より、山もない、海から1000キロ近くも離れた平 原の地に、何故に石器時代から絶えることなく人が住んでいたのか、それに紀元1世紀頃には大きな城塞都市があったのか、大きな疑問を感じた。案内人に尋ねるとその疑問を解く鍵は、町の中心から1キロ程シュエボの方に戻った所にあった。

 道から右側(北?)へ2、300メートル離れた低い丘の所に古い民家の村があった。その丘の手前下には温泉や冷泉が湧いていた。古代から湧出しているそうで、温泉は摂氏35℃~43℃くらい、冷泉は普通の良質の水である。

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  温泉に浸かる村人

 ここから東へ13キロにはエーヤワディー河があるが、山も川もない乾燥した大平原の中である。しかし、この近辺には至る所に湧水池があり、その水を利用した農業が古代から盛んであったそうだ。

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向こうのプールは温泉 手前の穴は冷泉

 温泉場と道の反対側には、塩分を多く含んだ大地があった。この土を水に溶かし、その水を濾して天日で乾かすと、普通の白いきれいな塩になるそうだ。ここには古代から採塩場があり、今も採塩されている。と言うことは、生活に必要な食料、水、塩が揃っていたということだ。

 これで、この地には石器時代から人が住み、1世紀頃のピュー時代には、巨大な城塞都市があったことが納得できた。このピュー世界文化遺産のある地域は、古代から人が住むに都合がよい自然条件の揃った、熱帯に近い場所であった。

 

ミャンマー北部探訪㉛ 稲作地帯の町シュエボ

 2016年1月17日、マンダレーから130キロ北西の平原にある町シュエボを、通訳兼案内人のモン女史と共に訪れた。シュエボは、1752年にビルマ族の英雄アラウンパヤー王によって建設され、僅か8年間だけ首都であったが、ビルマ族にとっては発祥の地として大事な古都である。

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マンダレー⇔シュエボ間を走るバス

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途中にあるバスストップの食堂

 シュエボ近辺は水田地帯で、北ミャンマーでは古くからの米の主産地。ミャンマーは、ビルマ時代の古くから世界最大の米の輸出国でもあったが、その中心地がシュエボであった。

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シュエボのバスセンター前にあるアラウンパヤー王の像

 シュエボは、1942年から始まったビルマ戦線当時に日本軍の前線基地のあった所でもあり、特にここから更に北西部のインパール作戦に参加し、敗退してチンドゥイン川を東に渡った兵士の大半が、シュエボを目指して歩いたそうなので、どんな町なのか見ておきたかった。

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バスセンター前の宿泊したホテル

 私たちは、シュエボバスセンター前のホテルに午後1時頃着いた。

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シュエボで食べたビーフン料理

 遅い昼食後、午後3時頃から、モンさんの案内で町を歩いて見学した。

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旧市街の入口

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旧市街の中にあるジュエダザ・パヤの仏塔

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ジュエダサ・パヤの獅子像

 シュエボにはパコダが多い。まず最初に見たのは、パガン時代に建立されたと言う、500年以上もの歴史がある巨大なシュエダザ・パヤであった。なんとすぐ隣に大きなパゴダが2つも隣接していた。旧市街地を北側に出ると、3,7キロもある堀に囲まれた王宮跡があった。 

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チャンタヤ・パヤの入口

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二つ並んだチャンタヤ・パヤ

 旧王宮前一帯が、マンダレーと同じ名前の“ゼーチョー・マーケットで、シュエボで一番活気のある所である。ゼーチョー・マーケットでは有名な化粧用に使う“タナカ”の木や、タナカの葉で巻いた“タナペセーレ”と呼ばれる葉巻タバコなどが売られていた。珍しいのは“チュア”と呼ばれる大きな田ネズミが売られていたことだった。 

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市場での魚売り

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塩漬けのタケノコ

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市場での食事場

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いろいろなものを串にさして売っている屋台

 田圃で米を食べて太ったイタチよりも大きい程の田ネズミは食用で、焼いた一匹が700チャットであった。シュエボでは立派な野生の獣肉なのである。

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焼いた田ネズミを売る婦人

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開いたままの田ネズミを売る婦人

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大きな田ネズミ

 翌日は、郊外に出てみると、稲の収穫期で、多くの人出があり、稲を鎌で手刈りしていた。刈られた稲穂は田の中に干していたり、白い大きなこぶ牛が引く牛車に満載して

運び出されていた。

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シュエボ郊外の田園地帯

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田園で稲を刈り取り人々

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牛車に稲束を積み込む人々

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稲束を運ぶ牛車

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稲束を運ぶ牛車群

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用水路のアヒルたち

 稲が刈り取られた田圃には、アヒルや牛が放たれており、白鷺のような白い鳥たちも飛び交っていた。多分、食用になる大きな田ネズミもいるだろう。

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農家の庭で稲穂の脱穀をする農夫

 農家の庭では、稲穂の脱穀作業をしていた。その脇で、3羽の鶏や10数羽のスズメが脱穀された籾をついばんでいたが、農夫たちは気にもしないで、脱穀の作業を続けていた。

 

ミャンマー北部探訪㉚ マンダレーの波止場

 北部ミャンマーの中心地マンダレーは、海から600キロも内陸に入った、人口100万もの大きな町で、陸・空・川の交通網の拠点でもある。

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マンダレーの、エーヤワデイー河岸辺の波止場

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マンダレーの波止場に佇む筆者

 海の中にある日本列島とは違って大陸における大河は、海と同じ役目を果たし、古来物資輸送には欠くことのできない高速道路的な道であった。

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エーヤワデイー河岸辺の波止場

 ミャンマーの中央部を南北に貫通する大河,,エーヤワディー河沿いにあるマンダレーには、沢山の川船が行き交う港・波止場がある。海沿いの波止場や港と同じように表記すれば少々違うが、大陸の大河は季節によって水量が上下するので、常設の施設を設置するのが困難で、波止場は古来変わりなく岸辺の船着き場的な所である。

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エーヤワデイー河航行中の貨物船 対岸はザガインの丘

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接岸した物資輸送船

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タグボート

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接岸した荷物運搬船

 そこは、観光用の遊覧船や庶民が日常的に使っている客船、運搬用の貨物船、はしけ船、小さな漁船などが、絶え間なく行き交うなかなか忙しい船着き場のような波止場である。

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渡し舟

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大きな網を立てた漁船

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網を川の中に沈めようとする漁師たち

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小さな漁船

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漁網を引き上げる漁師

 北の町を訪れてからマンダレーに戻り、しばらく休みなく動いていたので、休憩を兼ねてエーヤワディ河の岸辺に佇んで、行き交う船を眺めた。

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マンダレーの波止場近くで、小舟に乗って魚釣りをする人々

 マンダレーの波止場、港である船着き場近辺のエーヤワディ河の様子をご覧あれ。

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ビルマ戦争中は破壊され、戦後再建されたエーヤワデイー河にかかるザガイン鉄橋

ミャンマー北部探訪㉙ ナガ族の町ラヘ 



 インド東北部のナガランドを2度訪ね、民族踏査をしたたので、ミヤンマー北西部の山岳地帯にあるミヤンマー側のナガ族の町、ラヘを訪れるために、カムティを訪ねた。

 カムティからラヘへの道は、山坂が多い悪路で乗り合いバスはないし、乗用車では無理だとのことで、ゲストハウスの英語の話せる女性事務員に頼んで、オートバイで行くことにした。

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オートバイで案内してくれたミンカツさん

 翌日の11月27日、午前7時、頼んでおいた35歳のミンカツ(ビルマ族)さんがオートバイでやって来た。ラヘへは僅か50キロだが、山坂の多い大変な悪路なので、約5時間要ると言うのですぐに出発した。

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朝もやの中、チンドウイン川の対岸に渡ったフェリーボートの上

 朝霧に包まれた静かなチンドウィン川をフェリーボートで対岸に渡り、シンデ村には9時45分に着いた。この村からすぐに山岳地帯に入り、山の中の道を上ったり、下ったりと大変な行程。

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谷底の川にかかる途中の橋

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峠の休息所にあるナガ族の小屋

 10時15分に、峠のボンドエ村に着いた。少し休憩することにして、村の小学校を見学した。子どもたちは大声で教科書を読んでいた。20分程休憩し、再びオートバイにまたがった。

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山を越える急な坂道

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山の上から見る谷底の道 これから下ってゆく

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峠にあった学校

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授業を受ける子供たち

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先生の話を聞く子供たち

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対面の山のジグザグ道路

 とにかく、山を幾つも越し、川をいくつも渡って、上ったり下ったりで平地は殆どない状態。オートバイの後ろで上下の振動は激しく、ヘルメットを被り、運転手の腰をしっかり握った。変化の激しい道を4時間以上も走り続け、午前11時20分、大きな谷の丘のようになった、少々平地がある、立地条件の良いところにできたラヘの町に着いた。

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遠くに見えてきたラヘの町

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”ラヘ”の標識

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山の東斜面にあるラへの北側

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ラへの中心地

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ラへの南側にあるナガ族の家

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茅葺のナガ族の古い家

 まず町中の仏塔のある小高い丘に上って町全体を眺めた。町の中心にはコンクリートの家もあるが、大半が木製の小さな家で、文明地から遠く離れたこんな山の中に、こんな大きな町があることが不思議であった。しかし、ビルマ戦線において、ナガランドのコヒマ攻略のために、日本軍はここにもやってきていた。私は、ナガランドと同じ人々が住んでいるこの町の現状を見るためだけにここまでやって来た。

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ラへの中心近くにある丘の上の仏塔

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丘から見た中心近くの運動場

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ラへ中心地の南側の緩やかな谷の中にある家

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丘から見たラへ中心地域

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薪を運ぶ婦人

 ミンカツさんと2人で町を見て歩いた後、12時過ぎから、町の中央部にある、運動場近くの食堂に入って昼食をした。ここで英語の話せるナガ族のダビド・アキン(34歳)さんに会い、いろいろ情報を得た。

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物を入れて運ぶかごを背負った老婆

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ラへ中心地の食堂

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ラへの食堂で食べたナガ料理

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食堂であったダビド・アキンさんと筆者

 ラヘは4地区に分かれており、人口は約6千人で、殆どがナガ族。インドのナガランドとの国境までは45キロだが、その間殆ど車の通れる道はないと言う。

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ラへ中心地のモダンな家

 ここは国境に近い町なので、ミャンマー政府が、ナガ族をミャンマー化するために学校でミャンマー語を教えているそうだ。仏教徒が多くなっているが、本来アニミズムで、1月にはナガ族の大きなフェスティバルがあると言う。

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中心地にあるナガ族の祭り会場

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小屋の中の大きな木製太鼓

 彼と話している内に天候がおかしくなった。外に出て再び町を見ていると雨が降り始めた。小雨降る町を見て歩き、2時前には、ラヘを出て帰路に着いた。

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山の上から見たラへの中心地域

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ラへを見下ろす山の上に立つ筆者

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案内してくれたミンカツさんと彼のオートバイ

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帰る途中、ラヘ近くの路上にいた牛たち

 なんと言っても4時間以上は要るので、オートバイで急いだが、途中工事中であったり、フェリー待ちなどがあり、6時前には暗くなった。

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帰る途中道路工事に会い、暫く待たされた

 暗くなってからチンドウィン川を渡り、午後6時半、ゲストハウスにやっと無事にたどり着いた。彼に約束の8万チャット(約7,000円)を払って別れた。往復9時間近くもかかったラヘへのオートバイの旅は、心身ともに疲れた。

ミャンマー北部探訪㉘ カムティの朝市の朝食

 カムティは午後10時に消灯し、その後は暗闇である。消灯後は何の音もないが、時々犬の鳴き声が聞こえるだけだった。

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カムティの夜明け、午前7時前

 午前7時前に起床し、7時半からゲストハウス近くにある朝市に出かけた。ミャンマーでは朝市はどこも活気があるのだが、カムティの朝市も、人口3万人にしては大きくて活気があった。

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常設市場の外にある街頭の朝市

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朝市で売られていたいろいろな米

 中でも川魚を売っている場所は人出が多く活気があった。鯉のような大きな魚から、コハダのような小型の魚など、多種な魚が台の上に並べられていた。それに大きな川エビなどがあり、さすが大川のそばの町で、新鮮な川魚が売られていた。

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朝市の川魚売り

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大きなナマズ

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大声をあげて元気よく魚を売る女性

 朝6時半頃から開いている朝市には、人出が多い。市場の中で朝食する人がいるので、食事場も多い。レストランとか食堂などの名称はふさわしくない、屋台のような場所が多い。中には街頭で揚げ物を売っているので、立ち食いもある。

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朝市で揚げパンを作って売る女性

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街頭で立ち食いする女性

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朝市で揚げ物を作る女性

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街頭でいろいろな種類の揚げ物を作って売る女性たち

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朝市で揚げパン作りの小さな工場

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揚げパン作り

 朝市の中でよく目にしたのは、米の麺、ビーフン料理であった。シャン・カウソエと呼ばれる一種のラーメンのようなものだが、一杯1000チャット(約73円)がよく食べられていた。

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朝市の屋台食堂

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ビーフン料理、シャン・カウソエを食べる女性たち

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屋台食堂で朝食をとる家族

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ビーフン料理を作る屋台食堂の女性

 中には米の蒸しパンや上げ餃子のようなものを食べている人がいたが、とにかく忙しいのだろう、ゆっくり食べている人は殆どいなくて、数分で食べ終える人が多かった。

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朝市で売られていた円状の扁平な餅

ミャンマー北部探訪㉗ 川沿いの町カムティ

 ミャンマー西北部の山岳地帯にあるナガ族の町、“ラヘ”を訪ねるため、2017年11月26日に、マンダレーからカムティへ飛んだ。

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カムティ飛行場

 カムティ空港に午後1時に着いた。初めての町で何も情報がなかった。空港のオフィサーに話しかけ、日本から来た旨を伝え、町までのタクシーと宿泊先を紹介してもらった。

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宿泊したミヤナンタウ・ゲストハウス

 町は空港から5、6キロで、直ぐに紹介先の“ミヤナンタウ・ゲストハウス”に着いた。ゲストハウス近くのレストランでチャーハンを食べ、午後2時半から一人で街を見て歩いた。

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レストランで食べたチャーハン

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カムティの商店街

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カムティの中心街

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竹製品を売る店

 カムティはチンドウィン川上流の、川沿いの人口3万人の町で、川船による物資流通の拠点として栄えていたそうだ。もともとはシャン族中心であったが、今ではビルマ族も多くなっているとのこと。

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中心街の川近く 

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中心街の万事屋

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オートバイの修理屋

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 民家の庭での宴会?

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店番をする子供

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雑談をする婦人たち

 川沿いの街には“琥珀”を売る店があった。琥珀は、大昔の樹脂が地中で化石のようになった宝石の一種なのだが、聞くところによると、この近辺は琥珀が出土することでも知られているとのことだった。しかし、上質の琥珀マンダレーヤンゴンの方に持ち去られ、観光客や人口の少ないここにはあまり高価なものは置いていないとのことだった。

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川沿いの通り

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川沿いの通りの店で売られていた琥珀

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街頭で琥珀片のネックレスを売っていた婦人

 午後4時頃から川沿いを歩き、川船が沢山停泊している様子を見た。大陸における川は、古来のハイウウェイで、船による物資流通にはなくてはならない道の役割をなしていた。

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チンドウイン川沿いの土手の上

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川船の停泊場所

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川岸にもやった川船

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川船での生活者

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船室にいる生活者

 船上で生活する人も、陸上で生活する人も皆、川の水なくしては生きられないので、人々は日常的に川には馴染んでいる。この町には本来風呂もシャワーもなかったそうだ。彼らは年中川の水を使って生活していた。しかし、今、モダンな家にはシャワーはあるが、風呂はないそうだ。

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川沿いで洗濯する婦人たち

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川沿いの洗濯風景

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水浴びする少年たち

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舳先に,航江中の安全を願って、神柴を生けている川船

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川岸から船にわたる板橋

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物資満載の川船

 夕方になると、タオルを肩に掛けた女性たちが、川岸に浮いた竹製の浮き台の上に、日本人が銭湯に入るように集まり、水浴びをしていた。まるで娯楽の一時のように、楽し気な活話が川面に響き、華やいでいた。

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川岸にもやった竹製の浮き台のそばで水浴びする女性たち

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水浴びに向かう女性

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水浴びしながら浮き台の上で談笑する女性たち

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夕方、川で釣りをする男性

 私は川沿の岸辺にころがっている、宝石のような青・赤・褐色・黒・白色などの珍しい石ころを見て歩いた。表面に凹凸のある鉄のように重い卵大の石ころを一つ拾い上げた。もしかすると“隕石”かもしれないと思い、ポケットの中に入れて持ち帰った。

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上流から流れ来て丸くなった、川辺のいろいろな小石。

ミャンマー北部探訪㉖ プーターオの子どもたち

 私は、青少年教育団体の理事長をしているので、学校を見物したい旨を伝えると、ディンゴー君が、シャン族が住むカンキョ村にある“サーチ・ハイスクール”に案内してくれた。先ず女性校長のダケイ・チーチョさんに会い、私の英文の名刺を渡して、青少年教育の教育現場を見たい旨を伝えた。彼女は、日本から来たことに大変驚かれ、是非見て下さいと、2階建ての校舎を案内してくれた。

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カンキヨ村の”サーチ・ハイスクール”の標識

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校長のダケイ・チーチョさん

 この学校には小学校から高校までがあり、15~17歳のクラス、11~14歳のクラス、そして8~10歳までのクラスが同じ校舎の中にあるそうで、まず8歳からのクラスに案内された。子どもたちは教室の中で騒いでいたが、校長に私が紹介されると、キョトンとした表情で黙り込んで私を見詰めているだけだった。

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8歳からのクラス

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8歳のシャン族の少女 顔にタナカの化粧水をつけている

 次には11歳からのクラスに案内され、授業中を参観させてもらった。担当の先生が日本について説明し、子どもたちの中に入って記念写真も撮らせてもらった。次には2階の15歳からのクラスで36名の学生がいた。そこでは、日本人を見るのは初めてだということで、生徒たちに挨拶させられ、握手を求められた。

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11歳からのクラス

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教科書を音読する子供たち

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11歳からのクラスでの筆者

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筆者が挨拶をした15歳からのクラス

 1時間以上滞在し、校長に礼を述べ、記念品を渡してホテルに戻った。

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案内してくれた女性校長と筆者

 翌日、12月1日は、プーターオから約16キロ西へ離れたアパーシャントン村を訪ねた。外国人が行ける西端の村。ここには約1,000人のロワン族が住んでいた。この村から山を越して、西へ向かうとインドのアッサム地方へ出る。山麓にあるこの村は標高が1,400メートルもあり、昔ながらの素朴な村で、小学校があった。丁度お昼時であったせいか、子どもたちが学校から帰宅途中で、よく見かけたので話しかけ、ロワン族の4人の女の子を撮影させてもらい、名前を聞き取った。

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アパーシャントン村の小学校

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下校中の子供たち

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下校中の少女たち

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子犬を抱いていた少年たち

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アパーシャントン村の道沿いの家と子供たち

 コム ロームシーダーサル(11歳)、ラワン・サラ(10歳)、レダン・ワン(11歳)、ランプ―・ミンサン(10歳)たちで、初めは恥ずかしがって顔を隠したが、ポラロイドで撮影した写真を見せると大変驚き、10分もすると話かけてくるようになり、一緒に撮影までできた。

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11歳のレダン・ワンちゃん

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アパーシャントン村の4人の少女と筆者

 坂道を下っての帰路、ローワシャントン村で、小川に新しい橋をかけていた珍しい光景を見た。竹でかごを作り、その中に小石を入れて橋脚としての支柱を固定する橋のかけ方は、古代と変わりない方法なのだろう。

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ローワシャントン村で橋を架ける作業中の村人たち

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竹で石を運ぶかごを作る人

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大変珍しい古来の橋づくり

 大変珍しかったので、橋づくりの共同作業を1時間ほど眺めた後、アンパン村にあったアワシャンカウ・ハイスクールを訪ねた。ジンポー族の校長ブラディー(46歳)さんと、シャン族の教師イクン・リン(35歳)さんの2人が応対してくれた。

 ハイスクールと言っても、中学生くらいの子どもが多く、近辺のロワン族、シャン族、リス族の子どもたちが約200人通っているとのことだった。 

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アンパン村のアワシャンカウ・ハイスクール

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左ブラディー校長、右イクン・リン教師と筆者

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校庭でゴムトビをする子供たち

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廊下にたたずむ子供たち

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教室から外に出た子供たち

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休息中の子供たち

 授業は参観できなかったが、外で遊び回る子どもたちを撮影させてもらった。私が見た限り、姿かたちは皆同じようで骨格や衣服では区別できなかった。皆、学校で習うミャンマー語を話して、楽し気に元気いっぱい遊んでいた。

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ハイスクールの女学生

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先生と学校園を耕す子供たち

 この後、案内人のディンゴー君の村を訪ね、彼の家に立ち寄ってからホテルに戻った。

ミャンマー北部探訪㉕ 朝市に多種の川魚

 12月初めのプーターオの早朝は、濃霧がたなびいて摂氏12・3度と肌寒い。

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夜明けの朝6時ころから始まる朝市

 午後10時から午前5時頃までは電気の明かりがない町だが、夜明けの午前6時頃から朝市が開く。昔ながらの素朴な朝市で、近くの村々からやってきた売手と、食材を求める人々が大勢やってくるので、特に6時半から7時半頃までは、人出が多く混雑する。

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朝市で黙って座っている娘さん

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朝もやの中の屋外朝市(常設朝市の外)

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野菜を売る娘さん

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屋内の常設朝市

 本来の4大民族が、今では言葉がなんとか通じ、衣服や風習も類似しているので、私には見分けができなかったが、現地の人々には見分けられるとのことだった。

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道端に物を並べる屋外の朝市

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道沿いに並ぶ朝市

 とにかく、豊かな食材が所狭しと地上や長いテーブルの上に並べられている。高い山に囲まれたプーターオ平原には川が多く、エーヤワディー河の源流の1つでもある。その川にいる魚の種類が多いのに驚かされた。現地の人達に何度も尋ねたが、プーターオの川にいる魚だという。

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地上にビニールを敷き、魚を並べて売る女性たち

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いろいろな川魚が並べられている

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魚を並べて静かに客を待つ

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魚を売っていたかわいい娘さん

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テーブル上に魚を並べて売る人たち

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とにかく魚を売る人が多い

 海から1300キロも離れた山奥の高地に、海とはほぼ同じような魚がいる。サヨリ、チヌ(黒鯛)、コノシロ(コハダ)、ウツボ、ボラなど、私の故郷の海で見かけるような魚がいる。

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次から次に買い手が来るので、8時ころまでには売り切れる

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海の魚と見分けがつかない

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川の子魚

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大きなマスか?

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男たちがとった魚を、女たちが朝市で売る

 海から遠く離れた内陸の山奥の川に、海とほぼ同じような新鮮な魚が朝市で売られている。今朝か、前日に獲った魚だと思うが、これらの魚たちは、川から海へ出たが、海から川をはるばる上って来たのだろうか。

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海から遠く離れた山奥の川魚

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”はたはた”のようなな魚

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”さより”のような魚

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ナマズと”ゴンズイ”のような魚

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大ウナギか?

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”アナゴ”のような魚

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大ウナギ

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取りたての”コノシロ”の様な魚

 いずれにしても、海と同じように、魚・カニ・エビなどの種類が多いのには驚かされた。人類と同じように、魚類も水を頼って遠くまで移動したのだろうか。プーターオで1番驚かされたのは、朝市において、新鮮な多くの海魚と同じような川魚が売られていたことだった。