地球へめぐり紀行

ミャンマー北部探訪 編

ミャンマー北部探訪 序章

はじめに

 私は1965(昭和40)年2月に初めてビルマ(現ミャンマー)を訪れて以来、日本の民族的、文化的源流を探捜する目的で、中国大陸東南部から南下してきたと思われる、ミャンマー北部の山岳地帯に住む、越系民族を踏査することもあって、これまでに8回訪れた。最近では、一昨年の2018年4月であった。

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西北部シュエボの稲作地帯で稲を運ぶ牛車

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北端の町ミッチーナでの少数民族と筆者

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カチン州ミッチーナでの踊る祭典”マナウ”

 今、ミャンマー国軍がクーデターを起こして、いろいろ注目されているが、日本とは深いつながりがある。1942~1945年までのビルマ戦線において、ミヤンマー北部へ日本軍の将兵が10万以上も参戦し、多くの人が戦病死しているが、日本人には知られていないことが多い。しかし、遺族や将兵の関係者には知りたいことが多いだろうと思う。西北部地方のビルマ族発祥の地、マンダレー周辺を中心に、写真と簡単な文章で40~50回紹介する。

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マンダレー近くのミングオン・パヤの上に立たす筆者

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ミングオンの寺院

 ついては、今回再度のクーデターを起こした国軍が、旧日本軍と関係が深く、日本軍の協力の下に独立できたと思っているビルマ族の人々は、今も日本に親しみを持っている経過を、簡単に説明しておく。

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マンダレーのゼーチョーマーケットで餅を売る婦人

 多民族社会のミャンマー(旧ビルマ)は、西北部のビルマ族を中心とするビルマ王国を建国していたが、その首都であったマンダレーが、1885年にイギリス軍に占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。今日のミャンマーは、イギリスの軍事力によって作られたビルマ国の領土をそのまま引き継いでいる。

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マンダレーの新王宮

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新王宮のらせん階段上からマンダレーヒル方への景観

 その後、1942年に旧日本軍がミャンマーに進駐し、日本で教育されて帰国していたアウンサン(スー・チーさんの父親)らが率いる、ビルマ独立義勇軍が立ち上がり、当時の植民地国イギリスに対して日本軍と共に戦い、インドに駆逐して、長年の支配から脱出した。そして1943年8月には日本軍の支援の下、再びビルマ国が建国された。しかし、日本軍は、インド東部のインパールに駐屯していたイギリス軍との戦いに失敗し、1945年に敗退した。

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インドのインパールに近い西北部の町、タムの市場で川魚を売る女性

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市街地を托鉢する尼僧たち

 戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、日本軍の指導を受けていたアウンサンやネ・ウインらが中心に独立運動を続けた。イギリスからの独立の道筋をつけたアウンサン将軍は、1947年7月に暗殺された(その後建国の父となる)。ビルマミャンマー)は、その翌年の1948年1月に、ビルマ族を中心とする国軍によって、ビルマ連邦国として独立することが出来た。しかし、その後、カレン、シャン、カチン族など他の民族の叛乱や内乱、政変などがあった。しかし、宗主権を握っていた国軍が独立を守り続け、1989年6月に国名をミャンマーへと変更した。そして、スー・チーさんが率いる政党(NLD)が、昨年、2020年11月の選挙で大勝したのだが、国軍はそれを認めなかった。

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ザガインの丘の日本パコダ

 今日のミャンマー国軍は、戦前の日本軍の指導を受けて誕生したビルマ独立義勇軍が基盤になっていることもあって日本色が強く、保守的でもある。いずれにしても日本軍に親しみを持っていたビルマ族の人々は、今も対日感情が良い。

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1939~1945年における戦没者の共同墓地

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共同墓地の中

 ミャンマー北部を紹介するに当たり、まず北東部のタイとの国境の町、タチレイから始め、西北地方へと移動することとする。

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北東部の町、タチレイのタイからの入口

 

ミャンマー北部探訪③ チャイントンの街

 タチレイの町から約160キロ北のチャイントンまで、バスで4時間余りかかった。

 チャイントン郊外のバスターミナルに着いたが、一般的に外国旅行者が訪れることは出来なかった町なので、町に関する情報はない。ミャンマーはイギリスの植民地であったので、老人に英語が話せる人が多い。

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タチレイからチャイントン行きのバス(日本の中古車)

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車窓に見えるチャイントン近くの水田

 いろいろ尋ねていると、英語がよく話せる中年の男がやってきて、「外国人が泊まれるホテルを知っている。オートバイで案内する」と、小型トラックのタクシーに乗ってついて来いと言う。

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案内されたGolden World Hotel

 案内されたのは、中心街の“Golden World Hotel”であった。

 ホテルの隣にある食堂で遅い昼食をとる。この店の壁には漢字が書いてある。ここから中国との国境の町モングラまでは約80キロ、車で3時間だそうだ。店で食事をしていた40代の男2人の客は漢語を話していた。中華人民共和国に近い町なのだ。

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ホテルの隣の食堂

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食堂で食べたビーフンのシャン族料理

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漢字で書かれた寺院

 ここは越系民族の末裔シャン族の住むシャン州。シャン族はもともと中国大陸東南部に住んでいたが、徐々に移動してきた民族で、隣国のタイ族とほぼ同じ民族。

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丘から眺めたチャイントンの町

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チャイントンの住宅地

 標高787メートルにあるチャイントンは、なだらかな山岳地帯の町で、人口20万。ノントウン湖を中心とした高原の町なので朝晩は涼しい。

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チャイントンの中心地ノントウン湖

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マハーミヤツ・ムニ寺院

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丘の上のワット・ションカム

 ホテルでもらった地図を頼りに歩く。まず、ホテル近くのマハーミヤツ・ムニの寺院を見る。屋根は褐色で、壁は黄色の立派な寺院。丘の上のワット・ジョンカムを見た後、周囲の丘に囲まれた、低地のノントウン湖に下りた。周囲4キロくらいの小さな湖だが、湖畔には西洋風の立派な住宅が立ち並んでいる。湖には水垢が漂っているし、濁っているのでお世辞にもきれいとは言えないが、周囲の建物が水面に映えて、絵葉書のような美しい光景。

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ノントウン湖

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ノントウン湖畔の高級住宅

 町中には仏教寺院が多いが、イギリス植民地時代の布教によるキリスト教徒もいるので教会もある。

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町を見下ろす丘に立った仏像

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指を差している巨大な仏像

 町が一望できる丘の上に登り、山に囲まれた平和郷のような町を見ながら歩いていると、金色に輝く大きな仏像があった。立ち上がって右手で指差している仏像は珍しいので、近くにいた老人に尋ねると、平和・悟りを示しているのだと言った。戦争の多かった多民族社会の平和を祈念する象徴的な仏像なのだろう。この町には旧日本軍も一時駐屯していた。

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巨大な仏像の前に立つ筆者

ミャンマー北部探訪② タチレイの寺院巡り

 東南アジアのラオスやタイにも多い、小型トラックや小型三輪のタクシー”サイカ”は、安いが乗り心地は良くない。20代と思える人の良さそうな青年が、200バーツ(約650円)で半日市内観光するというので、彼の運転する車に乗った。

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華やかな色彩のダイアナ寺院

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ダイアナ寺院の入口

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ダイアナ寺院の太鼓

 まず町中の大きなダイアナ寺院を訪れた。褐色の屋根に尖塔のある大きな寺の広場に輪タク”サイカ”が沢山止まって観光客が多く、読経も流れていた。タイやラオスには立派な寺院が多く、もう見飽きていたが、大きな寺院なので40分近くも見学した。

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ダイアナ寺院の仏壇

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仏壇

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ダイアナ寺院の仏像

 次には中心地から少し離れた丘の上の金色に輝くスエダゴン・パコダを訪れた。パコだは修復中で、下部がブルシートで囲われていたが、頼みもしないのに、中年の女性が案内についてくれた。しかし、英語ではなく、タイ語ミャンマー語交じりでよく理解できない。運転手は入口まで案内してくれたが中には入らなかった。

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スエダゴン・パコダの標識

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スエダゴン・パコダの入口にあるドラ

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スエダゴン・パコダ・(工事中)

 床は大理石を敷き詰めてピカピカ。靴を脱がされて素足で歩くのだが、12月の乾季とは言え日差しが強くて床が熱い。素足の彼女は慣れているのか、熱がる私を笑う。私はいつも靴を履いているので足の腹の皮膚が柔らかくなっているのか、床が痛いように熱いのでなるべく日陰を歩いた。

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日曜から左回に一週間の礼拝所が指定されている。

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月曜日の礼拝所で両膝をついた筆者

 大きなパゴタの台座には、日曜日から右廻りの順にお祈りをする場所が決められている。今日は月曜で、西側のその場所で参拝するように勧められ、両膝をついて手を合わせた。

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バコダの横にある仏像に膝まづいて礼拝する人たち

 30分近くも案内してくれ、最後に10枚ずつの絵葉書を勧められた。彼女は正式の案内人ではなく、絵葉書や土産物を売りつけるのが目的であったので、断るのも悪い気がして200バーツで買った。

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タンマーヨン寺院の金色の仏像

 次にはタンマーヨン寺院を案内してくれたが、寺院はもう見飽きてもいるので、20分ほどで金色に輝く華やかな仏像などを一巡して、ホテルに戻った。 

ミャンマー北部探訪① 国際都市タチレイ

 タイとの国境メーサーイ川にかかる幅50メートルほどの橋を渡ってミャンマー側の町タチレイに入った。

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タイ国との国境”メーサーイ川”

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国境事務所を越してミヤンマー側の町タチレイの入口

 毎日大勢のミャンマー人が給料の良いタイ側に出稼ぎに行き、沢山のタイ人や外国の旅行者が物価の安いタチレイへ観光や買い物に訪れるので、国境は大変活気があり忙しい。

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タチレイの町最初のロータリー

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丘の上から眺めたタチレイの全景

 橋の袂(たもと)にある国境事務所を訪れて、100メートル余り進むと大きなロータリーから四方に道が延びている。右側の市場への道の方が広場になっており、三輪車のタクシー”サイカ”が数10台止まっている。その運転手たちが、タイ国から次々にやってくる客を呼び込んでいるので、大変賑やか。大半の客は日帰りなので、2~3時間の買い物や市内観光。

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タチレイの中心街

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化粧用のタナカの木を売る店

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タチレイの中心街に立つ筆者

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タチレイ中心街の果物屋

 タチレイの中心地であるバザールには、路上に並んだ露天の店が無数にあり、なんでも売っている。ここではミャンマーの貨幣チャットよりもタイの貨幣バーツやアメリカドルが流通しており、言葉は英語、タイ語ミャンマー語ヒンディー語が飛び交い、どこの国なのか分からない。

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バザールの入口

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バザールの中

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バザールでは多種多様な物が売られている

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顔にタナカを塗った婦人

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焼き栗を売る婦人

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日傘を立てた露店

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雑貨を売るイスラム教の女性

 入国に関しては厳しいミャンマー政府が、タイと接したタチレイだけは、早くから国境で1日から数日間の簡易ビザを発行して、外国人を受け入れていた。そんなこともあって、ミャンマーでは1番活気のある国際都市になっていた。

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日差しの強いタチレイの繁華街

ミャンマー北部探訪 序章

はじめに

 私は1965(昭和40)年2月に初めてビルマ(現ミャンマー)を訪れて以来、日本の民族的、文化的源流を探捜する目的で、中国大陸東南部から南下してきたと思われる、ミャンマー北部の山岳地帯に住む、越系民族を踏査することもあって、これまでに8回訪れた。最近では、一昨年の2018年4月であった。

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西北部シュエボの稲作地帯で稲を運ぶ牛車

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北端の町ミッチーナでの少数民族と筆者

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カチン州ミッチーナでの踊る祭典”マナウ”

 今、ミャンマー国軍がクーデターを起こして、いろいろ注目されているが、日本とは深いつながりがある。1942~1945年までのビルマ戦線において、ミヤンマー北部へ日本軍の将兵が10万以上も参戦し、多くの人が戦病死しているが、日本人には知られていないことが多い。しかし、遺族や将兵の関係者には知りたいことが多いだろうと思う。西北部地方のビルマ族発祥の地、マンダレー周辺を中心に、写真と簡単な文章で40~50回紹介する。

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マンダレー近くのミングオン・パヤの上に立たす筆者

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ミングオンの寺院

 ついては、今回再度のクーデターを起こした国軍が、旧日本軍と関係が深く、日本軍の協力の下に独立できたと思っているビルマ族の人々は、今も日本に親しみを持っている経過を、簡単に説明しておく。

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マンダレーのゼーチョーマーケットで餅を売る婦人

 多民族社会のミャンマー(旧ビルマ)は、西北部のビルマ族を中心とするビルマ王国を建国していたが、その首都であったマンダレーが、1885年にイギリス軍に占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。今日のミャンマーは、イギリスの軍事力によって作られたビルマ国の領土をそのまま引き継いでいる。

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マンダレーの新王宮

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新王宮のらせん階段上からマンダレーヒル方への景観

 その後、1942年に旧日本軍がミャンマーに進駐し、日本で教育されて帰国していたアウンサン(スー・チーさんの父親)らが率いる、ビルマ独立義勇軍が立ち上がり、当時の植民地国イギリスに対して日本軍と共に戦い、インドに駆逐して、長年の支配から脱出した。そして1943年8月には日本軍の支援の下、再びビルマ国が建国された。しかし、日本軍は、インド東部のインパールに駐屯していたイギリス軍との戦いに失敗し、1945年に敗退した。

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インドのインパールに近い西北部の町、タムの市場で川魚を売る女性

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市街地を托鉢する尼僧たち

 戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、日本軍の指導を受けていたアウンサンやネ・ウインらが中心に独立運動を続けた。イギリスからの独立の道筋をつけたアウンサン将軍は、1947年7月に暗殺された(その後建国の父となる)。ビルマミャンマー)は、その翌年の1948年1月に、ビルマ族を中心とする国軍によって、ビルマ連邦国として独立することが出来た。しかし、その後、カレン、シャン、カチン族など他の民族の叛乱や内乱、政変などがあった。しかし、宗主権を握っていた国軍が独立を守り続け、1989年6月に国名をミャンマーへと変更した。そして、スー・チーさんが率いる政党(NLD)が、昨年、2020年11月の選挙で大勝したのだが、国軍はそれを認めなかった。

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ザガインの丘の日本パコダ

 今日のミャンマー国軍は、戦前の日本軍の指導を受けて誕生したビルマ独立義勇軍が基盤になっていることもあって日本色が強く、保守的でもある。いずれにしても日本軍に親しみを持っていたビルマ族の人々は、今も対日感情が良い。

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1939~1945年における戦没者の共同墓地

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共同墓地の中

 ミャンマー北部を紹介するに当たり、まず北東部のタイとの国境の町、タチレイから始め、西北地方へと移動することとする。

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北東部の町、タチレイのタイからの入口

 

内蒙古からチベット7000キロの旅㊶ 旅の終わりに

 内蒙古からラサまでの西田さんの足跡をたどる、今回の探検旅行のコースからは外れるが、中国側の車がありよい機会なので、皆で話し合ってラサから500キロも西にある、ラマ教旧経派(赤帽派)の大本山があるサキャまで行くことにした。

 チベットは高山の連なる山岳地帯で、たとえ車でも、その旅は高地と悪路と厳しい自然環境によって難行苦行を強いられた。途中、標高5,000メートルの峠で貝の化石が層をなしたり散乱ているのを見て、ヒマラヤ山脈はやはり海底が隆起したことを具体的に知ることもできた。高い山また山の、上下差の激しいいろは坂の多い道を、ギャンゼとシガツェの寺町を経由し、何度も高い峠を越して、たどりついてみると、小さな寒村があるだけだった。

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中通りかかったヤルンザンボ川

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途中の小さな村

 日本の鎌倉時代と同じころ、蒙古族元朝政府の庇護を受けたチベットの中心地がサキャで300年間も栄えていた大きな寺院群があった。

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標高5,000メートルの峠

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標高5,000メートルの峠に貝の化石が散乱していた。

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峠に咲いていた花

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峠に咲いていた野菊のような花

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途中の峠のラツイのそばを通りかかった婦人

 標高4,300メートルの荒涼とした大地の川沿いにある寒村が、ダライ・ラマ政府以前に栄えていたとは信じられなかった。ただ、700年前に建造された、大きな高い土の壁に囲まれたサャ寺だけか 当時をかすかに忍ばせた。サキャ寺の壁画は見応えがあり、本堂の直径1メートル以上もある巨木の柱には、さすがと感嘆させられた。

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サキャ全景

 村に続く山の斜面には多くの寺院かあったそうだが、文革中にすべて破壊されてしまい、今は土塊と化している。よく見ると、斜面すべてが寺院の跡である。内蒙古の西南端の町アラシャン近くのオーラン山中にあった巨大なパロン廟の廃墟と同じように、文革の嵐によって何も残っていない。多くの寺院を失ったサキヤは、単なる寒村でしかない。

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サキャ寺の一部

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残っているサキャ寺

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破壊されたサキャ寺の一部

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サキャ寺の入口

 栄枯盛衰は世の常であるが、かつて一国の中心地であったとはとうてい思えない現状に、多民族国家である中華人民共和国に所属させられたチベットの歴史の、皮肉な一面を見せつけているようでもあった。この旅は、中国大陸西域のラマ教地帯を走り抜けたのだが、最終の地で一つの宗教文化の衰退してゆく姿を象徴的に見せつけられたような気がした。

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サキャの女性

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サキャ郊外の牧民の女性たちと筆者

 10月2日の夜、ラサとサキャ往復1,000キロもの旅を終えてラサに戻ってきた。今回の西域縦断6,000キロの探検旅行は、サキャ往復を入れて7,000キロの旅となったが、予定はほぼ終了した。

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サキャ郊外の農耕地(麦畑)での羊たち
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サキャ近くのヤルンザンボ川ととれた川魚

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川を渡る皮船を運ぶチベット人

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ヤルンザンボ川の魚

 10月6日、探検隊のすべての予定を無事終了し、10月8日に開催される日中共催の第8回「北京かち歩き大会」に共催者として参加するため、北京へ急ぐ私だけ一足先に四川省成都へ向かってラサを飛び立った。

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サキャ近くの峠のラツイのそばに立つ筆者

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ラサから北京に飛んで、中華全国青年連合会と共催した「第8回北京かち歩き大会」

中央筆者

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中共催のかち歩き大会に参加した日本人たちと、ゴールの"明の十三陵"での記念写真

  最後までご覧いただき、ありがとうございました。コロナのせいでどこにも行けない状態なので、来週からは、今、国軍がクーデターを起こして注目されているミヤンマーの北部を、写真と簡単な記事で紹介します。関心のある方は是非続けてご覧ください。

内蒙古からチベット7000キロの旅㊵ チベットの葬式”鳥葬”

 人間は自然の一部であり、生を受けた者の肉体には必ず死かある。しかし、チベット仏教では魂は屍を去り、永遠にこの世に存在し続ける。型のある肉体は必ず滅びて輪廻の自然界に組みこまれるが、魂は滅びることなく、転生して生き続けるものとされている。その肉体か自然に戻る葬送の儀式は、いかなる民族にもある。世界にはいろいろな葬式がある。土葬、水葬、風葬、火葬、鳥葬、獣葬。これらの一次葬のあと二次葬や三次葬をする民族もいる。いずれにしても、人間の知恵がなせる自然回帰への最善の方法なのである。しかし中には、いつまでも人間たらしめようとするミイラ葬もある。

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ラサの街頭で売られていたヤク

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街頭でヤクの解体をする牧民たち

 チベットでは死者を弔う葬送の儀式として貴族や金持ちは火葬とし、庶民は鳥葬で、罪人は水葬とする風習がある。チベットの岩山には木が生えていないので火葬はまれ。鳥に食わせる鳥葬はチベット独特の葬法で、死者の肉体はすべてをハゲワシに喰わせて天に還す。チベットの人びとは遺体を焼いたり、切り刻んで鳥に喰わせたり、川に流して魚に喰わせたりするが、凍土で土が少ないこともあって肉体の腐る土葬はしない。

 鳥葬をみる機会がやっと訪れ、9月26日の早朝7時にホテルを車で発った。また夜明け前で、暗くて見通しがきかなかった。

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鳥葬の場所はこのセラ寺の裏山の反対側の麓にある。

 

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セラ寺裏の岩に描かれた摩崖仏

 場所はラサ北方の郊外にあるセラ寺から岩山を1つ越した山裾にある。私たちはセラ寺の南を横切る道を通って7時20分頃着いた。

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セラ寺の厠の漢字とチベット文字

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女を意味するチベット文字

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セラ寺の装飾された柱

 ラサに続く大きな谷が南に向かって開け、川原には草も樹も生えていない。斜面が西に向いている山裾なので陽が当たるのは遅い。そこの大きな岩の上が、屍を切り刻んで鳥に喰わせる“鳥葬”の場所である。  

 人が亡くなり22日間の祈りがあったのち、4日目の早朝、トムテンと呼ばれる身分の低い鳥葬係のラマが4人やってきて遺体をかつき出し、鳥葬の場へ運ぶ。

 私たちは、鳥葬台の岩から100メートルほど離れた川原の堤に車を止め、秘かにみた。7時半に夜が明けた。夜明け後まもなく、数人が遺体の布を取り去り、岩から下りた。

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遠くから見た死体解体場所

 7時35分、大きな岩の突端近くに、黄色の法衣のラマ僧2人、赤色の法衣のラマ僧2人が座り、白い煙を勢いよく舞い上げる香を焚いて、お祈りをはじめた。

 僧が手にしたデンデン太鼓がドン・ドン・ドンと鳴る。死んだ人の大腿骨で作るといわれている人骨笛がプープー、プププーと激しく吹かれ、チンチンチン、チンチンチンと澄んだ鐘の音がリズミカルに響く。周囲には煙が漂い、4人のラマ僧が、低いがよく響く声で、次々と経を読みつづける。

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より近くから見たか解体場所

 7時42分、上空に、チベット語で“コイ”と呼ばれるハゲワシが2羽、大きな羽根をひろげ、ゆったりと舞いはじめた。やがて3羽になり、4、5羽と多くなった。

 8時、ラマ僧の吹く笛や太鼓、鐘の音がいっそう大きく、万物の目覚めを促すように響く。岩の上で焚かれた香の煙はすでになく、上空にはハゲワシが8羽舞っている。

 8時11分、1人の男が、大きな石を持ち上げ、「ウォー」という大きな声を発して岩の上に叩きつけた。

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解体場所の大きな岩

 仏教に「引導を渡す」という言葉があるが、それは、菩薩が衆生の苦海にあるのを救い出して、常楽彼岸、すなわち涅槃に渡らせるための儀式として、最後の意を宣告して諦めさせることであるが、大声を発して頭蓋骨を砕いたのは、死者に引導を渡す行為であった。

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解体場所の岩の上、解体道具と穴は骨を砕く場所

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解体する岩の下の大地に投げ捨てられた衣類が散乱

 8時20分、「ティワー、ティワー、ティワー、ティワー」と、大きな叫び声が山の方にむかって発せられた。すると、この叫び声に呼び寄せられるように、20数羽が岩の近くに降りて来た。

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上から見下ろした解体場所

 8時30分、再び「ティワー、ティワー」と大きな声が発せられると、鳥たちは無言で、長さ2メートルもある長い翼をひろげ、ぴょんぴょん跳ねるように大地を歩き、岩のすぐ下にやってきて、投げられた肉片を奪い合って喰った。中には肉を嘴でくわえて引っ張りあう鳥もいる。

 「ティワー、ティワー、ティワー、ティワー」

 不思議な叫び声に呼びよせられるようにどんどん近づいてきた鳥たちに、肉が投げ与えられる。やがて1羽、2羽と岩の上に上がって肉を喰う。投げ与えられるたびに2、30羽の大きなハゲワシが、泣き声も立てず、大きな身体をぶっつけあうようにして、奪いあって喰う。まるで鶏が飼い主に餌を与えられているようである。

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解体場所を通るチベット人

 解体をはじめてから1時間もしないうちに、1つの屍はハゲワシたちの胃袋におさまった。そして鳥たちは、何ごともなかったかのように、大空高く舞い上がって行った。

 私たちは、近くで見ることは許されなかったが、鳥葬が終わって誰もいなくなってから現場に行き、大きな岩の上に上がって見た。

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解体場所の岩のそばに立つ筆者

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内蒙古からチベット7000キロの旅㊴ ラサのチョカン寺

 インド亜大陸ユーラシア大陸がぶつかって隆起したのがヒマラヤ山脈である。その北側にある世界一高いといわれるチベット高原のほほ中央に位置するのかラサ。チベット自冶区の面積は130万平方キロメートルもあり、日本の3倍以上もあるが、人口はわずか180万である。そのうちの約20万人がラサに住んでいる。ラサは近年急速に人口が増加したが、半数はチベット解放の名のもとに移住してきた漢民族である。

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ポタラ宮から見たラサの中心街とチョカン寺

 ラサは高原の町で、年間の日照時間が3千時間余もあることから「太陽の町」ともいわれる。チベット高原では最も肥沃な谷を流れるラサ川沿いにある。周囲は岩山で、一見盆地のようであるが、豊かな谷間で、チベット一の穀倉地帯でもある。ラサ川チベット語では「ギイチュ」と呼はれ、「幸せの川」という意味である。

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ラサ中心の広場に面したチョカン寺

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チョカン寺の入口

 チベットの山々は一般的に低く見えるが、いずれも標高が4,500メートル以上はあり、気温の低さと乾燥で、木が生えることなく岩肌をむきだしている。なにより山に木が生えていないので緑か少なく、ぬくもりがない。

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チョカン寺前の広場にある香塔と香を投げ入れる婦人

 しかしラサ谷の平地には、草も樹も生えており、人もたくさん住んでいる。高地の岩山のあいだに、信しられないような桃源郷、ラサがある。ラマ教徒にとっては、やはり神の鎮座する聖地である。

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チョカン寺に向かって礼拝する人々

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チョカン寺の入口で五体投地礼をする婦人たち

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全身を大地に投げ出すチベット特有の五体投地

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チョカン寺入口での礼拝

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チョカン寺入口の仏画

 9月22日、ラサの中心地、八角街のチョカン寺を訪れた。寺の敷地か八角形で それを取りまく道も八角形なので八角街と呼はれる。旧市街はこの八角街を中心に広がっている。

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チョカン寺の中の壁画

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観音菩薩の壁画

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チョカン寺中での若いラマ(僧)たち

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チョカン寺の中庭

 チョカン寺はラマ教黄帽派大本山で、巡礼者か絶えない。八角街の広場に面した入口の石畳は、いつも多くの信者か五体投地礼をするので、すり減って窪みができている。そこを通って中に入ると、庭の向こうに大きな本堂があった。その周囲の回廊には、マニロンと呼ばれる回転経が壁にいくつも嵌め込まれており、人びとが列をなして回しながら歩いている。大蔵経の経文が内蔵されているという回転経を一度回すと、何百回もお経を唱えたと同じご利益があるという。回転経のカラカラ回る音と口の中でぶつぶつ唱える声が入り混じって、ラマ教寺院ならではの雰囲気がある。

 本堂の中に入ると、薄暗い中に小さな灯明か無数に並んでいた。灯明の油は、ヤクの乳からつくる「マ」と呼はれるバターである。

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チョカン寺の屋根

 明り取りの窓から陽かさし、中央の大きな釈迦牟尼像か輝いて見える。人びとはその前に押しあって進み 灯明の皿にマを注ぎ足し、両手を合わせ額にあてて、「オン、マニ、ペメ、ホーン」と熱心に祈る。

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チョカン寺の金色に輝く屋根

 ラマ教徒はたいへん信心深い。といっても、他人のために祈るのではなく、己自身の功徳を積むために祈るのである。より多くの功徳を積めは死後に極楽へ行くことかでき、来世も再びに人間に生まれかわるか、さもないと獣や昆虫に生まれかわると信じているからである。巡礼者にとっては、チョカン寺を訪れることか功徳を積むことである。ましてや本尊にでも触れて祈ることかできたならば、功徳はまちがいなしである。

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チョカン寺本堂の屋根

 仏教とは悟りを開いた人の教えだといわれている。その仏教はこの世を苦界としている。現世の4つの苦しみとは、①必ず生まれかわる、②必ず年をとる、③必ず病にかかる、④必ず死ぬことである。人間は何世代も死んでは生まれかわる輪廻転生をくり返し、業を重ねてきたが、それから解脱するために巡礼をするのだともいわれている。輪廻転生から解脱して悟りを開いた人はもう転生することなく、自由になって極楽に住むことができると教えている。

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チョカン寺の屋上から見たポタラ宮

 祈ることによって救われるものなら、素直に祈った方がよい。信じよう。疑う心を釈迦牟尼にあずけて、文明の檻に閉じこもってきた不安を葬り、「オン、マニ、ペメ、ホーン」と唱える素直な心に光を与えよう。

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チョカン寺の中にある回転経(マニロン)

 長いあいだ堂内の仏の世界にいると、信じる人びとの霊魂のうずに巻き込まれた。一心に祈る姿は美しくもあり、力強くもあった。その表情には生命力の強さすら感じられた。

 宗教は人がつくり、神や仏は心の中にもあるのだが、大きなチョカン寺には神も仏もいる。科学的には知り得ない、不合理な世界であるが、自然と共に生きるには、科学に勝るとも劣らない力である。

内蒙古からチベット7000キロの旅㊳ 威風堂々のポタラ宮

ラサ郊外に入ると、急に自転車が多くなった。これまであまり見かけなかった車も目についた。自転車がたいへんな文明的な乗り物で、町に近づいた雰囲気があった。

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ラサに向かうバス

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ラサ近くの道から見える摩崖仏

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川面に映るポタラ宮

 「あっ!ポタラ宮だ!」

 おとぎの国の建物のような、遠くに見えるポタラ宮に思わず叫んだ。ラサの象徴であり顔でもあるポタラ宮が、楊樹や楊柳の並木越しに見えた。青空にそびえ立つポタラ宮は絵のように美しく、立派な建物である。近づけは近づくほど威風堂々としており、赤褐色と白色を中心とした建物は、上空に向かって飛び立つ鳳凰のようでもある。

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ポタラ宮

 ”ポタラ”とは、華厳経の中に観音菩薩が住む山として出てくる「補陀落」のことであり、そこに住むダライ・ラマを観音の化身と考えてつけられた名称だと言われている。ポタラ宮最初の建物は、チベット仏教によってチベットを最初に統一したソンツウエン王(紀元569頃~650年頃)が、7世紀に作ったとされているが、その後、内乱や災害によって一部を残して崩れ、大半が17世紀になってダライ・ラマ五世によって今日のような姿に再建されたものと言われている。

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ポタラ宮の入口

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池の水面に映るポタラ宮

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要塞として頑強に作られたポタラ宮

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要塞としてのポタラ宮

 自然の岩山の上に造営されたポタラ宮は、600とも1,000ともいわれる大小の部屋がある。これはチベット最大の建物で、13層からなり、高さ117メートルもある壮麗な城塞である。しかし現在の第14世ダライ・ラマは、1965年以来インドへ亡命中なので、ポタラ宮に王、主はいない。

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ラサ川にかかる橋

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経文を描いたターチヨを両側につるした橋

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ラサ川にかかる安全祈願のターチョをつるした橋

 ラサという地名は「神のいる所」という意味だが、もともとのチベット語では「サッサ」と呼ばれていたそうだ。”サッ」神、「サ」は所。所が漢民族の発音で「サッ」が「ラ」に変化し「ラサ」と呼ばれるようになり、いつの間にかチベット人たちもラサと呼ぶようになったのだそうだ。

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市内を流れるラサ川で洗濯するラサの人々

 内蒙古から約40日、6,000キロに及ぶ距離を、事故もなく、無事にラサにつくことができた。ポタラ宮の下に立って見上げると、威風堂々の建物に、さすがチベットの都ラサなのだと実感し、やっと着いたという安心感と解放感に、胸の熱くなる感動を覚えた。

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ラサの医学校と街を歩く若い女

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ラサの街を歩いていた子供を背負う婦人

 ラサについて、ますポタラ宮の大きさに驚かされたか、次には超近代的な拉薩飯店、すなわちラサ・ホテルにも驚かされた。富士山頂とほぼ同じ高さにある神秘的なラサに、こんな立派なホテルがあるとは思ってもいなかった。

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街頭で売られていた水屋(戸棚)

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家の窓辺に置かれた鉢植えの花

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街頭でお茶を沸かす男性

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ラサホテルのチベット人従業員と筆者

 ラサ・ホテルは1985年に建設されたアメリカ系のホテルで、すべてアメリカ式に経営され、英語が話されていた。宿泊可能人数は800人というから大きい。日本やアメリカの高級ホテルにも劣らない5階建ての白亜の殿堂が、広い敷地にゆったり建てられている。

 ラサ・ホテルに着いたのは9月21日の午後2時で、遅い昼食をした。    

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ポタラ宮の中での筆者



内蒙古からチベット7000キロの旅㊲ 神がいる谷、ラサへ

 昨夜は羊八鎮の軍の招待所に泊った。今朝は6時ごろからみぞれが降りはじめ、8時ごろから雪になった。またもや北から雪を連れてきたようである。

 いよいよ今日9月21日はラサにつく日だと意気込んでいたが、雪が激しく降るので、道沿いの漢族食堂でゆっくり朝食をした。なかなか降りやまず、午前10時になって雪の中を出発した。

 標高4,100メートルの羊八鎮から東に向かって谷底の道が急に下っていた。道沿いに流れる川も急流。両側にそびえる岩山は急斜面で、狭い谷の上の方は雪雲がかかって何も見えない。標高3,900メートルまで下ると、山麓にポツリ、ポツリと土の家がある。山麓のわずかな平地を耕して青裸麦(チンコウムギ)を栽培している半農半牧のチベット人の居住地域である。

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エンドウ豆と青裸麦を刈り上げるチベットの婦人

 1時間もして、標高3,850メートルまで下ると、木で作られた家のそばや川沿いに楊樹が生えていた。久しぶりに見る樹木である。やはり緑は安らぎの色だ。たいへん新鮮で、活気のある雰囲気を漂わせている。

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エンドウ豆刈り上げの共同作業をする村人の休息所

 谷は徐々に広くなり、農業地帯となった。道沿いの畑にはまだ黄金色の麦がある。なんとなく日本的な風景でもある。すでに雪から雨になっていたが、麦やエンドウ豆の収穫期なので、多くの人が畑で働いていた。農耕地が多くなると、家畜はヤクが少なくなり、牛が見られるようになった。

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チベット族の村の子供

 白い壁の家が多くなり、土の家の屋上には赤、青、白、黄、緑の五色の小さな布をつけた木の枝が何本も突き剌してある。その布は経文が印刷された魔除けなのである。チベットではこの布を「ターチョ」と呼んでいる。

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ターチョを立てたチベット族の家

 標高3,760メートルまで下ると、谷間はさらに広くなり、川の流れもゆるやかで、用水路か設けられていた。すでに雨は上がり、青空が見られた。

 道沿いでたき火をし、食事をしていた3人の青年がいた。車を止めで立ち寄ると、彼らはなんと、青海省の南部にある王樹の町を3ヵ月前に出発し、ヤク47頭を連れてここまで来たのであった。兄弟と寺の労務僧の3人で、ナクチューを経て、1日に15キロくらい進んだというから、1,300キロ余りも歩いたことになる。

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青海省からヤクを連れてきた兄弟

 「今日中にはラサにつくよ」

 彼らは嬉しげに笑った。彼らによると、王樹ではヤク1頭が3、400元でしか売れないがラサでは1,000~1,500元で売れるそうである。

 3,700メートルまで下ると、晴れ間が多くなり、空気が暖かく感じられ、まるで標高1,000メートルくらいにしか感じられない。それでもまだ富士山とほぼ同じ高さである。

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ラサに向う道を行くロバ車

 川の水は灰緑色で、白い波しぶきを立てて流れている。この川はやがてラサ川に合流し、そしてヤルツァンボ河に合流し、ヒマラヤ山脈の東端を回ってインドのアッサムを流れるブラマプトラ川となって、はるか遠くのインド洋に流れ出ている。

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ラサ近くの道沿いで休息するヤクや牛を追う牧童

 空か明るくなり、道沿いには農耕地が続き、楊樹が多く、これまでとは異なった緑の谷になった。チベットの農作物は、青裸麦、エンドウ豆 天豆、菜種、しやかいもなどで、いずれも今が収穫期である。

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ラサ近くの農民夫妻

 チベット人の多くは、山麓や高原の草をはむヤクや羊なとの家畜とともに生活する牧畜民であると同時に、平地を利用して麦やじゃがいもを栽培する農耕民でもある。ラサに近づくと完全な農業地帯で、富士山より高い高地とは思えない豊かな表情を見せていた。

内蒙古からチベット7000キロの旅㊱ ナクチューから羊八鎮へ

 ナクチューを出発するとすぐに、漢名で“怒江”と呼ばれるナクチュー川があった。この川ははるか南のミャンマービルマ)のモルメンまで続くサルウィン川の上流である。

 道は西南の方向へ続いていた。高い山のない大地は、全体的になだらかな平原である。北チベット高原は、標高4,400メートルくらいで、ゆるやかな起伏のある平原になっており、ところどころに小さな湖がある。樹一本生えていないが、草は生えている。

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ヤクを追っていたチベット族の青年

 ナクチューから60キロくらい走ると、道の左右に冠雪した山々があった。大地から7、800メートルの高さだが、標高は5,000メートルを越している。車が走っていると、西の山麓から霰のような雪が勢いよく降ってくるのか見えた。雨と同じように、天と地のあいだを無数の白糸で結んで、灰白色の布をたらしたような光景は、凄まじく、どんどん近づいてくる。運転手の張さんが、それを意識して、負けてはならじと、アクセルを踏みこみ、逃げるように車を走らせた。

 道から5、6キロ離れた両側に山が続いているが、その間に広がる平原には羊やヤク、馬などの家畜か多い。ところどころに牧民のテントが張られているが、住んでいる人は少ない。

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チベット族の家畜の放牧地

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標高4,400メートルの高地に住むチベット人

 ヤクの毛は黒いせいか、平原の中でよく目立つ。何千頭ものヤクかいると、大地が黒くなる。これはすべて家畜化されたヤクであるが、数百年も昔には、このへんには野生のヤクがたくさんいたという。それにしてもこれだけの数のヤクを、これまでには見たことがない。いつ道に飛び出してくるやもしれない不安が、しばらくの間続いた。

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ヤクを放牧するチベットの村

 サチューと呼ばれる川にかかる橋のたもとで、チベット人の村を訪れようとした。すると、子どもたちが、ウルトと呼はれるチベット特有の石投げ綱で遠くから石を投げ、卵大の石がブーンと鳴って近くに飛んできた。何か叫びながら石を投げるので、通訳のヤガレイさんにたずねた。

 「お前たち漢人は悪人だ!帰れ……」

 子どもたちは口ぐちにそう叫びながら、上手にウルトを回して石を投げつけてきた。

「俺は青海チベット人だ。漢人ではない」

 ヤガレイさんか大きな声で叫び返した。そして、私たちが日本人であることも伝えた。子ともたちは石を投げることをやめ、黒テントや土の家に入った。私たちは村に入って撮影したが、数軒あったどの家の中にも入ることはできなかった。無言の拒否にとまどいを感じた。解放という名のもとに漢民族が侵入したことによって、何かの被害を受け、敵対心が強く残っているのかもしれない。北京政府からすると解放なのかもしれないが、チベットの人びとからすると侵略のほか何ものでもないのである。それは、漢民族には理解し難い、チベット人の心の傷跡として、今も尾をひいている。そのことが、子ども心に石を投げる抵抗として、私たち外者(よそもの)にも向けられたのだろう。

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ヤクの放牧地にいたカラス

 ラツイのある峠から二キロほど下ると平原となり、道端に四角い台座に7,8メートルも高い円錐形の大きなチョルテン(仏塔)が八個並んでいた。近くに村は見えないが、この辺の牧民たちの聖地になっているようだ。さらに下ると、はるか遠くの両側に山のある平原かつづく。西側の山は高く険しく、冠雪しているが、東側の山はゆるやかで丸味があり、やや低い。道沿いの平原には家畜が多く黒テントもたくさん張ってあった。

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標高4,400メートルの高地にあるチョルテン

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八個並んだチョルテン

 午後7時ごろ、当雄(とうゆう)についた。標高4,130メートルで、解放軍という名の立派な宿舎があったが、さらに進むことにした。平原の中央を流れていた川が、当雄の下流で平原がなくなって狭い谷間を流れていた。北チベットの平原は、当雄か南端である。それから南は山か多く谷間の道を走り、羊八鎮(ヤンパーチン)に着いたのは9時すぎていた。

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経文の”オン、マニ、ペメ、ホン”と表記された石

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小型の仏塔

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内蒙古からチベット7000キロの旅㉟ アムドーからナクチューへ

 タンラの峠を越すとチベットに入り、道は徐々に下っていたが、周囲は灰褐色の荒涼とした大地で、寒々としている。やはり標高4,000メートル以上は、人間にとって好ましい自然環境ではない。月の表面のような、緑のない世界を眺めるのは、もう飽きて、何の感動もない。

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白く凍結している高原の川

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標高4,400メートルのナクチュー川

 峠から一気に下り、標高4,400メートルの町、アムドーに着いたのは午後4時を少し回っていた。また昼食をとっていなかったので、道沿いの小さな漢族食堂に入った。が、疲労と高地のせいで食欲はなかった。

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アムドーの街

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アムドーの自由市場

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アムドーのチベット婦人

 食事後、自由市場の立つ街頭を撮影していると、急に風が吹き、小豆大から小指くらいの雹が降ってきた。安物の衣類や雑貨、ズックくつ、野菜などを売っている市場の人びとはたいして慌てることなく露店をたたみ、軒下に入った。

 今夜は、ナクチュー川沿いのこの町に泊る予定であったが、中国側の要望で135キロ南の町、ナクチューまで行くことになった。出発前に用足しをと、便所をさがしたがなかった。空地でするのも気がひけるので橋の下へ行った。何のことはない、橋の下が大きい方の場所で、その跡が一面に残っていた。この町のふつうの家には便所がないのである。

 午後6時近くになってアムドーを出発した。しはらくアムドー平原を走った。羊、ヤク 馬などがいたが、なんといってもヤクか最も多かった。チベットではヤクが最も重要な家畜で、荷を運んだり耕作するほかに、乳や肉は食用となり、毛は糸に縒ってテントやじゅうたんに織られ、骨は道具、糞は燃利に用いられるので、日常生活と切り離すことはできない。

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ヤクや羊の放牧

 やがて太陽が落ち、暮れなずむ大地に羊やヤクなどの家畜を追って家路につく牧民の姿が見られた。暗くなって、外か見えなくなると、急に疲労と寒さに襲われた。昨日から歩いての山越えはきつく、全身の力が抜け落ちてゆくように感じられ、いつしか寝こんでしまった。

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ナクチューの町

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ナクチュー

 午後9時半、北チベットで一番大きな町、ナクチューについた。人口3万人の町は大都会である。まだ開いていた食堂で夕食をし、ナクチュー招待所に泊った。

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ナクチューの招待所

 中国大陸の奥地を1ヵ月以上も旅しているが、大きな町には、外見の立派な招待所や賓館がある。しかし、中身がよくなかった。いくら見かけを良くしても、施設を管理する人の能力や資質か悪ければ、十分な機能を発揮させることはできない。このナクチュー招待所も大きくて立派なのだが、お湯どころか水も出なかった。熱い風呂の期待もむなしく 疲労と寒さに、膝小僧を抱いてわびしく寝入った。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉞ 魔の峠に向かって登る

 翌9月18日朝、山々は白く、一夜で雪化粧となった。11時ごろ、標高4,800メートルのテーラマズの村についた。ここから標高5,321メートルもある、タンラ(チベット語のラは峠の意味)と呼がれる峠を、西川さんと同じように歩いて越すのである。

 私は、アフリカのキリマンジャロを登頂したことがあり、ヒマラヤ南麓の標高4,500メートルに住むシェセルパー族を踏査したこともあり、日本山岳会の会員でもあるので、比較的高地には耐えられるが、普通の日本人にとっては大変厳しい高さだ。

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テーラマズの村

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テーラマズの羊飼い

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羊を追う牧童

 タンラの峠は、昔から、蒙古や青海地方からチベットのラサへ向かう、巡礼者や隊商にとってたいへん危険な高所で、「魔の峠」として恐れられていた。通行人の多くが高山病で死んだといわれている。私はこれまで高地に順応させてきた身体で、西川さんと同じようにヤクを追って、その峠に歩いて登るのである。

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旧式の鉄砲を持つ牧童

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鉄砲を構えて見せる牧童

 ヤク20頭に必要な荷物をつけ、正午に出発した。同行者はアルーさん(42歳)とノスンさん(35歳)夫婦に子ども2人。それに協力者としてソノンタチ君(18歳)とケフシャン君(18歳)である。出発の時だけ撮影し、日本人は誰も同行しない。

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雪原につながれたヤク

 現地生まれの彼らは、高地の山坂をヤクを追って歩くのが早い。ついて行くのがやっとである。アルーさんの長男のツェンリンキ君(7歳)は ヤクの鼻緒についた綱を手に 急な坂道を登る。長女のポルボンツモちゃん(5歳)は、母親に手をひかれて登る。

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雪に埋もれたヤクの死骸

 木の生えていない山肌にこけのような草か生えているが、昨夕の雪が溶けて、大地はやわらかく、ぬかるみのようなところもある。すべりやすく、足をすくわれて歩きにくい。道などない山肌を滑りながら歩く。

 午後2時から10分間、小さな尾根で休む。吐く息が白く、5分も休むと寒くなった。休んでいると寒くなるので、足もとを選びなから歩く。彼らは足もとなど気にすることなく、前を見てとんとん歩く。標高4,900メートルの山坂を登っているのに、平地を歩いていると同じようである。上がるに従って雪がひどくなり、前がよく見えない。道のない山肌を、ヤクを追う彼らに従ってただ歩くだけ。

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ヤクの乾いた糞を燃やすテントの中のアルーさん

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テントの中でのアルーさん一家

 午後5時、標高5,000メートルの谷川近くについた。ヤクの背に乗せて運んだコルトと呼ばれる、白い布の簡易テントは、4人で20分もしないうちに張り終わった。テントの中ではノスンさんが、チュマと呼ばれるヤクの乾いた糞をふいごを使って燃やし、やかんを五徳にかけて湯を沸かした。テントの中は急に暖かくなり、ぬれた衣服やズック靴から湯気か立った。外は冷気に身か凍る。 

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標高5,000メートルに張られたテント

 テントの中てお茶を飲む。チョーと呼はれるチベットパンとノルヒヤーという羊肉の水煮の冷たいものをナイフで切って食へる。1番ありがたいのは熱いお茶。寒さと疲労と高山病の一種である頭痛に悩まされつつ 笑顔で彼らを見る。言葉はよく通じないが、共通のことをしているので、ただ笑って見合うだけで通じあえる。

 近くに張った自分のテントに入って、7時すぎに横になった。しかし疲労と寒さと頭痛で寝つかれず、寝袋の中てじっとしていた。やがて稲光があり、雪か降り、風か強く、テントがゆれた。夜中には零下15度になった。

 9月19日の朝9時すぎにアルーさんのところに行くと、テントの前に白い物かいくつもあった。よく見ると 昨夕遅く、1本のロープにつながれたヤクたちであった。夜通しの雪で、大地に伏したまま雪に埋まったのである。

 お茶とパンの朝食後、ヤクの背に荷物を載せて出発した。霰(あられ)のような雪が顔に降りかかる。風もやや強い。昨日の疲れがまだ残っており、足や腰の筋肉か痛む。

 今朝、アルーさんが冬用の重いチベット服を貸してくれた。表は布で、裏は羊毛がついた服は暖かいが、付着した雪か溶け、布か水をすっていっそう重くなった。

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標高5,321メートルにあるタンラ(峠)のラツイ

 1時間もすると足腰が痛み、頭痛や息切れがする。撮影用のスタッフは、誰もついていない。日本人は私だけ。何度も辞めようと思った。しかし、より高い峠にむかって、重い荷を背負って登りつづけるような苦しみが、「同行2人」の母への弔いになるような思いにかられ、吹雪の中を登りつづけた。そして標高5,321メートルの峠にあるラツィ(オボ)を雪の中に見た。凍傷になるような痛みを顔に感じつつ、最後の力をふり絞り、息を弾ませなから、母に追いすがる子どものように足を早め、やっとのことで峠に立つことができた。

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タンラのラツイ

 「やった!万歳!」

思わず両手を上げて、万歳を叫んでいるうちに、胸が熱くなり、涙があふれた。蒙古からチベットヘの旅で、西川さん同様に最難関の峠を自分の足で突破することができた実感がこみあげ、アルーさんたちの手を握った。

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このラツイを右回りに三周した

 石を高く積み上げたラツイを、アルーさんたちと3回右に回って、無事に到着できたお礼と安全祈願をした。そしてラツイに菓子と即席ラーメンを供え、新盆に帰らなかった罪ほろぼしのような気持ちで、母への供養をした。

 案内してくれたアルーさんたちは、ここからテーラマズ村へ引き返したが、私は迎えに来た車で、タンラの峠からさらに南へ向った。タン峠を越すと、もうチベット自治区であった。

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タンラ峠に無事たどり着いた直後の筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅㉝ 死の川でヤクを追って

 翌16日の朝、雪山賓館を出て、リチューと呼ばれる川沿いの道路工事事務所についたのは、午前11時すぎだった。

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標高4,500メートルにあった雪山賓館 中はベッドがあるだけ

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雪山賓館があった陀陀河近くの村

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村の中を走るラサへの道

 蒙古高原やチベット、青海高原では、川で泳ぐ者はいない。水の冷たい川に入ることは死を意味するのである。標高4,400メートルの高地にあるリチューの自然状況は、正午の気温摂氏14度、水温摂氏8度、風速10メートル、水の流れ秒速1メートル、川幅約50メートル、水深1メートル、水の色は灰緑色、上空には雲が多い。温かみのない寒々とした荒野。

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リチュー川沿いの道路工事事務所とヤクの隊商

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私が追いかけたヤクの隊商が遠くからやってくる

 私は、撮影のため、このリチュー川で西川さんがヤクを追って泳いだ追体験として、同じように水泳パンツ一枚になってヤクを追って泳いだ。2分も水中にいられなかった。とにかく水が凍りつくように冷たかった。水から出て間もなく、空気も冷たいので全身か硬直しはじめ、筋肉が棒のようになり、歯がカチカチ鳴って震えた。こんな経験は初めてだし、どうすれば良いのかわからない。身体が段々硬直して関節が自由に動かせない。まるでロボットのような動きになって、徐々に感覚がなくなったが、スタッフは撮影で私の側には誰もいない。とにかく身体を温めなければと思い、硬直した体をロボットのように動かして、やっとのこと、近くに駐車していた車の中に入ることができた。

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荷物を背にしたヤクと隊商のチベット人

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隊商のリーダー格のチベット人

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私が追いかけて川に入った隊商のヤクたちの休息

 暖房を強くした車の中で手足を動かしているうちに、筋肉のひきつりは10分ほどで徐々に冶って、衣服に包まれてしはらくすると暖かくなってきた。スタッフは私のこのような死にかけた状態をだれも気付いていなかったし、説明もしなかった。やはり、衣服はありかたい。何より車の中での暖房がなければ、私は死んでいただろう。

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ヤクを追って冷たい水に入ったリチュー川

 その夜は雁石坪(がんせきへい)の招待所で1泊し、標高4600メートルの温泉についたのは、17日の午後1時を回っていた。温泉とはすばらしい地名だが、木一本生えていない荒涼とした大地に、軍の施設があるだけ。雪が舞い、外では寒くてどうにもならず 軍の食堂に入れてもらってラーメンの昼食。温泉などないのに、漢字の名称”温泉”とはけしからん地名だ。

 私たちは、温泉から少し下った旧唐古拉山兵舎(たんぐらさん)に一泊した。夕方から雪が降り、山は真っ白になった。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅 ㉜高山病になる

 9月15日、北麓川沿いを午前10時半に出発してタンブリウラ山脈を上った。岩が赤く、全体が赤っぽい山である。谷間には清流があり、真水だった。川沿いにチベット式の黒テントが8張りあった。

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タンブリウラ山脈の中の道を南に向かう

 標高4,700メートルの地点で車を止めて撮影していると、風邪気味で、体調が悪かった運転手の張さんが、運転席で突然体を震わせ、顔色が青くなった。軽い高山病だろうということで、何度も深呼吸させたら、少しおさまったが、数分もしないうちに、今度はせきこむように泣いた。連絡官の欒女史や通訳の池上さんたちが、指圧やマッサージーをした。約1時間くらいで落ち着き、中国製のポットから熱いお茶を注いで飲み、ゆっくりと進みはじめた。

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風火山の峠の標識と名称碑

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標高5,000メートル以上の高地におけるヤクの群れ

 さらに山道を登ると、「風火山口、海抜5,010メートル」の標識があった。漢語の山口とは峠の意味である。この峠をチベット語で「ラツーラ(角峠)」と呼ぶ。青蔵公路が開通する以前には、このへんにたくさんの野生ヤクがいたからである。今は1頭もいないが、この峠よりもさらに300メートルも高い斜面に、羊の群がいた。羊は5,300メートルの高さまでは棲息することができるそうだ。残念なことに、私はすでに軽い高山病で、頭痛はするし、鼻腔はカサカサ、唇はひりひり痛み、気分がよくない。それに注意力が散漫で、ややいらだちが感じられる。1分でも早く、もっと低地に下りたいのだが……。

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標高5,000メートルの羊とヤクの群れ

 峠を下って平地になった。といっても、まだ4,500メートルもある。しかし、わずか500メートル下っただけで、少し楽になった。

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標高4,500メートルでの羊の群れ

 周囲に見えるのは緑色のない大地と岩山ばかり。そんな時、張さんが元気になったのか、運転しながらカセットテープをセットし、日本の歌を流した。先ほどのお礼のつもりなのか、お互いに親しくなったのか、初めてのことだった。

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標高4,500メートルの岩山

 “だれかさんが、だれかさんが、だれかさんが見つけた。小さい秋、小さい秋、小さい秋見つけた。目隠し鬼さん、手のなる方へ、すましたお耳にかすかにしみた。呼んでる口笛もずの声、小さい秋、小さい秋、小さい秋見つけた”

 めくりくる日本の自然を、今さらのように感じつつ、『小さい秋見つけた』を口ずさみながら、まるで乳呑み児が母乳を飲むように聞きいり、日本の秋が走馬燈のように脳裏を駆けた。次には『浜千鳥』が流れた。

 “青い月夜の浜辺には 親を探して泣く鳥か 波の国から生まれでる、濡れた翼の銀の色”

 幼い頃によく遊んだ故郷の浜へ引き戻された。波打ちぎわには母がいた。その母は、一言の挨拶もなく、何も告げず、まったく突然に、浜千鳥のように飛び立って冥土へ行ってしまった。すでに渡し賃六文払って三途の川を渡り、今頃はどこまで行っているのだろう。

 まるで賽の河原のような荒野で聴く童謡や叙情歌は、睡眠不足と疲労のせいか、また高山病のせいか、やけに感傷的な気分にさせられ、熱い思いが鼻先に突き上がり、無味乾燥の高地かうるんで見えた。

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陀陀河大橋の標識

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長江源流第一の橋(陀陀河大橋)

 遅い昼食をとり、木1本としてない大地を走り続けた。暫く走り、陀陀河(トトホ)についた。1976年に、揚子江(長江)の源流であると分かったこの河に橋があった。この橋の袂に「長江源流第一橋」と記されていた。揚子江は、この近くのククシリ山を源流として、東にむかって流れ、東シナ海まで6,300キロの旅を続けている。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅㉛ 赤い川と塩湖

 9月14日の朝、不凍泉を出ると、道は南西へむかった。やがてチュマル平原に出た。北には崑崙山脈が東西に続き、南には崑崙山脈の支脈であるククシリ山脈がある。道沿いには、チルーが草をはみ、小さな穴から草ねずみか顔を出している。このねずみを狙うチョウゲンボーか電柱に止まっている。

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高原に棲む草ネズミ

 このあたりは野生の口バの棲息地だそうだが、遠くにそれらしき姿を見かけただけだった。南北を白い連山にはさまれたチュマル平原は広い。わずかだが草も生えているし、水もあり、無人地帯であり、いろいろな動物か棲む。かつては野生動物の天国であったそうだが、青蔵公路の開通によって、軍隊と商人たちが、ここの野生動物を狩りつくし、一時は絶滅しかけるほどであったという。

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遠くに見える冠雪の山はククシリ山脈

 午後1時ごろ、チュマル川という赤い水の流れる川について、パンとインスタントラーメンの昼食をした。チュマル川の赤い水を口にふくんでみた。泥くさいか真水である。しかし血のように赤いので、あまり気持ちのよいものではない。チベット語で「チュ」は水、「マル」は赤色のことである。

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チュマル川

 ククシリ山脈を源流とするチュマル川は西からやや北東へ流れている。川の上流には丘のような山があるたけたが、下流の方には真っ白い崑崙山脈が見える。赤い水か白い連山に続いている光景は、美しいというより、不思議な自然現象で、驚かされる。

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チュマル平原と崑崙山脈

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赤い水が流れるチュマル川

 チュマル平原の名はこの川に由来しているのだか、川は平原を過ぎて東へと流れ、やがて通天河に流れこむ。そして、長江(揚子江)となって中国大陸を横断し、ついに東シナ海に流れ出る。しかし、ここから海までは、なんと6,300キロメートルもの長旅である。

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チュマル平原の川

 ククシリ山脈の中に五道梁という村があった。この辺は、冬期には強い吹雪になり、よく人が遭難するそうで、たいへん厳しい自然環境だそうである。

 ククシリ山脈を越すと、ククシリ平原に出た。ククシリというチベット語は「緑の平原」の意味。ククシリ平原には赤い土と砂丘があり、水の赤い小川も流れている。チュマル川の水の色は、この平原の赤土か流れ出たものだろう。この平原の南にはタンブリウラ山脈がある。

 9月14日の午後4時すぎ、南のタンブリウラ山脈を越さずに、北蔵河沿いの水のきれいな湖畔にテントを張った。周囲に樹は1本も生えていないが、草は生えている。

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丘の盛り土の上に立つタルバガン

 テントから100メートルほど離れた丘の上に、ヒマラヤマーモットともいわれるダルバガンの巣穴があった。盛り土をして、直径40センチほどの穴を斜めに掘っている。タルバガンとは蒙古語で、げっ歯目リス科の動物である。体長は25~35センチで太く、四肢は小さく、毛は淡褐色。タルバガンはときどき土の上に後足で立つ。そして短い前足を手のように胸において周囲をみながら、肩をいからせてギョギョと鳴く。タヌキぐらいの体を背伸びし、頭を上下させなからギョギョギョと鳴くこともある。その仕草が滑稽で、しはらく観察した。大自然に生きる動物にしては警戒心か強く、50メートル以上近づくと、穴の中に入ってしまう。

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ククシリ平原を南に向かう道

 午後5時ころから夕食の準備にかかった。ところが米をといでいる時に気づいたのだが、この湖の水か塩水であった。炊事用の真水を探したが、このへんの水はすへて塩水であった。なんと車で1時間半も要してククシノリ山中まで行き、やっと真水を求めることかできた。こんな内陸の、しかも標高4,400メートルもある高地の水か塩水であるというのには驚かされた。この青蔵高原は、はるかなる太古に海底か隆起してできたといわれている。その証拠がこうした塩水湖だともいえるのである。

 この標高4,400メートルの高地が、かつて海底であったとは、なんとも不思議な地球の歴史を感じる。