新制中国の望郷編㉓ 越系民族の懸崖墓地
崖墓の発祥地は、3000年ほど前の福建省武夷山であるが、そこから120キロほど西の江西省龍虎山には、2400~2500年前の春秋戦国時代の崖墓が沢山あると言うので、1991年8月に江西省都の南昌から訪ねることにした。
南昌から約200キロ東南に鷹潭市がある。そこから更に30キロほど南に走ると、龍虎山があり、武夷山脈西麓から流れる白塔川に出る。南東から北西にゆったり流れる、幅100メートル程もある白塔川の上清渓は、両側に高さ6、70メートルもの岩山が林立し、川面を航行する船からの眺めは、一幅の画を見るような景観。
私は、舟をチャーターして、通訳の張さんと2人で撮影しながらゆっくり見物した。
岩山は疑灰岩で浸食されやすく、川沿いに絶壁が続いている。川に面した左岸の絶壁には多くの洞穴や棚がある。朝日の当たる東から東南に面した絶壁には棺が安置されているのだが、下からはよく見えない。
長さ3キロくらいにわたる絶壁は、下ほど浸食が激しく、オーバーハングしているので、下から崖墓に上るのは容易ではない。高いものでは川面から45メートル、低いものでも9メートルもあるので、十分な調査ができていない。そのため、どのくらいの数の崖墓があるかは未だ判明していない。
下から上がることも、上から降りることも容易ではないのに、長さ3、94メートル、高さ1、22メートルもあるような、大きな屋根型木棺をどのようにして運び上げたのだろう。しかも、ロッカーのようになって無数にある。
ここの崖墓群の一部が初めて調査されたのは、1976年のことで、足場を組み上げて棺や副葬品を運び出したそうだ。なんでも副葬品などは盗難されていなかったという。
江南地方には、漢や唐時代に北の河南省の辺りから漢民族系の人々が移住し、先住民の越系民族を追い出したとされているので、こうした崖墓は越系民族のものである。
古代の越族や後の閩越の人々が、死者を人が近づけない縣崖に葬ったのは、祖霊を天の神への使者にしたことや、太陽に少しでも近づいて、より早く朝日を迎え、”御来光”に接するためだと言われている。
有力な権力者ほど高い洞穴に葬られたというが、機械力の貧しい当時、どのようにして、どのくらいの人数が携わったのだろう。ここの崖墓は、数は多いが、数百年以上もの間のことなので、有力者のみのものだろう。それでは、一般人はどのように葬られたのかは知る由もない。
現在、この崖墓群の中に村があるのだが、村人たちは数百年前に福建省の方から移住してきた人々で、崖墓については何も知らなかったし、関心も示さなかった。
中国大陸の西や北から東南部の江南地方に侵入してきた漢民族は、先住民族の歴史を明らかにすることには関心が薄く、今も放置しがちになっている。2600年近くも眠り続けているこの崖墓も、いまだに全容は解明されていない。
2022年4月12日追記