新制中国の望郷編⑯ 舟山群島 舟山の古代稲作遺跡
私は、1993年1月3日の午後3時、普陀山から舟山の定海に渡った。宿泊先の華僑飯店では、以前にも会っている博物館長の陳金氏(57歳)、民話研究者の方長生氏(64歳)、それに舟山市文連秘書長の応光照氏(52歳)の3人が待っていた。
通訳は、私と共に旅をしている姜娜女史と石建新氏(35歳)の2人。地方弁の通訳石氏は、私の知人で聖徳太子の研究家であり、日本古代の文献学に詳しい、杭州大学の王勇教授の教え子だった。
中国では、1964~65年にかけて全土で歴史調査がなされた。その時、舟山では三方を緩い丘のような山に囲まれた水田地帯で、“白線十字路稲作文化遺跡”と名付けられた文化遺跡が発見された。
そこでは、たくさんの陶器片や石斧、石鍬などが発掘されたが、あまり重要視されず、排水溝以外の所は埋め戻され、もとの水田と化していた。その後、ここで発掘された陶片から炭化籾が発見され、炭素14で調べると、約5000年前の籾と判定された。
舟山では5000年前に稲が栽培されていたことが判明し、浙江省の多くの学者や研究者が注目するようになった。そして、次々に稲作文化遺跡が発見された。
白泉鎮のやや西の海岸の馬香にある“唐家墩文化遺跡”が4000年前、石礁の“河𫋠墩文化遺跡”も4000年前、白泉鎮の少し南にある“苦竹嶺文化遺跡”が3000年前。そして、北隣の岱山でも3~4千年前の遺跡が発見されていた。
日本列島に近い東シナ海の舟山群島では4~5000年前には水稲が栽培されていたことが判明した。舟山群島から九州西岸へは帆船では一昼夜で到達することが、戦時中日本人によって証明されている。
私は、応氏の案内で現場の水田地帯を歩いた。そして、排水溝の断面に遺跡の地層が露出しているのを発見した。小さな金具で10個以上の陶片を掘り取った。その一つの陶片に穴があり、米粒のようなものが中に入っていた。
「まちがいなく壺に米が付着していたものでしょう」
応氏はあっさりと言い放って、日本でなら大ニュースになる出土品をごくあっさり見捨ててしまったので、何ともったいないことかと文句を言った。
「馬香の唐家墩遺跡はもっとたくさんの陶片があります」
応氏は笑いながら言った。その彼が、白線鎮で昼食した後、馬香に案内してくれた。
海岸との間に長く土手を築いている。その近辺に多くの具や土器片が散在している。レンガ焼用の粘土をとるために表土を取り除いている所には、無数と表現してもよいほどの黒褐色や褐色、灰褐色などの陶器のかけらが散在している。これらは歴史的に価値のあるものだが、まるで石ころと同じだ。
「中国には4~5千年前の遺跡がいっぱいありますが、保存する費用がないのです」
彼は冷ややかに言った。
応氏や方氏は、たくさんの土器片を拾い集めた。私も大きくてよいものを10個ほど拾った。5000年も4000年も前の稲作文化遺跡が、こんな風に野ざらしになっていることは、歴史的、学問的にも良いことではない。
日本では各地にいろいろな遺跡が発掘され稲作の歴史がどんどん古くなっている。はっきりしたことは言えないが、舟山群島から人々が稲(籾)を携えて日本列島へ渡った歴史が、5000年前までは不思議ではなくなった。そんな思いに駆られながらホテルに戻った。
2022年4月2日追記