新制中国の望郷編⑮ 舟山群島 観音菩薩の普陀山
徐福の島岱山から普陀山を訪れた。元旦を観音菩薩の霊場、普陀山で迎えたかったので、12月31日の夕方着いた。ホテルは1991年春に完成した普陀山で一番良い”普陀山息来小荘“。3年前の5月にも来訪しているので、今回は2度目。
普陀山は、日本の留学僧慧鍔によって、紀元916年に開山された観音菩薩信仰の本山である。
平安時代の留学僧慧鍔は、山西省の五台山から観音像を招来して、紀元916年に浙江省東端の寧波から船で帰国の途についた。しかし、普陀山の沖合で嵐に遭遇し、漂流している間、慧鍔は菩薩像に向かって一心に祈った。
「もしも我が国の民衆が菩薩像に拝顔する縁がないとすれば、観音様が指示された所に寺を建てさせていただきます」
慧鍔は観音様に約束した。そして、舟は難破することなく普陀山の潮音洞の下に漂着した。そこには張という人が住んでいた。張は、慧鍔が抱いて嵐の海から上がってきた観音像を見て、大変不思議な感慨に打たれ、自分の家に慧鍔を招き入れ、観音像を安置させた。
その後、人々はその家を「不肯去観音院」と呼ぶようになり、観音菩薩信仰の霊場となった。
観音は観世音菩薩の略で、衆生の救いを求める声を聞くと直ちに救済することを意味している。別名救世菩薩とも呼ばれ、大変柔和な表情をしているので女性的である。
“観音様は女性”。救いを求める人にとってはそう思える相である。一説によると、慧鍔は、当時の皇后に女性の仏像を持ち帰るように依頼されていたとも言われている。
1993年1月1日、私は朝4時に起き、百歩浜の師石に座って、東海から昇る赤い初日を迎えた。海の水平線から静かに上るやわらかな表情の太陽は、温もりと希望と安らぎが満ちていた。
普陀山は、観音菩薩の住処といわれる南インドの甫陀落山の名をとって、補陀山と呼ばれるようになったが、時の流れと共に“普陀山”の地名になったとされている。
日本には仏教伝来とともに入り、極めて多くの観音像が作られ、やがて渡海思想が生まれた。平安末期に熊野信仰と結びついた補陀落渡海は、観音浄土に往生しようとする熱烈な信仰者が、熊野灘や足摺岬のようなところで、海に身を投じたものである。信者の中には、普陀山に来て死ぬ者さえいた。そのため「命を捨てる者は観音菩薩を冒瀆する」とした、自殺禁止の大きな碑が建てられている。
1月2日、午前の早いうちに標高280メートルの佛頂山に登った。頂上から東方の彼方に東福山らしい島を見た。訪問許可をお願いしたが、東福山だけは軍の基地があって外国人の立ち入りが禁止になっていた。
普陀山の住人は5000人だが、年間100万人もの訪問者がある。中国各地からの信者の他に、台湾、香港、フィリピン、シンガポール、インドネシアそして日本やタイからの信者も多い。そんなこともあって、舟山群島の中で普陀山だけは、早くから外国人の立ち入りが許可されていた。
2022年4月1日追記