新制中国の望郷編⑭ 舟山群島 徐福の岱山
上海―舟山の定期便は、途中泗礁山と衛山に寄港するが、岱山には寄らない。私は、1992年12月30日、泗礁から舟山の定海まで約130キロの船旅をした。低気圧が通過した後で、快晴で風もなく、海は静かだった。
唐時代の遣唐使船は、この舟山群島を南下して寧波に向かっている。昔の人は、九州南端からの航海で、海の色が青から黄土色に変わると、舟山群島に着いたことを知ってホッとしたと言う。
午後1時に定海に着いた。迎えに来た車で北の西碼に向かい、すぐに岱山の高寧鎮行のフェリーに車ごと乗り込んだ。約40分で着いた埠頭で案内人の胡徳氏(43歳)が迎えてくれた。
岱山本島の人口は約12万で、中心地の高寧鎮の町には5万人が住んでいるそうだ。私たちは街の中心地にある“岱山飯店”に着き、遅い昼食を取った。その後、島の案内人が3人もやって来た。
岱山地方史の専門家で、60歳の林通璵氏が、“岱山”の由来について説明してくれた。
「徐福は、秦の始皇帝の「仙薬」探捜の命を受けて、3000人の童男童女と共に船で山東省を出発して南へ向かって航海した。49日目に嵐に遭遇し、近くに山が見えたので上陸した。標高257メートルの磨星山に登ってみると、周囲に雲が湧き上がり、一面にたなびいて、まさしく仙人が住んでいる蓬莱仙島に違いないと思った。しかし、仙人は住んでいなかったが、磨星山が非常に高くそびえて見えた。
「まるで泰山のような山だ」
徐福は山東省の泰山を想い重ねて言った。その後、磨星山は泰山と呼ばれていたので、この辺の人々はこの島を“泰山”と呼んでいた。しかし、山東省の泰山に遠慮して次第に“岱山”の字を当てて呼ぶようになり、いつしか岱山という地名になった。
林氏は自信ありげに説明してくれた。
「徐福が来たのは春だったのでしょう。春には海から水蒸気が昇り、雲が沸き上がって磨星山にかかり、まさしく仙人が住んでいるようなところに思えます。しかし、仙人はいなかったので、彼は、この島に1000人の童男童女と食料のなつめを残して、さらに東に向かい、東福山に着いたのです。その後は記録がないが、多分東の日本に渡ったと思われています。岱山は徐福の島で、彼が命名したと言われているのです」
林氏は得意げな表情で言った。
私たちは、林氏たちの案内で磨星山中腹にある岱山十景の一つの慈恵庵を訪れた。徐福がこの地に立って東を見たという所から東の衛山を見る。そして、高寧鎮の町を見下ろした。高寧の前の岱山水道は、水深が10~12mあり、昔から船の航路になっていって、徐福の一行もしばらく停泊していたと言う。
舟山地方の人々は、東福山以後のことは知らないが、『史記』准南衛山列伝にはこう記されている。『始皇帝は童男童女3000人を遣り、五穀の種子と百工を携えて行かせたが、徐福は平原広沢を得て、王となって帰らなかった』
徐福は2度と戻っては来なかったと言うが、東へ東へと進むと、日本列島南端の屋久島にある標高1935メートルの宮之浦岳が見えるはずだ。
2022年3月31日追記