新制中国の望郷編⑤ 江蘇省 徐福村
江蘇省連雲港の贛楡県金山郷に徐福村がある。神仙道の修行者である“方士”であった徐福は、紀元前3世紀頃、秦の始皇帝から不老不死の“仙薬”を捜すように命じられ、山東省から東海の日本列島の方に向かって出発し、帰って来なかったことで知られている人物であり、しかも日本各地には56ヵ所もの徐福遺跡がある。中国大陸に日本の民族的、文化的源流を探索する私にとっては、大変関心のあることである。
徐福村は、歴史学者など各界の考証を経て、徐福の故地とされた所で、ここには“徐福祠”があり、70代目の子孫である徐広法さん(75歳)が今も住んでいる。
私は、1993年10月16日に徐福村を訪ね、徐広法さんに会い、通訳を介していろいろと話を聞いた。
徐福が東海に船出したまま戻ってこなかったので、始皇帝は徐一族を皆殺しにするという噂が立ち、4人の子のうち3人は姓を母方の葦・王・張に変えたが、1人だけ姓を変えなかった。彼はすぐに上海の昆山県、そして浙江省の臨安県へと逃げ、やがて江西省へ逃げた。子孫は長い間、江西省にいたが、明時代に九江県からこの地に戻った。それが徐広法さんの先祖だそうだ。
この地には、西漢時代に徐福祠が出来たが、唐時代には仏教の興国寺となり、清朝時代には道教の徐福祠となった。1960年代の文化大革命中に破壊されたが、1988年5月に“徐福祠”として再建された。
気の遠くなるような歴史であるが、実在した人物とその子孫の伝説である。中国大陸における単なる伝説上の人物ではく、徐福は日本と大変深くかかわっている。
徐福は紀元前210年頃、3000人の童男童女と共に多くの船で東海に渡ったとされているが、どこに行ったのか確証はない。しかし、日本の各地には56ヵ所もの徐福遺跡があり、和歌山県には徐福の墓まであると言う。それに佐賀県金立山の金立神社の祭神は徐福だとされている。
不老長寿の仙薬を求めて、東海に船出した斉国人(漢人ではない)の徐福は、東シナ海文化圏の一員として、日本列島に新しい文化と文明を伝えた立役者であったのかもしれない。
“東海に 徐福来たりて 瑞穂立ち 弥生の里に 文化はぐくむ”
2022年3月17日追記