新制中国の望郷編⑧ 浙江省 稲作文化の河姆遺跡跡
浙江省の東端にある寧波の町から60キロ西の河谷平原に、今から7000年前の稲作文化を伝える河姆遺跡跡がある。
河姆渡は余姚市内にあり、市の文物管理委員会の同行がないと現場に行くことができないので、まず80キロ西の余姚市を車で訪ねた。
余姚市は、日本でも江戸時代からよく知られている“陽明学”発祥の地であり、王陽明(1472-1528)の生誕地である。町の中央の岩山には、彼が創立したといわれる学校が、今でも記念館として残っている。
私は、文物管理委員会の叶樹望氏の同行を得て、約20キロ東へ引き返した。
余姚市と寧波市との間の河合平原の南側の姚江に架かる橋を渡って、水田の中を約9キロ走った姚江沿いに河姆遺跡はあった。
姚江と呼ばれる川の南には小高い網山がある。この山には、昔網を干す場所があったそうなので、漁村か半農半漁村があったのだろう。
とすると、河谷平原の大半が数千年前までは東シナ海に続く海であったのだろう。今では、北の海岸までは5・60キロも離れているが、古代にはこの辺が海岸近くであったはずだ。
河姆渡遺跡の現場は埋め戻され、姚江と用水路の間に1989年12月28日に博物館がオープンしていた。私が最初に訪れたのは90年2月5日で、日本人では2人目であった。
遺跡の総面積は4万平方メートルにも及び、7000年前から4000年前にかけての遺物が4層をなしており、深さが4~5メートルもあったそうだ。
説明によると、高床式の木製米倉が倒れて埋土したと思われる多量の炭化物は、ジャポニカの籾が4割、インディカの籾が6割で、当時は両方の稲が栽培されていたのだろう。私は、博物館に展示されている現物や複製品を撮影させてもらった。その中で、島の頭をデザインした器具が、何に使われていたのか分からず、叶氏に尋ねた。
「これは祭事用か儀式用に使われたもので、当時の人々は精霊信仰であったと思われる」
彼はこんな説明をしてくれたが、7000年前の稲作農耕民は、すでにかなり高度な文化を発展させていたようだ。それにしても、半世紀前の日本で使われていた日常的な器具の大半がすでに原型が出来上がっている。
鍬、鋤、漁具、紡具、矢尻、斧、土器、炊具、蒸し器、模様、笛、その他建築技術や家畜など、無数の出土品が当時の人々の生活を伝えている。
私たち人類は、もしかするとこの数千年来生活技術はたいして変化しておらず、生活文化はかえって衰退しているのではあるまいか。ただ科学技術によって、生活形態が少し変化し、楽に暮らせるようになっているだけなのかもしれない。
2022年3月23日追記