新制中国の望郷編⑦ 安徽省 銅陵
中国大陸の安微省銅陵市は、揚子江(長江)中下流域にある人口60万の工業都市。しかし、1950年頃までは、市の大半が葦原で、揚子江が増水するたびに冠水していた。
周囲の山々には金・銀・銅・鉄・硫黄などの鉱物資源が豊かなため、新制中国になって付近一帯は干拓工事がなされ、工業地帯になっている。
この近辺で古い青銅器が多く発掘されたことによって、「銅陵」つまり“銅の陵(みささぎ)”という意味で命名されたとのこと。今のところ中国大陸で最も古い銅鉱採掘の坑道遺跡があることで知られている。
私は、1992年10月上旬、この地で開かれた「アジア文明国際学術会議」に参加し、“金牛洞”と名付けられた遺跡を見学する機会を得た。
銅陵市中心部から東へ28キロ、鳳凰山の麓の稲作農村にある坑道遺跡は、小さな丘の下にあった。多くの炭化木が出土し、銅鉱採掘のための古い坑道が露出していた。この坑道は、紀元前770~475年頃の春秋時代の遺跡である。
この金牛洞の坑道遺跡から8キロ西にある「木魚山遺跡」は、3000年以上も前の、中国大陸最古の青銅器製造所跡の遺跡だとされている。
この地方で出土する青銅器は、種類が多く、最も古いものは紀元前16世紀から11世紀の時代とされている。
銅陵市から150キロほど下流にある蕪湖市は、古くから揚揚子江下流域の米の主産地として知られた稲作地帯。江南のこの地方は、紀元前3世紀の終わり頃、漢民族が侵入してくる以前には、呉や越の国であり、楚の国で、すでに稲作文化が発展して豊かになっていた。
当時すでに農民の雨乞いや豊作祈願、収穫祭などの祭祀具として、多種多様な青銅器が使われていたようだ。
それらはやがて、揚子江下流域の人々と共に、稲作文化の一つとして東海の日本列島に渡ったものと思われる。
日本の弥生時代の銅鐸や銅鉾のルーツは、銅鉱石の豊かな銅陵市のあたりにさかのぼるのかもしれない。
2022年3月22日追記