地球へめぐり紀行

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ユーラシア大陸横断鉄道の旅 編

イソカ刑務所の中で(1966年12月)ザンビア

 タンザニアの首都ダルエスサラームから,1,000キロ以上も離れたタンザニアザンビアの国境ツンヅマ村まで、バスやおんぼろトラックの助手台に便乗してやって来ると、タンザニア側に国境警備兵の大きなテントが2つ張られ、兵隊が鉄砲を抱いて坐っていた。エメラルドブルーの空の下、モルタルに柿色の屋根瓦がのっかっている家があった。その家の真中に国境線が引かれ、タンザニアザンビア国のオフィスが向かい合っていた。

 私は、タンザニアは無事出国したが、ザンビア入国証明の移民官のサインがもらえなかった。正式な訪問ビザをケニアのナイロビニにあるザンビア大使館で取得していたのだが、移民官はそれを認めず、保証金150ザンビアポンド(15万円)を払えば、入国を許可すると言った。しかし、私か持っていたアメリカドルを決して認めようとしなかった。銀行もエクスチェンジャーも何もない国境では金の交換のしようがなかった。移民官はそれを百も承知の上で、故意に不可能なことを要求したのだ。それは入国拒否を意味していた。その晩はオフィスの白い国境線上に眠った。

 ザンビアは、1964年10月の東京オリンピック大会の開催時に、イギリスから独立したばかりのまだ新しい国なので、法律などは植民地時代のままのようだ。

 翌日もだめだった。何とかしてザンビア入国を達しなければ、南に向かう道がなかった。もう何度もトライしていたが駄目だったので、午後2時過ぎにリュックサックをオフィスに置いたまま国境線を越えた。

 国境から数百メートルのところにガソリン運搬用のトラックが5、6台プールされ、家が数軒見えていた。あそこなら米ドルをザンビアポンドに換えてくれるかも……。カメラとショルダーバグを肩にかけて100メートルばかり歩いた。赤土の道路を、猛スピードで1台のジープが近づいて来た。2人の国境警備員が移民官の命令で、私にライフルをつきつけ、ホロのかかった車の後部に私を押し込んで、ナコンデの警察署に連行した。

 国境を撮影し、ザンビアに無断越境したこともあり、スパイ容疑とのことで、その2時間後、ナコンデから100キロ離れたイソカの刑務所に、移民官用のジープで荷物も一緒に連行された。

 1966年12月17日午後6時、私はイソカ刑務所に投獄された。ジャングルを切り開いて、1962年のイギリス植民地時代に建設されたイソカ刑務所は、高さ4メートルもの2重の有刺鉄線網に囲まれた、約1,500平方メートルの広さだった。

 入口にオフィスがあり、広庭をはさんで獄房が2舎、その他に公衆便所(シャワーもある)と炊事場があった。荷物は全部検査され、貴重品は紙面に記載された。

 スパイであることが確認されると銃殺刑になると脅され、靴もベルトも取り上げられて、小房に投げ込まれた。1人ではなかった。3畳ぐらいの中に先客が2人いた。彼らは隣国マラウイ人だった。2人は身分証明賞を持っていなかったので投獄されていた。床は朱色のコンクリート、壁は白い、奥の方の床に3個の小さな穴があり、天井は金網、扉は板だが、とても頑丈そうだ。その横に、1メートル四方の鉄格子があった。米飯と水がその窓から入れられた。冷えて硬くなり食えるようなものではなかったが、昨日の朝食以来何も食べていなかったので口の中に押し込んだ。2枚の毛布が与えられたが、それだけでは寒かった。

 鉄格子から外を見ると、自転車に乗った男が横目で見て通った。ジャングルが続き、遥か向こうに一直線の大地が見えた。刑務所の周囲の畑には草が繁茂していた。2重の有刺鉄線網の間に入れられている右羽根の折れた一羽のカンムリツルが、悲しげに夕空に向かって鳴いていた。

 入獄2日目にオフィサーに交渉し、小房は3人では狭いからと大房にかえてもらった。 

 大房はタテ8×ヨコ16メートルの長方形で、1メートル四方の鉄格子窓が8カ所所あり便所つきである。天井はコブラよけをかねた金網だ。この辺は猛毒を持った大変危険なブラックコブラが多く、時々家ネズミを追って天井に這い上がったのが落ちるそうだ。私も獄内で1匹叩き殺した。屋根は陽が照るとバリバリ音のするトタン板である。  

 海抜1,000メートルもあるので、アフリカと言えども、夜中はとても冷え、日本の11月中旬の気温である。でも昼間は9月中旬のように暖かかった。囚人は麻の厚いシャツと半ズボソを支給されていたが、昼間はたいてい上半身裸。囚人(全員で32人)の半数は素足であるが、半数は自製のゴム(自動車のタイヤ)ゾーリを履いている。また数人はヨーロッパ人が使用したものと思われる、足先がみえる古い軍靴を履いていた。

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20日近くも暮らした獄房の中で、夜私がハーモニカを吹いている様子

 囚人は皆チヂレ髪で、皮膚はあくまでも黒く、唇は厚い。顔の中央部にあぐらをかいた鼻は大きく、白目は血走っていた。笑うと真っ白い歯が見えるが、近くでよく見ると、私の歯より白くはなかった。肌が黒いので、白が鮮やかに映るのだ。囚人は誰一人として歯ブラシを使わない。生木の枝か、青い雌竹を噛みくだいて使うか指で歯を磨く。彼らは歯ブラシなる物を使用する私を珍しげに見た。そして、吐き出された練り歯磨きの白いアワを見ておったまげていた。

 私は天を仰ぎゴロゴロッと音高くのどを鳴らしてうがいをするが、彼らは歯と歯の間に水を通し、変な音をたて、そしてパッと水を吐きだした。私は両手で洗面するのだが、彼らは片手で洗面し、しかも不思議なことに洗面の後、顔に石鹸を塗った。シャワーを浴びた後などは身体全体になすりつけていた。なぜそうするのかを尋ねてみたが、誰も教えてくれなかった。多分クリームの代用かなんかのつもりなのだろう。

 彼らはよく髪を刈り合う。ハサミで刈られた髪の量は非常に少ない。

「どうすればおまえのように髪が長く伸びる?」。ある囚人が私の頭の毛を見て尋ねた。

 黒い肌に堅いチヂレ毛の人間の中にいる、黄色い肌と長い黒髪の人間は彼らにとっては突然変異なのだ。アフリカにいる限り、すべてがアフリカ的なのであって、私の日本人的特徴か彼らには先天的ではなく、後天的と映るのかもしれなかった。私の長い黒髪に触った彼らは、「たぶんヘアークリームをつけているからだろう」と言った。

 囚人の娯楽として、1台のトランジスタラジオとドラフトゲームのワンセットがあった。ラジオから陽気なアフリカソングが流れると、囚人の大半が早朝であろうが深夜であろうが、腰を振ってツーステップを踏んだ。彼らの踊っている姿には獄内にいる暗さはなかった。非常に明るく伸び伸びした零囲気があった。

 午前6峙に房の扉が開かれ、囚人はいっせいに洗面する。その後で砂糖気のないココア湯が、コップ1杯支給される。朝飯がないので、囚人は前夜の半分残しておいた米飯にココア湯をかけて手づかみで食う。

 午前7時に朝の点呼があるので、全員広庭の中央に半円型に集合した。囚人は獄外労働の指示をうけ、7時半に監視人つきで獄外へ出て行く。私は獄内の便所掃除。大房と、広庭にある公衆と、小房の中にある女性用便所を、毎朝毎朝水で洗い流すのが任務だ。便所掃除の後は、午後6時15分前まで、獄内でのみ自由時間だった。

 昼食は、「シマ」とベンバ語で呼ばれる、トウモロコシの白い粉を煮た物が主食。カペンタ(ベンバ語)という乾燥小魚とキャベツやトマトを混ぜて煮た物が副食。

 夕食は、米飯が人間の頭ぐらいの大きな皿にもられるだけで、副食は何もなかった。時々煮豆が添えられるが、塩味で美味くなかった。こんな食生活で獄外労働もさせられている囚人が、何か月ももちこたえるのは信じられない。私は20日間の獄生活で、糖分欠乏と栄養失調にかかってしまった。

 6時15分前に房に監禁される。房の中では囚人用のラジオを聴いたり雑談したり、1個のランプの灯りで、ドラフトゲームを数時間する。すぐ寝る者もいたが、私のハーモニカを聴いている者もいた。そのあと、日本語を教えたり、歌を教えた。彼らは英語を話すので、言葉には苦労しなかった。

 12月17日に投獄されたのだが、2週間経っても何の連絡もなかったので、ほんとうにスパイ視されているのではないかと心配になったが、12月30日になって、翌年1月3日が裁判日と決定された。

 イソカ警察署の前にある一軒のバラックが裁判所であった。天井の厚紙は2ヵ所めくれ、数ヶ所雨漏りのしみがあり、窓ガラスが3枚も割れていた。

 1月3日には判決が出ず、5日に再度法廷に立った。とにかく弁護士なんかいないので、知っている単語を総動員し、自分自身で矢継ぎ早に弁護した。判事は、恐れを知らぬ日本人旅行者ががなりたてるのを見て苦笑していたが、裁判は終始有利に展開した。

 「いかなる条例や前例に照合しても、被告を有罪とするにあたわず、よってここに被告が無罪であることを宣言する。被告を直ちに釈放すべし」

 ゲルマン法によって裁判された私は、判事から無罪を言い渡された。20日目にようやく無罪放免となり、自由の身となった。

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無罪放免された1月5日、イソカの町から元の国境までこのジープで移送された。