ベセクリク千仏洞

 トルファンから約50キロ北東の火焰山の北麓の谷間に、ベセクリク千仏洞がある。

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火焔山北麓の谷間

谷間の上から見たベゼクリク千仏洞

 ベセクリク千仏洞の始まりは、6世紀の高昌国時代で、最盛期は西ウイグル王国時代の9世紀頃。当時のウイグル族は仏教を信仰しており、ここは王族の寺院であったそうだ。

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西側斜面にある千仏洞

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南の方から北を向いた千仏洞テラス

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千仏洞テラスの筆者
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千仏洞入口と入ってすぐの天井の模様

入ってすぐの壁の模様

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天井の模様
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顔が削られた壁画と洞の奥が破壊された穴
かろうじて顔が残っている仏画と壁画

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沢山の小さな仏像が描かれた壁画

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色々な民族の顔が描かれた壁画

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比較的顔が残っている壁画

 ここは今も洞内に多くの壁画が残っているが、残念なことに、トルファン地域がイスラム化した15世紀以後、イスラム教徒による加害と、20世紀初頭の第1次シルクロードブームによる日本と西欧先進諸国の探検競争によって、多くが持ち去られたために、完全な壁画はほとんどない。

壁面が剥がれた仏画

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壁画の一部

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丸天井のレンガ

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旅人の脚と思われる壁画 上は剥ぎ取られている
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多民族の顔と顔が削られた仏画
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壁に描かれた仏画

 当時の天山南路の諸国には仏教徒が多く、たくさんの寺院や仏塔があったが、やがてイスラム化して多くが破壊された。トルファン盆地がイスラム化したのは遅く、15世紀初頭までは仏教徒が多かったとされている。

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谷間を北から南の方を見る。

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北の方からべセクリク千仏洞を見る

 長安から東に住む人々にとって、西域は仏教伝来の地であり、地中海文明ペルシャ文明東進の地である、夢とロマンと神秘が色濃く脈打っているところであった。中国大陸の東の人々は西域に憧れ、西域を恐れ、絶えず強い関心を抱き続けていた。

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崩れかけた千仏洞の一部

 その西域の中心地が、複雑な歴史を経て、乾燥の激しい不思議な自然環境下に、緑の楽園を営み続けてきた“トルファン”であった。