中国

内蒙古からチベット7000キロの旅① 万里の長城を越えて

当時の北京駅 北京を汽車でたったのは1988年8月11日の午後6時53分だった。夕闇せまる平地を北に向かうと、やがて岩山がそびえる山岳地帯に入った。車窓の外には、暮色蒼然として迫る八達嶺の尾根を走る長城がつづく。青龍橋の駅近くの線路ぞいに、…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉓ 阿拉山口→ドルジバ(カザフスタン)

私は、ユーラシア横断鉄道の旅を5月18日に終えたが、中国の国境阿拉山口からアルマ・アタ間だけは乗り継ぎが出来ていなかった。その後の6月20日に国際列車が予定通り開通したとのことで、1992年8月9日、成田から北京経由で再度ウルムチを訪ねたので…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉒ ウルムチ→阿拉山口

4月30日、私たちは旅行社の車でウルムチ駅に向かい、午後0時10分に駅舎に入る。大勢の客なので、荷物が透視器に通されるのにやや時間を要した。係員がチェック終了の白い紙をぺたりと貼り付ける。まるで出国の通関のようだ。 ウルムチ駅の改札口 プラ…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉑ 烏魯木斉(ウルムチ)

4月29日、ウルムチは曇っていた。南北に続く新華南路にある華僑飯店の12階からは、東に冠雪の天山山脈、西に樹木の生えていない褐色の岩山が望める。街には20階建てのビルがあり、イスラム寺院もある。北京からすると西の果てのように思えるが、ウル…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑳ 嘉峪関→烏魯木斉(ウルムチ)

12時55分、嘉峪関駅を出発。河西回廊を汽車で旅しているにふさわしい情景、天下の嘉峪関を北側の車窓に眺める。 午後1時3分、嘉峪関からさらに西へ伸びている崩れかけた長城を横切る。長城の先には狼煙台があるが、もう万里の長城の観はなく風砂にさら…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑲ 蘭州→嘉峪関

蘭州駅に30分以上も停車したあと、午後7時18分に出発した。すぐに黄河を南から北側へ渡って北西に向かい、いよいよ河西回廊に入る。しかし、すでに窓外は暮色に包まれ、夕闇迫る村々に咲く梨の白い花は、まるで妖精の舞踊会のような光景に見える。 土埃…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑱ 西安→蘭州

西安で唐華賓館に1泊し、4月26日早朝、北京発烏魯木斉行きの汽車に乗る。席は7号車25番の下段。4人用の寝台室の相客は、2泊3日の終点、烏魯木斉まで行くという祖父、母、女の子の一家と、酒泉に帰るという老人である。ほぼ満員の列車は15両編成…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑰ 西安

西安を中心とした渭河(ウェイハ)の流域は、昔から「関中」と呼ばれ、周囲を山に囲まれた肥沃な渭水盆地である。しかし、雨は7、8、9月に集中し、年間600ミリくらいしか降らない。紀元前12世紀の西周から秦、漢、隋、唐に至るまでに、11の王朝が…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑯ 北京→西安

北京駅で迎えてくれたのは、中国青年旅行社日本部の陶さんであった。 今回の北京滞在は、わずか3時間で、陶さんの案内で昼食をしただけだった。 4月24日午後1時30分、北京発西安行きの急行列車は、「ジー」と鳴るベルを合図に出発した。 1992年4月24日の…

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑮ 丹東→北京

丹東駅は改装中で、プラットホームで2時間以上も待たされた。この間に、他の車両が15両も連結され、6時間45分にようやく発車した。 食堂車の経営を委託されている女性は、日本人の私に値段を吹っ掛けた 私が食べた食堂車の中国料理、これで50元であった…

天山北麓のカザク族(1979年9月)新疆ウィグル自治区

天山山脈はアジアを東西に2分する大山脈で、今では中国領とソ連領(当時)の不自由で厳しい境界になっているが、たいへん豊かな山岳地帯なので、もともとはいろいろな民族がこの山のなかに同居し、自由に往来していた。そのせいで、カザク族は、中国側にも…

南端の町・瑞麗(2018年4月)雲南省

標高2500メートルもある麗江から約700キロも離れた、標高900メートルの雲南省西南端の町瑞麗へ。大理経由で保山に1泊し、バスを乗り継いで2008年4月13日午後1時30分に、人口17万人の町瑞麗のバスセンターに着いた。そこからタクシーに…

大里と麗江の町(2018年4月)雲南省

1.大里 昆明からバスに乗り、400キロほど西にある人口61万の大里に着いた。標高1900メートルの地にあり、標高4,000メートルの峰が連なる蒼山と水の澄んだ洱海による風光明媚な所で、古くから中国とインドを結ぶ交易路の要衝でもあった。 大…

昆明の民族村(2018年4月)雲南省

2018年の4月8日、成田から中国の上海経由で雲南省都の昆明に飛んだ。中国訪問は、第1回の1975年以来、今回で丁度80回目。昆明は1980年4月と82年4月の2回訪れているので、36年ぶり3度目の訪問であった。 標高1900メートルにある…

苗族の新嘗祭(1990年8月)貴州省項翁寨

日本列島への稲作農業の主な渡来は、紀元前3~4世紀頃か、それ以前とされているが、これは、中国大陸の江南地方(長江南の下流域)の越系民族であった呉・越・楚が滅び、漢民族が西から侵入してきた時代である。 その後の越系民族は、漢民族に追われたり、…

海南島の生老百年碑(1983年1月)

1983(昭和58)年1月に中国の海南島を訪れた。首府海口市に”五公祠”と呼ばれる有名な祠堂がある。北宋時代の1097年に建立されたもので、宋時代の有名な詩人、蘇弑糾・蘇轍兄弟と昭忠、邱淑、そして、海瑞の五人の霊がここに祭られている。この敷…

賀蘭山の岩画(1988年9月)寧夏省回族自治区

1988(昭和63)年9月、中国の寧夏回族自治区を10年ぶりに訪れた。区都銀川の西側を南北200キロにわたる賀蘭山中に沢山の古い“岩画(岩壁絵画)”があることが知られている。日本では一般的に“顔面画”と呼ばれているようだが、中国では“岩画”と表…

3泊4日の三峡下り(1997年8月) 重慶・武漢

1997(平成9)年8月30日、北京から重慶に飛んだ。中国大陸の鍋底と呼ばれる四川盆地の東南にある重慶はなんと摂氏43度もあった。 ダムに水没する前の川沿いの重慶市内 翌31日の午前9時、4,500トンのビクトリアⅢ号に乗船。乗員108名。我…

成都の漢方市場(1986年9月)四川省成都

漢方薬の本場ともいわれる四川省の成都を1986年9月初めに訪れた。少数民族の村を訪ねるためだったが、洪水で道が決壊して行けなかったので、漢方薬の取材をすることにした。しかし、「漢方薬は国家機密」などと、中国国際旅行社は非協力的だった。特に…

天の川を渡る船棺(1997年10月)福建省武夷山

中国の江南地方には、古くから川沿いの懸崖(人が登ることのできない絶壁)の高い所に、棺が安置されていることは良く知られていた。 懸崖の棺は、一般的に懸棺と呼ばれ、その場所は崖墓と呼ばれていた。棺は楠木の大木を彫って舟型に作られていたので船棺と…

ノモンハン戦争の平原(1993年7月)内蒙古自治区

1993年7月15日から3日間、中国内蒙古自治区フルンベル盟のノモンハン村を、牧畜民の生活文化を調べるために訪れた。 ハルハ河を背にする筆者 ノモンハンの平原では、私が生まれる前の1939(昭和14)年5月から9月にかけて多くの犠牲を出した…

空気が白濁するハルビン(2006年1月)黒竜江省

2006年1月14日(土)、午前8時すぎの北京空港は濃霧に包まれ、飛行機の発着ができず、7時間も遅れてやっと午後2時35分に離陸し、1,444㌔北のハルピンには、3時50分に着いた。空は晴れ、外気は零下16度だが、大地に雪はなかった。 世界…