天の川を渡る船棺(1997年10月)福建省武夷山

 中国の江南地方には、古くから川沿いの懸崖(人が登ることのできない絶壁)の高い所に、棺が安置されていることは良く知られていた。 

 懸崖の棺は、一般的に懸棺と呼ばれ、その場所は崖墓と呼ばれていた。棺は楠木の大木を彫って舟型に作られていたので船棺と呼ばれている。

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福建省博物館に展示されている観音岩墓の武夷2号船棺と図面

 私は、その船棺のあった場所を確認するため、1997年10月29日に、再度福建省武夷山市を訪ねた。武夷山市で待っていた日本語通訳は、すでに2回も私を案内している福建省青年旅行社の陳凡さん(27歳)。

 翌30日、朝一番の飛行機で、省都の福州から福建省博物館研究員で、この辺の崖墓の専門家林忠干教授が、私を案内するために来てくれた。彼とは旧知の仲で、再会を喜び合ってすぐに武夷宮にある博物館を訪れた。ここには、観音岩崖墓の船棺が透明なガラスケースの中に陳列されていた。館長の鄭さんは林さんの友人で、私たちを案内し、陳列品を見ながら崖墓について話し合う。

 武夷地方で1番古い崖墓は、武夷博物館の後ろに聳え立つ岩山『大王峰』にあったもので、炭素14で木棺の破片を調べた結果、3000年以上も古いとされている。それは「武夷」と言う古代の王を葬った棺を安置した崖墓とされているが確証はない。この他には、九曲下りで有名な川沿いなど、16ヵ所に崖墓があるが、棺の数については多いのでまだ調べがついていない。

 林忠于さんは、20年ほど前に、武夷山にある白岩の50メートルもの高さにある崖墓から船棺をつるして下ろした。その船棺は「武夷2号棺」と呼ばれ、今福州の博物館に陳列されている。2号棺は、船型の上蓋の長さが4.5メートル、下が4.4メートル、高さ75センチ、幅は55センチ。棺の前後には吊るすための長方形の穴がある。

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武夷1号棺の資料写真

 古代の人は川を道としていたし、天に旅するには海又は湖や大きな川《例えば天の川》を渡って行くものと考えていたようで、棺は船型になっている。死者は竹で編んだゴザに包まれ、その下には4本の竹竿が置いてあった。体には綿や絹の糸で作られた布が巻きつけられていた。この木綿は中国大陸でもっとも古いものだそうである。頭のほうには皿のような亀型の枕が1つ。亀は水母であり、水神であり、長寿を意味する動物。そして、2個の卵形の小石があったそうだ。

 このような特徴から、2号棺の主は、村の長か酋長であったとされている。その身長は約165センチで、5、60代の男性。骨格の特徴はモンゴリアンで、頭骨は長頭丸型である。

 当時の人々は、この崖墓の船棺から骨を取り出して、雨乞いをしていたと言われている。そしてその骨を村が一望できる高いところに安置した。人々はその魂は仙人となり、困ったときの願いを聞き入れ、助けてくれると信じていたようである。

 私たちは昼まで館内で話し合い、館長も交えて昼食をした。

 午後2時過ぎ、武夷宮から15キロ程離れた太廟村の谷にある白岩と観音岩の崖墓を見るために車2台に分乗して行った。途中から道が悪くなって大変であったが、後2~300メートルで車道がなくなって歩いた。

 巨大な岩壁になっている蓮花峰の中にある白岩の崖墓近くの観音岩崖墓は、20数年前に、コンドルの巣を探していた外省人福建省外の中国人)が、偶然に発見した。その男は懸崖の上からロープを下して穴に入り、船棺の蓋を開けたが、白骨の他に何もなかったことに立腹し、下に突き落とした。その棺が、現在、武夷博物館に陳列されている「武夷1号棺」なのである。

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武夷博物館裏の大王峰の崖墓

 この辺の岸墓に古代の原型をとどめた船棺がそのまま残っていたのは、この近くには大きな川がなく、人も住んでいなかったし、道がないので人通りがほとんどなく、目に付き難かったためである。しかし、今では近くに5軒の家が建っている。

 当時の人々は、全ての現象が天にいる神のなせる業と思い、自然災害を防ぐ方法として、生命力の強かった先祖の霊を天に遣わし、神との連絡役をしてもらおうと考えたようだ。そのためには、天の川を渡る舟としての舟棺を天に近いより高い、しかも他人に暴かれない所に安置しなければならなかったのだという。

 子孫たちが努力して、最高の場所に安置された棺は、長い時の流れの中で、その後何世紀も経て見守ってくれる人が絶えていなくなっても、今日までひっそりと存在し続けてきた。60年以上も生き抜いた長寿であった先祖の霊を天神への使者として大切にする理念、道理は、後世の人々に祖霊を敬う心を育み、「祖霊崇拝」と言う信仰心を培わせることになった。

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九曲下りの竹船

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博物館研究員の林教授と筆者(観音岩前)