苗族の新嘗祭(1990年8月)貴州省項翁寨
日本列島への稲作農業の主な渡来は、紀元前3~4世紀頃か、それ以前とされているが、これは、中国大陸の江南地方(長江南の下流域)の越系民族であった呉・越・楚が滅び、漢民族が西から侵入してきた時代である。
その後の越系民族は、漢民族に追われたり、逃げたりして、山奥のような僻地や南または東などの遥か遠くへ逃げたり移住した。残った人々は混血し、越系漢民族になったとされている。
日本の皇室が古代から今も行っている、新穀(米)に感謝する“新嘗祭”の起こりが、もしかすると、2千数百年も前の江南地方の稲作文化を踏襲している、越系民族の末裔である苗族の新嘗(中国語では嘗新)祭を見れば少しは解明できるのではないかと思い、1990年8月29日貴州省凱里県翁項寨に2度目の訪問をした。
翁項寨は、標高700メートルのゆるやかな斜面にある村。この村の人々の先祖は、江西省の南昌近くから湖南省を通って逃げてきたと、村の石碑に記されている。約40軒、300人が住んでおり、村の下の方に水稲の棚田があり、すでに稲穂は色づき、たいへん美しい幾何学模様の斜面が一幅の絵のようだ。
私は、8月30日(旧7月11日)の朝9時前に、前日約束しておいた、ヤン・ウージ(59)さんの家を、通訳兼ガイドの熊邦東(25)さんと共に訪れ、彼女が行なう「ノウモー」と呼ばれる新嘗祭を見せてもらった。
彼女は、午前9時10分頃、3歳の孫を背負って家を出た。
「何時頃、どの田で、稲穂を抜き取るかは決まっていません。しかし、大体午前中に行います」
彼女は、10分程坂道を下って棚田に行き、9本の稲穂を抜き取った。10時前に家に戻ると、その穂に水をかけて洗った。そして、2本ずつ結んで「シャンホ」と呼ばれる神棚にかけた。
苗族の家には、入口を入った突き当りの壁に、幅15センチ、長さ5~60センチの板を取りつけた神棚がある。他にもう一つ家の外に巾7センチ・長さ15センチほどの小さな棚がある。いずれも“シャンホ”であるが、大きい方は祖霊神が戻ってくる棚で、小さい方は祖霊神になれなかった者の霊が戻る棚。
ヤン・ウージさんは、大きな棚に4本、小さい方にも4本の穂を、手を合わせたり、祈ったりすることなくかけた。そして、残った穂から取った粒の籾殻を爪で剥がして玄米にし、朝蒸しておいた白いおこわの上にパラパラと撒いた。おこわを箸で少し混ぜ、それを茶碗に入れ、私に食べるように勧めてくれた。自分も手でつまんで食べた。新しい玄米の入ったおこわは美味かった。
「以前は新しい玄米を入れて蒸していたが、今は、おこわの上に置くだけ」
彼女はおこわを食べながら言ったが、神棚に供えることはしなかった。
10時過ぎから、お嫁に行っている長女、長男の嫁、次女、そして弟1人が一緒になって料理にかかった。料理は、豚肉とその内臓、鶏肉とその内臓、鯉、そして野菜を材料とした煮物。
午後1時には大きなシャンホの前のテーブルにご馳走が並べられた。そして、2カ所のシャンホと家の入口に順番に線香が置かれた。彼女は一人で大きなシャンホの前に立ち、よく聞き取れない小さな声で呟きながら、床に糯米で作った甘酒を少し注ぎ、おこわと料理を少しずつ落とした。
「先祖の皆さん、今年の米が採れましたので、どうぞお召し上がりください。今年もよい米ができ、家族は皆元気で、仕事がよくできました。来年も同じようによい米が採れますよう。家族が健康で、よく働けますように」
彼女は、こう呟きながら供物を捧げたのだが、手を合わせることも、頭を下げることもしなかった。
午後1時過ぎから家族や親族が集まって料理を食べた。女たちはおこわをすぐに食べたが、男たちは焼酎を飲んで、しばらく談笑をした後に食べた。午後はずっと飲み、食い、談笑が続き、神棚の前でまさしく人神供食の宴「直会」であった。
2日目の辰の日は、舟渓地方の村で大きな闘牛大会があり、万を超す人が集まって楽しんだ。そして、3日目の巳の日の夕方、村の広場に沢山の人が集い、男が芦笙を吹き、着飾った娘たちが誇らしげに暗くなるまで踊り、ミャオ族の新嘗祭は終わった。