天山北麓のカザク族(1979年9月)新疆ウィグル自治区
天山山脈はアジアを東西に2分する大山脈で、今では中国領とソ連領(当時)の不自由で厳しい境界になっているが、たいへん豊かな山岳地帯なので、もともとはいろいろな民族がこの山のなかに同居し、自由に往来していた。そのせいで、カザク族は、中国側にもソ連側にもいるが、大半はソ連のカザフ共和国に住んでいる。何より、モンゴル族やチュルク系諸民族のアルタイ系牧畜民にとっては大故郷であり、アルタイ山脈と天山山脈とイリ丘陵地帯にかこまれた、ジュンカル盆地が彼らの競合地であった。はるか彼方の中央アジアの乾燥した大平原に移住したチュルク系の牧畜民は、今でも、この地方の生活習慣を残しているので、言葉や風習に共通性が多い。
私は、1979年9月に、中国西端のウイグル自治区の中心地ウルムチを訪れた。そして、アルタイ系牧畜民の生活文化を踏査するため、70キロ離れた天山北麓の南山地方のカザク族を訪れた。長期滞在は許されなかったが、下の町から運び込んだキクズイ(包)に泊まり、牧民たちと生活を共にすることができたのだが、中国革命政権樹立以後、南山の牧畜民の村に滞在したのは私が最初の外国人だとのことだった。
標高1,400~1、600メートルの天山山中のカザク族の夏営地には、110張りのキクズイと呼ばれる移動式住居があり、人口500人で、羊、山羊、牛、馬などの家畜が約8,000頭もいた。
私は、広範囲に見てまわりたく、馬を借りて村々を訪れた。案内役と2人で、草の茂ったゆるやかな斜面をいくつも越した。高いところから見おろす天山のふもとは、緑のじゅうたんを敷きつめたような、美しい牧草におおわれていた。
馬に乗った牧童に追われる羊の群れが、斜面を幾列にもなってゆっくり横切っていた。2、30頭の馬の群れは、地響きをたててあっという間に走り去る。人気のない大自然のようだが、いたるところで家畜や牧童に行き交い、たえず家畜の鳴き声や、牧童のかけ声が、こだまのようについてきた。
丘の上や中腹、谷間などに、キクズイが2張りから5、6張りずつ小集団に分かれて散在している。標高1,600メートル以上のところに張った家族は、9月初め、すでに冬営地の山麓におりはじめていた。彼らは、アンパン型の移動式住居を取りはずし、ラクダや馬、去勢したヤクの背に載せて山をおりる。なかには、馬車に家財道具一式を満載し、道のないゆるやかな斜面を移動している家族もあった。
アルタイ系牧畜民の移動形態の特徴でもあるが、カザク族は低地のジュンガル盆地を冬営地とし、天山山中の高地を夏営地としているので、その往復に中間地で数週間ずつとどまることから、正確にいえば年4回の移動になる。
私は、久しぶりの乗馬で尻が痛くなって村にもどった。私か泊まるキクズイは、下の生産大隊から特別に運びあげたものでまだ新しかった。近くには8張りあったが、男は家畜を追っているので昼間はいない。
「カザクとコサックのちがいを教えてくれませんか」私の世話をしてくれたハレリ(33歳)さんに、同行の通訳陸さんを通してたずねた。
「カザクは民族名で、コザックは、“泥棒集団”のことです。だから、カザク族やウイグル族にもコザックはいます」
彼は笑いながら答えた。数年前、キルギス共和国を訪れて質問したときも、同じ答えだった。日本では、カザクを“カザフ”とか“ハザク” とロシア語的に表記するが、現地人の発音は、はっきり“カザク”または“カザック”と聞きとれる。
カザク族の骨格は日本人に類似しているが混血が多く、肌が白く鼻の高い人、赤ら顔で鼻の大きな人、肌が黄褐色で鼻があぐらをかいている人、黒毛、栗毛、紅毛、毛深い人、毛の薄い人、黒眼、碧眼、目がニ重まぶたも一重まぶたもいるし、背の高いのも低い人もいる。子どものお尻の蒙古斑がはっきりしているもの、しないもの……。民族的には東西南北アジアが複雑に入り混じっている。
カザク族の主食は、麦やコウリャンの粉で作るナンとよばれるパンと、牛や羊の乳製品と肉である。肉はカワプという焼肉や塩煮にするほかに、米と煮込んでたべる。きれいな水が豊富なのだが、飲み物は碍茶にミルクまたはバターを混入したスーチャイ。お茶を飲むとき、よく口にする乾燥発酵乳コルトには、中央アジアのツルクメンのように塩を混入していない。野菜はほとんど食べないが、生タマネギやニンジンを時々口にする。
2軒隣のハレリさんの奥さんラビアハン(24歳)が、夕方コウリャンのパンを焼いたので、暖かいのをもらって食べたが、たいへん香りがよく、うまかった。彼女は夕食に、ボーサックとよばれる菱形の油揚げを作ってくれた。私たちは、塩煮の骨つき肉を手でつまんで食べながら、それを口にした。手づかみのせいもあるが、揚げぎょうざのようでたいへんうまく、なんとなく力がついてきそうな感じがした。
牧童たちは、大隊から1日2元の日給を、1年に1度まとめてもらうのだそうで、現金はあまり手にしてなかった。私たちは持参のウイスキーとワインで、夜遅くまで、ランプの明りを頼りに酒をくみ交わし、語り合った。