ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑲ 蘭州→嘉峪関
蘭州駅に30分以上も停車したあと、午後7時18分に出発した。すぐに黄河を南から北側へ渡って北西に向かい、いよいよ河西回廊に入る。しかし、すでに窓外は暮色に包まれ、夕闇迫る村々に咲く梨の白い花は、まるで妖精の舞踊会のような光景に見える。
翌27日、午前6時30分、山丹駅に着く。すでに武威駅を過ぎている。地平線上の土埃のせいで、龍首山から昇った太陽が白っぽく見える。進行方向右の北の方に、高さ3メートル、幅1メートルくらいの万里の長城が続いている。ここまで来ると長城にも威圧感はなく、惰性で造ったという軟弱な印象が強い。
河西回廊には、かつてシルクロードで栄えた都市、現在の武威、張掖(チャンイエ)、酒泉、王門、敦煌などがある。これらの町にはいずれも南の祁連(チーリェン)山脈から川が流れ込んでいる。南北を山に挟まれた細長い地帯なので、昔から回廊と呼ばれているのだが、幅40キロから100キロ、長さ1000キロに及ぶ平地になっている。
祁連山の雪や氷が解けて流れ出す5つの内陸河川は、5つの大オアシスを潤し、農業を発展させ、甘粛地帯の穀倉を形成している。しかし、オアシスを離れると、そこは水のないゴビと呼ばれる小石と砂の乾燥地帯。
シルクロードと呼ばれる西域の乾燥地帯は、人間の「生と死」をかけた綱渡り的生き方が必要であり、部族や民族の飽くなき権力闘争が繰り広げられた、自然環境の厳しいところもある。
よく知られているシルクロードは、「神秘とロマン」の世界として考えられており、遺跡の古い工芸美術や文物のみが脚光を浴びているが、実は生存への努力と工夫によって咲かせた文明の花が、いわばドライフラワーとなって今も残っており、数千年前の人間の生き様を知る屋外展示場なのである。しかし、現地の人々にとっての通商路は今もまだ存在している。
午前7時40分に張掖駅着。15分間の停車時間にプラットホームに出て朝食を仕入れる。蒸したての大きな肉饅1個0.3元は安い。ターピンと呼ばれる丸くて肉厚の大きなパンは、乾燥に強く、日持ちがする。
駅員が鐘を振り鳴らし、「プー」という警笛とともに動き出した。張掖を発つと、線路は祁連山脈の北側の裾野を走り、土漠が一望できる。私の7号車の軟座寝台は8室であり、定員は各室4人ずつで、計32名だが、すでに途中下車した人がいるので空席があった。
午前9時30分、高台駅に停車。プラットホームに3メートルもある大きなリンゴの木が2本植えてあり、白い花が満開。大地には緑はなく、荒涼とした風景。この辺は「パタチリン砂漠」と呼ばれている。
中国では、乗務員も乗客もごみを外に投げ捨てる。線路沿いにはビニールや空き缶、空き瓶、発泡スチロールの容器などが散乱し、ゴミのないところはない程だ。
間もなく駱駝城駅を通過し、10時35分、清水駅に着く。南の彼方に標高5547メートルの高峰が見える。嶺に雪があり、地元の人々は雪をかぶった祁連山脈を「雪山(シュワサン)」と呼んでいる。雪が解けて流れ出す水は、朝はせせらぎ程度の流量だが、晴天の夕方には、雪が解けて渡るのが難しいほどの急流になるのだそうだ。
南に祁連山脈を眺めながら西へ進み、酒泉に12時15分に着く。張掖から210キロの間は、人影のないゴビであった。
酒泉の特産品は、玉石から作られる「夜行杯」。それは「葡萄の美酒・夜光の杯」と唐代の涼州詞に記されるほどで、月光を通すといわれる有名な玉杯のことである。
酒泉市の粮食局に勤めていたという李老人は、下段の私の横のベッドにいたが、わが町に着いたとばかり、大きな布袋かつぎ、「再見」と言って笑顔で降りていった。
上段にいたもう一人の老人が下段に降りた。孫娘がまとわりついて賑やかだ。彼女は歌ったり踊ったりなかなか元気だが、気に入らないことがあると大声で泣き叫ぶ。一人っ子政策のせいか、そうとうにわがままで、私にも一方的に話しかける。
12時40分、酒泉から西へ20数キロの嘉峪関駅に着く。プラットホームから「天下の雄閣」と呼ばれた嘉峪関が見える。
標高2000メートルで、人口26万の嘉峪関市は1958年8月にゴビに誕生した新興都市。付近には玉門油田の石油をはじめ、石炭、鉄などの資源が豊富で、市内の酒泉鉄鋼コンビナートは、中国西北地区最大の鉄鋼基地となっている。
嘉峪関と酒泉の間のゴビの地下には、1000以上の古代の墓が埋まっている。私はこの2年前、敦煌経由で訪れたが、紀元220-420年の魏・晋時代のこれらの墓には壁画や彩色画像磚(セン)など、歴史的、美術的に重要なものがあり、「ゴビの地下画廊」と呼ばれている。