ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑱ 西安→蘭州
西安で唐華賓館に1泊し、4月26日早朝、北京発烏魯木斉行きの汽車に乗る。席は7号車25番の下段。4人用の寝台室の相客は、2泊3日の終点、烏魯木斉まで行くという祖父、母、女の子の一家と、酒泉に帰るという老人である。ほぼ満員の列車は15両編成で、定刻の5時58分に発車した。
しばらくの間、麦畑の青と菜種の花の黄色が、朝霞にかすんでいる幻想的な景色に見られた。やがて8時5分、宝鶏駅に着く。乗客たちはプラットホームに出て、朝食用のパン、肉饅、餃子、鶏の丸焼きなどを買い漁る。私はゆで卵7個を2元で買った。
汽車は渭河に沿って、上流へと走る。渓谷に入るとマンガンを含んでいるのか、ところどころに赤紫色の岩が見える。やがて山椒の里である甘粛省に入る。山間の畑に植えられている山椒の木が目につく。列車は渭河の谷間を徐々に上って行き、11時35分、天水に着く。
天水は青空が広がり、4方を山に囲まれた盆地で、空気は爽やかで緑の多い豊かな地域。西安は標高396メートルだが、328キロ西の天水は標高960メートルもある山間地帯。中国大陸を最初に統一した秦の始皇帝の先祖は、このあたり一帯を支配し、牧畜を生業としていた一族だとされている。
中国大陸の地理的中心部にある天水は、地味豊かな盆地であり、「三国志」で有名な諸葛孔明がここにいて、魏の国の都洛陽攻略の計を巡らせたことでも知られている。
天水を11時50分に発つ。列車はさらに渭河に沿って走る。12時半に食堂車へ行ったが空いていた。
内陸の中国料理には、生もの、酢の物、焼き物はなく、すべて煮るか揚げるか、炒めるかである。豚肉とニラの炒め物8・5元、小エビの炒め物が8・5元、鯉の煮つけが7・5元、卵スープ3元、合計30・5元(750円)。中国人ならこの3分の1の値段。
中国では食事だけではなく、汽車賃や飛行機、ホテルの料金などにも外国人、準中国人(華僑、香港、台湾人など)、中国人という3段階の値段がついている。
午後2時、渭河の上流で水量が少なく流れが弱い。空気が乾燥し、車内が暑いので、生ぬるいビールを一本買って水替わりに飲む。同室の母親は、梨の皮を剥くのにナイフを前に押している。こんな皮の剥き方は珍しいので、しばらく眺める。
標高2000メートルほどの山には草木がなく、大地は灰褐色に乾燥した黄土で、畑の麦は生育が悪い。この辺は漢民族の大故郷の地としては歴史が古く、丘には古い城塞や狼煙台がある。「厳しい自然環境は強い民族を育む」といわれる通り、このやせた厳しい大地が漢民族の文化と生命力を培ってきたのだろう。
午後4時半に峠を越し、1時間も走ると甘草店駅を通過し、ゆるい下り坂になる。かなり下ったのか、谷が広くなり、川沿いの麦畑も広くなり、村落も大きくなった。
6時15分、汽車は桑園子駅から黄河の南岸沿いを西へ向かって走る。線路から2、30メートル下を流れる黄河は、幅が100メートルくらいで、濁り水が岩の間を激しい勢いで流れている。
6時40分、蘭州駅に到着。蘭州は黄河の両岸に細長く延びた甘粛省の省都で、人口は142万人。西域最大の都市で、町の東西は約130キロあるが、南岸の皋蘭山と北岸の白塔山は、わずか1キロほどの距離で相対しており、町はその間に挟まれている。
蘭州の町は標高1520メートルで、西域のシルクロードで最も高所にある。黄河沿いでは西端の都市であり、古代から交通の要地であった。
市中心部の黄河にかかる鉄橋は、1907年に完成し、鄭州、済南の橋とともに、当時の中国の黄河3大橋と称された。現在、黄河にかかる57の橋のうち17が蘭州市内にあり、黄河沿いの町の長さと重要性を物語っている。