ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉔ ドルジバ→アルマ・アタ
翌8月12日は、まだ暗い6時30分に「白い森(アクトガイ)」駅に着いた。目覚めたものの、昨夜は3時ごろ横になったので、まだ眠く、再度寝入る。
8時20分に起きると、すでに陽は昇り、中央アジアのカザク平原を南に向かって走っていた。少々起伏はあるが、山のない、果てしなく広がる平原だ。
9時30分、荒野の中に止まった。マタイ駅の周囲にポプラやブナの木が植えられており、家があった。牧畜業を営む村のようだ。
9時から食堂車が開いていたので、垂水さんと2人で朝食をとる。ワイン1本150ルーブル、レモネード1本35ルーブル、ペプシコーラ1本35ルーブル、ペリメ(カザクの餃子)1皿が65ルーブル、バターやサラミ、パンのセットが50ルーブルと安い。朝からワインを飲み、いい気分で車窓を眺めていると、東方の彼方に冠雪の連山が見えた。
10時ごろから線路沿いに人家が続いて見られるようになった。進行方向左の東方に見える高い連山からの地下水脈がつながっている湧水地帯なのか、葦の原が続いている。ここからそう遠くない西方には、シルクロード時代に有名な湖、バルハシ湖があるはずだ。
やがて人家が多くなり、草木も生えて人が暮らしやすいような環境になる。壁が白く、トタン屋根も白っぽい家が建ち並ぶ町、ウステペには、10時53分に着いた。ウステペとは「3つの丘」と言う意味。プラットホームに降り、リンゴやトマトなどを買う。10分ほど停車していたが、何の合図もなく、ゆっくり動き出し、急いで列車に戻った。
正午頃から列車は岩山の谷間を走る。清水の流れる川沿いの大地には、草が青々と茂っている。線路が下り坂になり、カーブしているところで窓から顔を出して見ると、機関車は11車両引っ張っている。寝台車は9両で、食堂車と荷物車を1つずつ連結している。
午後1時過ぎ、サルイオゼク駅に着いて数分間停車していたので窓から周囲を撮影した。
午後1時半を過ぎると、線路沿いに収穫の終わった麦畑が続く。通路に立って外を眺めていると、アメリカ人が興奮気味に話しかけてきた。彼は、これから陸路でイランに向かい、今まで不可能と思われていた、この中央アジアの素晴らしい旅を、アメリカに戻って本にするのだという。
3時20分、イリ川をせき止めた大きな湖のカプチャガイ湖岸を走る。人家がいたる所にあり、文明の気配が強く、道には車も走っている。やがて東南の方向に冠雪の山々が見え始めた。山麓にアルマ・アタの町があるアラトウ山脈だ。汽車は徐々に上り始め、樹木の多い農業地帯を走る。
午後4時45分、第1アルマ・アタ駅着。ここは、アルマ・アタでは低い方で、標高600メートルくらい。中心街はさらに山麓を上って行く。線路沿いに赤い実をたくさんつけたリンゴの樹が目につく。
汽車はアラトウ山脈の山麓を徐々に上り、午後5時35分、終着の第2アルマ・アタ駅に着く。本来のユーラシア大陸横断鉄道の旅では、5月6日にここからモスクワに向けて出発したので、再び継続し、次は第2アルマ・アタ駅からの出発とする。
プラットホームには、前回も世話してくれたディナ女史が迎えに来ていた。垂水記者と別れ、彼女の車でオトラル・ホテルに向かう。5月の時と同じ231号室に、1泊35米ドルで泊まる。ルーブルはさらに安くなり、公式で1米ドルが150ルーブル、闇交換率は200ルーブルになっていた。