ユーラシア大陸横断鉄道の旅 ㉕アルマ・アタ
中国の阿拉山口から伊梨経由でカザク共和国の首都(当時)アルマ・アタに着いたのは5月4日午後3時であった。
オトラル・ホテルで遅い昼食をとり、旅行会社インツーリストの英語通訳ディナ女史に会って、これからの鉄道旅行について話し合う。43歳だが、若く見える彼女は、丸顔で色白のカザク族。2年前に通訳として訪日したことがあり、親日家でもある。
彼女は、私が国名を「カザフ」と呼ぶと、カザフはロシア語で、カザク語では“カザク”だという。日本では一般的にカザフと書くが、民族名も国名も“カザク”だと、なかなかプライドが高く、はっきりものを言う。
アルマ・アタからモスクワへの鉄道の旅は、西側の外国人は初めてとのことで、許可をとるのが大変困難であった。大変珍しいことだそうだが、彼女の上司が鉄道大臣にあってくれ、やっと可能になった。彼女の協力なくしてこの鉄道の旅は継続できなかった。
翌5日の昼食は、彼女の案内で、アラトウ山の標高1500メートルにある「サマル・レストラン」で、カザク料理を食べる。野菜・ハム・ラムの肉・チーズ。ほかに馬肉の燻製があったのには驚かされた。中央アジアから東のアルタイ系牧畜民(モンゴル・チュルク・カザク・キルギス族等)は、馬肉を食べないと思っていたし、拙著にもそう書いていた。
彼女によると、カザク族は昔から馬肉を食べていたという。そういえば、「タルタルソース」は、昔、タタール人が戦場で馬肉を食べるのを見まねて、ヨーロッパ人たちが馬肉を食べる時に使うソースだという記事を読んだことがある。
後日、モンゴル族に確認すると、決して食べないのではなく、戦場などで食べ物がない時には馬肉を食べることがあるとのことだった。
カザク共和国は、日本の7倍強の広さがある。その東端にある首都アルマ・アタは、天山山脈の支脈であるアラトウ山脈北麓の標高600から1000メートルにかけて開けた町で、人口120万もの大都市。人口の39%がカザク人、41%がロシア人である。
アルマ・アタは、カザク語で、「リンゴの父」という意味。以前は、アルマ・ティ(リンゴの里)と呼ばれていたそうだが、その名の通り、山には野生のリンゴの木が多く、今花盛り。
5月6日の朝、ホテルから日本へ電話した。この旅行は、交通公社傘下のディスカバーワールドが手続きをしてくれていた。モスクワには予定より2日遅れで、ワルシャワには1日遅れで着くので調整してくれるように頼む。電話料金は7分間で386ルーブル。日本円に換算するとなんと380円くらいだった。
朝食後、ディナ女史と中央市場へ行き、これからモスクワまで3泊4日の鉄道旅行のための買い物をする。3階だてほどの天井の高い巨大な建物の中には売店がずらりと並び、穀物、野菜、果物、肉、乳製品、生花など、何でも揃っている。カザク共和国は農業国で、市場には食料品があふれている。人出も多く、活気がある。しかし、物価は急上昇しているという。ちなみに大卒の給料が1000ルーブル。そのうち食費に70%かかり、生活するのがやっとだという。
カザク族にとって、馬乳酒であるクミスは大事な飲み物で、仕込んで3、4日くらいが飲み頃だそうだ。アルコール分は2%くらいで、大量に飲んでも酔っ払うことはない。クミスは精力飲料とされており、私は勧められて大きなグラス一杯飲んでみた。やや酸味があり、爽やかな飲み物だった。
私は、パン・ジャム・ソーセージ・魚の缶詰・鶏肉の燻製・サラミ・リンゴ・梨・レーズン・干しアンズ・ミネラルウォーターなど、2、3日分を買い込んだ。ディナ女史は、自分で卵を6個買ってゆで卵を作ってくれた。これで、今日の午後出発する旅の食料は確保できた。