大里と麗江の町(2018年4月)雲南省

1.大里

 昆明からバスに乗り、400キロほど西にある人口61万の大里に着いた。標高1900メートルの地にあり、標高4,000メートルの峰が連なる蒼山と水の澄んだ洱海による風光明媚な所で、古くから中国とインドを結ぶ交易路の要衝でもあった。

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大里の主な商店街

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大里の街中の小川
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大里の町の風景と巖家の玄関 崇聖寺三塔前の筆者

 8世紀頃に、唐朝の後押しを受けて栄えた蒙舎詔という地方政権が衰退したことを受けて、紀元938年に大理国が建国された。しかし、1253年にモンゴルのフビライ軍に滅ぼされた。その後、1368年に明国となり、浙江省余桃出身の漢人厳将軍がこの地に派遣され、この地を700年近く支配しつづけ、今は中華人民共和国となっているが、厳家は21代目の頭主が今も存命である。

 大里は、ぺ(白)族の居住地でチベット系の民族とされているが、漢民族文化や稲麦文化の混合地帯でもある。

 雲南高地は、海底の堆積岩が隆起しているので、大理近辺の山々には石灰岩が多い。大里の人々は古代からその石灰岩を利用して家の屋根や壁を漆喰で塗るので、家全体、そして村が白っぽく見える。それに衣類も白色傾向が強かったので、大理地方に住む人々は、他民族から“白”と呼ばれるようになり、いつの間にか民族名称になったそうだ。

 779年に建造された、全長約6キロの大里古城の城壁は、元のフビライ軍に破壊され、1382年の明の時代に再建されたもので、古風な街が現存している。今では中国各地から人が訪れる大観光地で、金銀細工店、宝石店、食堂や土産物屋が多く、華やいでいた。

2.麗江

 大里から200キロ西の標高2,400メートルの高地にある麗江は、人口29万もの大きな町で、古くからチベット雲南を結ぶ交易路、茶葉古道の要衝として栄えてきた。 この麗江の町をつくり上げたのはナシ(納西)族で、今もこの地方に多く暮らしている。

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世界文化遺産の街の入口

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広場にあった絵馬と古い街並

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ナシ族の老婆たち

 ナシ族は、象形文字のトンパ(東巴)文字を使い、独自の文化と宗教(チベット仏教と精霊信仰の混合)をもつ民族。細く入り組んだ石畳の路地に清らかな水路があり、明・清時代の木造建築などが残る麗江古城は、1997年にユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 そんなこともあって、ここも中国各地からの観光客が非常に多く押し寄せてきており、古い街並みをゆっくり楽しむような雰囲気ではなく、賑やかな会話とざわめく音が激しく、追い立てられるように歩いた。しかし、大里も麗江も古い民族文化が多く残っている、人類の遺産のような街で、そのまま残して欲しい思いに駆られた。 

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ナシ族の家とトンパ文字