内蒙古からチベット7000キロの旅㉑ 漢民族と少数民族の町・西寧

 北の甘粛省、南のチベット、そして東の四川省、西の新彊ウイグル自冶区に囲まれた高原地帯の青海省は、高原大陸性の気候に属するので、気温が低く、昼夜の温度差か大きい。そして、「年に四季の区別がなく、1日にも四季の変化が見られる」という特徴がある。平均標高3,200メートルもある高原地帯は山あり、谷あり、川あり、湖あり、森林、草原、平原、砂漠、不毛の荒野あり、塩、石油、天然ガス、鉄鉱石その他の鉱物資源などのある、大変豊かな地域である。

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北山から見下ろした西寧の東側

 高山が多く、氷河や万年雪もあり、川が多く、黄河揚子江(長江)の源流にもなっている。無人の荒野や湿地も多いので、野生動物の宝庫でもある。省の面積は、72万平方キロメートルで、日本の2倍もの広さなのに、人口はわずか400万人である。

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西寧の西側

 青海地方は、もともとチベット族の居住地域であったが、紀元1世紀ごろ、漢の光武帝時代に、西域の征服に成功し、この地方へも漢民族が侵入してきた。それ以来、漢民族チベット系諸民族の闘争がくり返されてきた。しかし、1,800年後の清朝時代になっても漢民族の勢力は省の東端のみで、東部にある西寧の町から北、西、南の蒙古族チベット系諸民族の地域までには及ばなかった。

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西寧市の城東区

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城東区の街頭

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市場で売られていた果物(梨、桃、リンゴなど)

 青海省の主な少数民族チベット族回族、土族、サラ族、蒙古族で、人口は154万人、総人口の40%である。これら諸民族の宗教は、チベット、蒙古、土族かラマ教徒で、回族とサラ族かイスラム教徒である。漢民族は一般的に道教や仏教、または儒教徒であった。

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市場で買い物をするサラ族の親子

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西寧市の街頭 白い帽子の男は回族

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漢民族の娘たち

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チベット族の女性

 西寧は昔から漢民族の町である。標高は2,300メートルもあるが、青海省では最も低い地域にあり、無霜期が4、5ヵ月もある。4~50年前までは、周囲5、6キロもある城壁に囲まれた城塞都市であったが、今ではごく一部が残っているだけで、城壁はほとんど取り除かれている。そして、道や建物が近代的になり、車が走り、人出が多く、人口55万もの都市になった。

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ロバ車の少年

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チベット族の老人

 高地のせいか、8月とはいえ、下旬にもなると朝夕はもうかなり涼しい。西寧友誼賓館の朝食は8時半から9時半と遅い。ここの日の出は北京より2時間も遅いのである。中国は東西に5,000キロと長く、東部の空か白むころ、西部はまだ夜中である。しかし、公式には北京時間だけなので、青海省の生活時間を時計に合わせると、あまり都合がよくない。ちなみに昼食は1時から2時、夕食は7時から9時半となっている。

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チベット族ラマ僧

 午後4時半(現地では2時半)から市内を見物した。旧城内は区画整理され、道が広くなっており、モダンな商店か多く、人出も多かった。行き交う人びとは、上海や北京と変わりないモダンな衣服もあるが、白いベレー帽のイスラムハットを被った男、チベット風の皮の帽子、蒙古服の人など、多民族の町であることがよくわかる。

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麺を延ばす漢族の女性

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大釜で麺をゆでる女性

 食堂には「清真」とか「漢族」と入口に標記してある。清真というのは、豚肉を料理しないイスラム教徒の食堂で、漢族とは、豚肉を好んで料理する漢民族用の食堂のことである。西寧は漢民族の作った町であるが、今では多民族が居住しているので、多種多様な宗教や生活文化があり、価値観や生活態度に多様性がある。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑳ シルクロードを行く

 裟家営から暴泰に戻り、そこから南の蘭州へ向かう。道は舗装されていたので、時速80キロで走った。

蘭州の友誼賓館についたのは、夜の10時過ぎだった。蘭州はシルクロード沿いの町で、有名な河西回廊の入口にあり、黄河の渡し場でもあったので、古くから栄えた町である。紀元前の秦時代にはこのへんまでが漢民族支配下であったが、漢代に入って武帝が河西四郡を置いて西域との交易基地としたので、たいへん活気のある町であったといわれる。当時は金城と呼ばれていたが、6世紀末の隋時代になって、蘭州と改名された。

 今は計画的に建設された巨大な工業都市で 人口は200万以上もあり、労働者が全国から集まっている西域一の町。そして黄河を北から南に渡る大橋がかかっている。

 久しぶりの大都会なのだが、先がまだ長いのでゆっくりもしておれず、8月29日の早朝出発し、シルクロードの上にできた道を通って、青海省の西寧まで行くことにした。しかしいつものことながらガソリンの調達ができず、出発は午前11時すぎになった。ここからTBSの東條さんが一行に加わった。

 蘭州を出ると、道沿いに梨の木が多く、鈴なりに実をつけていた。木は10数メートルもの高木で、数百年の樹齢に違いない。この洋梨のような果実は、香りがよく、すこぶる味がよい。畑にはじゃがいもが栽培されている。他にはきびやひまわり、大麻なとも少々栽培されている。麦はすでに刈り取りが終わっていた。

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蘭州上流の黄河

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民和近くの黄河

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永登近くの庄浪河

 30分も走ると西寧への道から北にそれ、永登に向かった。道は庄浪河に沿って走る。紅城ではリンゴが栽培されており、紅い実がなっていた。川沿いには草魚や鯉なとの養殖池があちこちに見られる。

永登の町には、清朝時代に建造された城塞「満城」かあった。石を高く積み上げた堅牢な壁が、道沿いに続いている。

 この町でシルクロードからそれて、南西へむかった。山に樹が生えていない標高2500メートルの峠を越した。山中に小さな砦か1つ残っており、狼煙台が3つあった。

 山を下りると、砂金採集地で知られていた大通河に出た。河に沿って下ると、やがて谷は非常に狭くなり、川面は100メートルも下の谷底にあった。さらに下ると、甘粛省青海省の境である古い橋があった。その橋のたもとに、青海省からの迎えが来ていた。青海省山岳協会から派遣された案内人の奨さんや彼の奥さん、それに通訳のヤカレイさん、そして運転手の馬さんたちに会い、甘粛省の人たちに別れを告げて青海省に入った。

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          甘粛省青海省の境を流れる大通河にかかる橋

 西寧から流れている西寧河と祁連山脈から流れ出ている大通河の合流地近くにある町、民和を経て西寧へ直行しようとしたが、民和の町を出て1キロも行かないうちに通行止めになっていた。トラック、バス、トラクターなどが30台も止まっている。もう3時間も止められているという。

 中国を旅していると、時々遭遇するのだが、道路工事で、半日も止められる。ひどい時には1日止める。だいたいどこでもちょっと工夫すれは片面通行可能なのだが、工事者たちはそんなことを気にしない。

 「工事中、よって通行禁止」

 まるで工事最優先のようである。先を急ぐ者にとってこれほど困ることはないのだが、現地の人びとはもう慣れっこなのか、黙って待つ。

 1時間後、私は工事現場まで歩いて行った。日本製の四輪駆動車なら文句なく通れる。これ以上待つと日が暮れてしまうので、車のいない左車線(中国は右側通行)を通って進むよう、案内人の奨さんにけしかけた。やっとその気になってくれ、私たち4台の車だけ通ることができた。

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西寧の友誼賓館

 こんなことで遅れてしまい、夕暮れせまる山道を急いだ。暗くなって走ると、周りの情景かみられないので 明るいうちにと思うのだが、西寧の友誼賓館に着いたのは、またもや10時過ぎであった。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑲ 村人の葬送

 裴家営の村で、漢民族の葬儀を見た。土壁に囲まれた家に親族や知人、村人が集まっていた。

 「悲しいが、85歳の長寿をまっとうしたので、喜んで冥土へ送ってやりたい」

 家人たちの同意を得て撮影が許された。

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葬儀のあった家

 夫を数年前に亡くしていた老婦人は、風邪をこじらせて寝こみ、昨夕、苦しむことなく他界したそうだ。葬儀は55歳の長男が喪主で、親族の長老たちがとりしきっていた。

 土の家の土間に台を作り、そこにふとんを敷き、頭を入口にむけて遺体を置いていた。入口には蒸しパンが山と盛られ、線香と小さな缶ランプが灯されている。部屋の中には2、3人しかいないが、外には5、60人の老若男女が座っている。衣類はまちまちだが、全員頭に白い布を巻いている。

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葬儀の家の入口

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葬儀に集まった人々は、全員が頭に白い布を巻いている

 部屋の入口には、男女一対の人形と馬形を引く人形が置いてある。家の軒から布を張り出しているが、その先端には、赤・青・黄・緑・桃色の短冊に文字を書いて束ね、両側に吊るしてある。そして、白紙に「在常徳範」の文字を大書している。庭の台の上にも、大小の白い蒸しパンが山と積まれている。このへんは麦作地帯なので米飯はない。パンにはいずれも、花模様や点々と紅がつけてある。

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花模様や紅をつけた大きな蒸しパン。

 こうした風習は、漢民族民間信仰である道教の名残だそうだ。文化大革命中に禁止されていたので、このへんには経文の読める道士がいないそうで、テープレコーダーで流していた。

 入口に座っていた白いアゴヒゲの老人が、口の中でブッブツ言いながら、白い短冊を何枚も燃やして煙を立てると、先ほどから泣いていた50歳の娘が、いっそう大きな声で泣き、他の2、3人の女が同調して声高に泣いた。短冊は、冥土へむかう時に使うお金だそうである。馬形は冥土への土産物や食料を運ぶために、三体の人形は従者であるという。

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冥土に必要な金としての短冊を燃やす老人

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冥土への従者としての人形

 近親の男は、衣類の上に縄をたすき掛けにしている。それは、冥土への食料や土産、お金などを運ぶ馬となる証なのだそうである。

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小さな子供までが頭に白い布を巻いていた

 死後のことは誰にもわからないが、生きている者の心遣いによって、冥土への安全な死出の旅かできると信じることは、必ずやってくる死の恐怖から逃れられる方法の一つなのかもしれない。また、その努力によって、心の安らぎと、満足感と存在感を覚える生の証とするのかもしれない。

 遺体は、今日1日、親族の弔いを受け、明朝、野辺に送られて土葬にふされ、土饅頭型に盛り土される。そして、肉体は自然に土と化し、魂は子孫へと永遠に続くのだという。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑱ 土塊と化した長城のある村

 8月28日、今日は400キロ以上も南西に走り、甘粛省省都蘭州まで行く予定なので、朝8時半、砂披頭の山荘を出発した。 

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              裴家営近くの山
 道は未舗装のガタゴト道で、しばらく線路沿いに走った。51キロ離れた省境の村、甘塘(かんとう)につくと、甘粛省からの迎えの車がきていた。内蒙古の案内人たちは銀川まで、銀川からの案内人はここまでである。

 甘粛省に入ると道が舗装されていた。12時に景泰の町について、招待所で昼食。このへんでは黄色の瓜が名物だそうで、沿道や街頭で売られていた。買って食べたが、それほどの味でもなかった。しかし喉の渇きをいやすにはビールよりはいい。中国に来て以来、まだ生水は飲んでいない。乾燥しているのでよく水分を補給するが、必ず沸騰したものを飲むことにしている。

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裴家営村入口

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裴家営村の通りを行く羊の群れ

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ラクダがひく車

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裴家営村の建物

 昼食後、ここから西北にある裴家営(はいかえい)の村へ立ち寄った。100キロほど走った平原の中にある村は、豚が走り、羊の群がいた。ロバやラクダの荷車があり、古い小さなトラクダが走っていた。このへんでは一番大きな村で、1本しかない道には自由市場があり、野菜・穀物・肉・日常雑貨・衣類・道具類などが並べられていた。ここは、平原につづく万里の長城の南側にある農民と牧民の交流する市場であるが、西川さんが訪れた50年前とあまり変わっていないようである。

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裴家営村での麦の風選風景

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刈り取られた麦わら

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麦わらを積み上げたわらぐま(わら積)

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舗装した路上に麦わらを置いて、車の車輪で脱穀する

 裴家営から2キロも北へ行くと長城があり、門のない出入口があった。このあたりの長城は、高さ3メートル、幅2.5メートルの土の壁で、比較的原型をとどめているところもある。東方の北京郊外にある発達嶺の長城よりはるかに小さく、土塊と化したところもあるが、えんえんと続く様は、さすがと感嘆させられる。長城から北を見ると、すでに平原は農耕地と化していたが、家はなかった。

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裴家営村の北側に続く土塊れと化した長城

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崩れかけた万里の長城

 この村の人びとは、今も城南に住み、働くために城北に出る、昔ながらの生活習慣なのである。地元の人びとにとっては、長城は住み分けの境界線であり、漢民族の象徴であったのかもしれない。それを北方の遊牧民から見ると、行動範囲や生活圏を規制するいやな壁であったと言える。

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長城の北にある耕作地帯

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長城北の畑

内蒙古からチベット7000キロの旅⑰ 砂漠を緑化する夢

 砂坡頭(さばとう)の山荘は、嗚き砂で知られた砂山のふもとの、黄河がたいへん狭くなって、川幅150メートルくらいの岸辺にあった。山荘から見上けると、百数十メートルも上に鉄道の駅がある。観光客たちは、嗚き砂の斜面を駅からすべり下りる。以前は、砂が斜面を流れ落ちるとよく音が出たそうだが、今では客が多いせいか、鳴ってはくれない。

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砂坡頭の鳴き砂の斜面

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テンゲル砂漠

 私は、内蒙古オルドス地方のクプチ砂漠で鳴き砂の音を聞いたことがある。斜面の砂を押し流すと、ズーン、ズーンとか、ブー、ブーと鳴るのである。それは、熱い砂が表面を流れ、その下の温度の低い砂層との摩捧音か反響するのである。しかし現地の人びとは、古くからの伝説を信じていた。

 

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テンゲル砂漠

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砂漠のくぼ地に張った野営

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砂漠に伸びた筆者の陰

 「7月7日の夜、オルドス王の廟で、たくさんのラマ僧が念仏を唱えていると、強い風が吹いて砂嵐が起こった。風はなかなかやまず、砂が一夜のうちに、僧もろともその廟を埋めてしまった。砂山が鳴るのは、廟の中で読経する僧の声なのである」。

 砂に埋まった寺の話は、中国の西域には珍しくない。むしろよく耳にする。それほどに、乾燥した内陸での砂の威力は、水に勝るとも劣ることはない。

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風によって作られた波型の表面

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大きな砂丘

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砂漠に生えていた植物の根は3~5メートルも深い

 「水を征する者は天下を征する」

 中国の古い諺である。黄河揚子江など、長大な川とともに生きてきた人びとは、水には果敢に挑んできた。しかし、砂漠の砂を征しようという話を聞いたことがない。ところが、ここ砂坡頭にある中国科学院の砂漠研究所では、その砂との戦いに挑み、たいへんな成果をあげている。

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白い砂

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砂丘の上に立つ撮影隊

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テングリ砂漠をラクダに乗って進む探検隊

 砂坡頭は、大いなる黄河が、有史いらい砂漠とがっぷり四つに組んで戦いつづけている地点である。風が吹くたびに無数の砂が黄河に襲いかかり、ややもすると川幅を狭められ、苦境に立たされることもあったが、水の威力で押し流し、背水の陣でなんとか守り通しているのである。そのかわり、年ごとに川の岸は背を伸ばし、今では100メートルも高くなっている。偉大なる黄河でさえ、喉元を締められ、苦しみ、悶え、身を大きくくねらせ、白波を立てて精一杯努力しながら流れつづけている。赤い砂や黄色い砂を大量に飲みこんで流す黄河は、その名のように水が黄褐色に色づいて、きれいな水とはいえないが、一時も休むことなく流れつづけている。水が勝つか砂が勝つか、大自然の営みの中で、天下分け目の戦いは、まだまだ決着はつきそうにない。

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ラクダの上から撮影した筆者とラクダの陰

 砂が群なす砂漠を征しようという夢は、アフリカ・アジア・アメリカ・オーストラリアの各大陸の人びとが、もうずいぶん昔から持ち続けてきた。水と砂が最も激しく戦っているこの地に、砂漠研究所を設置した中国の人びとの征服に対する熱意たるや、なみなみならぬものがあった。そしてついに、世界で最も効果的な方法を、この砂坡頭で発見したという。

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線路沿いの砂地の斜面で、一メートル四方に麦わらを敷き詰めた実験場所

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砂漠地帯に麦わらを敷き詰めて緑地化した場所

 その方法とは、砂地に1辺1メートルの四角い枡型の溝を作って、麦ワラや稲ワラを埋めることである。ごく簡単で容易なことのようであるが、これまで知られていなかった方法なのである。ワラを埋めた四角型を、何千何万、何億個と作ると、砂の流れを防ぐのに効果的だという。 中国では、これまでにいろいろな方法が試されてきたが、いずれも効果的ではなかった。ところが、軌道の側にワラを敷きつめることによって砂の流れが止まり、しかも数年後にはそこから草や樹が生えた。研究者たちはこれに目をつけ、改善に改善、工夫に工夫を加えたのが、この1辺1メートルの枡型の溝にワラを埋め込む方法であった。

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砂漠に麦わらを枡形に敷き詰めた場所

 砂坡頭の線路沿いに500町歩ほどの砂地が孤立してある。いまこの砂漠をかの方法で緑地化する計画が進んでいる。10年後には、草や樹が生え、すばらしい緑地公園になるそうだ。もし成功すれば、世界の砂漠地帯の多くを緑地化することができる。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑯ 砂漠と黄河の境

 8月25日、日中は熱いので午後4時、銀川から黄河沿いに川上へ向かう。町を離れると緑は川沿いにしかなく、すべて褐色の荒野である。道は、1週間前に開通したばかりの高速道路が100キロ続いていた。かげろうがゆらめき、逃げ水の見える道を高速で走る。

 漢民族の運転手たちとの旅もすでに2週間。なかなかツー、カーとはいかないが、なんとかやっていけそうだ。32歳の張さんは解放軍に五年もいたそうで、車の運転はたんへん上手である。しかし、なかなかの頑固者。19歳の孫君は現代っ子でなかなか要領はよいが、まだ頼りになるとは言い難い。

 私たちは、必要な言葉だけ漢語で話す。それも即席なので発音が悪くで「チン(止まれ)」、「ソバ(行け、進め)」、「マン(ゆっくり)」、「クワイ(速く)」など、なかなか通じなかった。しかし、旅にも慣れ、旅の目的や仕事の内容が分かりかけてきたせいか、少しずつ協力的になっている。

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黄河から100メートル上の砂漠地帯を走る列車

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黄河の右(西)側はテングル砂漠

 砂漠の中を流れる黄河は砂をひきずりこみながら流れている。人びとは、それをくい止めるかのように河沿いに緑地帯を作り、わずかな農地を耕して生活している。道から黄河までは1キロもない。道の外の用水路沿いの楊樹(ポプラ)の並木には、もう砂漠がせまっている。

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砂地が黄河へ流れ込む地帯

 銀川から160キロ離れた中衛の町に夕方6時ごろ着いた。この辺は楊樹の並木の間に水田があり、道沿いにも続いていた。

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中衛観光局の山荘のある黄河沿いの場所(さばとう)

 久しぶりに見る緑の稲田は、懐かしかった。風に稲の香りがただよい、なんともいいようのない心の和みを感じた。よく見ると稲の花が咲いていた。時と場所を忘れ、故郷の水田が重なって見えた。

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黄河を渡る革袋の船の上と下の様子

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羊9頭分の皮を膨らませた皮船を背負う村人

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皮舟に自電車を積み込む

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黄河を渡る皮舟

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皮舟を背負う人々

 これまで見てきた褐色の大地には驚きこそあれ、心の和みや懐かしさはなかった。しかし水田の緑と、生臭いような稲の香りは、全身の細胞をかけめぐり、疲労やわだかまりを洗い流してくれた。今まで気づいていなかったが、私の心の奥底にある幸福観や安心感は、稲作の田園風景なのである。それこそが、心のふるさとのバロメーターなのだ。

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さばとう黄河を仕切った場所で皮舟に乗る観光客

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皮船に乗る観光客

 中衛には良い宿泊所がなく、さらに10キロ進み、黄河沿いの砂坡頭(さばとう)まで来た。ここには中衛観光局の山荘があった。私たちはこの山荘に3日間滞在することになった。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑮ 西夏王の古墳群

 アラシャンからテングリ砂漠を横断して西南へむかう予定であったが、道が砂に埋まって通れないので、南の銀川にむかった。道はオーラン山脈の南端をつっ切っていた。木の生えていない岩山の中を走り、峠を越して下る。両側に、石を積み上げた壁や見張り台、狼煙台などがある。しばらく下ると、はるか東の方から続いている万里の長城があった。

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木の生えていないオーラン山脈南麓

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オーラン山脈南麓の万里の長城

 黄河沿いの緑地帯にむかって長い坂道を下っていると、北の方の荒野に、円錐形のとんがり帽子のような造形物が10数個あった。

 「あれはなんだろう?」

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オーラン山脈南の平地に見える円錐形の造形物

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西夏時代の墓と西夏王陵

 車の中で話しあったが、誰も知らなかった。不思議な塔なので、近くに行って確かめようと。荒野に車を入れて走らせた。

 最も近いところに高さ3~4メートルの塔が6個林立していた。3個は高さ3メートルもの土壁に囲まれていたが、他は土壁がくずれてなかった。

 『西夏王陵区』

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西夏王陵に関する掲示

 塔の近くに王陵である標識があった。私たちが訪れた王陵が最も南で、ここから北へ、オーラン山脈に沿って、大小23個もの塔が確認できた。

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西夏王陵の一つ

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広範囲に見える西夏時代の王陵群

 これらの塔は、13世紀初頭、チンギスハンの蒙古軍に滅ぼされた西夏国の、王陵の仏塔であった。当時は、青や緑、黄、褐色などのタイル瓦でおおわれ、たいへん美しかったそうだが、今ではその瓦がすべてはげ落ちてしまっている。塔の周囲は四角形または長方形の土壁があり、今もその原形が残っている。この陵墓はまだ未発掘で、何も分かっていない。チベット系の西夏という国は、11~13世紀にかけていまの寧夏回族自冶区を中心に、東はオルドス地方、西は甘粛省に至るまでを領有していた。 

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王陵を囲う崩れた土塀

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王陵を覆っていた緑色のタイルの破片

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王陵の崩れた壁の上に立つ筆者

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巨大な王領は、もともと緑色のタイルで覆われていたそうだ

 1227年蒙古軍の侵入を受け、190年間も続いた西夏王国は滅亡したが、その歴代の王陵が荒野に林立している。これだけの塔を建造した王国の力は、やはり大きな存在であったのたろう。いまは漢民族の居住地だが、かつてはチベット系の人びとの居住地でもあったのである。

 黄河沿いの銀川は 標高1095メートルの町で、じつに緑が多く、人口は40万人である。寧夏回族自冶区の中心地であるが、回族は人口の10分の1しか住んでいない。

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銀川近くの黄河

 銀川は黄河の本流から20キロも西にある銀川平野にあり、その支流や運河が多い。あまり雨が降らないので空気はたいへん乾燥しているが、大地の水分の蒸発が多いせいで、空気がかすんで熱い。近辺は農業が盛んで、小麦、米の産量が多く、他に羊毛や皮革の集散地でもあるので、古くから豊かな町であったという。私たちは、銀川の体育招待所に泊まった。

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西夏王陵碑に寄り添う筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅⑭ バロン廟跡を訪ねて

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アラシャンの延福寺

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延福寺の本堂

  アラシャンの招待所に1泊し、オーラン山中にあるといわれる、西川さんが訪ねていた、内蒙古で最も大きかったバ口ン廟(中国語では廣宗寺)を訪ねることにした。文革で破壊されたとされていたが、その後の情報かまったくつかめていなかったので、バロン廟跡の現状を確認するためでもある。

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アラシャンの露店市場

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アラシャンの市場街

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街頭でのチーズ売り

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イスラム教徒用の焼肉売り場

 アラシャンから寧夏の銀川につづく道を30キロほど進み、本道を東にそれた。オーラン山西麓にあるはずのバロン廟につづく道は荒れ、すでに訪れる人もないのか、轍があるだけ。四輪駆動の車でさえ進みにくい石ころ道で、顔が腹につくほどゆれる。それでも10キロくらい進んだところに漢民族の新しい村かあった。彼らはオーラン山中の植物を保護する森林保安係である。無許可ではこれ以上入ることはできないが、アラシャンの役所で得た許可書を見せて通してもらう。

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オーラン山中のバロン廟への入口

 「たばこを吸わない、木を折らない、植物を採集しないこと」

 こんな注意を受け、オーラン山中に入った。坂道を徐々に登ると、木かポツリポツリ生えている岩山にさしかかる。谷が門のようになった所を通ると、道沿いの岩肌に彩色された磨崖仏かあちこちにあり、チベット文字も彫ってあった。ラマ教の廟がある雰囲気にはなってきたが、道の手入れか悪く、人や車の通った気配が感じられない。

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オーラン山中の岩壁に掘られた摩崖仏群

 本道から16キロほど入ると、まわりを山に囲まれ、天然の要塞のような、南向きのゆるい斜面が開けていた。背後の北側に高い岩山かそびえ、東にも岩山があり、西北にはゆるやかな岩山がつらなっていて、谷には清水か流れている。しかしバロン廟らしき寺院はない。深山幽谷の穏やかな地は、人の気配もなく、静かだった。

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石垣が残っているバロン廟跡

 今から45年前に訪れた西川一三氏の記録によると、「1000人以上ものラマ僧が住み200もの僧房があり、アランシャン盟最大の廟で、2カ所に2階建ての大きな寺院もあった」と記されている。しかし、その巨大なバロン廟は跡形もなく消えていた。ただ、石垣と白い仏塔が残っている。

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文革で破壊される前のバロン廟全景写真

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文革で破壊された後のバロン廟跡全景

 歩いて坂道を登って行くと、下からは見えなかったが、中腹の平地に小さな寺、廣宗寺が再建され、その横に僧房があった。その庭に立って眺めていると、数人の僧が出てきた。9歳で出家したという73歳のロブソンラマと、77歳のシェルプジャムラマがいた。いすれも老僧である。

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バロン廟跡に再建された廣宗寺と73歳のロブソンラマ

 老僧たちの話によると、文革がはじまってすぐにバロン廟の僧たちは 政府の命令で強制的に退去させられた。同意しない僧は投獄され、抵抗した僧は虐殺もされたという。多くの高僧がこの時命を断たれた。そして、巨大なバロン廟は、紅衛兵と呼ばれる若者たちの手でことごとく破壊されたのだという。

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廃墟に残った白い仏塔

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バロン廟の廃墟に立つ柱

 文革か終わった後、1980年から俗界に住んでいた僧たちの少数が戻ってきた。しかし、何も残ってはいなかった。83年から84年にかけて、10数名の僧と人民の手によって、″廣宗寺″と呼はれる小さな寺を再建することができた。まずは勤行する寺院を建て、少しずつ僧たちの住む房を建て増した。今では100人もの僧がこの寺に所属しているのだが、住んでいるのは13名だけである。

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バロン廟跡に残る石垣

 僧たちは、当時の写真を見せてくれた。バロン廟は寺院というよりも、城塞都市の観がある。これほどの建造物を破壊しつくすとは、やはり戦争だった。戦争とは相手を認めず 大小の破壊行為や殺戮的な残虐行為をくり返す、最も人間的な集団行為である。

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バロン廟跡に建つ老僧たちの住まい

 文化大革命は、幹部たちのエリート意識を一掃するための再革命であるといわれていたか、実際には内戦であり、漢民族の支配権確立のために、多くの知識者や文化人、地主、反支持者や異民族を殺傷し、多くの神社仏閣や文物などを破壊した。

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南米ペルーのマチュピチュのように石垣だけが残っていた

 バロン廟跡には、南米のインカ帝国の遺跡マチュピチュと同じように石垣だけが残っていた。それは、過去の文化を否定し、新しい社会建設のための粛清のツメ跡であったが、巨大城塞都市のようなバロン廟をこうまでするには、1月や2月は要したにちがいない。 

 

 

内蒙古からチベット7000キロの旅⑬ 天然の塩を掘る

 8月23日の朝、招待所の庭に出ると、ボタ山が3つあった。それが塩の山であることに気づくには、灰色であったがゆえに、しばらく時間を要した。

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一面の塩

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ジランタイ塩湖

 ジランタイには中国最大の国営採塩場かある。その現場を工場の係員に案内してもらった。

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塩湖の塩を掘り上げる人たち

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天然の塩に覆われた大地

 採塩場は町はずれから続いていた。無尽蔵といわれる塩が地表をおおっている。小は砂、中は大豆、大は親指ほどの結晶が、1メートル以上も層になっている。その粒は、まるでダイヤモンドのように透明で堅い。表面は土と混ざって灰色をしているが、中で溶解した塩が水とともに下から噴き上げた穴が無数にあり、噴火口のような白い口がある。そのせいで大地は白っぽく見える。空は青く、かげろうがゆらりゆらり立ち昇る。空気がかすみ、遠くの山かぼんやり浮いて見える神秘的な光景である。  

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機械で塩を掘り上げた跡

 ジランタイの塩湖は東京都の半分くらいの広さだが、いま採塩しているのは120平方キロメートルで、10分の1くらいの範囲だけである。

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地下から塩が噴き出た所

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砂岩のような塩の塊

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ダイヤモンドの粒のような塩

 塩が粒状になった層は、土にまみれて灰色になっている。それを大型の砂利採り機で、水や土とともに吸い採り、塩の粒だけを選別して取り出している。次から次にやってくるトラックの荷台に、止まることなく流れ込み、製塩工場に運び込む。

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機械での採塩

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塩を工場に運ぶトラック

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塩の大地の上に立つスタッフと筆者

 この標高1000メートルもある広大な塩湖には、まだ発見されていないどれだけの未知な物が存在しているのかわからない。近い将来、ここには大きな化学工場か作られるにちかいない。

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乾期に地下から塩が噴き出た穴

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ジランタイ塩湖近くの道沿いでのスイカ売り

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ジランタイ近くの砂丘

 ジランタイから南のアラシャンの町に向かった。途中の道沿いで西瓜と黄色い瓜を買って食べた。乾燥して熱かったせいか、その味は格別で、砂漠でしか味わえないもののように思えた。

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オーラン山西麓にあるアラシャンの町

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アラシャン西側の郊外を望む

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人口5万ものアラシャンの町

 午後2時すぎ、オーラン山の西麓にある人口5万ものアランシャンの町に着いた。空気が乾燥して、鼻や唇の粘膜がヒリヒリ痛む。2~3階の建物が並ぶ近代的な街の食堂に入った。まず最初に注文したのはビールだった。生ぬるいビールにすっかり慣れて、舌で味わいながら飲んだ。地方にはまだ冷蔵庫が普及していないこともあって、ビールを冷やして飲む習慣がない。

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アラシャンの街を一望する丘に立つ筆者

 

内蒙古からチベット7000キロの旅⑫ 平原から砂漠へ

 今回の旅の難儀はガソリンの確保である。予定では、特別チケットで、軍の施設でもどこでも給油してもらえることになっていた。2日に1回は給油するのだが、ガソリンがなかったり機械が故障していたり、係員がいなかったり、本道から50キロも100キロもそれていたりで、時間をずいぶん浪費している。

 ウラード後旗でも、前日からの停電で2時間も待たされた。たまりかねた私たちの怒りから、外事弁公室主任が特別な計らいをしてくれ、手押しポンプで給油を受けた。

 「ガソリンを飲まなきゃ走れない馬は、時に不便なことがあるよ」

 前日から給油を待ちつづけていた現地人の言葉である。  

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平原に残る古い城壁

 8月22日、10時すぎになってやっとウラード後旗を出発することができ、さらに西へむかった。これは、北のモンゴル人民共和国へむかう道である。約70キロ走ってから南へそれた。ここから内蒙古南端の町・アラシャンに向かって南下する。

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涸れ川に生える楡科の木

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乾燥した大地に生える古い灌木

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乾燥地の灌木

 涸れた川床を走ると、間もなく土壁の家が2~30軒あった。その村を過ぎると荒野で、草も木も生えていない。轍に従って進めば、パインゴビの村に着くはずである。ウラード後旗の役人が2人、中国製のジープで同行している。

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パインゴビへの道

 自然環境の厳しい内陸の乾燥地であるパインゴビ村に午後1時すぎに着いた。この僻地の村の招待所で、イワシや豆・肉などの缶詰を開けてもらい、手打ちのうどんを2杯もおかわりした。予期していなかった昼食だけに、肉うどんは大変うまく、こんな美味なうどんはどこにもないようにすら思えた。やはり、空腹にまさる料理人はいないようである。

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シニウス村への道

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木の生えていない岩山が続く

 午後4時、南のシニウス(錫尼烏蘇)村にむけて出発する。ふたたび平原や川床、砂地、丘などにつづく轍に従って砂煙を引いて走る。家畜どころか野生の動物すら見かけない。方角はまったく不明だが、案内車が先導してくれるので、5台の車が並んで走る。

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乾燥地の植物

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シニウス近くの丘の上

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シニウス近くの乾燥した大地

 やがて両側に山が見える丘に着いた。シニウスはもう近いとのことで、案内車はここから引き返すことになった。われわれは丘を南に下り、平原の灌木や草の中を走り、午後7時過ぎにシニウス村に着いた。この村から南のジランタイヘの道は舗装されていた。舗装された道を走っていると、まちがいなく目的地につけるような安心感が、まるで衣服のように全身を包み、幸福感さえ味わえた。

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シニウスの注油所

 まもなく砂漠地帯に入った。道は東にむかっていたが、やがて東南に、そして西へ、西南へ、南へ、東南へと続く。道がこのように建設されているのは、風によって川の水のように流れる砂をよけるためで、流れに逆らうとすぐに埋まってしまう。

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大きな砂丘

 夕暮れが迫り、大きな丘を登っていると、道が高さ10メートルもの大きな砂山に埋まって通れなかった。こうなると、近代的な土木機械でもなかなか歯が立たない。なんでも、一夜のうちに道を埋めてしまうそうだが、まるで猿カニ合戦の童話にある、木の臼が猿の上にどっかと乗っている絵を見るようで、自然の力が、砂をして人工の道をこらしめているような光景である。

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大きな砂山が一夜で動く

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風によって変化する砂地

 車は砂山を左に回って進んだ。やがて、電柱が砂に埋まって、電線が地につきそうな光景にも出会った。そして、標高1,600メートルの峠を越すと、南の方には夕陽に染まった砂丘か広かっていた。美しい光景だが、乾いた恐ろしい砂の世界である。

 日暮れ直後 2番目を走る孫君の車のフロントガラスが割れた。若い彼には、30メートル以上離れて走るよう何度も注意していたのだが、接近しすぎて前の車がはねた小石が当たったのだろう。取り替えは300キロも南の寧夏回族自冶区の区都銀川まで行かないと出来ない。その後はゆっくり走ったので 目的地のジランタイ(吉蘭泰)に着いたのは、夜の10時を過ぎていた。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑪ ナダムの競馬

 人口1万のウラード中旗の町では、今日から草原の民、蒙古族の祭りであるナダムが始まった。ナダムは“遊び”という蒙古語で、人びとか集い、すもうや競馬をし、市場か立ち、飲み、食い、歌い、楽しく踊る年1度の行事なのである。そのせいで、近在から多くの人びとが集い、人民政府の招待所やホテルが満員で泊まれなかった。

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ウラード中旗の郵便局

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ウラード中旗のホテル

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ウラード中旗の招待所

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ウラード中旗郊外にできたナダムの市場

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平原にできたナダム用の市場

 私たちは公安員の許可を得て。郊外の町が一望できるゆるい丘にテントを張った。明日から始まる競馬コースの近くで、草原にはアンパン型の白いゲルが6ヵ所に張られ、たくさんの馬をつないでいた。私たちの100メートル後方にも、ここから40キロほど西のチョワチン村から30頭の馬を連れてきた人びとがゲルを張っている。

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白いゲルのそばにつないだ馬

 彼らと親しくなり、夕食後、ゲルを訪れた。村長や村人数人と7、8名の子どもがいた。明日から3日間の競馬には9歳から13歳までの少年が出場するという。9歳のプホ君、10歳のマントラ君が参加するそうだ。

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競馬に出場する10歳のマントラ

 翌8月21日、8時半ころから競馬に参加する人びとの動きが活発になり、美しい草原に人がたくさん集まった。プホ君やマントラ君は、馬の首を抱いて裸馬によじ上った。彼らは、緑色の布で頭をすっぽり包み、そのはしを左右にたらし、風にひらひらさせながら会場に向かった。

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競馬に出る子供たちと保護者たち

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競馬に出る子と若い母親

 9時すぎると5~6千人もの人びとが集まって、競馬場はたいへんな盛り上がりとなった。

 競馬に参加する子どもたちは、布で頭を巻くか包んでいる。緑色、赤色、黄色でそうしている子と、頭に何もつけていないのもいるので、全部で7組である。

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3,000メートル競走に出る少年と馬

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出発点に向かう選手

 コースは3,000と6,000、9,000、12,000メートルの4種類であるが、初日の今日は、子供用で1周半の3,000メートルだけである。1回に6~7頭が出場し、楕円形のコースを走るが、内側に赤い小旗、外側に桃色の大きな旗か立てられている。

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出発地に集まった選手たち

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間もなく出発

 スタートは、小さな子には保護者がくつわを待ち、大きい子は自らが30メートルくらい助走し、合図用の赤い大きな旗を持った人の前をそろって通り、旗かふり下ろされて出発となる。保護者は旗より前に行ってはいけない。ゴールでは、ふり下ろされた旗を見てストップウォッチを押す。

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出発の旗が振り下ろされたが、慣れていないのか一斉ではない。

 若い騎手は一人前にふるまい、馬上で「ヒヤー」という奇声を発し、右手のムチをくるくる回しながら馬を駆けさせる。半周するとだいたい順位が決まるが、中には後半にもつれこむこともある。時にはコーナー回りができず、疾走してコース外に出たり、内に入ったりすることもあるが、再びコースに戻れば問題はない。馬は2~3日休養しているし、興奮しているので、ゴールに入っても馬上の少年にはなかなか止められない。大人が馬を走らせて追いつき、くつわをとらえる。

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スタート直後、すでに差があるが気にしない

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一周後の競り合い

 裸馬に乗った少年たちは、ゴール後に下馬するが、しばらくは足の筋肉が疲労し、歩きづらそうである。たぶん、両足で馬の背をしっかり抱えこんでいたのであろう。

 いくつものクループで競うので、順位はタイムによって決められた。最高か4分29秒89であった。3回目に参加したマントラ君は1位で入ったが。4分32秒であった。

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疾走する模様

 競馬に参加している馬は比較的高齢の馬か多い。馬か最も速く駆けられるのは6~8歳だそうである。しかし、長距離には弱いという。馬は10~13歳くらいになると、速く駆けることはできないが、長距離を安定した速さて駆け続けることかできるそうだ。そのため、5,000メートル以上の距離になると、10歳以上の馬か選ばれるそうだが、3,000メートルには8~10歳の馬が多いそうである。

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ゴールの赤と緑色の旗

 競馬は休みなく続くので、観衆は時のたつのが分からない。私もつい見入ってしまい、リポートすることを忘れるほどだった。

内蒙古からチベット7000キロの旅➉ ラクダに乗って

 8月19日の早朝、招待所の庭から眺めると、パインハテは広い平原の中にあるが、かなたの四方に山があった。やはり山のある風景はやすらぎを覚える。山は大地に変化をもたらす絶対的な存在で、自然の豊かさや神秘、活力などを象徴しているようにすら感じられる。

 パインハテを9時に出発し、昨夕の雨上がりの青い空と緑の絨毯を敷きつめたような草原のそこかしこに白い羊の群が点在するのを眺めながら走った。

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パインハテからの道

 運転手兼ガイドの包さんはパインハテ出身の蒙古族で、このへんには親戚が多いとのことだった。彼は、昨夜のうちに親戚のラクダ飼いを訪れ、今日、ラクダの旅ができるように頼んでくれていた。

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山沿いの羊の群れ

 岩山の南麓にあるラクダ飼いの家には11時前に着いた。しかし、放し飼いのラクダの居場所がわからず、今朝からの捜索隊がまた帰っていなかった。蒙古の牧民たちは、大型家畜の馬や牛、ラクダなどは放し飼いするので、1週間も10日も、長い時には1ヵ月も居場所を確認しないままでいることがある。

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山麓ラクダ飼いの村

 正午には4人のラクダ捜索隊が東の方から馬を走らせて戻ってきたが、まだ見つかってはいなかった。主人のオルドンチャオルさん(40歳)は、午後には見つかるでしょうと、当たり前のごとく言った。彼らは、2時半頃から再び出発し、午前中とは違った南の方へ向かった。

 午後4時半ころ、急に南の方から雨雲が強い風とともにやってきて、雨が激しく降った。今日はもうだめかなと車の中から見ていると、5時半ころ、やみかけた雨の中に20頭ほどのラクダの群か近づいてきた。

 雨にぬれたラクダは、体毛がベタッとくっつき、だらしなく汚れて見えるので、見栄えのするものではない。しかし陽がさしてくると、毛か乾いてラクダらしくなった。

オルドンチャオルさんはすくに出発の準備にかかった。奥さんと娘、村人一人が手伝って、手ぎわよく4頭のラクダに次々と荷物をつけた。長い距離を追い立てられて戻ってきたせいか、扱いやすく、ラクダとのコミュニケーションがうまいのだろう、昨日のラクダのように飛んだり、跳ねたり、蹴ったりはしなかった。

 明日から3日間、このあたりの中心地であるウラード中旗で、蒙古族の祭りであるナダムがあり、彼ら一家も午後から参加するので、ラクダの旅は明日の正午までしかできないとのことで、遅くなったが、7時前に出発した。

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ラクダの上から見た平原

 オルドンチャオルさんと私は、鞍をつけたラクダにまたがった。彼は荷物をのせた四頭のラクダをひいてどんどん進む。ところが、私のラクダはなかなか想い通りに進んでくれない。

 出発前に、オルドンチャオルさんがラクダの御し方を教えてくれた。「スック」は座れ、「トル」は止まれ、「ショック」は行けである。方向はすべて鼻に通した小さな棒の先に結んだ手綱でやると教えられたが、実地訓練もなく、しかも昨日の暴れラクダを見ている。おそるおそる御しても、なかなか言うことを聞かない。乗り慣れていないので、少し早足になって落ちそうになると、やわらかいこぶの毛をつかむ。

 馬には乗り慣れているのだが、ラクダはこれまでに20分以上も乗ったことかないし、性質もよく知らない。何より、馬よりも長い顔で、ヘビのような目はなんとなく親しみ難い。「走らないように」「暴れないように」「噛みつかないように」と祈るような気持ちで乗っていた。

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平原にいた野鳥

 幸運なことに、乗る直前に追い返されて走っていたせいか、案外おとなしいラクダたちである。心配しながら一時間も乗っていると、なんとなく乗り方がわかってきた。しかし、背が馬の2倍も高く、落ちればどうなるかという不安は脳裏から離れない。

 ラクダの歩みは馬よりも速く、時速10キロくらいである。馬は近距離に強いが、ラクダは長距離に強く、少々の塩を与えておけば、二週間飲ます食わすでも生きられ、乾燥には強いので、長旅には最高に便利な家畜なのである。

 1時間半ほど進んで丘の上に止まった。ラクダから積み荷をおろし、それぞれの手綱を地面にしがみつくように生えている倭木(根は地下3~4メートルも伸びている)に1本ずつ結ぶ。放置しておくと、一夜で遠くまで行き、捜すのが大変なのである。

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夕日を受けて立つ私が乗った双こぶラク

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オルドンチャオルさんとラク

 緯度が高いので、夏の日没か遅く、9時頃まで明るかったが、太陽が紅く空を染めて地平線に没すると、急に風か強く吹き、雨も少々混じって冷えた。平原の中に張ったテントは一晩中風にゆれ、その音が暫く耳についていた。

 8月20日の朝は風があり、上空の雲にはなんとなく秋の気配かある。ここは標高1300メートル、緯度は北侮道の函館くらいだから、もう初秋なのかもしれない。

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標高1,300メートルでの野営の早朝

 朝食後、オルドンチャオルさんと2人でラクダに荷物をつけ、9時に出発した。今日は正午までに約15キロ西のウラード中旗に着く予定である。ラクダは昨日より乗りやすく 気分もよかったので、どんどん進んだ。

 途中、撮影のため二度休憩したので少々遅れ、11時すぎにウラード中旗の手前(東方)の小川に着いた。ラクダの旅はここまでの約束である。

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ラクダの旅が終わり、ラクダを連れて帰るオルドンチャオルさん

 昨夕からラクダを立たせること、進ませること、止めること、方向を思い通りにさせること、走らせることなどはできるようになっていた。しかし、乗ったままで前足を折って座らせることかまたどうしてもできなかった。なんとかやれるようにならなければと スック(ソックとも聞こえる)、スックと声をかけ、俺をなめてはいかんよと、少し強く手綱を下に引いた。3度目にやっと前足を折ってゆっくり体を沈め、後足も折って座ってくれた。

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ウラード中期への道

 無事に終わってみると、たいしたことではなく、あっという間のできことのようであった。親近感の持てなかった、とぼけたような長い顔にも、優しい表情か見える。2日間のお礼にと、ラクダが最も喜ふという、長い首の喉をさすってやると、うつろな目で宙を見上げ、嬉しそうな表情でじっとしていた。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑨ ラクダ飼いの失敗

  蒙古語のパインオボは、“豊かな山”とでもいう意味であるが、漢名では“白雲オボ”である。この町は、近くの山で鉄鉱石か発見されてから急に発展し、今では人口3万もの漢人の町である。鉱石を南の包頭の町へ運ぶために線路がある。天然ガスも発見され、包頭までのパイプラインが埋設されていた。この町には火力発電所があり、平原の村々に電気を送っている。

 8月18日、鉄鉱の町パインオボを午前9時に出発し、さらに西へ向かう。平原の轍を走ること1時間半、岩山が近くにあるシンポロゴという村に着いた。

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シンポロゴ村

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シンポロゴ村で売られていたオートバイ

 私は、テレビのリポーターとして、ここから2日間、ラクダで草原の旅をすることになっていた。準備に少々時間がかかり、昼食後の1時半頃出発することになった。ところが、ラクダの背に荷物をつけるのになかなかてこずった。ラクダの扱いはプロのはずの牧民が、どうした訳かラクダを御しきれない。ラクダは嗚きわめき、座ろうとせず、後足で蹴ったり、噛みつこうとしたりで、男4人がたじたじである。

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ラクダ飼いの家

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ラクダにつける荷物

 案内役の青年が、双コブのあいだに鞍をつけたラクダに乗るには乗ったが、とたんに飛び上がり、足を宙に浮かせて大あばれ、数秒後にはいたたまれず、ラクダの首に抱きつくようにし、半分転げ落ちるように下りた。

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私用のラクダに鞍をつける

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ラクダに荷物をつけたが、この後大暴れ

 やっとのことで4頭のラクダに荷物を積み、さあ出発ということになり、私はラクダの鞍にまたがって手綱を持って進みはじめた。ところが、荷をつけた一頭が、またもや大あばれをはじめた。

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荷物をつけたラクダを引く女性

 ラクダは付和雷同しがちで、1頭が暴れると他も一緒に暴れがちなので、下りようとしたとたん、私のラクダが驚いたように身体をのけ反らし後ずさりした。あぶみから足をはずしていたので、バランスをくずして尻からとずんと落ちてしまった。ラクダよりも私の方が驚いて4つん這いで逃げた。荷物をつけた4頭が暴れだし、1頭は荷物をふり落とすように跳ねながら走る。誰も止められず、しばらく放置していた。

 私は、無事であったことに安堵したが、腰が抜けたように大地に尻をつき、なかなか立ち上がれないままラクダを眺めていた。

 ラクダ飼いの末裔である彼らは、すでにラクダを使役する技術を忘れている。ラクダとコミュニケーションが持てなくなっているのである。そのことを嫌というほど知らされた男たちは、愕然としたようである。

 彼らはラクダによる旅を辞退した。彼らにとってこれほど面白くないことはなかろう。しかし、日給としての1日分100元の請求は忘れなかった。

 仕方なく予定を変更し、さらに西へ進んだ。一時間半ほどで低い山に囲まれた、古い大きな土塀のある城塞跡に着いた。

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平原の中に古い城壁のような土塀が続いていた

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城塞跡の土塀

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大きな高い土塀に囲まれた城塞跡

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どのような民族が、いつごろ建設したのか誰も知らなかった

 城塞跡の近くにのある人口2000人ほどの村で尋ねたが、この城塞がどんな民族によって、いつごろ作られ、どうして滅びたのかを、誰も知らなかった。大半の住民が他所から移住してきたのである。彼らは、古い巨大な城塞都市跡の壁には無関心であった。 村の名前を聞きそびれたが、道沿いには雑貨屋、肉屋、菓子屋、文房具屋などがあり、スイカ、トマト、しゃがいも、なす、タマネギ、キャベツなどの自由市場が立っていた。しかし、人出はあまりなく閑散としている。

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村の役場のような建物

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露頭の市場

 夕暮れが迫ってきたのでさらに西へ進む。途中、一天にわかにかき曇り、かなり強い雨が降りはじめた。このへんは川に橋がなく、雨が降ると水か流れるので通れなくなる。急いでまだ水の出ていない川床を通り抜けたが、道の両側にはいくつも水溜まりができ、水浸しになっていた。ほんの30分くらいで雨の中を走り抜けたので救われたが、もう少し時間をかけていたら、涸れ川に水が流れ出し、途中で立ち往生していたにちがいない。

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雨を降らした雲

 午後8時半にパインハテ村に着いた。村の招待所は、部屋に鉄製のベッドがあるだけだった。ベッドに横になると、ラクダから落ちて打った尻が痛む。やはり打撲のショックは大きかった。

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パインハテ村の招待所

内蒙古からチベット7000キロの旅⑧ 平原の迷路

 草原の民である蒙古族の多くの僧が、ラマ教の聖地であるチベットの首都ラサヘ巡礼の旅をした。私たちも、巡礼者に混じって西川さんが通ったであろう道を通って、これからラサに向かって長い自動車旅行に出発する。

 このあたりの中心地であったオングル廟から北西に約70キロの草原の中からの出発で、コースは まずモンゴル人民共和国との国境近くまで西へ向かい、そこから南のアラシャンへと進む。蒙古高原の南には黄河が西から東へ流れている。チベットヘの道で黄河を北から南へ渡れるのは、ここからはるか西南の甘粛省の蘭州である。

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平原の中の轍(車の通った跡で建設された道ではない)

 午前10時、案内してくれたトルクルさんに別れを告げ、西の百霊廟にむかって出発した。360度見わたせる大草原に建設された道はなく、轍があるだけなので、まるで海と同じだ。

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轍に従って進む

 蒙古の平原は一般的に少々の起伏があるのだが、この辺は真っ平で、どちらを向いても同じ眺めである。それに家畜を追う牧民すらいない。平原の広さからすると、車がてんとう虫くらいで、人間はアリくらいである。目標とする物のない広さは太平洋のまん中にいるような不安感さえ覚える。

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轍を外れると方角がわからなくなる

 1時間もしないうちに、平原に慣れていない運転手が轍を見失い、あちこちと走り回るので、同じところを何度も回っているような錯覚にかられる。こうなると、大草原が美しいとか、広いとか、素晴らしいなどとは言っておられない。時の経過と共に広さか苦痛になり、不快になり、嫌悪したくなってきた。

 身を隠すことのできない広さや、心を隠すことのできない広さ、また高みのない広さなどは、不安と不信と恐怖をつのらせる。それらは山や谷のある狭さよりも、心理的にははるかに狭いのである。樹木の生えた山のある谷間の狭さは、身も心も隠すことが可能な広さがあり、心理的には自由で安心できる雄大さがある。

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乾燥した平原に咲いていた花

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平原のマメ科の植物

 平原に住む牧民たちは、他人が訪れると、まず最初に敵か味方か、害か無害かをより早く見きわめようとする。敵なら戦うか逃げるかであるが、味方、または危害を加えない人なら、お茶をサービスして雑談しながら情報交換をするのが習慣である。

 2時間も走るとガソリンが少なくなった。こうなると、広い草原は悪魔のすみ処で、 地獄の底のようであり、方向のわからない不安がイナゴの大群のように襲ってくる。

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大地のように白い花

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鮮やかな青色の花

 経典を求めてインドまで大探検をした玄奘は、こうした時にお経を唱え、迷いや不安を追い払ったのかもしれないが、私たちは、地図と磁石を頼りながら、身も心も迷ってしまった。自然と共に生きる知恵や信念を持ち合わせていない文明人のもろさなのかもしれない。

 偶然であったが、平原の中にあった人民公社あとの村に行き着いた。中華人民共和国の政策によって作られた人民公社は、農場 工場 病院、銀行、郵便局、学校、百貨店などの機能をもった総合的な集団社会で、何千人もの人びとか働く行政単位であった。しかし、1983年1月に責任生産制が導入され、その機能か失われてしまった。大半の人が去り、平原の中にできた大型開拓農場は、まるでぬけ殼のようにとり残され、大型農業機械が赤さびてみじめな姿をさらし、閑散としていた。

 かつては下放された数千人か住んでいたであろうが、今では殆ど故郷や大都市に出て行き、行くあてもなく残った数十人がいるたけで、人の気配もしないほどである。しかし私たちにとっては、まるで救いの神のごとくに思われ、住民の幹部にガソリンを頼んだ。ところが彼らは、突然の闖入者に貴重なガソリンを売れるものかと、かたくなに断った。フフホトから案内してくれている、若いのに頭の毛の薄い王さんが必死に頼みこんで 市価の10倍もの高い金を払い、やっと20リットルを買うことができた。

 村人の1人が農場を出て轍のわかりやすいところまで案内してくれた。その轍道は査干オボという村に続いているはずだったが、また迷った。平原や荒野で迷ったら電線に沿って走ればよいことは知っていたのだが、その電線すら探せなかった。迷いに迷ってなんとか百霊廟への道に出ることができた。

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百霊廟の建物

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百霊廟のラマ教寺院

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今は食料倉庫になっている寺院

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ラマ教寺院の庭に放置されていた大きな窯

 距離にすれはわずか90キロメートルであったが、道のない平原や荒野を、なんと4時間も迷いつつ走り、午後2時すぎに百霊廟の町に着くことができた。町の中心にある廟は、やはり文革中に破壊されていたが、すでにかなり修復され、古びてはいるが大きく立派な寺があった。

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百霊廟の街頭市場

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市場での野菜売り

 この町には新しくて大きな招待所があり、遅い昼食をした。そして、タイヤのパンクを修理し、ガソリンを満タンにして、4時半に西に向かって出発した。急いだが1時間半も要し、午後6時にパインオボの招待所に着いた。フフホトで別れたB隊はすでに到着していた。

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百霊廟の立派な招待所

内蒙古からチベット7000キロの旅⑦ 川に入った車

 翌8月16日、3日間暮らしたオルンノールから昼前にオングル村に戻った。そして、バートル村長にお別れのあいさつをし、文革以前には草原の中にあったというサッチン廟を訪れるため、正午前に出発した。しかし、思うようには進まなかった。

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平原の中のオルンノール村

 ホンゴル村の前を流れるシャルムル川は、漢名では柳沙河である。川幅は100メートルほどだが、水が流れているのは僅か20メートルくらいの浅い川である。もちろん橋などない。

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シャルムル川

 2台のランドクルーザーは一気に砂床の川を走り抜けようとした。先頭の一台は水の中をなんとか走り抜けて対岸に上がったが、後続車が水の中に止まってしまった。四輪駆動なのでなんとか脱出しようとしたが、車輪が砂に取られて動かない。ウインチを使おうとしたが、運転手たちは使い方を知らなかった。カメラの明石、斉藤の両氏か車のメカニズムに明るかったのだが、2台ともウインチが壊れていた。

 車輪の埋まっている砂を取り除こうとしたが、スコップ1本とてなかった。これから2ヵ月間、7000キロにもおよぶ探検旅行なのだが、運転手たちは何の装備もしていない。彼らは車の運転をするだけで良いと言われていたのだという。

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ホンゴル村前のシャルムル川の中に止まった車

 中国では、運転手は特殊技能者である。彼らは運転するたけで、荷物を運んだりはしない。客に気を使うこともなく、ただ安全に運転することだけなのである。

 村に人をやって村長に助っ人を頼んだ。やがて、スコップと板を持った八人の男か来てくれた。ところが、車の後を押したり 持ち上げたり、ロープで引いたりする時の合図の仕方がちがかった。日本では「イチ、ニー、サン」であるが、中国側は「イー、アール、イー」である。「イチ、ニー、イチ」とは納得いかなかったが、郷に入っては郷に従えと、大声で「イー、アール、イー」と音頭をとった。しかし、車は一向に進んではくれなかった。

 なんと最後には皆で車を待ち上げ、車輪の下に石や板を敷いて押し上げる原始的な作業をして、3時間後にやっと進めることができた。

 脱出作業中に、1台のオートバイが同じ方向にやってきた。チェコ製のJAWA350CCで、やはり水の中で止まった。1人ではどうにもならず、三人が助っ人に急行し、やっと対岸に脱出したのだが、彼、ドルグルさん(30歳)は、隣の巴音(パイン)村の行政幹部で、村まで約40キロを先導してくれることになった。

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平原に咲いていた花

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平原に咲いていたアザミの一種

 大平原の轍(わだち)の道は迷路で、先導がないと確実に迷うのである。途中、城壁のような盛り土が東西につづくのを見かけた。かなり古い土壁だが、いつの時代のものか解明されていなかった。

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パイン村

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くぼ地の川沿いにあるパイン村

 午後4時半に巴音(パイン)村に着いた。村は平原の中の窪地にあった。熱い日中の脱出作業で、みな疲れていた。少々早いが、村の招待所に泊まることにした。そして、村の食堂で冷えていないビールを飲み、5時すぎに昼食と夕食をかねて肉うどんを食べることによって1日が終わった。