内蒙古からチベット7000キロの旅⑧ 平原の迷路

 草原の民である蒙古族の多くの僧が、ラマ教の聖地であるチベットの首都ラサヘ巡礼の旅をした。私たちも、巡礼者に混じって西川さんが通ったであろう道を通って、これからラサに向かって長い自動車旅行に出発する。

 このあたりの中心地であったオングル廟から北西に約70キロの草原の中からの出発で、コースは まずモンゴル人民共和国との国境近くまで西へ向かい、そこから南のアラシャンへと進む。蒙古高原の南には黄河が西から東へ流れている。チベットヘの道で黄河を北から南へ渡れるのは、ここからはるか西南の甘粛省の蘭州である。

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平原の中の轍(車の通った跡で建設された道ではない)

 午前10時、案内してくれたトルクルさんに別れを告げ、西の百霊廟にむかって出発した。360度見わたせる大草原に建設された道はなく、轍があるだけなので、まるで海と同じだ。

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轍に従って進む

 蒙古の平原は一般的に少々の起伏があるのだが、この辺は真っ平で、どちらを向いても同じ眺めである。それに家畜を追う牧民すらいない。平原の広さからすると、車がてんとう虫くらいで、人間はアリくらいである。目標とする物のない広さは太平洋のまん中にいるような不安感さえ覚える。

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轍を外れると方角がわからなくなる

 1時間もしないうちに、平原に慣れていない運転手が轍を見失い、あちこちと走り回るので、同じところを何度も回っているような錯覚にかられる。こうなると、大草原が美しいとか、広いとか、素晴らしいなどとは言っておられない。時の経過と共に広さか苦痛になり、不快になり、嫌悪したくなってきた。

 身を隠すことのできない広さや、心を隠すことのできない広さ、また高みのない広さなどは、不安と不信と恐怖をつのらせる。それらは山や谷のある狭さよりも、心理的にははるかに狭いのである。樹木の生えた山のある谷間の狭さは、身も心も隠すことが可能な広さがあり、心理的には自由で安心できる雄大さがある。

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乾燥した平原に咲いていた花

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平原のマメ科の植物

 平原に住む牧民たちは、他人が訪れると、まず最初に敵か味方か、害か無害かをより早く見きわめようとする。敵なら戦うか逃げるかであるが、味方、または危害を加えない人なら、お茶をサービスして雑談しながら情報交換をするのが習慣である。

 2時間も走るとガソリンが少なくなった。こうなると、広い草原は悪魔のすみ処で、 地獄の底のようであり、方向のわからない不安がイナゴの大群のように襲ってくる。

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大地のように白い花

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鮮やかな青色の花

 経典を求めてインドまで大探検をした玄奘は、こうした時にお経を唱え、迷いや不安を追い払ったのかもしれないが、私たちは、地図と磁石を頼りながら、身も心も迷ってしまった。自然と共に生きる知恵や信念を持ち合わせていない文明人のもろさなのかもしれない。

 偶然であったが、平原の中にあった人民公社あとの村に行き着いた。中華人民共和国の政策によって作られた人民公社は、農場 工場 病院、銀行、郵便局、学校、百貨店などの機能をもった総合的な集団社会で、何千人もの人びとか働く行政単位であった。しかし、1983年1月に責任生産制が導入され、その機能か失われてしまった。大半の人が去り、平原の中にできた大型開拓農場は、まるでぬけ殼のようにとり残され、大型農業機械が赤さびてみじめな姿をさらし、閑散としていた。

 かつては下放された数千人か住んでいたであろうが、今では殆ど故郷や大都市に出て行き、行くあてもなく残った数十人がいるたけで、人の気配もしないほどである。しかし私たちにとっては、まるで救いの神のごとくに思われ、住民の幹部にガソリンを頼んだ。ところが彼らは、突然の闖入者に貴重なガソリンを売れるものかと、かたくなに断った。フフホトから案内してくれている、若いのに頭の毛の薄い王さんが必死に頼みこんで 市価の10倍もの高い金を払い、やっと20リットルを買うことができた。

 村人の1人が農場を出て轍のわかりやすいところまで案内してくれた。その轍道は査干オボという村に続いているはずだったが、また迷った。平原や荒野で迷ったら電線に沿って走ればよいことは知っていたのだが、その電線すら探せなかった。迷いに迷ってなんとか百霊廟への道に出ることができた。

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百霊廟の建物

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百霊廟のラマ教寺院

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今は食料倉庫になっている寺院

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ラマ教寺院の庭に放置されていた大きな窯

 距離にすれはわずか90キロメートルであったが、道のない平原や荒野を、なんと4時間も迷いつつ走り、午後2時すぎに百霊廟の町に着くことができた。町の中心にある廟は、やはり文革中に破壊されていたが、すでにかなり修復され、古びてはいるが大きく立派な寺があった。

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百霊廟の街頭市場

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市場での野菜売り

 この町には新しくて大きな招待所があり、遅い昼食をした。そして、タイヤのパンクを修理し、ガソリンを満タンにして、4時半に西に向かって出発した。急いだが1時間半も要し、午後6時にパインオボの招待所に着いた。フフホトで別れたB隊はすでに到着していた。

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百霊廟の立派な招待所