ユーラシア大陸横断鉄道の旅の終着点は、リスボンのサンタ・アポロニア駅であるが、もう1つの目的地は、本年(1992)7月にオリンピック大会が開催されるスペインのバルセロナである。
ロカ岬からリスボンに戻った翌早朝、サンタ・アポロニア駅からスペインのマドリードに向かった。そして、5月18日午前11時、マドリードのシャマルチン駅からバルセロナ行きの列車に乗り、カスティーリャ高原を東に向かった。
高原から徐々に下がっていくので、平地であった大地がやがて丘のようになり、さらにエナーレス川に沿って下って行くと山へと姿を変えた。11時40分、グアダラハラに着いた。西南に見える山の頂上がマドリードと同じ標高だという。
グアダラハラを出ると列車はさらにどんどん下って行き、やがて石灰岩の狭い谷間を走る。オレンジ色の岩山には、大小の鍾乳洞が見える。アメリカのグランドキャニオンの谷底を走っているようだ。
午後2時19分にサラゴザ駅に着いた。このあたりは葡萄、桃、サクランボ、林檎、麦、ジャガイモ、ネギ、キャベツ、キュウリ、カボチャなどを栽培する豊かな農業地帯だそうだ。
サラゴザを出ると大きなエプロ川に沿って走ったが、川沿いには南方系のヨシが生えている。列車が進むにつれて、車窓に展開する段丘になっている風景から推測がつくが、このあたりはかつて大平原であり、やがて大地が浸食されて丘となり、さらに浸食が進んで山となったという地形の変化が読み取れる。山や谷、川の成り立ちを勉強するには、これほど条件が揃った良い現場はないだろう。
列車は、南の地中海に向かってひたすら下って行く。人々はこの高低さを利用して灌漑用水路を作り、乾燥した大地を耕して農作物を栽培している。いかなる自然環境にも順応して生きながらえてきた人類の英知が、今もこの地方で応用され、変わることなく働き続けていることが分かる。
5時36分、ついに青い地中海に出た。マドリードの乾燥した高原から6時間30分もかけて、大地を徐々に下り、やっと海面の高さまでやって来た。
海はなんと広くて素晴らしいのだろう。広さと豊かさがあり、落ち着きと安らぎを与えてくれる。それは、私が海辺で生まれ育ったせいもあるだろうが、ユーラシア大陸の乾燥した内陸を旅して来た者にとって、海はやはり偉大な存在だ。
午後6時25分。オリンピック大会の準備で慌ただしいバルセロナ駅に到着した。
この旅を計画した時、東京からバルセロナまで陸路の鉄道で行けることを証明し、バルセロナオリンピック大会を盛り上げようと思い、何としてもオリンピック前に実行したかった。
もう1つは、オリンピックに参加する選手たちを、応援したかったので、親しかった当時の文部省体育局長に、忠告・進言したからでもあった。それは、バルセロナ前の、ソウルやロサンゼルスのオリンピック大会で日本選手が体調不良などで振るわなかったからだ。特に、ロサンゼルス大会でマラソンの瀬古選手が、大会の数日前にロサンゼルスに到着し、優勝候補になっていながら振るわなかった。それは、大陸性気候の乾燥に対応しきれなかったからだった。
私が理事長をしている青少年交友協会は、1980年度から北京で、中華全国青年連合会との共催で、「北京21キロかち歩き大会」を毎年10月に開催していた。
日本の10月の湿度は6、70%であるが、北京は2、30%で、日本からの参加者の多くは、毎回風邪気味になり、体調がふるわなかった。それは、乾燥した大陸性気候に身体が順応するため、自動的にフル活動するので、動かなくても疲労し、鼻や喉、目などの粘膜に風邪と同じような症状が現れるので、体調不良を意識するからだった。北京のかち歩き大会や、世界中を旅行して、人体に対する乾燥の厳しさを知っていたので、私は毎回参加者たちに白湯やお茶をよく飲むように勧めた。
日本の運動生理学には、温度や高度に適応する知識はあったが、乾燥に対する知恵はなかった。大陸の乾燥地帯でのスポーツ大会では、日本の選手は風邪などの体調不良で良く戦えなかったことが、報道されていた。
私は、当時の体育局長に、バルセロナは大陸性気候で乾燥しているので、湿度の高い日本からの参加選手は、最低でも2週間前、出来れば3週間前には現地を訪れて身体を順応させるようにと進言していた。
人間の身体が自然環境になじむには2週間以上かかる。世界でも湿度の高い日本人が、大陸性の乾燥した環境になじんで、体調が整えられるには3週間はかかる。
後日談になるが、体育局長への進言が効を奏したかどうか知らないが、バルセロナ大会には、日本の選手団は2、3週間前に現地を訪れ、ソウルやロサンゼルス大会よりもはるかに良い成績を残した選手が多かった。
このユーラシア大陸を横断する旅には、オリンピック大会以前にバルセロナを訪ねて、現状を報告することもあった。
東京から飛行機で来れば、点から点への移動でしかない。しかし、鉄道を乗り継いでの旅は、自然環境を越えて線でつなぐことができる。何より、風俗習慣、宗教、それに政治的な境界など、観念の壁をすべて突き抜けて、東京→リスボン→バルセロナが点の連続である線になって繋がる。
ユーラシア大陸は何と大きく広いことか。なんと多くの人々が様々な自然環境に順応して生活を営んでいることか……。その人々の代表が1992年7月、このバルセロナで一堂に会してスポーツ大会の祭典を開催する。
バルセロナオリンピック大会が開催される、広くて美しいメインスタジアムを訪れて眺めた後、ガウディの設計した「サクラダファミリア」やバルセロナの街を観光した。そして,34日間のユーラシア大陸横断鉄道の旅を終えて、飛行機で日本へ向かい、5体満足に無事帰国した。
最後までご覧くださってありがとうございました。しばらく休んで、又新たなブログを紹介させていただきます。