内蒙古からチベット7000キロの旅⑥ 馬飼いの青年たち

 オルンノールから20キロほど北のウータ(門)というところにいた、馬飼いのトルムトシンさん(30歳)兄弟に出会い、相談したところ、なんと、7家族の馬300頭を集めてくれた。

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ウータの平原にある井戸で、家畜に飲ませる水をくみ上げる人

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馬を追う牧童たち

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馬が徐々に集まってきた

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平原で馬を追い集める様子

 300頭の馬が草原を走り、それを扱う若者たちの機敏な動きを見ていると、まるで戦場のような騒動になった。雷鳴のように大地を踏み鳴らす蹄の音、驚きと興奮にかん高く鳴く馬の嘶き、そして馬を御し、追いやる人の声……。静かだった草原が、活気と騒音の渦と化し 土埃が舞いあがった。

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集まってきた牧童たち

 人馬一体とよくいわれるが、馬にまたがる人間か馬を御さない限り、人馬一体にはなりえない。そのことを十分知っているからこそ、先祖代々の技と、自ら培った技を十分に使いこなしているのである。

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疾走する馬

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馬を捕獲する牧童

 疾走する馬に乗って馬群を追い、長さ5メートルもの、楊柳(ヤナギ)で作った捕馬竿(オルク)をもって馬を捕獲し、馬上から飛び下り、捕獲した馬の尻尾を持って振り倒す技や、地上に落としたオルクを走る馬上から手を差しのべて拾い上ける技などは、幼少年時代から長年培ってきた生きるための技である。彼らの行動、技すべてが、有史以来の北方騎馬民の知恵であり、生きざまであり、生活の様式なのだ。

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疾走しる馬を追う牧童

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疾走する馬上から地上のオルクを拾い上げる牧童

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牧童たちと同じように働いていた娘

 約40分、人間と馬がともに生きる凄まじい光景をみた。大きな馬を扱う人びとが何ゆえに貴族であったのか、この死闘をくり返すような激しい行動をみて、小さくておとなしい羊を飼う人びととの違いを知ることによって納得できた。

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馬の捕獲を実演してくれた。

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捕獲のため首に縄をかけた馬を追いかける牧童

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捕獲した馬の尻尾をもって倒した牧童

 彼らは、ひと仕事終えたような雰囲気で大地に半円をなして座った。額に汗し、スポーツの後と同じような表情には、喜びと活力がみなぎっでいた。

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疾走する馬の捕獲の仕方を見せてくれた後、集まってくれた牧童たち

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元気な明るい娘たちもいた。

 戦いのない今日では、武器や道具として価値の高い馬の必要性はほとんどない。しかし彼らは今も誇りに満ちている。だが、食肉として価値の高い羊飼いよりも、労多くして収入か少ない現状に、いささかの不満をもっている。平和な時代には馬の需要が少なく、売れないのである。

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今ではオートバイで馬を追うこともあるそうだ。

 これは蒙古族にとって秘密の情報だが、漢民族の商人か車やオートバイ、テレビ等と馬を交換したり、安く買いたたいて大連に運び、そこでしはらく飼ってから、日本の九州地方へ輸出しているそうである。日本では禁止になった鯨肉の代りに馬肉がよく食べられるようになった。しかし、古来から、馬肉をめったに口にしない誇り高き蒙古族は、このことをまだ知らない。馬を武器とし、友として遇し、やむお得ないとき以外口にすることはなかった蒙古族にとっては、馬が食べられるために日本へ輸出されることは、哀しい情報であり現状である。

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ゲルの中でいろいろ教えてくれた馬飼いの長老

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手伝ってくれた馬飼いの若者たち

内蒙古からチベット7000キロの旅⑤ 牧畜民の生活

 オルンノールの草原には、ポツン、ポツンと一定の距離をおいて移動式住居である白いゲルが20張りほど点在している。その中の1張りに住む、羊飼いのソミヤさん(37歳)一家を訪れた。バートル村長が頼んでくれたので、私たちは、彼のゲルの近くにテントを張って3日間生活することになった。

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オルンノールの草原

 彼らの住居であるゲル(中国語ではパオ)は、アンパン型の移動式住居で、木の骨組みの上を羊毛で作ったフェルトで覆ったものである。中には柱はなく、高さ2~3メート、直径5メートルくらいのドーム型の半球体である。

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フェルトをとり払ったゲルの骨組み

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ソミヤさんのゲルの前に集まった羊たち

 奥さんのナンスルマさん(33歳)はたいへんな働き者で、4人の子供や家畜の世話、そして家事と、休む暇もなく次々に仕事をこなしていた。彼女は、私たちが訪れると、茶湯にミルクを混入したスーテチェ(乳茶)をご馳走してくれた。スーテチェは、バター茶よりもあっさりしていて飲みやすい。

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羊の乳を搾るナンスルマさん

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ヤギの乳を搾るナンスルマさん

 今日の中国で、東北アジアの牧畜民は豊かな生活をしているといわれる。83年以来家畜の個人所有が認められ、今ではこのへんの牧民は、一家族で2~300頭の羊を所有している。

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平原の小さな湖

 200頭の羊を所有すれば、1年に80頭売ることができるので、年収が1万元を越すことになる。これは大変な高給取りである。草原に暮らすソミヤさんが、自家発電によってテレビを見ることができ、オートバイを買うことができるのはそのせいであり、かなり裕福な生活をしている。

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風力発電気の装置があるゲル

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平原で草をはむ羊や山羊たち

 8月中旬の蒙古の草原は、草が2~30センチも生い茂り、ニラやネギの花が咲いて、まさしく「緑のじゅうたん」という表現にふさわしい平原である。

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地平線上に昇る朝日
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金盥に水を注いで、両手で顔を洗うナンスルマさん

 6時すぎに夜が明け、45分に地平線から太陽が昇る。7時すぎに起き、ナンスルマさんに蒙古式洗顔を習った。左手を上にし、両掌を重ね、水をすくい上げて、左から右へ回すように力強く洗う。風呂に入ることのない彼らは、顔や手をたいへん熱心に洗う。時に洗面器に湯を入れて全身をふき洗うが、それもていねいに行なう。しかし、厳寒の冬には、手や顔を水で洗うことは少ない。

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やかんに水を注ぎ湯を沸かす

 ナンスルマさんは、朝起きると、まず湯をわかし、碑茶を斧でけずり取って入れ、茶湯をつくる。それにミルクを混入してステーチェにする。水または湯で顔を洗ってゲルの入口に立ち、柄杓で乳茶を天に投げ上げ、神に感謝する。これはラマ教の習慣で、“アワントルチ”と呼ばれる。彼女は、毎朝オボに向かってお祈りをしてから一家の1日の生活をはじめる。自然とともに生きる生活の儀式なのである。朝食は、この後に乳茶を飲み、煎り粟や乳製品を食べる。

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柄杓で乳茶を天に投げ上げるナンスルマさん

 ソミヤさんの羊たちは、ゲルの前に集い、鼻先を胸にくっつけるようにして眠っている。羊たちは7時40分ごろから起きはじめ、つぎつぎに立ち上がって背伸びをし、周囲を見ながら「メー、メー」と鳴く。ナンスルマさんは、200頭の羊の顔が全部見分けられる。私にはどれも同じに見えるのだが、生まれた時から扱っている彼女には、人間と同じように、その特徴がわかるという。 

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夜明けの羊と山羊たち

昼食や夕食にはよく麺を食べる。だしには干し肉を使い、野生のニラやネギをきざみ込むこともある。ナンスルマさんの作る麺料理は、市販の乾麺をゆで、汁ごと煮るので、少々塩辛く、粉っぽくて味が良いとはいえなかった。2キロも離れたところから水を運んでくるので、料理用にも水が十分使えなかったせいかもしれない。

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乾麺をゆでた汁うどんをよそうナンスルマさん

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ゆでたうどんを食べるソミヤさん一家

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ゲルの中の乳児

 ナンスルマさんは、午後2時前から乳をしぼる。羊や山羊の雌は、たいてい3月ごろ仔を産むが、産後5ヵ月間ほど搾乳をすることができる。羊や山羊の乳をしぼり取って食料とするために、親仔を別々にしておく。生後間もない時には、朝夕2回、やがて夕方の1回しか親仔を一緒にしない。

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私たちのテントとゲルが並ぶ草原の風景

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私用のテント

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大平原での野営

 とにかく、蒙古族の女性の夏の1日は忙しい。しかし、夫のソミヤさんは日中でもゲルの中で横になったり、時には彼女の働きぶりを見にきたりと、いたってのんびりしていた。

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平原の夕日に映える空

 

内蒙古からチベット7000キロの旅④ ニラの花咲く草原

 私たちは、バートル村長の案内で牧畜民の住む草原を訪れることにした。ホンゴル村から東北に向かって十分も走ると、緑なす大草原である。まさしく蒙古の草原で、見渡す限り山はない。しかし、ゆるやかな起伏はある。車で走っていると、やや小高い丘に、石を積み上げたオボがあった。イヘ(大きい)と呼ばれるオボである。 

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緩やかな丘の上のオボ

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ニラのお花畑

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丘の上のイヘオボ

 蒙古族は、古くから山や丘の頂に盛り上がるように残った自然石を「オボ」と呼び、天神の降臨する聖域とみなしていた。そしていつのころからか、方位の吉凶によって、居住地域の山や丘の頂に石を積みあげたり、有力者の狩猟などの記念に石を積み、その堆石をもオボと呼ぶようになって、天神の降臨するところとした。蒙古族の古来からのシャーマン信仰は、万物の霊を信じるアニミズムで、オボは、天と地を祭る場所として尊ばれてきた。日本の社や祠と同じようなものである。

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平原のかなたに見える虹

 オボは、神霊と人とのコミュニケーションの場であり、旧暦五月十三日の年一度のオボ祭の場である。また、道標の役目もはたし、地名や方角の基点となり、集団の象徴であり、意志伝達のためには欠くことのできないものである。人びとはオボを目標とし、太陽や月、星や草の生え具合によって方角を知る。

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大平原の中のパオ

 チンギスーハンの時代には、人びとが戦いに出る時、必ずオボに集まって戦勝を祈願したという。そして、オボの前で進攻の命を下した。戦いが終わると、同じ場所で戦利品をわかちあい、酒を飲んで、角力(すもう)や競馬をした。またオボは軍事訓練を見るところでもあった。

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パオの骨組み

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パオの組み立て

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平原に住む蒙古族の少年

 草原に残る車輪の跡を走ると、やがて白い銀粉をまき散らしたような幻想的な大地が、青い空の下いっぱいに広がっていた。車を止めて外に出ると、花の香りが快い。一つ一つの花ではなく、四方に広がる花園をそっくり感じる雄大さと、白く輝く草原の美しさに感動が波のように押しよせる。

 「ターンナ、日本ではニラと呼んでいます」

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ニラのお花畑を撮影する

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ニラの生えた大地は乾燥していた

 通訳のホシコさんが花の名を告げてくれた。身長175センチほどの体格のよい初老の彼は、満州時代に長春にあった日本の建国大学を卒業した蒙古族で、上手な日本語を話す。草原で暮す60代の人びとには、日本語の上手な人がいる。彼らは、蒙古族にとって初めての学校に通った人たちである。当時、日本はこの草原のいたるところに学校を作り、蒙古族や漢族、満族の子弟を差別することなく入学させて教育した。子供たちのなかには、日本が戦いに負けて引きあげた後も学校に通った者もいた。

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ニラの花

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引き抜かれたニラ

 内蒙古にいる50代以上の知識者は、当時日本の小学校に通ったことのある人びと。中にはホシコさんのように大学まで卒業し、医者、教師、公務員、通訳などになった人もいる。ホシコさんは親切で、対日感情がよく、いつも笑顔で接してくれた。

 「ニラを家畜が喰うと、乳も、小便も、体もニラの香りがします。若いニラは人間も食べます」

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ニラの花咲く草原での筆者

 彼はニラを引きぬいて、白い根を私の鼻先に近づけた。

 ニラの白や白紫色の花が一面に咲くお花畑であるが、中には紫色のネギ坊主のような花もある。

 「これは蒙古語でホムル、漢語では沙葱、日本語では蒙古らっきょうと呼びます」

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平原での野営風景 右上に小さな湖が見える

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野営における中国の料理人たち

 ニラや蒙古らっきょうの、小さな花を放射状につけた球形の花をトロゲ(頭)と呼ぶことも教えてくれた。ニラの花咲く草原は、オルンノール(多数の湖)という地名。その名の由来通り、この草原には小さな湖がいくつも点在している。

内蒙古からチベット7000キロの旅③ 蒙古草原の村

 翌13日はさらに北へ向かった。王府をすぎると平原の道は轍になった。川のあまりない平原の低地はぬかるんでいるところがあり、時々車輪がスリップして、走行は思うようにはいかなかった。車は日本製の四輪駆動であるが、中国科学院所属の科学査察車で、屋根には荷台があり、頭部にはウィンチ(巻上げ機)もついている。

 道沿いはまだ農業地帯であるが、王府までとは異なって、ポツリ、ポツリと土の家があり、その周辺が耕作地になっているだけで、集落はあまりない。平原には樹がなく、農耕地以外は、昔ながらの草原である。

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平原の中の道沿いに続く畑

 このあたりの農民は、1949年の新中国である中華人民共和国の樹立以後、蒙古族の遊牧地に、南のフフホトや四子王旗などから一方的に侵入し、移住した漢民族である。遊牧の地であった蒙古の平原は、南の方からしだいに農耕地化しており、今でも少しずつ北へ伸びている。だから北へ行けば行くほど農耕地は少なく、開拓年数が浅いのである。まさしく。遊牧民が農耕民に追われ、年ごとに遊牧地を失っている地球的規模の現状をよく物語っている。

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道沿いの長いそば畑

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一面に花が咲いているそば畑

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そばの花

 畑は、道沿いから500メートルも1000メートルも長くつづいている。牛や馬、ラバなどの家畜に木の犂黎を引かせて往復すると、20分ほど要する長さである。

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ロバと牛が並んですきを引く農耕

 水分の少ない砂地の畑には、彼らの食料である麦、こうりゃん、そば、ひえ、あわ、じゃがいもなどが栽培されている。そばの白や桃色の花が一面に咲いている。そば畑が比較的多いのは、日本に輸出するためだという。

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ジャガイモの花

 やがて農耕地は消え、草の生えた草原がつづくようになった。これまであまり見かけなかった羊や山羊の群があちこちに散在するようになり、家畜と共に生活する牧畜民、蒙古族の生活圏に入った。

 しばらく走ると突然に草原が切れ、谷のように陥没したところに出た。蒙古の草原には数少ない水の流れる川があり、そのそばに村があった。地図の上では、漢名の「大廟」という村である。しかし、本来の蒙古語では、窪地を意味する「ホンゴル」という名の村で、四子王旗から北へ70キロもあり、約四時間を要して正午すぎ、人も車も泥と埃にまみれながら、やっとのことで着いた。

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ホンゴル(大廟)村

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ホンゴルの村の中

 ホンゴル村は、昔からチベット仏教であるラマ教の大きな寺があり、このへんの蒙古族の中心地となっていた。革命政権樹立以後、ここにも人民公社ができ、多くの漢民族が住むようになっていた。しかし1983年1月から人民公社が解体され、生産責任制度が導入されると、漢民族の一部はフフホトや四子王旗、その他の町へ戻り、蒙古族は家畜の私有が認められ、草原に戻った者が多かった。

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川沿いのラマ教寺院の跡

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文革中に破壊されたラマ教寺院

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修復中の寺院

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破壊された寺院の壁に残っていたラマ教曼陀羅

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ラマ教寺院の壁画

 人民公社が解体された後の内蒙古自治区の行政の末端はソム(村)である。旧名のホンゴル・ソムと呼ばれるようになった村のバートル村長(36歳)は、戦後初めて訪れた日本人である私たちを歓迎してくれた。1945年まで、しばらくのあいだ日本の植民地と化していた満州国の領土内であったこの地にも日本人が住んでいたので、村人は日本人を知っていた。しかも蒙古族の人びとは、日本人に親しみすらもっていた。中には平原の中の日本語学校に通った人もいて、片言の日本語を話した。

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文革以後ラマ教寺院に戻ってきた僧たち

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戻ってきた老僧の中には、日本語を話す人がいた

 人口2,847人のホンゴル村では、粗末な簡易ベッドがあるだけの招待所に泊ることになった。中国はどんな村や町、市でも招待所があり、外来者はここに泊ることができる。しかし、その大小や内容のレベルが異なり、下は土壁の家の中に簡易ベッドがあるだけのものから、上はホテル同様のものもある。

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ホンゴル村の老僧たちと筆者(中央)

 

内蒙古からチベット7000キロの旅② 日中合同の西域探検隊の出発

 私たちが、1988年の春に香港資本との合併で建設されたばかりの、昭君大酒店というモダンなホテルで休憩していると、北京から3台のランドクルーザーがやって来て合流した。

 TBSテレビの「新世界紀行」のリポーターとして、中国の内蒙古からチベットまで約7,000キロの踏査行への出発である。

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西域探検隊の日本人A班 左端筆者 明石、斎藤 右端デイレクターの皆川さん

 日中合同の西域探険隊は、日本人8人、中国人7人の15人である。車は北京から最終地のラサまで同行する3台と、案内用の現地の車1台。北京から最終地まで同行する案内人の羅さん(27歳)と3人の運転手は北京育ちの漢民族内蒙古の連絡員の王さん(34歳)はフフホト育ちの漢民族だが、通訳のホシコさん(60歳)と運転手の包さん(38歳)は蒙古族

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蒙古族の通訳ホシコ・ポインさん

 日本からの同行者は、ディレクターの北村さん、中村さん、カメラマンの明石さん、村口さん、そして音響の斉藤さん アシスタントの渡辺君、通訳の池上さんであり、途中で、TBSのプロデューサーである東條さんが合流することになっている。

 隊は、メインのA班、サブのB班の2つに別れた。A班は北村、明石、斉藤 池上と私を含めた日本人5人と王さん、ホシコさん、それに車2台の運転手の張さん(32歳)と孫君(19歳)の9人である。

 私たちA班は、ここから170キロほど北の草原にある、大廟と呼ばれるラマ教寺院を訪れるため、フフホトには1泊もせずに、午後4時すぎになって、四子王旗という町にむかって出発した。

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大青山の山中

 フフホトを出発して20分もたたないうちに大青山に入った。この山は、東西につらなる陰山山脈の一部であるが、赤い岩肌が多く見られることから“紅い山”とも呼ばれている。

 大青山を北へ越すと、蒙古高原と呼ばれる平原である。この平原は平均標高1500メートルで、夏には草が生えた緑の草原となり、古くから家畜と共に生活する牧畜民の居住地域であった。            

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大青山から北への道

 標高2000メートルの大青山は、南のフフホトから見ると高い岩の連山であるが、北の武川の町から見ると、やや高めの丘でしかない。蒙古高原の南端にある武川は、ゆるやかな丘に囲まれた町であり、昔から、南の漢民族と北方騎馬民族の攻防がくりかえされた古戦場でもある。今年(88年)は雨が多かったので、平原に草が多く、樹の生えていない岩山である大青山にも草が生え、その名のとおり、全山青く見える。

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平原のお花畑

 古くから、漢民族と、遊牧民である北方騎馬民族との境界地帯になっていた大青山は、南からは越し難いが、北からは越しやすい。そのせいもあってか、南の漢民族は、紀元前3世紀ごろにはすでに、ここから100~150キロ南に、人工的な境界線として、長大な壁を築いていた。それは何世紀にもわたって増改築をくりかえし、『万里の長城』と呼ばれる国境の壁となって東西に続き、今もまだ存在している。

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平原での野営

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野営地での料理

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野営地での食事

 昔からよくいわれていることは、漢民族にとって、万里の長城を北に越せば異民族、異文化の異郷の地ということであったが、清朝時代以後、新中国になってからも多くの漢民族が北へ移住し、今では、多くの漢民族が長城の北に住んでいる。内蒙古自治区2千万の人口のうち、蒙古族は約300万で、大半が漢民族なのである。

 武川を過ぎると古の平原であるが、ここはまだ漢民族の居住地域で、見わたす限りに麦畑が続いており、牧民の姿はみられない。

 フフホトから百キロの距離を2時間半で走り、四子王旗の町に着いたのは午後7時すぎであったが、まだ明るかった。最初の夜は、四子王旗賓館に泊った。

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馬上の筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅① 万里の長城を越えて

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当時の北京駅

 北京を汽車でたったのは1988年8月11日の午後6時53分だった。夕闇せまる平地を北に向かうと、やがて岩山がそびえる山岳地帯に入った。車窓の外には、暮色蒼然として迫る八達嶺の尾根を走る長城がつづく。青龍橋の駅近くの線路ぞいに、幾重にも見られる城壁は、古いもので紀元前三世紀の秦の始皇帝時代、新しいものでも14~5世紀の明朝時代に建造されたものである。

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夕暮れの万里の長城

 すでに2千年以上も存在しつづけている壁は、多くの戦いを見てきたことであろう。しかし、時の流れを越えてきた壁は、昼間見る長城とは趣を異にし、夜空を翔(かけ)る白竜のようである。勾配の急な軌道をあえぎながら走る車窓から見上ける光景は、神秘的な物語の世界のようで、あきることを知らない。やがて、時も物も包み隠してしまう闇となった。ガタン、ゴトンと車輪をはずませながら北へ走る夜汽車は、これから始まる中国大陸西域を縦断する探険旅行の出発地フフホトへ向かって心地よく運んでくれた。

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万里の長城の見える清龍橋駅

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青龍橋駅に迫る万里の長城

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夕暮れの駅と長城

 翌8月12日の午前7時15分、特急列車は終着のフフホト駅に着いた。標高1,

050メートル、北緯41度で青森とほほ同じ緯度にあるフフホトは、夏とはいえ霧雨の降る肌寒い天気だった。私たちは、できたばかりの新しい昭君大酒店という名のホテルで休憩することにした。

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出来たばかりの昭君大酒店(ホテル)

 内蒙古自冶区は中国で最初の自冶区で、1949年の新中国建国以前の1947年5月1日に制定されている。首府フフホトは、人口50万もの都市らしく、ビルが多く、人出もあり活気があった。この町は、北の大青山と南の満漢山のあいだに広がるトムット平原の東北端にあり、大青山の南麓でもある。この平原を東から西へ流れている大里河(ハルチンゴル)は、さらに西へ進んで、チベットから東へ営々と流れ、中国大陸をほぼ横断して渤海にまで通じる黄河に流れこんでいる。

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フフホトのラマ教寺院の入口

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フフホトのラマ教寺院

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フフホト第一中学校の入口

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大青山の南麓

 フフホトは、紀元前300年ごろの戦国時代、趙(ちょう)の武霊王(ぶれいおう)が雲中郡を設置した所だといわれているので歴史は古い。十六世紀には、蒙古族のアラタン汗(はん)がここに城を築いた。この城を遠くから眺めると青く見えたところから、蒙古語で“フフホト”すなわち“青い城”と呼ばれるようになった。しかし、明朝時代には”帰化”、清朝時代には”綏遠”、または”帰綏”と呼ばれていた。自冶区制定後は、蒙古語のフフホトにもどし、内蒙古自治区の首府として発展してきた。が、今では蒙古族は20%しか住んでいない。大半は、清朝時代と革命以後に移住してきた漢民族である。

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ラマ僧たちと筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅 序章

はじめに

 1988(昭和63)年6月、TBSテレビの「新世界紀行」の番組として行なう、日中合同の西域探検の旅のリポーター役として、2ヶ月間の旅に出ないかとの誘いがあった。しかも私が行きたかった未踏査の内蒙古からチベットまでの、チベット仏教であるラマ教圏を旅する雄大な計画である。

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平原で蒙古相撲を見る人々

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彼方に見える羊の群れ

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羊の群れを追う牧童

 私は、この年の3月23日に、1番の理解者であった母親を自動車事故で亡くしていた。母はまだ75才で元気だったので、突然の死に私は精神的に少々動揺していたし、青少年交友協会の事業は8月中旬から10月初めまでなら何とか都合がつけられたので、心機一転しようと思い、同行することにした。

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蒙古族の青年

 今回の西域探検の旅は、「秘境西域8年の潜行」(芙蓉書房)の著者で、有名な西川一三さんの2年間に及ぶ足跡をたどる、長期間の自動車による旅である。

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フフホトで、西川さんが学んだ「興亜義塾」のあった場所

 西川一三さんは、第二次世界大戦当時、内蒙古のフフホトにあった日本人学校「興亜義塾」で学んだ後、昭和18年10月から20年9月までの約2年間、北の内蒙古から南のチベットまで歩いて旅をした。その途中、摂氏40℃もある沙漠をラクダをひいて歩き、標高4,000メートルもある青海高原をヤクの隊商と共に歩き、死の川と呼ばれる冷たい水の中を泳ぎ、標高5,300メートルもある魔の峠と呼ばれるタンラ峠をヤクを追って歩いて越し、九死に一生を得るような死線を幾度も越えていた。西川さんは内蒙古から遼寧、甘粛、青海省、そしてチベットのラサへと、考えると気の遠くなるような6,000キロ以上もの距離を、ラマ僧に扮して、寺々を訪ねながら歩いての旅であった。その西川さんが辿ったコースを、TBSの「新世界紀行」の番組で追体験する車での旅だが、リポーターは心身共に相当過酷な条件を課せられるだろう。

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内蒙古からチベットまでの踏査コース

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青海省の麦畑

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青海省の木の生えていない山

 普通のタレントや役者では、なかなか耐えきれないだろうから、世界中を旅行し、しかもアジア大陸内陸部の民族踏査をしていた私に、白羽の矢が当てられたのだろう。

 中国大陸の西域は、元や明、清朝時代のままの地域もあるだろうし、40数年前と比べて、変化の多いところもあるだろう。しかし、自然環境そのものは、昔とそんなに変わっているわけではない。なんと言っても中国大陸は日本の23倍以上もの広さなので、今でも西域地方の情報は少ない。また、文化革命以後の西域のラマ教寺院の情況がほとんど何も伝わってこない。

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青海省ラマ僧たち

 8月中旬から始まるこの西域探検旅行の予定は未定で、途中何が起こっても不思議ではないが、「迷ったら進め」との信念でやってきたので、西川一三著「秘境西域8年の潜行」を読んで、心と身体の準備をした。

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チベット、ラサの摩崖仏

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ラサのポタラ宮

  私たちは、ラサから更に500キロも西にある、ラマ教旧新派の大本山があるサキャまで往復したので、総距離7,000キロの旅になった。

この探検旅行は、当時TBSテレビの番組「新世界紀行」で2回にわたって全国放送されたし、私の著書「天葬への旅」もあるのだが、当時私が撮影した写真と簡単な記事で40数回にわたって紹介するので、関心のある方は是非ご覧いただきたい。

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蒙古服の筆者

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1991(平成3)年に原書房から出版した拙著

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊵ リスボン→バルセロナ(最終回)

 ユーラシア大陸横断鉄道の旅の終着点は、リスボンのサンタ・アポロニア駅であるが、もう1つの目的地は、本年(1992)7月にオリンピック大会が開催されるスペインのバルセロナである。

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リスボンのサンタ・アポロニア駅舎

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スペインのマドリード行き列車

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スペイン側国境の駅バレンシア

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バレンシア駅での検閲

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バレンシア駅での筆者

 ロカ岬からリスボンに戻った翌早朝、サンタ・アポロニア駅からスペインのマドリードに向かった。そして、5月18日午前11時、マドリードシャマルチン駅からバルセロナ行きの列車に乗り、カスティーリャ高原を東に向かった。

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バルセロナ行きの列車

 高原から徐々に下がっていくので、平地であった大地がやがて丘のようになり、さらにエナーレス川に沿って下って行くと山へと姿を変えた。11時40分、グアダラハラに着いた。西南に見える山の頂上がマドリードと同じ標高だという。

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グアダラハラ

 グアダラハラを出ると列車はさらにどんどん下って行き、やがて石灰岩の狭い谷間を走る。オレンジ色の岩山には、大小の鍾乳洞が見える。アメリカのグランドキャニオンの谷底を走っているようだ。

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サラゴザ近くの広い農地

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サラゴザ近くの山

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サラゴザ駅

 午後2時19分にサラゴザ駅に着いた。このあたりは葡萄、桃、サクランボ、林檎、麦、ジャガイモ、ネギ、キャベツ、キュウリ、カボチャなどを栽培する豊かな農業地帯だそうだ。

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車内の様子

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食堂車での筆者

 サラゴザを出ると大きなエプロ川に沿って走ったが、川沿いには南方系のヨシが生えている。列車が進むにつれて、車窓に展開する段丘になっている風景から推測がつくが、このあたりはかつて大平原であり、やがて大地が浸食されて丘となり、さらに浸食が進んで山となったという地形の変化が読み取れる。山や谷、川の成り立ちを勉強するには、これほど条件が揃った良い現場はないだろう。

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車窓に見える山肌

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浸食による段丘地帯

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浸食による段丘

 列車は、南の地中海に向かってひたすら下って行く。人々はこの高低さを利用して灌漑用水路を作り、乾燥した大地を耕して農作物を栽培している。いかなる自然環境にも順応して生きながらえてきた人類の英知が、今もこの地方で応用され、変わることなく働き続けていることが分かる。

 5時36分、ついに青い地中海に出た。マドリードの乾燥した高原から6時間30分もかけて、大地を徐々に下り、やっと海面の高さまでやって来た。

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やっと見えた地中海

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車窓に見えるか海水浴場

 海はなんと広くて素晴らしいのだろう。広さと豊かさがあり、落ち着きと安らぎを与えてくれる。それは、私が海辺で生まれ育ったせいもあるだろうが、ユーラシア大陸の乾燥した内陸を旅して来た者にとって、海はやはり偉大な存在だ。

 午後6時25分。オリンピック大会の準備で慌ただしいバルセロナ駅に到着した。

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バルセロナ駅舎

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バルセロナ

 この旅を計画した時、東京からバルセロナまで陸路の鉄道で行けることを証明し、バルセロナオリンピック大会を盛り上げようと思い、何としてもオリンピック前に実行したかった。

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駅前の商店街入口

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美しく陳列している果物屋

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バルセリナの旧市街

 もう1つは、オリンピックに参加する選手たちを、応援したかったので、親しかった当時の文部省体育局長に、忠告・進言したからでもあった。それは、バルセロナ前の、ソウルやロサンゼルスのオリンピック大会で日本選手が体調不良などで振るわなかったからだ。特に、ロサンゼルス大会でマラソンの瀬古選手が、大会の数日前にロサンゼルスに到着し、優勝候補になっていながら振るわなかった。それは、大陸性気候の乾燥に対応しきれなかったからだった。

 私が理事長をしている青少年交友協会は、1980年度から北京で、中華全国青年連合会との共催で、「北京21キロかち歩き大会」を毎年10月に開催していた。

 日本の10月の湿度は6、70%であるが、北京は2、30%で、日本からの参加者の多くは、毎回風邪気味になり、体調がふるわなかった。それは、乾燥した大陸性気候に身体が順応するため、自動的にフル活動するので、動かなくても疲労し、鼻や喉、目などの粘膜に風邪と同じような症状が現れるので、体調不良を意識するからだった。北京のかち歩き大会や、世界中を旅行して、人体に対する乾燥の厳しさを知っていたので、私は毎回参加者たちに白湯やお茶をよく飲むように勧めた。

 日本の運動生理学には、温度や高度に適応する知識はあったが、乾燥に対する知恵はなかった。大陸の乾燥地帯でのスポーツ大会では、日本の選手は風邪などの体調不良で良く戦えなかったことが、報道されていた。

 私は、当時の体育局長に、バルセロナは大陸性気候で乾燥しているので、湿度の高い日本からの参加選手は、最低でも2週間前、出来れば3週間前には現地を訪れて身体を順応させるようにと進言していた。

 人間の身体が自然環境になじむには2週間以上かかる。世界でも湿度の高い日本人が、大陸性の乾燥した環境になじんで、体調が整えられるには3週間はかかる。

 後日談になるが、体育局長への進言が効を奏したかどうか知らないが、バルセロナ大会には、日本の選手団は2、3週間前に現地を訪れ、ソウルやロサンゼルス大会よりもはるかに良い成績を残した選手が多かった。

 このユーラシア大陸を横断する旅には、オリンピック大会以前にバルセロナを訪ねて、現状を報告することもあった。

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レストランの店頭に飾られたシャコ

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バルセロナの海水浴場

 東京から飛行機で来れば、点から点への移動でしかない。しかし、鉄道を乗り継いでの旅は、自然環境を越えて線でつなぐことができる。何より、風俗習慣、宗教、それに政治的な境界など、観念の壁をすべて突き抜けて、東京→リスボンバルセロナが点の連続である線になって繋がる。

 ユーラシア大陸は何と大きく広いことか。なんと多くの人々が様々な自然環境に順応して生活を営んでいることか……。その人々の代表が1992年7月、このバルセロナで一堂に会してスポーツ大会の祭典を開催する。

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大衆食堂

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オリンピック大会が開催されるメインスタジアム

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闘牛場

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ガウデイ設計の家

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サクラダファミリア

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サクラダファミリアの上層部に立つ筆者

 バルセロナオリンピック大会が開催される、広くて美しいメインスタジアムを訪れて眺めた後、ガウディの設計した「サクラダファミリア」やバルセロナの街を観光した。そして,34日間のユーラシア大陸横断鉄道の旅を終えて、飛行機で日本へ向かい、5体満足に無事帰国した。

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サクラダファミリアから見下ろしたバルセロナの町

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平成6年11月に角川書店から出版した拙著

 最後までご覧くださってありがとうございました。しばらく休んで、又新たなブログを紹介させていただきます。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊴ リスボン→ロカ岬

 予定通りリスボンのサンタ・アポロニア駅に着き、ティボリ・ホテルに1泊した翌日の5月16日、リスボンは曇っていた。ユーラシア大陸を横断したという以上、ヨーロッパ大陸の最西端であるロカ岬を訪ねないわけにはいかない。

 ロカ岬を案内してもらうため、前もって連絡しておいた、リスボンに13年間住んでいる中村みなみさんに来てもらった。

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海岸沿いのリスボン

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リスボンの古い家

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海岸沿いのリゾート地

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古いリスボン市庁舎

 中村さんによると、ポルトガルは、まだ貴族が支配している社会だという。この国の貴族は土地・家・財産を持っている。大半の農民は土地を地主から借りており、貧しいのだそうだ。一般的に教育レベルが低く、大衆の社会的な意識が弱い。義務教育は9年だが、1年生から落第する子がいる。職業・身分・地位などが生まれながらに決まっているので向上心が弱く、親が子に夢を託するということがない。国民は、地縁、血縁に強く縛られ、改革、改善がすごく困難。そのため今も貴族である地主だけが豊かなのだそうだ。

 ポルトガル人は他人の足をよく引っ張り、仲間で力を合わせると言うことが出来ない。ある意味では個人主義で、心の豊かさを知らない。だから物による豊かさを求めようとするので、まずは着飾ることが豊かさだと思いがちだそうだ。 

 なんだか、東洋のわが国にも類似する点もあるように思うが、いずれにしても2、300年前からあまり変わらないし、変えようとせず、わが道をマイペースに進んでいる国のようだ。

 ポルトガル人が初めて日本の種子島にやって来て鉄砲を伝えたのが1543年である。当時はポルトガルの方がはるかに発展し豊かな文明国であって、日本は大きな影響を受けた。

 日本とポルトガルとは、ユーラシア大陸の東端と西端でありながら、400年以上も前から深い文明的かかわりをもっている。鉄砲もキリスト教も、雨合羽や天ぷら、カステラ,コンペイトーなどもポルトガル人の渡来によって伝来した。また、ポルトガル語には「屏風(びょーぶ)」なる日本語があり、お互いの交流によって影響し合ってきた。しかし、今や日本は日の出の勢いで発展し、世界一の繁栄国と言われているが、ポルトガルはEC諸国の中でも経済的発展が最も遅れた国である。

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遥か遠くに見えるロカ岬

 リスボンのカフェテリアで、中村さんからポルトガルのおおまかな現状を聞いた後、ロカ岬を訪ねることにした。タクシーを頼んで、45キロ北西にある“CABO DA ROKA”、ロカ岬に着いたのは丁度正午だった。

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ロカ岬

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ロカ岬の灯台

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ロカ岬の灯台事務所

 まず、海抜140メートルの絶壁の上にある灯台を訪ね、そこの事務所で「ロカ岬訪問証明書」を発行してもらった。その後、ロカ岬の西端を訪ね、突端の岩の上に立って万歳をしている様子を、中村さんに撮影してもらった。これで、ユーラシア東端の釜山から西端のロカ岬まで踏査したことになった。

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ロカ岬の先端に立つ筆者

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ロカ岬の記念碑そばに立つ筆者

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ロカ岬訪問証明書

 岬は、一面に野菊のようなカモミラの花が咲き乱れていた。岬から見渡せる大西洋の大海原は、故郷の足摺岬で見る太平洋の紺碧とは違って、曇っているせいか、緑青色。

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野菊のようなカモミラの花

 これより西にはただ海があるだけ。眼下の岩に白波がくだけ、潮騒が響き、風が肌に心地よい。海面にウミネコが飛び交い、漁船が小さく見える。

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ここより西には海があるだけ

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岬の先端から下を見る

 ロカ岬で大西洋を一望してリスボンに戻った。リスボンでは遅い昼食をした後、ポルトガル大航海時代を記念した「発見のモニュメント」と16世紀の建築物「ベルンの塔」などや古い街並みを観光した。そして、夕方中村さんと分かれ、明朝早くスペインのバルセロナに向かう準備をした。 

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遅い昼食をとったリスボンの屋外レストラン

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屋外レストランのポルトガル料理

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屋外レストランでの筆者

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大航海時代を記念した「発見のモニュメント」

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16世紀の建築物「ベルンの塔」を背にする筆者

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊳ マドリード→リスボン(ポルトガル)

 マドリードからリスボン行きの列車は、5月15日午後1時55分、「ピー」という笛の合図で発車した。車両はスペイン製で、車掌もスペイン人の若い女性。車内放送はスペイン語ポルトガル語、そして英語が使われている。軟座の2等は2人掛けで、ほぼ満席。

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リスボン行きの列車

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リスボン行きのプラットホーム

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リスボンへの乗客

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リスボンへ出発

 車窓に見える郊外の家々も、マドリードと同じように茶褐色のレンガの建物が多い。この地方は大地も茶褐色である。やはり街の色は大地の色に染まるのだ。ベルリンは灰褐色、パリは白、マドリードは茶褐色の町と言える。

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マドリード郊外の茶褐色の大地

 カスティーリャ高原ではすでに麦が収穫されていた。わずか3、4日前のドイツでは麦の長さはまだ10センチ足らずだったし、昨日のフランスでは20センチほどしか伸びていなかった。ピレネー山脈を南へ越えると、もうヨーロッパではないと言われるが、高地で乾燥していることもあって、早生種の麦が栽培されているからでもある。大地は乾燥して痩せているので、農民の労苦はあまり扱われていない。

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車内の検札

 空気がかなり乾燥していて、鼻の粘膜がヒリヒリと痛む。周囲にはオリーブや葡萄畑があり、林はほとんどコルクの木だ。まだ5月中旬なのだが、すでに初夏の風景に染まっている。

 列車は西に向かってどんどん高原を下る。4時15分、水量の多いかなり大きな川を横切る。谷間は草木が多いが、谷を過ぎると再び乾燥した大地が続く。線路の接続が良くないのか、「ガタン、ガタン」と音がするし、フランスやドイツとは違って揺れも激しい。

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高原の農耕地

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高原の葡萄やオリーブ畑

 午後4時50分、谷間を抜けて山裾を走る。大地は進行方向左の方に傾斜し、見晴らしがよい。やがて丘のようであったが山となり、山岳地帯を走る。灌木とわずかな草が生えている岩山の風景の中で、ところどころに黄色い小さな花をたくさんつけた“エニシダ”の木が生えている。

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水量の少ないダム

 5時頃、右手にダムがあり、しばらくダム沿いに走るが水量は少ない。なんでも昨年の暮れから、もう半年間も雨が降っていないそうだ。大地には岩が露出し、あちこちに大きな奇岩が見られる。

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車内のバー

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車内のトイレ

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二等車内

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石垣に囲まれた放牧地

 5時20分にカセレス駅着。大半の客が下車した。列車はさらに下り、白壁の家がポツリポツリと見られる。この辺は、人の数より家畜の数が多く、農業は廃れつつあるそうだ。

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5時20分着のカセレスえき

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大半の客はカセレス駅で降りた

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サンビンセンテ駅

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サンビンセンテ駅のプラットホーム

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国境近くの放牧地

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スペイン側国境のバレンシア

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バレンシア駅のプラットホーム

 午後5時50分、ポルトガル側国境のガンダラ駅に着く。車内の乗っている客は、アメリカ人4人、ブラジル人3人、ポルトガル人3人、デンマーク人1人と私だけ。

 ポルトガルのマルワペイラ駅には現地時間の6時15分着。スペインとの時差は1時間。高原から低地に下り、大地に緑が多くなり、湿度が高くなって肌にしっとり感じる。少しずつ大西洋の海に近づいているようだ。

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ポルトガルのマルワペイラ駅

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マルワペイラ駅のプラットホームでのたち話

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マルワペイラ出発

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マルワペイラ駅舎

 7時5分、線路沿いには草木が多く、ジャガイモなどの野菜畑があり、オレンジ畑もあって民家が散在している。マドリードからの海外旅行者が多いのだろうか、小さな駅舎の壁に、英語・フランス語・日本語で「よい旅を」と書いてあった。

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テジョ駅での兵士たち

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テジョ駅の駅員

 テジョ川を渡ってアブランテス駅に7時半着。川に沿ってしばらくの間南のリスボンに向かう。川沿いにはヨシが茂り、空気が暖かく湿っぽい。畑には桃や葡萄が植えている。ワルシャワやベルリンと比べると、まさしく南国の雰囲気だ。

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テジョ川沿いの町

 川沿いには古城があり、白壁の家が建ち並んでいる。2、3百年も前から変わることのないかのような古い村々が、次々と車窓に流れ行く。家々のたたずまいは、どことなく活気がなく、さびれた雰囲気が漂っている。

 ポルトガル人が初めて日本の種子島にやって来て、鉄砲を伝えたのが1543年。当時は、ポルトガルの方がはるかに発展した豊かな文明国であったのだが、今は日本の方が発展した文明国になっている。

 エントロンカメント駅の近くには南中国原産の「枇杷」の木があり、ピンポン玉ほどのオレンジ色の実がたくさんついていた。日本の四国、九州とほぼ同じような気候のようだ。

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エントロンカメント駅

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エントロンカメント駅のホーム


 午後8時25分、大西洋近くを走る車窓に、西の海に没する赤い夕日を見る。太陽が再び昇るのは東の海からだ。

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オレンジ色の実をつけた枇杷の木

 4月16日の早朝、ユーラシア大陸東端の釜山で、日本海から昇る朝日を見てから、ちょうど1カ月。ユーラシア大陸を鉄道で横断し、今まさに西の大西洋に沈まんとする夕日を眺めながら、西端の町リスボンの地に着こうとしている。

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窓越しに見る、西の大西洋に沈まんとする太陽

 コロンブスアメリカ大陸発見500年記念祭の年に、地球半周に近い2万キロを旅して、日の出る東端で朝日を、日の没する西端で夕日を見ることになるとは、まるでこの旅が1日で終わったような気持ちになる。しかし、この「1日」は長かった。多くの出会いと、目にしてきた数々の出来事や自然現象、そして様々な人々の生活様式を想い、万感の思いが込み上げてくる。

「ありがとう、ありがとう」

 大西洋に沈まんとする夕日に手を合わせ、無事に来られたことへの感謝の気持ちが込み上げ、胸が震えた。

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終着駅近くで二等車内の筆者

 やがてあたりは夜の帳が下りて闇に包まれたが列車は走り続け、この旅の終着点、リスボンのサンタ・アポロニア駅に、午後9時18分に無事に到着した。そして、駅近くのティボリ・ホテルに宿を取った。

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リスボンのサンタ・アポロニア駅に着いた直後の筆者

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着いた翌日、サンタ・アポロニア駅舎前での筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊲ パリ→マドリード(スペイン)

 5月14日午後6時半、パリのノルマンディ・ホテルからスペインのマドリード行きの列車が出るオーステルリッツ駅に向かった。車の渋滞でセーヌ川沿いで30分以上もかかり、駅には7時過ぎに着いた。

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オーステルリッツ駅舎

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オーステルリッツ駅構内

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駅構内の切符売り場

 すでにマドリード行きのTEE(Trance Europ Express)は、ホームに入っていた。64号の56番で、1等の2人部屋寝台であるが、相客はいなかった。

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オーステルリッツ駅のプラットホーム

 TEEは、午後8時2分、定刻通り出発の合図などは何もなく、静かに動き始めた。私にとって何となく感動のない、味気ない出発であった。

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マドリード行きの列車

 パリの南西に広がる平地は一面の麦畑で、フランスの大穀倉地帯のようだ。このあたりの岩盤も石灰岩なので、土壌は白っぽい砂地で、保水力が弱いようだ。広い畑の至るところでスプリンクラーを使って散水している。

 30分もすると、平らな麦畑の彼方に夕陽が赤い風船のように浮かんでいた、。360度見渡せる平地なので、「月は東に日は西に」という言葉通りの情景で、月は東に昇っており、日は西に没しようとしている。

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西の大地に沈みゆく太陽

 食堂車のバーでワイン”RIOJA”0.375ℓ入りボトル1本(30フラン)を飲んだ。バーはカウンター式で、雰囲気がよい。食堂も豪華で良い雰囲気だが、私はラーメン・ライスで夕食を済ませていたので入らなかった。

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食堂車内

 スペイン製の車両は最新式で豪華に作られている。寝台車は2人部屋で、下のベッドは折りたためるようになっている。椅子は、ベッドを出すと下に入る。各々にランプと電話が設置され、衣服掛けと大きな鏡がある。洗面所は湯が出るし、板を下すとテーブルになる。冷暖房付きで、窓にはジャバラ式のカーテンがかかっている。隣室との間に扉があり、2部屋が1つになるようにもなっている。

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1等寝台車内

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1等寝台車のベッド

 トイレはフランスの列車のように、下からの吹き上げはなく、静かで座り心地がよい。水は押ボタン式で5、6秒出たあと、自動的に止まる。1等の寝台車は大変豪華で気持ちよくベッドに横になれる。

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1等寝台車のトイレ

 翌15日、午前6時半に夜が明けた。列車はピレネー山脈を越え、カスティーリャ高地の グァダラーマ山地を通過して、マドリード盆地へと下っていった。

 大地は褐色の岩山で樹木は生えていない。遠くに残雪の高い山が見える。やがて、コルクの木が散見し、牧場が見えるようになった。列車が下るに従って、辺りはほとんど牧草地帯になり、牛が多く見られる。谷間の川を堰き止めたダム近くまで下りると、小石を積み上げた垣を境界とする牛の放牧地帯となる。

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マドリード盆地

 列車は徐々に下り、遠くにマドリードの町を望み、さらに下ってコルクの保護林を抜けると、標高650メートルにあるマドリードの町に入る。マドリード郊外の新駅シャマルチン駅に着いたのは午前8時54分であった。

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マドリードシャマルチン駅

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プラットホームのポーター

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マドリードシャマルチン駅のホーム

 すぐにインフォメーションオフィスに行き、リスボン行きの切符売場を尋ねた後、構内の銀行で円をスペインの貨幣ペセタに交換した。100円が75ペセタ、1米ドルが99・6ペセタであった。

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駅構内のインフォーメイション

 切符売場の窓口には8人並んでいた。順番がきたが、受付番号を持っていなかったので切符を買うことができなかった。受付番号を発行する機会でカードを手にして再び20分ほど待って、やっと順番がきたのだが、すでに、1等室はなく、2等の禁煙席の切符を買うことができた。リスボン行きは13時55分発で、座席は21号の31番のVであった。なんと値段は245ペセタ、約300円と安かった。

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駅構内の店

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駅構内の休息所

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駅構内のバー

 荷物を構内のコインロッカーに預けて町に出る。コーヒーショップ兼食堂で食事をする。ピザ、ポテト、オレンジジュース、ヨーグルトを注文して1600円であった。現在のスペインは、ECの統合によって、対米ドルや日本円との交換率が高くなっており、物価が安いはずのスペインやポルトガルでも、非EC諸国民にとっては高くなる。

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シャマルチン駅

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シャマルチン駅舎

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駅周辺の建物

 ましてやスペインは、今年(1992年)7月にはバルセロナでオリンピック大会が開催されるので、物価が急上昇しているとのことだった。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊱ 白い街パリ

 パリ東駅から乗ったタクシーの運転手は、カナリア諸島出身で英語を話した。私はフランス語が話せなかったので、言葉が通じると気が楽になった。夕暮れのパリを眺めながら、ルーブル美術館近くのノルマンディ・ホテルに10数分間で着いた。このホテルは、昔から日本人がよく泊まる古い立派なホテル。ところが予約していたはずなのに、満室だと言う。受付係の男性は英語を話すので、もう1度確認するように頼むと、「モリタ」の名前で予約はあったが、誰かがすでにチェックインをしているという。どうも受付係のミスのようで、いいかげんな人の多いフランスらしいこと。マネージャーにクレームをつけると、屋根裏部屋が1つ空いているというので、7階の最上階に泊まることにした。

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ノルマンデイ・ホテル前のカフェテリア

 私は、25歳の頃、ロンドンのケンジントンチャーチ横の屋根裏部屋に下宿していたことがあり、懐かしかった。屋根裏部屋の低いところは頭がぶつかるが、値段は安い。部屋はきれいで広いし、バス・トイレ付き、一泊ならこれで十分だ。

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大理石の建物

 ホテルの近くには日本料理店「大阪」「たから」がある。300メートルほど離れて「祭」という回転寿司屋があった。久しぶりに寿司を食べる。カリフォルニア米の江戸前寿司は味がよいというものではなかったが、6皿食べる。1皿に2個盛られて22フランなので、合計3360円となり、安くはなかった。パリにはもう4回来ているが、来る度に日本人観光客が多くなり、日本語をよく耳にし、隣国のように身近になっている街だ。

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工事中のルーブル美術博物館

 翌日、5月14日は快晴であった。夕方6時まで時間があるので、久しぶりにパリ見物をすることにした。まず、ホテルのすぐ隣にあるセーヌ川沿いのルーブル美術博物館を訪れた。

 古代から現代に至る世界の美術史が一目で分かる人類最大の財宝と讃えられている、20万点もの美術品もさることながら、私の興味は、1667年から125年も要して建築された、世界最大の宮殿である大理石の建物自体である。ところが来てみると、大改築中で、汚れた建物を水で洗っていた。敷地内は建設工事中で地下深く掘られている。大地の地下は石灰岩で、石灰質の強い土壌に覆われている。

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白亜の殿堂ルーブル美術館の一部

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大理石による博物館の上層部

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ルーブル美術館を見物に来た子供たち

 セーヌ川にあるシテ島ノートルダム寺院コンコルド広場、パリ大学、ブルボン宮、凱旋門と見てまわる。建物も記念建造物も、大地もみな白かった。パリは「白亜の都」とよく言われるが、その通りであった。

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白い岩壁のセーヌ河

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セーヌ河にかかる橋の上での筆者

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セーヌ河の遊覧船

 これまで、パリがなぜ「白亜の都」なのかよく理解していなかった。それに、パリの水が飲めない本当の理由も分かっていなかった。

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白い大理石の石像

 パリの大地を掘り下げる工事現場を何か所も見たが、どこも岩盤は白い石灰岩なのだ。建築用に切り出される石も、石灰質の高い大理石。パリは石灰岩の上に、石灰岩を使って家が建てられた白い街であり、地下水は、石灰質のアルカリ度が高い硬水で、飲料水には不適なのである。

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コンコルト広場

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石造りの建物

 青い空と新緑の中に白亜の建造物と装飾用の赤色が、実によく映えてパリらしい光景を醸し出している。パリの街は、白いがゆえに豪華で美しく、古くて堂々としている。

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白い大理石のモニュメント

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白い石造りの建物

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排気ガスで汚れた石造り凱旋門

 ところが、この石材は、今日の酸性雨や自動車、工場などの排煙、排気ガスなどに弱く、溶けたり灰黒色に汚れてしまう。近代化が進んだ今日、パリの街全体が汚れてくすんでいるので、真水で洗い清めることが必要になっている。

 人間は古代から今日に至るまで、大地の色に合わせた生活文化を培ってきた。家や道具、衣類や食生活文化も、大地の色に似せるという。人間は、身近にあって最も手っ取り早く、簡単に利用できる材料を使用するせいである。パリの人々が白い街を好んで作ったのではく、身近にある白い大理石を使ったので自然に白亜の街ができ上がり、パリの色となり文化となっているのだ。

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白い石造りの街並

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白亜の街頭のカフェテリア

 夕方スペインのマドリード行きの列車を待つまでの1日中パリの街を歩いて、白亜の建造物を眺めながら、フランス人が白い街を好んだのではなく、そうせざるを得なかったことに気づかされた。

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街頭の椅子に休む白い老夫婦

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉟ フランクフルト→パリ(フランス)

 ライン川の支流マイン川下流の西岸に発展した、人口70万以上もの大都市フランクフルトの駅舎の構内は、天井が高くて大きいカマボコ型。しかも柱がないので広々として明るく気持ちが良い。

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フランクフルト駅構内

 構内には乗り降りの客が多く、モダンな売店が並んでおり、必要なものは何でも揃う。食堂・バー・カフェテリア・書店・雑貨屋・服屋・写真屋・八百屋・果物屋・菓子屋などの店があり、まるで百貨店のようだ。

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パリ行きの標識

 ここは国際線の発着駅なので、プラットホームが10本、20番線まであり、乗り継ぎの待ち合い客も多い。様々な国の客に対応できるように、英語・フランス語・日本語の出来る係員がいる。

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パリ行きの列車

 構内の店を見ているだけでも楽しく、ドイツの繁栄が伺え、目を見張る思いがし、食事も忘れ、あっという間の1時間であった。

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列車に乗りこむ乗客

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パリ行きの出発ホーム

 午後2時52分、13番ホームのパリ行き国際列車は、静かに扉が閉まり、車掌の「ピー」と吹く笛の合図で発車した。101号15番の座席で窓側。ベルリンからと同じく6人用コンパートメントで、相客は若い男性2人だけ。2人とも通路側に座っており、1人は学生風で雑誌を読み、もう1人は背広姿のサラリーマン風で、革製のカバンから書類を出して見入っている。

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食堂車での料理

 3時20分、進行方向左側の丘の南斜面は葡萄畑。丘は茶褐色の大地が広がっている。このあたりは葡萄の産地で、ロマン街道のような風景が続く。

 3時43分、ライン川沿いのマンハイム駅に着く。ここで相客2人が降り、私は1人になった。2、3分停車し、車掌が笛を吹くと扉が閉まって発車。線路沿いには葡萄畑が続き、茶褐色のレンガ造りの家が散在する。

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マンハイムのプラットホーム

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マンハイム

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マンハイム駅のプラットホームに立つ筆者

 4時過ぎにニュウスタドを過ぎると、これまでの平地から山間に入った。トンネルが多く、シラカバ、ブナ、ナラ、アカマツ、ニレ、ドイツ杉などの森林地帯を走る。

 用を足そうと便所に入って便器に座ると、下から風が吹き上がり、尻がやけに涼しい。車輪の音もうるさいことながら、吹き上げが強く、落ち着いてはいられない。この車両の便所は、そこがなく大地に直結する垂れ流し式なのだ。これまでの列車の便所は大地が見えず、こんなに風も吹き上げてはこなかった。山間部でそれほどスピードは出ていないのに、吹き上げはかなり強く、紙がなかなか落ちないので後始末が大変であった。西欧にしては旧式すぎる。

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下から風が吹き上げるトイレ、落とし物をしたらそれまで。

 やがてゆるい斜面を上がった頂上にあるドイツの国境の町サルブルケンに着いた。駅の時計は午後5時12分。この駅でも停車は2分ほどですぐ出発。5時26分にはフランス側のフォルバチに着いた。だが、税関員も移民官も来ない。EC(ヨーロッパ共同体)統合によって、国境の出入国手続きが不要になったからだ。街の様子はあまり変わらないので、国旗を見なければ、国境を越したことさえわからない。

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ドイツ側のサルブルケン駅

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サルブルケン駅のプラットホーム

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サルブルケンの町

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フランス側のフォルバチ駅

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フォルバチの町

 フォルバチは高原の町で、森が多く、褐色の屋根の家々が緑に映えて美しい。列車はこの町から西へ徐々に下って行く。次のベニングの町も、青空の下で森の中に赤褐色の屋根の家々が並び、おとぎの国のような風景が見られた。

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ベニング駅

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ベニング駅のプラットホーム

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フランスの女性車掌 ベニング駅で

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ベニング近くの農村

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ベニング駅での筆者

 やがて山を下り、6時17分、メッツ駅に着く。約10分間停車して機関車が取り換えられ、進行方向が逆になった。この駅で中年の男性1人と若い女性2人が乗って来たが、いずれも座るなり雑誌を読みふけった。

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メッツ近くの農村

 メッツを発つと、あたりは素晴らしい農業地帯であった。麦畑、菜種畑、牧草地など、豊かな大地に、人間の営みが心地よい。フランスが農業国であることは知られていたが、ドイツにも勝る豊かな大地が広がっている。フランス人の自信は、このような大地からきているのだろう。

 列車は時速200キロで2本の鉄路の上を「シャーッ」という快音とともに走る。揺れや音も少なく、ゆったりとして快適だ。

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メッツ駅

 午後8時、太陽が地平線近くになった。両側のなだらかな斜面には葡萄や桃の畑が続いている。このあたりの岩山は、白っぽい石灰岩が多く見られるので、大地はアルカリ性で、果物の栽培には適しているのだろう。

 列車は、メッツ以後は止まることなく、沈み行く太陽を追いかけるように西のパリへと快走した。やがて、モンマルトの丘やエッフェル塔が夕陽に映え、一幅の絵のように見えて来た。

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パリ東駅舎

 列車は定刻の9時2分、パリ東駅に着いた。夕暮れのせいか、構内は人出が少なく、閑散としていた。モスクワ、ワルシャワ、ベルリン、フランクフルトと同様に、パリ東駅も改札口はなく、ホームに自由に出入りできる。ヨーロッパでは車内で厳しく検札し、改札口は重要でないようだ。

 駅舎の撮影をしてから、駅前からタクシーでノルマンディ・ホテルへ向かった。

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宿泊先のノルマンデイ・ホテル

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉞ ベルリン→フランクフルト

 5月13日、午前6時に起床し、ホテルから歩いて10分ほどのツオ駅に行く。以前ベルリンを訪れた時、小さな駅に過ぎなかったが、今は駅ビルが建ち、大変モダンになっている。プラットホームは2本だが、西ベルリン当時から中心街に最も近い、国際列車の発着駅であった。

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ベルリンのモダンなツオ駅

 窓口を訪ねて「ユーレイルパス」の使用開始のスタンプを押してもらう。ユーレイルパスとは、欧州16ヶ国を1カ月間自由に汽車旅行のできるフリーパス。西ヨーロッパで安く旅行するため、日本で買っておいた。

 フランクフルト行は2階の4番ホーム。プラットホームで若い女性駅員に尋ね、32番で待つ。

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駅二階への階段

 7時40分、汽車はプラットホームに入り、44分の定刻通りに発車。発車のベルや放送などなく、静かな出発。

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フランクフルト行きのホーム

 しばらく街中を走る。レンガ造りの住宅が続き、ライラック、サクランボ、スモモ、桃等の花が咲き、シラカバの淡い緑の新芽が美しい。ここにも春が訪れ、草木の語らいが聞こえるようだ。

 やがて高速道路と平行に走る。車とほぼ同じようなスピードだが、汽車の方がやや速い。汽車はガタンゴトンという、線路の継ぎ目で発生する音がなく、大変静かで、左右の揺れも少ない。

 8時から食堂車で朝食をとる。パン・ジャム・バター・コーヒー、ヨーグルトがセットされていて14・8マルク(1200円)。食事中にもほとんど振動は感じられず、コーヒーさえ揺れなかった。

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食堂車の朝食セット

 コンパートメントは禁煙になっており、3人掛けの6人部屋。やはり客が少なく、4人しかいない。通路側もガラス張りであり、窓は大きく明るいが開かない。窓側に座って外の光景を見る。花と緑が美しく、タンポポの黄色い花が多いのには驚かされた。

 ベルリンの街を出て間もなく、松や樺の林の中に湖があり、たくさんのヨットが係留されていた。9時27分、マクトボイカル駅で3分間停車し、放送があってから1分後に発車した。

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マクトボイカル駅での女性車掌

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マクトボイカル駅のプラッとホーム

 線路沿いにはサクランボの木が多くなった。すでに花は散っている。これから少しずつ南に下って行くので、行く先々の春はすでに満ち満ちているのだろう。

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車内の通路に立つ乗客

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寝台車内

 10時22分、ヘルムステド駅に着く。ここから電気機関車になる。10分ほど停車するので、プラットホームに降りた。ガラス張りの売店では商品がきれいに陳列され、便利で衛生的だ。大変合理的ではあるが、中央アジアのような人間味やゆとりが少ない。フランスの哲学者テガルトは「近代化とは合理主義であり、欲望的人間に対応すること」と言っている。

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ヘルムステド駅

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ヘルムステド駅でホームを見る車掌

 出発案内の放送があり、しかも、出入り口の扉の内側で「ピーピーピー」と音がしてから閉まる。すべて自動だが、扉の内と外に青と赤のボタンがあり、緊急時には青を押すと開くようになっている。

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一般車両内の様子

 ヒゲ面で眼鏡をかけた太った車掌が乗車券を調べに来たが、ユーレイルパスをちらっと見ただけで返してきた。

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ひげ面の乗務員

 11時過ぎ、ブラウンシュウェイグを過ぎたあたりから、旧西ドイツに入ったのか、大地がよく整地され、耕作されていた。村も大きく、家々の屋根はカラフルで明るい。畑の隅々まで耕し、大地の価値を高めている農民の心意気が感じられ、農業国としてのドイツの一面が窺われる。

 11時30分、ハイデシェイム駅に着く。ここからドイツは昨年、ハンブルグミュンヘン間951キロを7時間27分で走るICE(インターシティーエクスプレス)を登場させた。時速170キロで「シャー」という快音を発しながら走る。

 向かいの座席の上の鏡を見ると、私の頭上の荷物棚が見えるようになっている。こんなところにも細かな配慮がされていた。

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車内で窓際に座る筆者

 起伏のゆるやかな大地には、青い麦畑や黄色い花が咲いている菜種畑が広がっている。牛や羊が草をはむ牧草地、赤褐色の屋根に白い壁の家々。春たけなわのドイツの自然は、心を弾ませてくれる。

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緑に覆われた大地

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広大な菜の花畑

 12時3分、ゲッチンゲン駅着。2分停車して発車。天気がよくなり青空が広がっている。冷暖房は窓側のボタンで自由に調整できる。

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カセル駅

 12時30分、カセル駅を過ぎる。もうかなり南に下がったようで、新緑の草木が目に心地よい。フルダに午後1時に着く。しばらく走ると、白と褐色の大きな盛土があった。石灰でも掘っているのだろうか。汽車は、カシ、ブナ、アカマツ、樺などの林の中を走る。

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フルダ近くの白と褐色の盛り土 黄色の花は西洋タンポポ

 この汽車は速い。駅に停車しても2分間くらいなので、せわしくなく、面白味がない。ただひたすら目的地に向かって快走するだけ。

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フランクフルト駅

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フランクフルト駅の構内

 目的地のフランクフルト駅には定刻の午後1時58分に到着した。私は、1時間の待ち合わせで、パリ行きの汽車に乗り継ぐことになっているので、構内で待つことにした。

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フランクフルト駅舎

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フランクフルト駅前広場

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉝ ベルリン風情

 ベルリンに着いて、ホテルで2時間も横になって休んでいると疲労感は取れた。その代わり、屋台の拉麺の香りが懐かしく、無性に食べたくなった。

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ベルリン中心街の噴水池

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ベルリン街頭の花屋

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クルフェルステンダム街

 ホテルを出てタウエンツイン通りを歩く。西ベルリン一の繁華街クルフェルステンダムに出た。東京の銀座にあたるような人通りが多く、華やかな通り。歩道沿いに並ぶガラス張りの華やかなショーウインドウはベルリン名物の1つ。立派なホテルやレストランが並び、街頭のカフェテリアでは旅行者風の客たちが明るいテラスに座って、コーヒーか紅茶を飲みながら道行く人々を眺めている。

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ベーカリ パン屋

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街頭のカフェテリア

 1989年11月、民主化を求めて数万人の群集がブランデンブルグ門に集まった。その民衆の力が東西ベルリンの壁を破壊した。そして翌年の90年10月に東西ベルリンが統合され、今は壁のないベルリンとなって、町は明るくなごやかで、心なしか平和なムードがあふれている。

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ベルリンの壁

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破壊されたベルリンの壁

 第2世界次大戦中に破壊されたガイゼル・ウィルヘルム一世記念教会のある広場には、若者が集まっている。ギターを演奏しながら歌っている者、スケートボードをしている者。おしゃべりをしている者、抱き合っている者、布の上に自家製のアクセサリーを置いて売っている者もいる。

 通りには多くのレストランがあり、うまそうな西洋料理が陳列されている。だが、私は食欲をそそられなかった。ただ、無性にラーメンが食べたかった。

 10年ほど前、ヒマラヤ山中で民族踏査をしていた時、雪で10日ほど閉じ込められ、無性にみそ汁とめざしが欲しくなった。その時までは、世界中を旅行して何でも食べていて、食物を気にすることはなかったが、めざしやみそ汁が恋しくなった自分が、心身ともに日本人になったことを痛感したが、今も学生時代からよく食べた拉麺が食べたい。

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中国料理店「揚子江」の看板

  やっと「揚子江」という中国料理のレストランを捜し当てて中に入った。一階はアダルトショップで、2階に上がる。大きなガラス窓から通りや広場が見下ろせる。まだ夕食には早いので、女性客が2人いるだけ。中国人のウェイターに、野菜入りのヌードルスープと、米飯を頼んだ。つまり、ラーメン定食。

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中国レストランに座る女性たち

 しばらくすると、大ドンブリに入ったチャンポンのような麺とご飯が運ばれた。味は日本のものとは少々違うが、野菜やきのこ、メンマの入ったラーメンに近い東洋料理と言ってよく、食欲がそそられ、一気に食べ終えた。

 驚いたことに、食事後、胃の具合がよくなり、全身に活力がみなぎってきた。カザク共和国の食堂車で食べて以来の米飯に、やっと「飯を食った」という満足感を得た。このところ、ずっとパンと肉、ハム、ソーセージ、じゃがいもの料理ばかりで、胃が疲れていたのだろう。

 ホテルから東京へ電話を入れ、ベルリンに無事到着したことを知らせる。直通のダイヤルで、00813を押したあと相手方の電話番号を押せばよかった。鉄道を乗り継いでここまで来るのに約一ヶ月を要したのに、国際電話だとわずか10秒足らずで通じた。日本へ送った5分間のメッセージ代は、50マルク、3800円であった。

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ベルリン中心地

 大正14年から昭和15年頃まで、「東京発ベルリン行き」のシベリア経由の鉄道の切符が、当時の貨幣で三百数十円であった。のちには「ロンドン行き」や「パリ行き」の切符も売られていた。作家の横光利一が昭和11年頃に、シベリア鉄道に乗って書いた「旅愁」から、すでに半世紀以上も経っている。そして今、シベリア鉄道とは違ったユーラシア大陸の中央部を横切る新しい鉄道が開通した。私は、その1番乗りをして、ベルリンまで来た。