5月14日午後6時半、パリのノルマンディ・ホテルからスペインのマドリード行きの列車が出るオーステルリッツ駅に向かった。車の渋滞でセーヌ川沿いで30分以上もかかり、駅には7時過ぎに着いた。
すでにマドリード行きのTEE(Trance Europ Express)は、ホームに入っていた。64号の56番で、1等の2人部屋寝台であるが、相客はいなかった。
TEEは、午後8時2分、定刻通り出発の合図などは何もなく、静かに動き始めた。私にとって何となく感動のない、味気ない出発であった。
パリの南西に広がる平地は一面の麦畑で、フランスの大穀倉地帯のようだ。このあたりの岩盤も石灰岩なので、土壌は白っぽい砂地で、保水力が弱いようだ。広い畑の至るところでスプリンクラーを使って散水している。
30分もすると、平らな麦畑の彼方に夕陽が赤い風船のように浮かんでいた、。360度見渡せる平地なので、「月は東に日は西に」という言葉通りの情景で、月は東に昇っており、日は西に没しようとしている。
食堂車のバーでワイン”RIOJA”0.375ℓ入りボトル1本(30フラン)を飲んだ。バーはカウンター式で、雰囲気がよい。食堂も豪華で良い雰囲気だが、私はラーメン・ライスで夕食を済ませていたので入らなかった。
スペイン製の車両は最新式で豪華に作られている。寝台車は2人部屋で、下のベッドは折りたためるようになっている。椅子は、ベッドを出すと下に入る。各々にランプと電話が設置され、衣服掛けと大きな鏡がある。洗面所は湯が出るし、板を下すとテーブルになる。冷暖房付きで、窓にはジャバラ式のカーテンがかかっている。隣室との間に扉があり、2部屋が1つになるようにもなっている。
トイレはフランスの列車のように、下からの吹き上げはなく、静かで座り心地がよい。水は押ボタン式で5、6秒出たあと、自動的に止まる。1等の寝台車は大変豪華で気持ちよくベッドに横になれる。
翌15日、午前6時半に夜が明けた。列車はピレネー山脈を越え、カスティーリャ高地の グァダラーマ山地を通過して、マドリード盆地へと下っていった。
大地は褐色の岩山で樹木は生えていない。遠くに残雪の高い山が見える。やがて、コルクの木が散見し、牧場が見えるようになった。列車が下るに従って、辺りはほとんど牧草地帯になり、牛が多く見られる。谷間の川を堰き止めたダム近くまで下りると、小石を積み上げた垣を境界とする牛の放牧地帯となる。
列車は徐々に下り、遠くにマドリードの町を望み、さらに下ってコルクの保護林を抜けると、標高650メートルにあるマドリードの町に入る。マドリード郊外の新駅シャマルチン駅に着いたのは午前8時54分であった。
すぐにインフォメーションオフィスに行き、リスボン行きの切符売場を尋ねた後、構内の銀行で円をスペインの貨幣ペセタに交換した。100円が75ペセタ、1米ドルが99・6ペセタであった。
切符売場の窓口には8人並んでいた。順番がきたが、受付番号を持っていなかったので切符を買うことができなかった。受付番号を発行する機会でカードを手にして再び20分ほど待って、やっと順番がきたのだが、すでに、1等室はなく、2等の禁煙席の切符を買うことができた。リスボン行きは13時55分発で、座席は21号の31番のVであった。なんと値段は245ペセタ、約300円と安かった。
荷物を構内のコインロッカーに預けて町に出る。コーヒーショップ兼食堂で食事をする。ピザ、ポテト、オレンジジュース、ヨーグルトを注文して1600円であった。現在のスペインは、ECの統合によって、対米ドルや日本円との交換率が高くなっており、物価が安いはずのスペインやポルトガルでも、非EC諸国民にとっては高くなる。
ましてやスペインは、今年(1992年)7月にはバルセロナでオリンピック大会が開催されるので、物価が急上昇しているとのことだった。