ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉝ ベルリン風情

 ベルリンに着いて、ホテルで2時間も横になって休んでいると疲労感は取れた。その代わり、屋台の拉麺の香りが懐かしく、無性に食べたくなった。

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ベルリン中心街の噴水池

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ベルリン街頭の花屋

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クルフェルステンダム街

 ホテルを出てタウエンツイン通りを歩く。西ベルリン一の繁華街クルフェルステンダムに出た。東京の銀座にあたるような人通りが多く、華やかな通り。歩道沿いに並ぶガラス張りの華やかなショーウインドウはベルリン名物の1つ。立派なホテルやレストランが並び、街頭のカフェテリアでは旅行者風の客たちが明るいテラスに座って、コーヒーか紅茶を飲みながら道行く人々を眺めている。

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ベーカリ パン屋

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街頭のカフェテリア

 1989年11月、民主化を求めて数万人の群集がブランデンブルグ門に集まった。その民衆の力が東西ベルリンの壁を破壊した。そして翌年の90年10月に東西ベルリンが統合され、今は壁のないベルリンとなって、町は明るくなごやかで、心なしか平和なムードがあふれている。

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ベルリンの壁

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破壊されたベルリンの壁

 第2世界次大戦中に破壊されたガイゼル・ウィルヘルム一世記念教会のある広場には、若者が集まっている。ギターを演奏しながら歌っている者、スケートボードをしている者。おしゃべりをしている者、抱き合っている者、布の上に自家製のアクセサリーを置いて売っている者もいる。

 通りには多くのレストランがあり、うまそうな西洋料理が陳列されている。だが、私は食欲をそそられなかった。ただ、無性にラーメンが食べたかった。

 10年ほど前、ヒマラヤ山中で民族踏査をしていた時、雪で10日ほど閉じ込められ、無性にみそ汁とめざしが欲しくなった。その時までは、世界中を旅行して何でも食べていて、食物を気にすることはなかったが、めざしやみそ汁が恋しくなった自分が、心身ともに日本人になったことを痛感したが、今も学生時代からよく食べた拉麺が食べたい。

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中国料理店「揚子江」の看板

  やっと「揚子江」という中国料理のレストランを捜し当てて中に入った。一階はアダルトショップで、2階に上がる。大きなガラス窓から通りや広場が見下ろせる。まだ夕食には早いので、女性客が2人いるだけ。中国人のウェイターに、野菜入りのヌードルスープと、米飯を頼んだ。つまり、ラーメン定食。

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中国レストランに座る女性たち

 しばらくすると、大ドンブリに入ったチャンポンのような麺とご飯が運ばれた。味は日本のものとは少々違うが、野菜やきのこ、メンマの入ったラーメンに近い東洋料理と言ってよく、食欲がそそられ、一気に食べ終えた。

 驚いたことに、食事後、胃の具合がよくなり、全身に活力がみなぎってきた。カザク共和国の食堂車で食べて以来の米飯に、やっと「飯を食った」という満足感を得た。このところ、ずっとパンと肉、ハム、ソーセージ、じゃがいもの料理ばかりで、胃が疲れていたのだろう。

 ホテルから東京へ電話を入れ、ベルリンに無事到着したことを知らせる。直通のダイヤルで、00813を押したあと相手方の電話番号を押せばよかった。鉄道を乗り継いでここまで来るのに約一ヶ月を要したのに、国際電話だとわずか10秒足らずで通じた。日本へ送った5分間のメッセージ代は、50マルク、3800円であった。

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ベルリン中心地

 大正14年から昭和15年頃まで、「東京発ベルリン行き」のシベリア経由の鉄道の切符が、当時の貨幣で三百数十円であった。のちには「ロンドン行き」や「パリ行き」の切符も売られていた。作家の横光利一が昭和11年頃に、シベリア鉄道に乗って書いた「旅愁」から、すでに半世紀以上も経っている。そして今、シベリア鉄道とは違ったユーラシア大陸の中央部を横切る新しい鉄道が開通した。私は、その1番乗りをして、ベルリンまで来た。