内蒙古からチベット7000キロの旅⑱ 土塊と化した長城のある村
8月28日、今日は400キロ以上も南西に走り、甘粛省の省都蘭州まで行く予定なので、朝8時半、砂披頭の山荘を出発した。
裴家営近くの山
道は未舗装のガタゴト道で、しばらく線路沿いに走った。51キロ離れた省境の村、甘塘(かんとう)につくと、甘粛省からの迎えの車がきていた。内蒙古の案内人たちは銀川まで、銀川からの案内人はここまでである。
甘粛省に入ると道が舗装されていた。12時に景泰の町について、招待所で昼食。このへんでは黄色の瓜が名物だそうで、沿道や街頭で売られていた。買って食べたが、それほどの味でもなかった。しかし喉の渇きをいやすにはビールよりはいい。中国に来て以来、まだ生水は飲んでいない。乾燥しているのでよく水分を補給するが、必ず沸騰したものを飲むことにしている。
昼食後、ここから西北にある裴家営(はいかえい)の村へ立ち寄った。100キロほど走った平原の中にある村は、豚が走り、羊の群がいた。ロバやラクダの荷車があり、古い小さなトラクダが走っていた。このへんでは一番大きな村で、1本しかない道には自由市場があり、野菜・穀物・肉・日常雑貨・衣類・道具類などが並べられていた。ここは、平原につづく万里の長城の南側にある農民と牧民の交流する市場であるが、西川さんが訪れた50年前とあまり変わっていないようである。
裴家営から2キロも北へ行くと長城があり、門のない出入口があった。このあたりの長城は、高さ3メートル、幅2.5メートルの土の壁で、比較的原型をとどめているところもある。東方の北京郊外にある発達嶺の長城よりはるかに小さく、土塊と化したところもあるが、えんえんと続く様は、さすがと感嘆させられる。長城から北を見ると、すでに平原は農耕地と化していたが、家はなかった。
この村の人びとは、今も城南に住み、働くために城北に出る、昔ながらの生活習慣なのである。地元の人びとにとっては、長城は住み分けの境界線であり、漢民族の象徴であったのかもしれない。それを北方の遊牧民から見ると、行動範囲や生活圏を規制するいやな壁であったと言える。