地球へめぐり紀行

新制中国の望郷編

内蒙古からチベット7000キロの旅⑭ バロン廟跡を訪ねて

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アラシャンの延福寺

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延福寺の本堂

  アラシャンの招待所に1泊し、オーラン山中にあるといわれる、西川さんが訪ねていた、内蒙古で最も大きかったバ口ン廟(中国語では廣宗寺)を訪ねることにした。文革で破壊されたとされていたが、その後の情報かまったくつかめていなかったので、バロン廟跡の現状を確認するためでもある。

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アラシャンの露店市場

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アラシャンの市場街

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街頭でのチーズ売り

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イスラム教徒用の焼肉売り場

 アラシャンから寧夏の銀川につづく道を30キロほど進み、本道を東にそれた。オーラン山西麓にあるはずのバロン廟につづく道は荒れ、すでに訪れる人もないのか、轍があるだけ。四輪駆動の車でさえ進みにくい石ころ道で、顔が腹につくほどゆれる。それでも10キロくらい進んだところに漢民族の新しい村かあった。彼らはオーラン山中の植物を保護する森林保安係である。無許可ではこれ以上入ることはできないが、アラシャンの役所で得た許可書を見せて通してもらう。

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オーラン山中のバロン廟への入口

 「たばこを吸わない、木を折らない、植物を採集しないこと」

 こんな注意を受け、オーラン山中に入った。坂道を徐々に登ると、木かポツリポツリ生えている岩山にさしかかる。谷が門のようになった所を通ると、道沿いの岩肌に彩色された磨崖仏かあちこちにあり、チベット文字も彫ってあった。ラマ教の廟がある雰囲気にはなってきたが、道の手入れか悪く、人や車の通った気配が感じられない。

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オーラン山中の岩壁に掘られた摩崖仏群

 本道から16キロほど入ると、まわりを山に囲まれ、天然の要塞のような、南向きのゆるい斜面が開けていた。背後の北側に高い岩山かそびえ、東にも岩山があり、西北にはゆるやかな岩山がつらなっていて、谷には清水か流れている。しかしバロン廟らしき寺院はない。深山幽谷の穏やかな地は、人の気配もなく、静かだった。

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石垣が残っているバロン廟跡

 今から45年前に訪れた西川一三氏の記録によると、「1000人以上ものラマ僧が住み200もの僧房があり、アランシャン盟最大の廟で、2カ所に2階建ての大きな寺院もあった」と記されている。しかし、その巨大なバロン廟は跡形もなく消えていた。ただ、石垣と白い仏塔が残っている。

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文革で破壊される前のバロン廟全景写真

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文革で破壊された後のバロン廟跡全景

 歩いて坂道を登って行くと、下からは見えなかったが、中腹の平地に小さな寺、廣宗寺が再建され、その横に僧房があった。その庭に立って眺めていると、数人の僧が出てきた。9歳で出家したという73歳のロブソンラマと、77歳のシェルプジャムラマがいた。いすれも老僧である。

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バロン廟跡に再建された廣宗寺と73歳のロブソンラマ

 老僧たちの話によると、文革がはじまってすぐにバロン廟の僧たちは 政府の命令で強制的に退去させられた。同意しない僧は投獄され、抵抗した僧は虐殺もされたという。多くの高僧がこの時命を断たれた。そして、巨大なバロン廟は、紅衛兵と呼ばれる若者たちの手でことごとく破壊されたのだという。

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廃墟に残った白い仏塔

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バロン廟の廃墟に立つ柱

 文革か終わった後、1980年から俗界に住んでいた僧たちの少数が戻ってきた。しかし、何も残ってはいなかった。83年から84年にかけて、10数名の僧と人民の手によって、″廣宗寺″と呼はれる小さな寺を再建することができた。まずは勤行する寺院を建て、少しずつ僧たちの住む房を建て増した。今では100人もの僧がこの寺に所属しているのだが、住んでいるのは13名だけである。

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バロン廟跡に残る石垣

 僧たちは、当時の写真を見せてくれた。バロン廟は寺院というよりも、城塞都市の観がある。これほどの建造物を破壊しつくすとは、やはり戦争だった。戦争とは相手を認めず 大小の破壊行為や殺戮的な残虐行為をくり返す、最も人間的な集団行為である。

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バロン廟跡に建つ老僧たちの住まい

 文化大革命は、幹部たちのエリート意識を一掃するための再革命であるといわれていたか、実際には内戦であり、漢民族の支配権確立のために、多くの知識者や文化人、地主、反支持者や異民族を殺傷し、多くの神社仏閣や文物などを破壊した。

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南米ペルーのマチュピチュのように石垣だけが残っていた

 バロン廟跡には、南米のインカ帝国の遺跡マチュピチュと同じように石垣だけが残っていた。それは、過去の文化を否定し、新しい社会建設のための粛清のツメ跡であったが、巨大城塞都市のようなバロン廟をこうまでするには、1月や2月は要したにちがいない。