内蒙古からチベット7000キロの旅⑮ 西夏王の古墳群

 アラシャンからテングリ砂漠を横断して西南へむかう予定であったが、道が砂に埋まって通れないので、南の銀川にむかった。道はオーラン山脈の南端をつっ切っていた。木の生えていない岩山の中を走り、峠を越して下る。両側に、石を積み上げた壁や見張り台、狼煙台などがある。しばらく下ると、はるか東の方から続いている万里の長城があった。

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木の生えていないオーラン山脈南麓

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オーラン山脈南麓の万里の長城

 黄河沿いの緑地帯にむかって長い坂道を下っていると、北の方の荒野に、円錐形のとんがり帽子のような造形物が10数個あった。

 「あれはなんだろう?」

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オーラン山脈南の平地に見える円錐形の造形物

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西夏時代の墓と西夏王陵

 車の中で話しあったが、誰も知らなかった。不思議な塔なので、近くに行って確かめようと。荒野に車を入れて走らせた。

 最も近いところに高さ3~4メートルの塔が6個林立していた。3個は高さ3メートルもの土壁に囲まれていたが、他は土壁がくずれてなかった。

 『西夏王陵区』

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西夏王陵に関する掲示

 塔の近くに王陵である標識があった。私たちが訪れた王陵が最も南で、ここから北へ、オーラン山脈に沿って、大小23個もの塔が確認できた。

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西夏王陵の一つ

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広範囲に見える西夏時代の王陵群

 これらの塔は、13世紀初頭、チンギスハンの蒙古軍に滅ぼされた西夏国の、王陵の仏塔であった。当時は、青や緑、黄、褐色などのタイル瓦でおおわれ、たいへん美しかったそうだが、今ではその瓦がすべてはげ落ちてしまっている。塔の周囲は四角形または長方形の土壁があり、今もその原形が残っている。この陵墓はまだ未発掘で、何も分かっていない。チベット系の西夏という国は、11~13世紀にかけていまの寧夏回族自冶区を中心に、東はオルドス地方、西は甘粛省に至るまでを領有していた。 

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王陵を囲う崩れた土塀

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王陵を覆っていた緑色のタイルの破片

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王陵の崩れた壁の上に立つ筆者

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巨大な王領は、もともと緑色のタイルで覆われていたそうだ

 1227年蒙古軍の侵入を受け、190年間も続いた西夏王国は滅亡したが、その歴代の王陵が荒野に林立している。これだけの塔を建造した王国の力は、やはり大きな存在であったのたろう。いまは漢民族の居住地だが、かつてはチベット系の人びとの居住地でもあったのである。

 黄河沿いの銀川は 標高1095メートルの町で、じつに緑が多く、人口は40万人である。寧夏回族自冶区の中心地であるが、回族は人口の10分の1しか住んでいない。

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銀川近くの黄河

 銀川は黄河の本流から20キロも西にある銀川平野にあり、その支流や運河が多い。あまり雨が降らないので空気はたいへん乾燥しているが、大地の水分の蒸発が多いせいで、空気がかすんで熱い。近辺は農業が盛んで、小麦、米の産量が多く、他に羊毛や皮革の集散地でもあるので、古くから豊かな町であったという。私たちは、銀川の体育招待所に泊まった。

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西夏王陵碑に寄り添う筆者