内蒙古からチベット7000キロの旅⑮ 西夏王の古墳群

 アラシャンからテングリ砂漠を横断して西南へむかう予定であったが、道が砂に埋まって通れないので、南の銀川にむかった。道はオーラン山脈の南端をつっ切っていた。木の生えていない岩山の中を走り、峠を越して下る。両側に、石を積み上げた壁や見張り台、狼煙台などがある。しばらく下ると、はるか東の方から続いている万里の長城があった。

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木の生えていないオーラン山脈南麓

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オーラン山脈南麓の万里の長城

 黄河沿いの緑地帯にむかって長い坂道を下っていると、北の方の荒野に、円錐形のとんがり帽子のような造形物が10数個あった。

 「あれはなんだろう?」

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オーラン山脈南の平地に見える円錐形の造形物

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西夏時代の墓と西夏王陵

 車の中で話しあったが、誰も知らなかった。不思議な塔なので、近くに行って確かめようと。荒野に車を入れて走らせた。

 最も近いところに高さ3~4メートルの塔が6個林立していた。3個は高さ3メートルもの土壁に囲まれていたが、他は土壁がくずれてなかった。

 『西夏王陵区』

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西夏王陵に関する掲示

 塔の近くに王陵である標識があった。私たちが訪れた王陵が最も南で、ここから北へ、オーラン山脈に沿って、大小23個もの塔が確認できた。

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西夏王陵の一つ

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広範囲に見える西夏時代の王陵群

 これらの塔は、13世紀初頭、チンギスハンの蒙古軍に滅ぼされた西夏国の、王陵の仏塔であった。当時は、青や緑、黄、褐色などのタイル瓦でおおわれ、たいへん美しかったそうだが、今ではその瓦がすべてはげ落ちてしまっている。塔の周囲は四角形または長方形の土壁があり、今もその原形が残っている。この陵墓はまだ未発掘で、何も分かっていない。チベット系の西夏という国は、11~13世紀にかけていまの寧夏回族自冶区を中心に、東はオルドス地方、西は甘粛省に至るまでを領有していた。 

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王陵を囲う崩れた土塀

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王陵を覆っていた緑色のタイルの破片

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王陵の崩れた壁の上に立つ筆者

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巨大な王領は、もともと緑色のタイルで覆われていたそうだ

 1227年蒙古軍の侵入を受け、190年間も続いた西夏王国は滅亡したが、その歴代の王陵が荒野に林立している。これだけの塔を建造した王国の力は、やはり大きな存在であったのたろう。いまは漢民族の居住地だが、かつてはチベット系の人びとの居住地でもあったのである。

 黄河沿いの銀川は 標高1095メートルの町で、じつに緑が多く、人口は40万人である。寧夏回族自冶区の中心地であるが、回族は人口の10分の1しか住んでいない。

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銀川近くの黄河

 銀川は黄河の本流から20キロも西にある銀川平野にあり、その支流や運河が多い。あまり雨が降らないので空気はたいへん乾燥しているが、大地の水分の蒸発が多いせいで、空気がかすんで熱い。近辺は農業が盛んで、小麦、米の産量が多く、他に羊毛や皮革の集散地でもあるので、古くから豊かな町であったという。私たちは、銀川の体育招待所に泊まった。

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西夏王陵碑に寄り添う筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅⑭ バロン廟跡を訪ねて

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アラシャンの延福寺

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延福寺の本堂

  アラシャンの招待所に1泊し、オーラン山中にあるといわれる、西川さんが訪ねていた、内蒙古で最も大きかったバ口ン廟(中国語では廣宗寺)を訪ねることにした。文革で破壊されたとされていたが、その後の情報かまったくつかめていなかったので、バロン廟跡の現状を確認するためでもある。

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アラシャンの露店市場

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アラシャンの市場街

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街頭でのチーズ売り

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イスラム教徒用の焼肉売り場

 アラシャンから寧夏の銀川につづく道を30キロほど進み、本道を東にそれた。オーラン山西麓にあるはずのバロン廟につづく道は荒れ、すでに訪れる人もないのか、轍があるだけ。四輪駆動の車でさえ進みにくい石ころ道で、顔が腹につくほどゆれる。それでも10キロくらい進んだところに漢民族の新しい村かあった。彼らはオーラン山中の植物を保護する森林保安係である。無許可ではこれ以上入ることはできないが、アラシャンの役所で得た許可書を見せて通してもらう。

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オーラン山中のバロン廟への入口

 「たばこを吸わない、木を折らない、植物を採集しないこと」

 こんな注意を受け、オーラン山中に入った。坂道を徐々に登ると、木かポツリポツリ生えている岩山にさしかかる。谷が門のようになった所を通ると、道沿いの岩肌に彩色された磨崖仏かあちこちにあり、チベット文字も彫ってあった。ラマ教の廟がある雰囲気にはなってきたが、道の手入れか悪く、人や車の通った気配が感じられない。

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オーラン山中の岩壁に掘られた摩崖仏群

 本道から16キロほど入ると、まわりを山に囲まれ、天然の要塞のような、南向きのゆるい斜面が開けていた。背後の北側に高い岩山かそびえ、東にも岩山があり、西北にはゆるやかな岩山がつらなっていて、谷には清水か流れている。しかしバロン廟らしき寺院はない。深山幽谷の穏やかな地は、人の気配もなく、静かだった。

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石垣が残っているバロン廟跡

 今から45年前に訪れた西川一三氏の記録によると、「1000人以上ものラマ僧が住み200もの僧房があり、アランシャン盟最大の廟で、2カ所に2階建ての大きな寺院もあった」と記されている。しかし、その巨大なバロン廟は跡形もなく消えていた。ただ、石垣と白い仏塔が残っている。

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文革で破壊される前のバロン廟全景写真

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文革で破壊された後のバロン廟跡全景

 歩いて坂道を登って行くと、下からは見えなかったが、中腹の平地に小さな寺、廣宗寺が再建され、その横に僧房があった。その庭に立って眺めていると、数人の僧が出てきた。9歳で出家したという73歳のロブソンラマと、77歳のシェルプジャムラマがいた。いすれも老僧である。

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バロン廟跡に再建された廣宗寺と73歳のロブソンラマ

 老僧たちの話によると、文革がはじまってすぐにバロン廟の僧たちは 政府の命令で強制的に退去させられた。同意しない僧は投獄され、抵抗した僧は虐殺もされたという。多くの高僧がこの時命を断たれた。そして、巨大なバロン廟は、紅衛兵と呼ばれる若者たちの手でことごとく破壊されたのだという。

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廃墟に残った白い仏塔

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バロン廟の廃墟に立つ柱

 文革か終わった後、1980年から俗界に住んでいた僧たちの少数が戻ってきた。しかし、何も残ってはいなかった。83年から84年にかけて、10数名の僧と人民の手によって、″廣宗寺″と呼はれる小さな寺を再建することができた。まずは勤行する寺院を建て、少しずつ僧たちの住む房を建て増した。今では100人もの僧がこの寺に所属しているのだが、住んでいるのは13名だけである。

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バロン廟跡に残る石垣

 僧たちは、当時の写真を見せてくれた。バロン廟は寺院というよりも、城塞都市の観がある。これほどの建造物を破壊しつくすとは、やはり戦争だった。戦争とは相手を認めず 大小の破壊行為や殺戮的な残虐行為をくり返す、最も人間的な集団行為である。

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バロン廟跡に建つ老僧たちの住まい

 文化大革命は、幹部たちのエリート意識を一掃するための再革命であるといわれていたか、実際には内戦であり、漢民族の支配権確立のために、多くの知識者や文化人、地主、反支持者や異民族を殺傷し、多くの神社仏閣や文物などを破壊した。

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南米ペルーのマチュピチュのように石垣だけが残っていた

 バロン廟跡には、南米のインカ帝国の遺跡マチュピチュと同じように石垣だけが残っていた。それは、過去の文化を否定し、新しい社会建設のための粛清のツメ跡であったが、巨大城塞都市のようなバロン廟をこうまでするには、1月や2月は要したにちがいない。 

 

 

内蒙古からチベット7000キロの旅⑬ 天然の塩を掘る

 8月23日の朝、招待所の庭に出ると、ボタ山が3つあった。それが塩の山であることに気づくには、灰色であったがゆえに、しばらく時間を要した。

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一面の塩

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ジランタイ塩湖

 ジランタイには中国最大の国営採塩場かある。その現場を工場の係員に案内してもらった。

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塩湖の塩を掘り上げる人たち

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天然の塩に覆われた大地

 採塩場は町はずれから続いていた。無尽蔵といわれる塩が地表をおおっている。小は砂、中は大豆、大は親指ほどの結晶が、1メートル以上も層になっている。その粒は、まるでダイヤモンドのように透明で堅い。表面は土と混ざって灰色をしているが、中で溶解した塩が水とともに下から噴き上げた穴が無数にあり、噴火口のような白い口がある。そのせいで大地は白っぽく見える。空は青く、かげろうがゆらりゆらり立ち昇る。空気がかすみ、遠くの山かぼんやり浮いて見える神秘的な光景である。  

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機械で塩を掘り上げた跡

 ジランタイの塩湖は東京都の半分くらいの広さだが、いま採塩しているのは120平方キロメートルで、10分の1くらいの範囲だけである。

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地下から塩が噴き出た所

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砂岩のような塩の塊

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ダイヤモンドの粒のような塩

 塩が粒状になった層は、土にまみれて灰色になっている。それを大型の砂利採り機で、水や土とともに吸い採り、塩の粒だけを選別して取り出している。次から次にやってくるトラックの荷台に、止まることなく流れ込み、製塩工場に運び込む。

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機械での採塩

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塩を工場に運ぶトラック

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塩の大地の上に立つスタッフと筆者

 この標高1000メートルもある広大な塩湖には、まだ発見されていないどれだけの未知な物が存在しているのかわからない。近い将来、ここには大きな化学工場か作られるにちかいない。

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乾期に地下から塩が噴き出た穴

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ジランタイ塩湖近くの道沿いでのスイカ売り

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ジランタイ近くの砂丘

 ジランタイから南のアラシャンの町に向かった。途中の道沿いで西瓜と黄色い瓜を買って食べた。乾燥して熱かったせいか、その味は格別で、砂漠でしか味わえないもののように思えた。

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オーラン山西麓にあるアラシャンの町

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アラシャン西側の郊外を望む

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人口5万ものアラシャンの町

 午後2時すぎ、オーラン山の西麓にある人口5万ものアランシャンの町に着いた。空気が乾燥して、鼻や唇の粘膜がヒリヒリ痛む。2~3階の建物が並ぶ近代的な街の食堂に入った。まず最初に注文したのはビールだった。生ぬるいビールにすっかり慣れて、舌で味わいながら飲んだ。地方にはまだ冷蔵庫が普及していないこともあって、ビールを冷やして飲む習慣がない。

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アラシャンの街を一望する丘に立つ筆者

 

内蒙古からチベット7000キロの旅⑫ 平原から砂漠へ

 今回の旅の難儀はガソリンの確保である。予定では、特別チケットで、軍の施設でもどこでも給油してもらえることになっていた。2日に1回は給油するのだが、ガソリンがなかったり機械が故障していたり、係員がいなかったり、本道から50キロも100キロもそれていたりで、時間をずいぶん浪費している。

 ウラード後旗でも、前日からの停電で2時間も待たされた。たまりかねた私たちの怒りから、外事弁公室主任が特別な計らいをしてくれ、手押しポンプで給油を受けた。

 「ガソリンを飲まなきゃ走れない馬は、時に不便なことがあるよ」

 前日から給油を待ちつづけていた現地人の言葉である。  

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平原に残る古い城壁

 8月22日、10時すぎになってやっとウラード後旗を出発することができ、さらに西へむかった。これは、北のモンゴル人民共和国へむかう道である。約70キロ走ってから南へそれた。ここから内蒙古南端の町・アラシャンに向かって南下する。

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涸れ川に生える楡科の木

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乾燥した大地に生える古い灌木

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乾燥地の灌木

 涸れた川床を走ると、間もなく土壁の家が2~30軒あった。その村を過ぎると荒野で、草も木も生えていない。轍に従って進めば、パインゴビの村に着くはずである。ウラード後旗の役人が2人、中国製のジープで同行している。

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パインゴビへの道

 自然環境の厳しい内陸の乾燥地であるパインゴビ村に午後1時すぎに着いた。この僻地の村の招待所で、イワシや豆・肉などの缶詰を開けてもらい、手打ちのうどんを2杯もおかわりした。予期していなかった昼食だけに、肉うどんは大変うまく、こんな美味なうどんはどこにもないようにすら思えた。やはり、空腹にまさる料理人はいないようである。

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シニウス村への道

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木の生えていない岩山が続く

 午後4時、南のシニウス(錫尼烏蘇)村にむけて出発する。ふたたび平原や川床、砂地、丘などにつづく轍に従って砂煙を引いて走る。家畜どころか野生の動物すら見かけない。方角はまったく不明だが、案内車が先導してくれるので、5台の車が並んで走る。

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乾燥地の植物

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シニウス近くの丘の上

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シニウス近くの乾燥した大地

 やがて両側に山が見える丘に着いた。シニウスはもう近いとのことで、案内車はここから引き返すことになった。われわれは丘を南に下り、平原の灌木や草の中を走り、午後7時過ぎにシニウス村に着いた。この村から南のジランタイヘの道は舗装されていた。舗装された道を走っていると、まちがいなく目的地につけるような安心感が、まるで衣服のように全身を包み、幸福感さえ味わえた。

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シニウスの注油所

 まもなく砂漠地帯に入った。道は東にむかっていたが、やがて東南に、そして西へ、西南へ、南へ、東南へと続く。道がこのように建設されているのは、風によって川の水のように流れる砂をよけるためで、流れに逆らうとすぐに埋まってしまう。

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大きな砂丘

 夕暮れが迫り、大きな丘を登っていると、道が高さ10メートルもの大きな砂山に埋まって通れなかった。こうなると、近代的な土木機械でもなかなか歯が立たない。なんでも、一夜のうちに道を埋めてしまうそうだが、まるで猿カニ合戦の童話にある、木の臼が猿の上にどっかと乗っている絵を見るようで、自然の力が、砂をして人工の道をこらしめているような光景である。

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大きな砂山が一夜で動く

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風によって変化する砂地

 車は砂山を左に回って進んだ。やがて、電柱が砂に埋まって、電線が地につきそうな光景にも出会った。そして、標高1,600メートルの峠を越すと、南の方には夕陽に染まった砂丘か広かっていた。美しい光景だが、乾いた恐ろしい砂の世界である。

 日暮れ直後 2番目を走る孫君の車のフロントガラスが割れた。若い彼には、30メートル以上離れて走るよう何度も注意していたのだが、接近しすぎて前の車がはねた小石が当たったのだろう。取り替えは300キロも南の寧夏回族自冶区の区都銀川まで行かないと出来ない。その後はゆっくり走ったので 目的地のジランタイ(吉蘭泰)に着いたのは、夜の10時を過ぎていた。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑪ ナダムの競馬

 人口1万のウラード中旗の町では、今日から草原の民、蒙古族の祭りであるナダムが始まった。ナダムは“遊び”という蒙古語で、人びとか集い、すもうや競馬をし、市場か立ち、飲み、食い、歌い、楽しく踊る年1度の行事なのである。そのせいで、近在から多くの人びとが集い、人民政府の招待所やホテルが満員で泊まれなかった。

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ウラード中旗の郵便局

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ウラード中旗のホテル

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ウラード中旗の招待所

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ウラード中旗郊外にできたナダムの市場

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平原にできたナダム用の市場

 私たちは公安員の許可を得て。郊外の町が一望できるゆるい丘にテントを張った。明日から始まる競馬コースの近くで、草原にはアンパン型の白いゲルが6ヵ所に張られ、たくさんの馬をつないでいた。私たちの100メートル後方にも、ここから40キロほど西のチョワチン村から30頭の馬を連れてきた人びとがゲルを張っている。

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白いゲルのそばにつないだ馬

 彼らと親しくなり、夕食後、ゲルを訪れた。村長や村人数人と7、8名の子どもがいた。明日から3日間の競馬には9歳から13歳までの少年が出場するという。9歳のプホ君、10歳のマントラ君が参加するそうだ。

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競馬に出場する10歳のマントラ

 翌8月21日、8時半ころから競馬に参加する人びとの動きが活発になり、美しい草原に人がたくさん集まった。プホ君やマントラ君は、馬の首を抱いて裸馬によじ上った。彼らは、緑色の布で頭をすっぽり包み、そのはしを左右にたらし、風にひらひらさせながら会場に向かった。

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競馬に出る子供たちと保護者たち

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競馬に出る子と若い母親

 9時すぎると5~6千人もの人びとが集まって、競馬場はたいへんな盛り上がりとなった。

 競馬に参加する子どもたちは、布で頭を巻くか包んでいる。緑色、赤色、黄色でそうしている子と、頭に何もつけていないのもいるので、全部で7組である。

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3,000メートル競走に出る少年と馬

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出発点に向かう選手

 コースは3,000と6,000、9,000、12,000メートルの4種類であるが、初日の今日は、子供用で1周半の3,000メートルだけである。1回に6~7頭が出場し、楕円形のコースを走るが、内側に赤い小旗、外側に桃色の大きな旗か立てられている。

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出発地に集まった選手たち

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間もなく出発

 スタートは、小さな子には保護者がくつわを待ち、大きい子は自らが30メートルくらい助走し、合図用の赤い大きな旗を持った人の前をそろって通り、旗かふり下ろされて出発となる。保護者は旗より前に行ってはいけない。ゴールでは、ふり下ろされた旗を見てストップウォッチを押す。

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出発の旗が振り下ろされたが、慣れていないのか一斉ではない。

 若い騎手は一人前にふるまい、馬上で「ヒヤー」という奇声を発し、右手のムチをくるくる回しながら馬を駆けさせる。半周するとだいたい順位が決まるが、中には後半にもつれこむこともある。時にはコーナー回りができず、疾走してコース外に出たり、内に入ったりすることもあるが、再びコースに戻れば問題はない。馬は2~3日休養しているし、興奮しているので、ゴールに入っても馬上の少年にはなかなか止められない。大人が馬を走らせて追いつき、くつわをとらえる。

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スタート直後、すでに差があるが気にしない

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一周後の競り合い

 裸馬に乗った少年たちは、ゴール後に下馬するが、しばらくは足の筋肉が疲労し、歩きづらそうである。たぶん、両足で馬の背をしっかり抱えこんでいたのであろう。

 いくつものクループで競うので、順位はタイムによって決められた。最高か4分29秒89であった。3回目に参加したマントラ君は1位で入ったが。4分32秒であった。

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疾走する模様

 競馬に参加している馬は比較的高齢の馬か多い。馬か最も速く駆けられるのは6~8歳だそうである。しかし、長距離には弱いという。馬は10~13歳くらいになると、速く駆けることはできないが、長距離を安定した速さて駆け続けることかできるそうだ。そのため、5,000メートル以上の距離になると、10歳以上の馬か選ばれるそうだが、3,000メートルには8~10歳の馬が多いそうである。

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ゴールの赤と緑色の旗

 競馬は休みなく続くので、観衆は時のたつのが分からない。私もつい見入ってしまい、リポートすることを忘れるほどだった。

内蒙古からチベット7000キロの旅➉ ラクダに乗って

 8月19日の早朝、招待所の庭から眺めると、パインハテは広い平原の中にあるが、かなたの四方に山があった。やはり山のある風景はやすらぎを覚える。山は大地に変化をもたらす絶対的な存在で、自然の豊かさや神秘、活力などを象徴しているようにすら感じられる。

 パインハテを9時に出発し、昨夕の雨上がりの青い空と緑の絨毯を敷きつめたような草原のそこかしこに白い羊の群が点在するのを眺めながら走った。

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パインハテからの道

 運転手兼ガイドの包さんはパインハテ出身の蒙古族で、このへんには親戚が多いとのことだった。彼は、昨夜のうちに親戚のラクダ飼いを訪れ、今日、ラクダの旅ができるように頼んでくれていた。

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山沿いの羊の群れ

 岩山の南麓にあるラクダ飼いの家には11時前に着いた。しかし、放し飼いのラクダの居場所がわからず、今朝からの捜索隊がまた帰っていなかった。蒙古の牧民たちは、大型家畜の馬や牛、ラクダなどは放し飼いするので、1週間も10日も、長い時には1ヵ月も居場所を確認しないままでいることがある。

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山麓ラクダ飼いの村

 正午には4人のラクダ捜索隊が東の方から馬を走らせて戻ってきたが、まだ見つかってはいなかった。主人のオルドンチャオルさん(40歳)は、午後には見つかるでしょうと、当たり前のごとく言った。彼らは、2時半頃から再び出発し、午前中とは違った南の方へ向かった。

 午後4時半ころ、急に南の方から雨雲が強い風とともにやってきて、雨が激しく降った。今日はもうだめかなと車の中から見ていると、5時半ころ、やみかけた雨の中に20頭ほどのラクダの群か近づいてきた。

 雨にぬれたラクダは、体毛がベタッとくっつき、だらしなく汚れて見えるので、見栄えのするものではない。しかし陽がさしてくると、毛か乾いてラクダらしくなった。

オルドンチャオルさんはすくに出発の準備にかかった。奥さんと娘、村人一人が手伝って、手ぎわよく4頭のラクダに次々と荷物をつけた。長い距離を追い立てられて戻ってきたせいか、扱いやすく、ラクダとのコミュニケーションがうまいのだろう、昨日のラクダのように飛んだり、跳ねたり、蹴ったりはしなかった。

 明日から3日間、このあたりの中心地であるウラード中旗で、蒙古族の祭りであるナダムがあり、彼ら一家も午後から参加するので、ラクダの旅は明日の正午までしかできないとのことで、遅くなったが、7時前に出発した。

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ラクダの上から見た平原

 オルドンチャオルさんと私は、鞍をつけたラクダにまたがった。彼は荷物をのせた四頭のラクダをひいてどんどん進む。ところが、私のラクダはなかなか想い通りに進んでくれない。

 出発前に、オルドンチャオルさんがラクダの御し方を教えてくれた。「スック」は座れ、「トル」は止まれ、「ショック」は行けである。方向はすべて鼻に通した小さな棒の先に結んだ手綱でやると教えられたが、実地訓練もなく、しかも昨日の暴れラクダを見ている。おそるおそる御しても、なかなか言うことを聞かない。乗り慣れていないので、少し早足になって落ちそうになると、やわらかいこぶの毛をつかむ。

 馬には乗り慣れているのだが、ラクダはこれまでに20分以上も乗ったことかないし、性質もよく知らない。何より、馬よりも長い顔で、ヘビのような目はなんとなく親しみ難い。「走らないように」「暴れないように」「噛みつかないように」と祈るような気持ちで乗っていた。

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平原にいた野鳥

 幸運なことに、乗る直前に追い返されて走っていたせいか、案外おとなしいラクダたちである。心配しながら一時間も乗っていると、なんとなく乗り方がわかってきた。しかし、背が馬の2倍も高く、落ちればどうなるかという不安は脳裏から離れない。

 ラクダの歩みは馬よりも速く、時速10キロくらいである。馬は近距離に強いが、ラクダは長距離に強く、少々の塩を与えておけば、二週間飲ます食わすでも生きられ、乾燥には強いので、長旅には最高に便利な家畜なのである。

 1時間半ほど進んで丘の上に止まった。ラクダから積み荷をおろし、それぞれの手綱を地面にしがみつくように生えている倭木(根は地下3~4メートルも伸びている)に1本ずつ結ぶ。放置しておくと、一夜で遠くまで行き、捜すのが大変なのである。

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夕日を受けて立つ私が乗った双こぶラク

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オルドンチャオルさんとラク

 緯度が高いので、夏の日没か遅く、9時頃まで明るかったが、太陽が紅く空を染めて地平線に没すると、急に風か強く吹き、雨も少々混じって冷えた。平原の中に張ったテントは一晩中風にゆれ、その音が暫く耳についていた。

 8月20日の朝は風があり、上空の雲にはなんとなく秋の気配かある。ここは標高1300メートル、緯度は北侮道の函館くらいだから、もう初秋なのかもしれない。

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標高1,300メートルでの野営の早朝

 朝食後、オルドンチャオルさんと2人でラクダに荷物をつけ、9時に出発した。今日は正午までに約15キロ西のウラード中旗に着く予定である。ラクダは昨日より乗りやすく 気分もよかったので、どんどん進んだ。

 途中、撮影のため二度休憩したので少々遅れ、11時すぎにウラード中旗の手前(東方)の小川に着いた。ラクダの旅はここまでの約束である。

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ラクダの旅が終わり、ラクダを連れて帰るオルドンチャオルさん

 昨夕からラクダを立たせること、進ませること、止めること、方向を思い通りにさせること、走らせることなどはできるようになっていた。しかし、乗ったままで前足を折って座らせることかまたどうしてもできなかった。なんとかやれるようにならなければと スック(ソックとも聞こえる)、スックと声をかけ、俺をなめてはいかんよと、少し強く手綱を下に引いた。3度目にやっと前足を折ってゆっくり体を沈め、後足も折って座ってくれた。

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ウラード中期への道

 無事に終わってみると、たいしたことではなく、あっという間のできことのようであった。親近感の持てなかった、とぼけたような長い顔にも、優しい表情か見える。2日間のお礼にと、ラクダが最も喜ふという、長い首の喉をさすってやると、うつろな目で宙を見上げ、嬉しそうな表情でじっとしていた。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑨ ラクダ飼いの失敗

  蒙古語のパインオボは、“豊かな山”とでもいう意味であるが、漢名では“白雲オボ”である。この町は、近くの山で鉄鉱石か発見されてから急に発展し、今では人口3万もの漢人の町である。鉱石を南の包頭の町へ運ぶために線路がある。天然ガスも発見され、包頭までのパイプラインが埋設されていた。この町には火力発電所があり、平原の村々に電気を送っている。

 8月18日、鉄鉱の町パインオボを午前9時に出発し、さらに西へ向かう。平原の轍を走ること1時間半、岩山が近くにあるシンポロゴという村に着いた。

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シンポロゴ村

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シンポロゴ村で売られていたオートバイ

 私は、テレビのリポーターとして、ここから2日間、ラクダで草原の旅をすることになっていた。準備に少々時間がかかり、昼食後の1時半頃出発することになった。ところが、ラクダの背に荷物をつけるのになかなかてこずった。ラクダの扱いはプロのはずの牧民が、どうした訳かラクダを御しきれない。ラクダは嗚きわめき、座ろうとせず、後足で蹴ったり、噛みつこうとしたりで、男4人がたじたじである。

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ラクダ飼いの家

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ラクダにつける荷物

 案内役の青年が、双コブのあいだに鞍をつけたラクダに乗るには乗ったが、とたんに飛び上がり、足を宙に浮かせて大あばれ、数秒後にはいたたまれず、ラクダの首に抱きつくようにし、半分転げ落ちるように下りた。

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私用のラクダに鞍をつける

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ラクダに荷物をつけたが、この後大暴れ

 やっとのことで4頭のラクダに荷物を積み、さあ出発ということになり、私はラクダの鞍にまたがって手綱を持って進みはじめた。ところが、荷をつけた一頭が、またもや大あばれをはじめた。

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荷物をつけたラクダを引く女性

 ラクダは付和雷同しがちで、1頭が暴れると他も一緒に暴れがちなので、下りようとしたとたん、私のラクダが驚いたように身体をのけ反らし後ずさりした。あぶみから足をはずしていたので、バランスをくずして尻からとずんと落ちてしまった。ラクダよりも私の方が驚いて4つん這いで逃げた。荷物をつけた4頭が暴れだし、1頭は荷物をふり落とすように跳ねながら走る。誰も止められず、しばらく放置していた。

 私は、無事であったことに安堵したが、腰が抜けたように大地に尻をつき、なかなか立ち上がれないままラクダを眺めていた。

 ラクダ飼いの末裔である彼らは、すでにラクダを使役する技術を忘れている。ラクダとコミュニケーションが持てなくなっているのである。そのことを嫌というほど知らされた男たちは、愕然としたようである。

 彼らはラクダによる旅を辞退した。彼らにとってこれほど面白くないことはなかろう。しかし、日給としての1日分100元の請求は忘れなかった。

 仕方なく予定を変更し、さらに西へ進んだ。一時間半ほどで低い山に囲まれた、古い大きな土塀のある城塞跡に着いた。

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平原の中に古い城壁のような土塀が続いていた

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城塞跡の土塀

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大きな高い土塀に囲まれた城塞跡

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どのような民族が、いつごろ建設したのか誰も知らなかった

 城塞跡の近くにのある人口2000人ほどの村で尋ねたが、この城塞がどんな民族によって、いつごろ作られ、どうして滅びたのかを、誰も知らなかった。大半の住民が他所から移住してきたのである。彼らは、古い巨大な城塞都市跡の壁には無関心であった。 村の名前を聞きそびれたが、道沿いには雑貨屋、肉屋、菓子屋、文房具屋などがあり、スイカ、トマト、しゃがいも、なす、タマネギ、キャベツなどの自由市場が立っていた。しかし、人出はあまりなく閑散としている。

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村の役場のような建物

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露頭の市場

 夕暮れが迫ってきたのでさらに西へ進む。途中、一天にわかにかき曇り、かなり強い雨が降りはじめた。このへんは川に橋がなく、雨が降ると水か流れるので通れなくなる。急いでまだ水の出ていない川床を通り抜けたが、道の両側にはいくつも水溜まりができ、水浸しになっていた。ほんの30分くらいで雨の中を走り抜けたので救われたが、もう少し時間をかけていたら、涸れ川に水が流れ出し、途中で立ち往生していたにちがいない。

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雨を降らした雲

 午後8時半にパインハテ村に着いた。村の招待所は、部屋に鉄製のベッドがあるだけだった。ベッドに横になると、ラクダから落ちて打った尻が痛む。やはり打撲のショックは大きかった。

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パインハテ村の招待所

内蒙古からチベット7000キロの旅⑧ 平原の迷路

 草原の民である蒙古族の多くの僧が、ラマ教の聖地であるチベットの首都ラサヘ巡礼の旅をした。私たちも、巡礼者に混じって西川さんが通ったであろう道を通って、これからラサに向かって長い自動車旅行に出発する。

 このあたりの中心地であったオングル廟から北西に約70キロの草原の中からの出発で、コースは まずモンゴル人民共和国との国境近くまで西へ向かい、そこから南のアラシャンへと進む。蒙古高原の南には黄河が西から東へ流れている。チベットヘの道で黄河を北から南へ渡れるのは、ここからはるか西南の甘粛省の蘭州である。

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平原の中の轍(車の通った跡で建設された道ではない)

 午前10時、案内してくれたトルクルさんに別れを告げ、西の百霊廟にむかって出発した。360度見わたせる大草原に建設された道はなく、轍があるだけなので、まるで海と同じだ。

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轍に従って進む

 蒙古の平原は一般的に少々の起伏があるのだが、この辺は真っ平で、どちらを向いても同じ眺めである。それに家畜を追う牧民すらいない。平原の広さからすると、車がてんとう虫くらいで、人間はアリくらいである。目標とする物のない広さは太平洋のまん中にいるような不安感さえ覚える。

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轍を外れると方角がわからなくなる

 1時間もしないうちに、平原に慣れていない運転手が轍を見失い、あちこちと走り回るので、同じところを何度も回っているような錯覚にかられる。こうなると、大草原が美しいとか、広いとか、素晴らしいなどとは言っておられない。時の経過と共に広さか苦痛になり、不快になり、嫌悪したくなってきた。

 身を隠すことのできない広さや、心を隠すことのできない広さ、また高みのない広さなどは、不安と不信と恐怖をつのらせる。それらは山や谷のある狭さよりも、心理的にははるかに狭いのである。樹木の生えた山のある谷間の狭さは、身も心も隠すことが可能な広さがあり、心理的には自由で安心できる雄大さがある。

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乾燥した平原に咲いていた花

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平原のマメ科の植物

 平原に住む牧民たちは、他人が訪れると、まず最初に敵か味方か、害か無害かをより早く見きわめようとする。敵なら戦うか逃げるかであるが、味方、または危害を加えない人なら、お茶をサービスして雑談しながら情報交換をするのが習慣である。

 2時間も走るとガソリンが少なくなった。こうなると、広い草原は悪魔のすみ処で、 地獄の底のようであり、方向のわからない不安がイナゴの大群のように襲ってくる。

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大地のように白い花

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鮮やかな青色の花

 経典を求めてインドまで大探検をした玄奘は、こうした時にお経を唱え、迷いや不安を追い払ったのかもしれないが、私たちは、地図と磁石を頼りながら、身も心も迷ってしまった。自然と共に生きる知恵や信念を持ち合わせていない文明人のもろさなのかもしれない。

 偶然であったが、平原の中にあった人民公社あとの村に行き着いた。中華人民共和国の政策によって作られた人民公社は、農場 工場 病院、銀行、郵便局、学校、百貨店などの機能をもった総合的な集団社会で、何千人もの人びとか働く行政単位であった。しかし、1983年1月に責任生産制が導入され、その機能か失われてしまった。大半の人が去り、平原の中にできた大型開拓農場は、まるでぬけ殼のようにとり残され、大型農業機械が赤さびてみじめな姿をさらし、閑散としていた。

 かつては下放された数千人か住んでいたであろうが、今では殆ど故郷や大都市に出て行き、行くあてもなく残った数十人がいるたけで、人の気配もしないほどである。しかし私たちにとっては、まるで救いの神のごとくに思われ、住民の幹部にガソリンを頼んだ。ところが彼らは、突然の闖入者に貴重なガソリンを売れるものかと、かたくなに断った。フフホトから案内してくれている、若いのに頭の毛の薄い王さんが必死に頼みこんで 市価の10倍もの高い金を払い、やっと20リットルを買うことができた。

 村人の1人が農場を出て轍のわかりやすいところまで案内してくれた。その轍道は査干オボという村に続いているはずだったが、また迷った。平原や荒野で迷ったら電線に沿って走ればよいことは知っていたのだが、その電線すら探せなかった。迷いに迷ってなんとか百霊廟への道に出ることができた。

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百霊廟の建物

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百霊廟のラマ教寺院

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今は食料倉庫になっている寺院

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ラマ教寺院の庭に放置されていた大きな窯

 距離にすれはわずか90キロメートルであったが、道のない平原や荒野を、なんと4時間も迷いつつ走り、午後2時すぎに百霊廟の町に着くことができた。町の中心にある廟は、やはり文革中に破壊されていたが、すでにかなり修復され、古びてはいるが大きく立派な寺があった。

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百霊廟の街頭市場

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市場での野菜売り

 この町には新しくて大きな招待所があり、遅い昼食をした。そして、タイヤのパンクを修理し、ガソリンを満タンにして、4時半に西に向かって出発した。急いだが1時間半も要し、午後6時にパインオボの招待所に着いた。フフホトで別れたB隊はすでに到着していた。

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百霊廟の立派な招待所

内蒙古からチベット7000キロの旅⑦ 川に入った車

 翌8月16日、3日間暮らしたオルンノールから昼前にオングル村に戻った。そして、バートル村長にお別れのあいさつをし、文革以前には草原の中にあったというサッチン廟を訪れるため、正午前に出発した。しかし、思うようには進まなかった。

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平原の中のオルンノール村

 ホンゴル村の前を流れるシャルムル川は、漢名では柳沙河である。川幅は100メートルほどだが、水が流れているのは僅か20メートルくらいの浅い川である。もちろん橋などない。

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シャルムル川

 2台のランドクルーザーは一気に砂床の川を走り抜けようとした。先頭の一台は水の中をなんとか走り抜けて対岸に上がったが、後続車が水の中に止まってしまった。四輪駆動なのでなんとか脱出しようとしたが、車輪が砂に取られて動かない。ウインチを使おうとしたが、運転手たちは使い方を知らなかった。カメラの明石、斉藤の両氏か車のメカニズムに明るかったのだが、2台ともウインチが壊れていた。

 車輪の埋まっている砂を取り除こうとしたが、スコップ1本とてなかった。これから2ヵ月間、7000キロにもおよぶ探検旅行なのだが、運転手たちは何の装備もしていない。彼らは車の運転をするだけで良いと言われていたのだという。

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ホンゴル村前のシャルムル川の中に止まった車

 中国では、運転手は特殊技能者である。彼らは運転するたけで、荷物を運んだりはしない。客に気を使うこともなく、ただ安全に運転することだけなのである。

 村に人をやって村長に助っ人を頼んだ。やがて、スコップと板を持った八人の男か来てくれた。ところが、車の後を押したり 持ち上げたり、ロープで引いたりする時の合図の仕方がちがかった。日本では「イチ、ニー、サン」であるが、中国側は「イー、アール、イー」である。「イチ、ニー、イチ」とは納得いかなかったが、郷に入っては郷に従えと、大声で「イー、アール、イー」と音頭をとった。しかし、車は一向に進んではくれなかった。

 なんと最後には皆で車を待ち上げ、車輪の下に石や板を敷いて押し上げる原始的な作業をして、3時間後にやっと進めることができた。

 脱出作業中に、1台のオートバイが同じ方向にやってきた。チェコ製のJAWA350CCで、やはり水の中で止まった。1人ではどうにもならず、三人が助っ人に急行し、やっと対岸に脱出したのだが、彼、ドルグルさん(30歳)は、隣の巴音(パイン)村の行政幹部で、村まで約40キロを先導してくれることになった。

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平原に咲いていた花

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平原に咲いていたアザミの一種

 大平原の轍(わだち)の道は迷路で、先導がないと確実に迷うのである。途中、城壁のような盛り土が東西につづくのを見かけた。かなり古い土壁だが、いつの時代のものか解明されていなかった。

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パイン村

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くぼ地の川沿いにあるパイン村

 午後4時半に巴音(パイン)村に着いた。村は平原の中の窪地にあった。熱い日中の脱出作業で、みな疲れていた。少々早いが、村の招待所に泊まることにした。そして、村の食堂で冷えていないビールを飲み、5時すぎに昼食と夕食をかねて肉うどんを食べることによって1日が終わった。

内蒙古からチベット7000キロの旅⑥ 馬飼いの青年たち

 オルンノールから20キロほど北のウータ(門)というところにいた、馬飼いのトルムトシンさん(30歳)兄弟に出会い、相談したところ、なんと、7家族の馬300頭を集めてくれた。

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ウータの平原にある井戸で、家畜に飲ませる水をくみ上げる人

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馬を追う牧童たち

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馬が徐々に集まってきた

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平原で馬を追い集める様子

 300頭の馬が草原を走り、それを扱う若者たちの機敏な動きを見ていると、まるで戦場のような騒動になった。雷鳴のように大地を踏み鳴らす蹄の音、驚きと興奮にかん高く鳴く馬の嘶き、そして馬を御し、追いやる人の声……。静かだった草原が、活気と騒音の渦と化し 土埃が舞いあがった。

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集まってきた牧童たち

 人馬一体とよくいわれるが、馬にまたがる人間か馬を御さない限り、人馬一体にはなりえない。そのことを十分知っているからこそ、先祖代々の技と、自ら培った技を十分に使いこなしているのである。

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疾走する馬

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馬を捕獲する牧童

 疾走する馬に乗って馬群を追い、長さ5メートルもの、楊柳(ヤナギ)で作った捕馬竿(オルク)をもって馬を捕獲し、馬上から飛び下り、捕獲した馬の尻尾を持って振り倒す技や、地上に落としたオルクを走る馬上から手を差しのべて拾い上ける技などは、幼少年時代から長年培ってきた生きるための技である。彼らの行動、技すべてが、有史以来の北方騎馬民の知恵であり、生きざまであり、生活の様式なのだ。

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疾走しる馬を追う牧童

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疾走する馬上から地上のオルクを拾い上げる牧童

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牧童たちと同じように働いていた娘

 約40分、人間と馬がともに生きる凄まじい光景をみた。大きな馬を扱う人びとが何ゆえに貴族であったのか、この死闘をくり返すような激しい行動をみて、小さくておとなしい羊を飼う人びととの違いを知ることによって納得できた。

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馬の捕獲を実演してくれた。

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捕獲のため首に縄をかけた馬を追いかける牧童

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捕獲した馬の尻尾をもって倒した牧童

 彼らは、ひと仕事終えたような雰囲気で大地に半円をなして座った。額に汗し、スポーツの後と同じような表情には、喜びと活力がみなぎっでいた。

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疾走する馬の捕獲の仕方を見せてくれた後、集まってくれた牧童たち

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元気な明るい娘たちもいた。

 戦いのない今日では、武器や道具として価値の高い馬の必要性はほとんどない。しかし彼らは今も誇りに満ちている。だが、食肉として価値の高い羊飼いよりも、労多くして収入か少ない現状に、いささかの不満をもっている。平和な時代には馬の需要が少なく、売れないのである。

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今ではオートバイで馬を追うこともあるそうだ。

 これは蒙古族にとって秘密の情報だが、漢民族の商人か車やオートバイ、テレビ等と馬を交換したり、安く買いたたいて大連に運び、そこでしはらく飼ってから、日本の九州地方へ輸出しているそうである。日本では禁止になった鯨肉の代りに馬肉がよく食べられるようになった。しかし、古来から、馬肉をめったに口にしない誇り高き蒙古族は、このことをまだ知らない。馬を武器とし、友として遇し、やむお得ないとき以外口にすることはなかった蒙古族にとっては、馬が食べられるために日本へ輸出されることは、哀しい情報であり現状である。

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ゲルの中でいろいろ教えてくれた馬飼いの長老

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手伝ってくれた馬飼いの若者たち

内蒙古からチベット7000キロの旅⑤ 牧畜民の生活

 オルンノールの草原には、ポツン、ポツンと一定の距離をおいて移動式住居である白いゲルが20張りほど点在している。その中の1張りに住む、羊飼いのソミヤさん(37歳)一家を訪れた。バートル村長が頼んでくれたので、私たちは、彼のゲルの近くにテントを張って3日間生活することになった。

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オルンノールの草原

 彼らの住居であるゲル(中国語ではパオ)は、アンパン型の移動式住居で、木の骨組みの上を羊毛で作ったフェルトで覆ったものである。中には柱はなく、高さ2~3メート、直径5メートルくらいのドーム型の半球体である。

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フェルトをとり払ったゲルの骨組み

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ソミヤさんのゲルの前に集まった羊たち

 奥さんのナンスルマさん(33歳)はたいへんな働き者で、4人の子供や家畜の世話、そして家事と、休む暇もなく次々に仕事をこなしていた。彼女は、私たちが訪れると、茶湯にミルクを混入したスーテチェ(乳茶)をご馳走してくれた。スーテチェは、バター茶よりもあっさりしていて飲みやすい。

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羊の乳を搾るナンスルマさん

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ヤギの乳を搾るナンスルマさん

 今日の中国で、東北アジアの牧畜民は豊かな生活をしているといわれる。83年以来家畜の個人所有が認められ、今ではこのへんの牧民は、一家族で2~300頭の羊を所有している。

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平原の小さな湖

 200頭の羊を所有すれば、1年に80頭売ることができるので、年収が1万元を越すことになる。これは大変な高給取りである。草原に暮らすソミヤさんが、自家発電によってテレビを見ることができ、オートバイを買うことができるのはそのせいであり、かなり裕福な生活をしている。

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風力発電気の装置があるゲル

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平原で草をはむ羊や山羊たち

 8月中旬の蒙古の草原は、草が2~30センチも生い茂り、ニラやネギの花が咲いて、まさしく「緑のじゅうたん」という表現にふさわしい平原である。

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地平線上に昇る朝日
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金盥に水を注いで、両手で顔を洗うナンスルマさん

 6時すぎに夜が明け、45分に地平線から太陽が昇る。7時すぎに起き、ナンスルマさんに蒙古式洗顔を習った。左手を上にし、両掌を重ね、水をすくい上げて、左から右へ回すように力強く洗う。風呂に入ることのない彼らは、顔や手をたいへん熱心に洗う。時に洗面器に湯を入れて全身をふき洗うが、それもていねいに行なう。しかし、厳寒の冬には、手や顔を水で洗うことは少ない。

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やかんに水を注ぎ湯を沸かす

 ナンスルマさんは、朝起きると、まず湯をわかし、碑茶を斧でけずり取って入れ、茶湯をつくる。それにミルクを混入してステーチェにする。水または湯で顔を洗ってゲルの入口に立ち、柄杓で乳茶を天に投げ上げ、神に感謝する。これはラマ教の習慣で、“アワントルチ”と呼ばれる。彼女は、毎朝オボに向かってお祈りをしてから一家の1日の生活をはじめる。自然とともに生きる生活の儀式なのである。朝食は、この後に乳茶を飲み、煎り粟や乳製品を食べる。

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柄杓で乳茶を天に投げ上げるナンスルマさん

 ソミヤさんの羊たちは、ゲルの前に集い、鼻先を胸にくっつけるようにして眠っている。羊たちは7時40分ごろから起きはじめ、つぎつぎに立ち上がって背伸びをし、周囲を見ながら「メー、メー」と鳴く。ナンスルマさんは、200頭の羊の顔が全部見分けられる。私にはどれも同じに見えるのだが、生まれた時から扱っている彼女には、人間と同じように、その特徴がわかるという。 

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夜明けの羊と山羊たち

昼食や夕食にはよく麺を食べる。だしには干し肉を使い、野生のニラやネギをきざみ込むこともある。ナンスルマさんの作る麺料理は、市販の乾麺をゆで、汁ごと煮るので、少々塩辛く、粉っぽくて味が良いとはいえなかった。2キロも離れたところから水を運んでくるので、料理用にも水が十分使えなかったせいかもしれない。

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乾麺をゆでた汁うどんをよそうナンスルマさん

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ゆでたうどんを食べるソミヤさん一家

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ゲルの中の乳児

 ナンスルマさんは、午後2時前から乳をしぼる。羊や山羊の雌は、たいてい3月ごろ仔を産むが、産後5ヵ月間ほど搾乳をすることができる。羊や山羊の乳をしぼり取って食料とするために、親仔を別々にしておく。生後間もない時には、朝夕2回、やがて夕方の1回しか親仔を一緒にしない。

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私たちのテントとゲルが並ぶ草原の風景

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私用のテント

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大平原での野営

 とにかく、蒙古族の女性の夏の1日は忙しい。しかし、夫のソミヤさんは日中でもゲルの中で横になったり、時には彼女の働きぶりを見にきたりと、いたってのんびりしていた。

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平原の夕日に映える空

 

内蒙古からチベット7000キロの旅④ ニラの花咲く草原

 私たちは、バートル村長の案内で牧畜民の住む草原を訪れることにした。ホンゴル村から東北に向かって十分も走ると、緑なす大草原である。まさしく蒙古の草原で、見渡す限り山はない。しかし、ゆるやかな起伏はある。車で走っていると、やや小高い丘に、石を積み上げたオボがあった。イヘ(大きい)と呼ばれるオボである。 

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緩やかな丘の上のオボ

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ニラのお花畑

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丘の上のイヘオボ

 蒙古族は、古くから山や丘の頂に盛り上がるように残った自然石を「オボ」と呼び、天神の降臨する聖域とみなしていた。そしていつのころからか、方位の吉凶によって、居住地域の山や丘の頂に石を積みあげたり、有力者の狩猟などの記念に石を積み、その堆石をもオボと呼ぶようになって、天神の降臨するところとした。蒙古族の古来からのシャーマン信仰は、万物の霊を信じるアニミズムで、オボは、天と地を祭る場所として尊ばれてきた。日本の社や祠と同じようなものである。

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平原のかなたに見える虹

 オボは、神霊と人とのコミュニケーションの場であり、旧暦五月十三日の年一度のオボ祭の場である。また、道標の役目もはたし、地名や方角の基点となり、集団の象徴であり、意志伝達のためには欠くことのできないものである。人びとはオボを目標とし、太陽や月、星や草の生え具合によって方角を知る。

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大平原の中のパオ

 チンギスーハンの時代には、人びとが戦いに出る時、必ずオボに集まって戦勝を祈願したという。そして、オボの前で進攻の命を下した。戦いが終わると、同じ場所で戦利品をわかちあい、酒を飲んで、角力(すもう)や競馬をした。またオボは軍事訓練を見るところでもあった。

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パオの骨組み

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パオの組み立て

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平原に住む蒙古族の少年

 草原に残る車輪の跡を走ると、やがて白い銀粉をまき散らしたような幻想的な大地が、青い空の下いっぱいに広がっていた。車を止めて外に出ると、花の香りが快い。一つ一つの花ではなく、四方に広がる花園をそっくり感じる雄大さと、白く輝く草原の美しさに感動が波のように押しよせる。

 「ターンナ、日本ではニラと呼んでいます」

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ニラのお花畑を撮影する

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ニラの生えた大地は乾燥していた

 通訳のホシコさんが花の名を告げてくれた。身長175センチほどの体格のよい初老の彼は、満州時代に長春にあった日本の建国大学を卒業した蒙古族で、上手な日本語を話す。草原で暮す60代の人びとには、日本語の上手な人がいる。彼らは、蒙古族にとって初めての学校に通った人たちである。当時、日本はこの草原のいたるところに学校を作り、蒙古族や漢族、満族の子弟を差別することなく入学させて教育した。子供たちのなかには、日本が戦いに負けて引きあげた後も学校に通った者もいた。

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ニラの花

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引き抜かれたニラ

 内蒙古にいる50代以上の知識者は、当時日本の小学校に通ったことのある人びと。中にはホシコさんのように大学まで卒業し、医者、教師、公務員、通訳などになった人もいる。ホシコさんは親切で、対日感情がよく、いつも笑顔で接してくれた。

 「ニラを家畜が喰うと、乳も、小便も、体もニラの香りがします。若いニラは人間も食べます」

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ニラの花咲く草原での筆者

 彼はニラを引きぬいて、白い根を私の鼻先に近づけた。

 ニラの白や白紫色の花が一面に咲くお花畑であるが、中には紫色のネギ坊主のような花もある。

 「これは蒙古語でホムル、漢語では沙葱、日本語では蒙古らっきょうと呼びます」

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平原での野営風景 右上に小さな湖が見える

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野営における中国の料理人たち

 ニラや蒙古らっきょうの、小さな花を放射状につけた球形の花をトロゲ(頭)と呼ぶことも教えてくれた。ニラの花咲く草原は、オルンノール(多数の湖)という地名。その名の由来通り、この草原には小さな湖がいくつも点在している。

内蒙古からチベット7000キロの旅③ 蒙古草原の村

 翌13日はさらに北へ向かった。王府をすぎると平原の道は轍になった。川のあまりない平原の低地はぬかるんでいるところがあり、時々車輪がスリップして、走行は思うようにはいかなかった。車は日本製の四輪駆動であるが、中国科学院所属の科学査察車で、屋根には荷台があり、頭部にはウィンチ(巻上げ機)もついている。

 道沿いはまだ農業地帯であるが、王府までとは異なって、ポツリ、ポツリと土の家があり、その周辺が耕作地になっているだけで、集落はあまりない。平原には樹がなく、農耕地以外は、昔ながらの草原である。

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平原の中の道沿いに続く畑

 このあたりの農民は、1949年の新中国である中華人民共和国の樹立以後、蒙古族の遊牧地に、南のフフホトや四子王旗などから一方的に侵入し、移住した漢民族である。遊牧の地であった蒙古の平原は、南の方からしだいに農耕地化しており、今でも少しずつ北へ伸びている。だから北へ行けば行くほど農耕地は少なく、開拓年数が浅いのである。まさしく。遊牧民が農耕民に追われ、年ごとに遊牧地を失っている地球的規模の現状をよく物語っている。

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道沿いの長いそば畑

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一面に花が咲いているそば畑

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そばの花

 畑は、道沿いから500メートルも1000メートルも長くつづいている。牛や馬、ラバなどの家畜に木の犂黎を引かせて往復すると、20分ほど要する長さである。

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ロバと牛が並んですきを引く農耕

 水分の少ない砂地の畑には、彼らの食料である麦、こうりゃん、そば、ひえ、あわ、じゃがいもなどが栽培されている。そばの白や桃色の花が一面に咲いている。そば畑が比較的多いのは、日本に輸出するためだという。

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ジャガイモの花

 やがて農耕地は消え、草の生えた草原がつづくようになった。これまであまり見かけなかった羊や山羊の群があちこちに散在するようになり、家畜と共に生活する牧畜民、蒙古族の生活圏に入った。

 しばらく走ると突然に草原が切れ、谷のように陥没したところに出た。蒙古の草原には数少ない水の流れる川があり、そのそばに村があった。地図の上では、漢名の「大廟」という村である。しかし、本来の蒙古語では、窪地を意味する「ホンゴル」という名の村で、四子王旗から北へ70キロもあり、約四時間を要して正午すぎ、人も車も泥と埃にまみれながら、やっとのことで着いた。

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ホンゴル(大廟)村

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ホンゴルの村の中

 ホンゴル村は、昔からチベット仏教であるラマ教の大きな寺があり、このへんの蒙古族の中心地となっていた。革命政権樹立以後、ここにも人民公社ができ、多くの漢民族が住むようになっていた。しかし1983年1月から人民公社が解体され、生産責任制度が導入されると、漢民族の一部はフフホトや四子王旗、その他の町へ戻り、蒙古族は家畜の私有が認められ、草原に戻った者が多かった。

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川沿いのラマ教寺院の跡

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文革中に破壊されたラマ教寺院

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修復中の寺院

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破壊された寺院の壁に残っていたラマ教曼陀羅

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ラマ教寺院の壁画

 人民公社が解体された後の内蒙古自治区の行政の末端はソム(村)である。旧名のホンゴル・ソムと呼ばれるようになった村のバートル村長(36歳)は、戦後初めて訪れた日本人である私たちを歓迎してくれた。1945年まで、しばらくのあいだ日本の植民地と化していた満州国の領土内であったこの地にも日本人が住んでいたので、村人は日本人を知っていた。しかも蒙古族の人びとは、日本人に親しみすらもっていた。中には平原の中の日本語学校に通った人もいて、片言の日本語を話した。

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文革以後ラマ教寺院に戻ってきた僧たち

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戻ってきた老僧の中には、日本語を話す人がいた

 人口2,847人のホンゴル村では、粗末な簡易ベッドがあるだけの招待所に泊ることになった。中国はどんな村や町、市でも招待所があり、外来者はここに泊ることができる。しかし、その大小や内容のレベルが異なり、下は土壁の家の中に簡易ベッドがあるだけのものから、上はホテル同様のものもある。

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ホンゴル村の老僧たちと筆者(中央)

 

内蒙古からチベット7000キロの旅② 日中合同の西域探検隊の出発

 私たちが、1988年の春に香港資本との合併で建設されたばかりの、昭君大酒店というモダンなホテルで休憩していると、北京から3台のランドクルーザーがやって来て合流した。

 TBSテレビの「新世界紀行」のリポーターとして、中国の内蒙古からチベットまで約7,000キロの踏査行への出発である。

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西域探検隊の日本人A班 左端筆者 明石、斎藤 右端デイレクターの皆川さん

 日中合同の西域探険隊は、日本人8人、中国人7人の15人である。車は北京から最終地のラサまで同行する3台と、案内用の現地の車1台。北京から最終地まで同行する案内人の羅さん(27歳)と3人の運転手は北京育ちの漢民族内蒙古の連絡員の王さん(34歳)はフフホト育ちの漢民族だが、通訳のホシコさん(60歳)と運転手の包さん(38歳)は蒙古族

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蒙古族の通訳ホシコ・ポインさん

 日本からの同行者は、ディレクターの北村さん、中村さん、カメラマンの明石さん、村口さん、そして音響の斉藤さん アシスタントの渡辺君、通訳の池上さんであり、途中で、TBSのプロデューサーである東條さんが合流することになっている。

 隊は、メインのA班、サブのB班の2つに別れた。A班は北村、明石、斉藤 池上と私を含めた日本人5人と王さん、ホシコさん、それに車2台の運転手の張さん(32歳)と孫君(19歳)の9人である。

 私たちA班は、ここから170キロほど北の草原にある、大廟と呼ばれるラマ教寺院を訪れるため、フフホトには1泊もせずに、午後4時すぎになって、四子王旗という町にむかって出発した。

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大青山の山中

 フフホトを出発して20分もたたないうちに大青山に入った。この山は、東西につらなる陰山山脈の一部であるが、赤い岩肌が多く見られることから“紅い山”とも呼ばれている。

 大青山を北へ越すと、蒙古高原と呼ばれる平原である。この平原は平均標高1500メートルで、夏には草が生えた緑の草原となり、古くから家畜と共に生活する牧畜民の居住地域であった。            

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大青山から北への道

 標高2000メートルの大青山は、南のフフホトから見ると高い岩の連山であるが、北の武川の町から見ると、やや高めの丘でしかない。蒙古高原の南端にある武川は、ゆるやかな丘に囲まれた町であり、昔から、南の漢民族と北方騎馬民族の攻防がくりかえされた古戦場でもある。今年(88年)は雨が多かったので、平原に草が多く、樹の生えていない岩山である大青山にも草が生え、その名のとおり、全山青く見える。

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平原のお花畑

 古くから、漢民族と、遊牧民である北方騎馬民族との境界地帯になっていた大青山は、南からは越し難いが、北からは越しやすい。そのせいもあってか、南の漢民族は、紀元前3世紀ごろにはすでに、ここから100~150キロ南に、人工的な境界線として、長大な壁を築いていた。それは何世紀にもわたって増改築をくりかえし、『万里の長城』と呼ばれる国境の壁となって東西に続き、今もまだ存在している。

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平原での野営

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野営地での料理

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野営地での食事

 昔からよくいわれていることは、漢民族にとって、万里の長城を北に越せば異民族、異文化の異郷の地ということであったが、清朝時代以後、新中国になってからも多くの漢民族が北へ移住し、今では、多くの漢民族が長城の北に住んでいる。内蒙古自治区2千万の人口のうち、蒙古族は約300万で、大半が漢民族なのである。

 武川を過ぎると古の平原であるが、ここはまだ漢民族の居住地域で、見わたす限りに麦畑が続いており、牧民の姿はみられない。

 フフホトから百キロの距離を2時間半で走り、四子王旗の町に着いたのは午後7時すぎであったが、まだ明るかった。最初の夜は、四子王旗賓館に泊った。

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馬上の筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅① 万里の長城を越えて

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当時の北京駅

 北京を汽車でたったのは1988年8月11日の午後6時53分だった。夕闇せまる平地を北に向かうと、やがて岩山がそびえる山岳地帯に入った。車窓の外には、暮色蒼然として迫る八達嶺の尾根を走る長城がつづく。青龍橋の駅近くの線路ぞいに、幾重にも見られる城壁は、古いもので紀元前三世紀の秦の始皇帝時代、新しいものでも14~5世紀の明朝時代に建造されたものである。

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夕暮れの万里の長城

 すでに2千年以上も存在しつづけている壁は、多くの戦いを見てきたことであろう。しかし、時の流れを越えてきた壁は、昼間見る長城とは趣を異にし、夜空を翔(かけ)る白竜のようである。勾配の急な軌道をあえぎながら走る車窓から見上ける光景は、神秘的な物語の世界のようで、あきることを知らない。やがて、時も物も包み隠してしまう闇となった。ガタン、ゴトンと車輪をはずませながら北へ走る夜汽車は、これから始まる中国大陸西域を縦断する探険旅行の出発地フフホトへ向かって心地よく運んでくれた。

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万里の長城の見える清龍橋駅

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青龍橋駅に迫る万里の長城

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夕暮れの駅と長城

 翌8月12日の午前7時15分、特急列車は終着のフフホト駅に着いた。標高1,

050メートル、北緯41度で青森とほほ同じ緯度にあるフフホトは、夏とはいえ霧雨の降る肌寒い天気だった。私たちは、できたばかりの新しい昭君大酒店という名のホテルで休憩することにした。

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出来たばかりの昭君大酒店(ホテル)

 内蒙古自冶区は中国で最初の自冶区で、1949年の新中国建国以前の1947年5月1日に制定されている。首府フフホトは、人口50万もの都市らしく、ビルが多く、人出もあり活気があった。この町は、北の大青山と南の満漢山のあいだに広がるトムット平原の東北端にあり、大青山の南麓でもある。この平原を東から西へ流れている大里河(ハルチンゴル)は、さらに西へ進んで、チベットから東へ営々と流れ、中国大陸をほぼ横断して渤海にまで通じる黄河に流れこんでいる。

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フフホトのラマ教寺院の入口

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フフホトのラマ教寺院

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フフホト第一中学校の入口

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大青山の南麓

 フフホトは、紀元前300年ごろの戦国時代、趙(ちょう)の武霊王(ぶれいおう)が雲中郡を設置した所だといわれているので歴史は古い。十六世紀には、蒙古族のアラタン汗(はん)がここに城を築いた。この城を遠くから眺めると青く見えたところから、蒙古語で“フフホト”すなわち“青い城”と呼ばれるようになった。しかし、明朝時代には”帰化”、清朝時代には”綏遠”、または”帰綏”と呼ばれていた。自冶区制定後は、蒙古語のフフホトにもどし、内蒙古自治区の首府として発展してきた。が、今では蒙古族は20%しか住んでいない。大半は、清朝時代と革命以後に移住してきた漢民族である。

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ラマ僧たちと筆者