内蒙古からチベット7000キロの旅 序章

はじめに

 1988(昭和63)年6月、TBSテレビの「新世界紀行」の番組として行なう、日中合同の西域探検の旅のリポーター役として、2ヶ月間の旅に出ないかとの誘いがあった。しかも私が行きたかった未踏査の内蒙古からチベットまでの、チベット仏教であるラマ教圏を旅する雄大な計画である。

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平原で蒙古相撲を見る人々

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彼方に見える羊の群れ

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羊の群れを追う牧童

 私は、この年の3月23日に、1番の理解者であった母親を自動車事故で亡くしていた。母はまだ75才で元気だったので、突然の死に私は精神的に少々動揺していたし、青少年交友協会の事業は8月中旬から10月初めまでなら何とか都合がつけられたので、心機一転しようと思い、同行することにした。

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蒙古族の青年

 今回の西域探検の旅は、「秘境西域8年の潜行」(芙蓉書房)の著者で、有名な西川一三さんの2年間に及ぶ足跡をたどる、長期間の自動車による旅である。

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フフホトで、西川さんが学んだ「興亜義塾」のあった場所

 西川一三さんは、第二次世界大戦当時、内蒙古のフフホトにあった日本人学校「興亜義塾」で学んだ後、昭和18年10月から20年9月までの約2年間、北の内蒙古から南のチベットまで歩いて旅をした。その途中、摂氏40℃もある沙漠をラクダをひいて歩き、標高4,000メートルもある青海高原をヤクの隊商と共に歩き、死の川と呼ばれる冷たい水の中を泳ぎ、標高5,300メートルもある魔の峠と呼ばれるタンラ峠をヤクを追って歩いて越し、九死に一生を得るような死線を幾度も越えていた。西川さんは内蒙古から遼寧、甘粛、青海省、そしてチベットのラサへと、考えると気の遠くなるような6,000キロ以上もの距離を、ラマ僧に扮して、寺々を訪ねながら歩いての旅であった。その西川さんが辿ったコースを、TBSの「新世界紀行」の番組で追体験する車での旅だが、リポーターは心身共に相当過酷な条件を課せられるだろう。

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内蒙古からチベットまでの踏査コース

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青海省の麦畑

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青海省の木の生えていない山

 普通のタレントや役者では、なかなか耐えきれないだろうから、世界中を旅行し、しかもアジア大陸内陸部の民族踏査をしていた私に、白羽の矢が当てられたのだろう。

 中国大陸の西域は、元や明、清朝時代のままの地域もあるだろうし、40数年前と比べて、変化の多いところもあるだろう。しかし、自然環境そのものは、昔とそんなに変わっているわけではない。なんと言っても中国大陸は日本の23倍以上もの広さなので、今でも西域地方の情報は少ない。また、文化革命以後の西域のラマ教寺院の情況がほとんど何も伝わってこない。

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青海省ラマ僧たち

 8月中旬から始まるこの西域探検旅行の予定は未定で、途中何が起こっても不思議ではないが、「迷ったら進め」との信念でやってきたので、西川一三著「秘境西域8年の潜行」を読んで、心と身体の準備をした。

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チベット、ラサの摩崖仏

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ラサのポタラ宮

  私たちは、ラサから更に500キロも西にある、ラマ教旧新派の大本山があるサキャまで往復したので、総距離7,000キロの旅になった。

この探検旅行は、当時TBSテレビの番組「新世界紀行」で2回にわたって全国放送されたし、私の著書「天葬への旅」もあるのだが、当時私が撮影した写真と簡単な記事で40数回にわたって紹介するので、関心のある方は是非ご覧いただきたい。

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蒙古服の筆者

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1991(平成3)年に原書房から出版した拙著

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊵ リスボン→バルセロナ(最終回)

 ユーラシア大陸横断鉄道の旅の終着点は、リスボンのサンタ・アポロニア駅であるが、もう1つの目的地は、本年(1992)7月にオリンピック大会が開催されるスペインのバルセロナである。

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リスボンのサンタ・アポロニア駅舎

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スペインのマドリード行き列車

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スペイン側国境の駅バレンシア

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バレンシア駅での検閲

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バレンシア駅での筆者

 ロカ岬からリスボンに戻った翌早朝、サンタ・アポロニア駅からスペインのマドリードに向かった。そして、5月18日午前11時、マドリードシャマルチン駅からバルセロナ行きの列車に乗り、カスティーリャ高原を東に向かった。

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バルセロナ行きの列車

 高原から徐々に下がっていくので、平地であった大地がやがて丘のようになり、さらにエナーレス川に沿って下って行くと山へと姿を変えた。11時40分、グアダラハラに着いた。西南に見える山の頂上がマドリードと同じ標高だという。

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グアダラハラ

 グアダラハラを出ると列車はさらにどんどん下って行き、やがて石灰岩の狭い谷間を走る。オレンジ色の岩山には、大小の鍾乳洞が見える。アメリカのグランドキャニオンの谷底を走っているようだ。

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サラゴザ近くの広い農地

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サラゴザ近くの山

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サラゴザ駅

 午後2時19分にサラゴザ駅に着いた。このあたりは葡萄、桃、サクランボ、林檎、麦、ジャガイモ、ネギ、キャベツ、キュウリ、カボチャなどを栽培する豊かな農業地帯だそうだ。

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車内の様子

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食堂車での筆者

 サラゴザを出ると大きなエプロ川に沿って走ったが、川沿いには南方系のヨシが生えている。列車が進むにつれて、車窓に展開する段丘になっている風景から推測がつくが、このあたりはかつて大平原であり、やがて大地が浸食されて丘となり、さらに浸食が進んで山となったという地形の変化が読み取れる。山や谷、川の成り立ちを勉強するには、これほど条件が揃った良い現場はないだろう。

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車窓に見える山肌

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浸食による段丘地帯

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浸食による段丘

 列車は、南の地中海に向かってひたすら下って行く。人々はこの高低さを利用して灌漑用水路を作り、乾燥した大地を耕して農作物を栽培している。いかなる自然環境にも順応して生きながらえてきた人類の英知が、今もこの地方で応用され、変わることなく働き続けていることが分かる。

 5時36分、ついに青い地中海に出た。マドリードの乾燥した高原から6時間30分もかけて、大地を徐々に下り、やっと海面の高さまでやって来た。

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やっと見えた地中海

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車窓に見えるか海水浴場

 海はなんと広くて素晴らしいのだろう。広さと豊かさがあり、落ち着きと安らぎを与えてくれる。それは、私が海辺で生まれ育ったせいもあるだろうが、ユーラシア大陸の乾燥した内陸を旅して来た者にとって、海はやはり偉大な存在だ。

 午後6時25分。オリンピック大会の準備で慌ただしいバルセロナ駅に到着した。

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バルセロナ駅舎

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バルセロナ

 この旅を計画した時、東京からバルセロナまで陸路の鉄道で行けることを証明し、バルセロナオリンピック大会を盛り上げようと思い、何としてもオリンピック前に実行したかった。

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駅前の商店街入口

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美しく陳列している果物屋

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バルセリナの旧市街

 もう1つは、オリンピックに参加する選手たちを、応援したかったので、親しかった当時の文部省体育局長に、忠告・進言したからでもあった。それは、バルセロナ前の、ソウルやロサンゼルスのオリンピック大会で日本選手が体調不良などで振るわなかったからだ。特に、ロサンゼルス大会でマラソンの瀬古選手が、大会の数日前にロサンゼルスに到着し、優勝候補になっていながら振るわなかった。それは、大陸性気候の乾燥に対応しきれなかったからだった。

 私が理事長をしている青少年交友協会は、1980年度から北京で、中華全国青年連合会との共催で、「北京21キロかち歩き大会」を毎年10月に開催していた。

 日本の10月の湿度は6、70%であるが、北京は2、30%で、日本からの参加者の多くは、毎回風邪気味になり、体調がふるわなかった。それは、乾燥した大陸性気候に身体が順応するため、自動的にフル活動するので、動かなくても疲労し、鼻や喉、目などの粘膜に風邪と同じような症状が現れるので、体調不良を意識するからだった。北京のかち歩き大会や、世界中を旅行して、人体に対する乾燥の厳しさを知っていたので、私は毎回参加者たちに白湯やお茶をよく飲むように勧めた。

 日本の運動生理学には、温度や高度に適応する知識はあったが、乾燥に対する知恵はなかった。大陸の乾燥地帯でのスポーツ大会では、日本の選手は風邪などの体調不良で良く戦えなかったことが、報道されていた。

 私は、当時の体育局長に、バルセロナは大陸性気候で乾燥しているので、湿度の高い日本からの参加選手は、最低でも2週間前、出来れば3週間前には現地を訪れて身体を順応させるようにと進言していた。

 人間の身体が自然環境になじむには2週間以上かかる。世界でも湿度の高い日本人が、大陸性の乾燥した環境になじんで、体調が整えられるには3週間はかかる。

 後日談になるが、体育局長への進言が効を奏したかどうか知らないが、バルセロナ大会には、日本の選手団は2、3週間前に現地を訪れ、ソウルやロサンゼルス大会よりもはるかに良い成績を残した選手が多かった。

 このユーラシア大陸を横断する旅には、オリンピック大会以前にバルセロナを訪ねて、現状を報告することもあった。

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レストランの店頭に飾られたシャコ

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バルセロナの海水浴場

 東京から飛行機で来れば、点から点への移動でしかない。しかし、鉄道を乗り継いでの旅は、自然環境を越えて線でつなぐことができる。何より、風俗習慣、宗教、それに政治的な境界など、観念の壁をすべて突き抜けて、東京→リスボンバルセロナが点の連続である線になって繋がる。

 ユーラシア大陸は何と大きく広いことか。なんと多くの人々が様々な自然環境に順応して生活を営んでいることか……。その人々の代表が1992年7月、このバルセロナで一堂に会してスポーツ大会の祭典を開催する。

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大衆食堂

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オリンピック大会が開催されるメインスタジアム

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闘牛場

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ガウデイ設計の家

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サクラダファミリア

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サクラダファミリアの上層部に立つ筆者

 バルセロナオリンピック大会が開催される、広くて美しいメインスタジアムを訪れて眺めた後、ガウディの設計した「サクラダファミリア」やバルセロナの街を観光した。そして,34日間のユーラシア大陸横断鉄道の旅を終えて、飛行機で日本へ向かい、5体満足に無事帰国した。

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サクラダファミリアから見下ろしたバルセロナの町

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平成6年11月に角川書店から出版した拙著

 最後までご覧くださってありがとうございました。しばらく休んで、又新たなブログを紹介させていただきます。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊴ リスボン→ロカ岬

 予定通りリスボンのサンタ・アポロニア駅に着き、ティボリ・ホテルに1泊した翌日の5月16日、リスボンは曇っていた。ユーラシア大陸を横断したという以上、ヨーロッパ大陸の最西端であるロカ岬を訪ねないわけにはいかない。

 ロカ岬を案内してもらうため、前もって連絡しておいた、リスボンに13年間住んでいる中村みなみさんに来てもらった。

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海岸沿いのリスボン

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リスボンの古い家

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海岸沿いのリゾート地

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古いリスボン市庁舎

 中村さんによると、ポルトガルは、まだ貴族が支配している社会だという。この国の貴族は土地・家・財産を持っている。大半の農民は土地を地主から借りており、貧しいのだそうだ。一般的に教育レベルが低く、大衆の社会的な意識が弱い。義務教育は9年だが、1年生から落第する子がいる。職業・身分・地位などが生まれながらに決まっているので向上心が弱く、親が子に夢を託するということがない。国民は、地縁、血縁に強く縛られ、改革、改善がすごく困難。そのため今も貴族である地主だけが豊かなのだそうだ。

 ポルトガル人は他人の足をよく引っ張り、仲間で力を合わせると言うことが出来ない。ある意味では個人主義で、心の豊かさを知らない。だから物による豊かさを求めようとするので、まずは着飾ることが豊かさだと思いがちだそうだ。 

 なんだか、東洋のわが国にも類似する点もあるように思うが、いずれにしても2、300年前からあまり変わらないし、変えようとせず、わが道をマイペースに進んでいる国のようだ。

 ポルトガル人が初めて日本の種子島にやって来て鉄砲を伝えたのが1543年である。当時はポルトガルの方がはるかに発展し豊かな文明国であって、日本は大きな影響を受けた。

 日本とポルトガルとは、ユーラシア大陸の東端と西端でありながら、400年以上も前から深い文明的かかわりをもっている。鉄砲もキリスト教も、雨合羽や天ぷら、カステラ,コンペイトーなどもポルトガル人の渡来によって伝来した。また、ポルトガル語には「屏風(びょーぶ)」なる日本語があり、お互いの交流によって影響し合ってきた。しかし、今や日本は日の出の勢いで発展し、世界一の繁栄国と言われているが、ポルトガルはEC諸国の中でも経済的発展が最も遅れた国である。

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遥か遠くに見えるロカ岬

 リスボンのカフェテリアで、中村さんからポルトガルのおおまかな現状を聞いた後、ロカ岬を訪ねることにした。タクシーを頼んで、45キロ北西にある“CABO DA ROKA”、ロカ岬に着いたのは丁度正午だった。

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ロカ岬

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ロカ岬の灯台

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ロカ岬の灯台事務所

 まず、海抜140メートルの絶壁の上にある灯台を訪ね、そこの事務所で「ロカ岬訪問証明書」を発行してもらった。その後、ロカ岬の西端を訪ね、突端の岩の上に立って万歳をしている様子を、中村さんに撮影してもらった。これで、ユーラシア東端の釜山から西端のロカ岬まで踏査したことになった。

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ロカ岬の先端に立つ筆者

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ロカ岬の記念碑そばに立つ筆者

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ロカ岬訪問証明書

 岬は、一面に野菊のようなカモミラの花が咲き乱れていた。岬から見渡せる大西洋の大海原は、故郷の足摺岬で見る太平洋の紺碧とは違って、曇っているせいか、緑青色。

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野菊のようなカモミラの花

 これより西にはただ海があるだけ。眼下の岩に白波がくだけ、潮騒が響き、風が肌に心地よい。海面にウミネコが飛び交い、漁船が小さく見える。

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ここより西には海があるだけ

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岬の先端から下を見る

 ロカ岬で大西洋を一望してリスボンに戻った。リスボンでは遅い昼食をした後、ポルトガル大航海時代を記念した「発見のモニュメント」と16世紀の建築物「ベルンの塔」などや古い街並みを観光した。そして、夕方中村さんと分かれ、明朝早くスペインのバルセロナに向かう準備をした。 

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遅い昼食をとったリスボンの屋外レストラン

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屋外レストランのポルトガル料理

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屋外レストランでの筆者

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大航海時代を記念した「発見のモニュメント」

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16世紀の建築物「ベルンの塔」を背にする筆者

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊳ マドリード→リスボン(ポルトガル)

 マドリードからリスボン行きの列車は、5月15日午後1時55分、「ピー」という笛の合図で発車した。車両はスペイン製で、車掌もスペイン人の若い女性。車内放送はスペイン語ポルトガル語、そして英語が使われている。軟座の2等は2人掛けで、ほぼ満席。

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リスボン行きの列車

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リスボン行きのプラットホーム

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リスボンへの乗客

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リスボンへ出発

 車窓に見える郊外の家々も、マドリードと同じように茶褐色のレンガの建物が多い。この地方は大地も茶褐色である。やはり街の色は大地の色に染まるのだ。ベルリンは灰褐色、パリは白、マドリードは茶褐色の町と言える。

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マドリード郊外の茶褐色の大地

 カスティーリャ高原ではすでに麦が収穫されていた。わずか3、4日前のドイツでは麦の長さはまだ10センチ足らずだったし、昨日のフランスでは20センチほどしか伸びていなかった。ピレネー山脈を南へ越えると、もうヨーロッパではないと言われるが、高地で乾燥していることもあって、早生種の麦が栽培されているからでもある。大地は乾燥して痩せているので、農民の労苦はあまり扱われていない。

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車内の検札

 空気がかなり乾燥していて、鼻の粘膜がヒリヒリと痛む。周囲にはオリーブや葡萄畑があり、林はほとんどコルクの木だ。まだ5月中旬なのだが、すでに初夏の風景に染まっている。

 列車は西に向かってどんどん高原を下る。4時15分、水量の多いかなり大きな川を横切る。谷間は草木が多いが、谷を過ぎると再び乾燥した大地が続く。線路の接続が良くないのか、「ガタン、ガタン」と音がするし、フランスやドイツとは違って揺れも激しい。

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高原の農耕地

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高原の葡萄やオリーブ畑

 午後4時50分、谷間を抜けて山裾を走る。大地は進行方向左の方に傾斜し、見晴らしがよい。やがて丘のようであったが山となり、山岳地帯を走る。灌木とわずかな草が生えている岩山の風景の中で、ところどころに黄色い小さな花をたくさんつけた“エニシダ”の木が生えている。

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水量の少ないダム

 5時頃、右手にダムがあり、しばらくダム沿いに走るが水量は少ない。なんでも昨年の暮れから、もう半年間も雨が降っていないそうだ。大地には岩が露出し、あちこちに大きな奇岩が見られる。

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車内のバー

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車内のトイレ

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二等車内

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石垣に囲まれた放牧地

 5時20分にカセレス駅着。大半の客が下車した。列車はさらに下り、白壁の家がポツリポツリと見られる。この辺は、人の数より家畜の数が多く、農業は廃れつつあるそうだ。

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5時20分着のカセレスえき

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大半の客はカセレス駅で降りた

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サンビンセンテ駅

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サンビンセンテ駅のプラットホーム

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国境近くの放牧地

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スペイン側国境のバレンシア

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バレンシア駅のプラットホーム

 午後5時50分、ポルトガル側国境のガンダラ駅に着く。車内の乗っている客は、アメリカ人4人、ブラジル人3人、ポルトガル人3人、デンマーク人1人と私だけ。

 ポルトガルのマルワペイラ駅には現地時間の6時15分着。スペインとの時差は1時間。高原から低地に下り、大地に緑が多くなり、湿度が高くなって肌にしっとり感じる。少しずつ大西洋の海に近づいているようだ。

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ポルトガルのマルワペイラ駅

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マルワペイラ駅のプラットホームでのたち話

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マルワペイラ出発

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マルワペイラ駅舎

 7時5分、線路沿いには草木が多く、ジャガイモなどの野菜畑があり、オレンジ畑もあって民家が散在している。マドリードからの海外旅行者が多いのだろうか、小さな駅舎の壁に、英語・フランス語・日本語で「よい旅を」と書いてあった。

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テジョ駅での兵士たち

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テジョ駅の駅員

 テジョ川を渡ってアブランテス駅に7時半着。川に沿ってしばらくの間南のリスボンに向かう。川沿いにはヨシが茂り、空気が暖かく湿っぽい。畑には桃や葡萄が植えている。ワルシャワやベルリンと比べると、まさしく南国の雰囲気だ。

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テジョ川沿いの町

 川沿いには古城があり、白壁の家が建ち並んでいる。2、3百年も前から変わることのないかのような古い村々が、次々と車窓に流れ行く。家々のたたずまいは、どことなく活気がなく、さびれた雰囲気が漂っている。

 ポルトガル人が初めて日本の種子島にやって来て、鉄砲を伝えたのが1543年。当時は、ポルトガルの方がはるかに発展した豊かな文明国であったのだが、今は日本の方が発展した文明国になっている。

 エントロンカメント駅の近くには南中国原産の「枇杷」の木があり、ピンポン玉ほどのオレンジ色の実がたくさんついていた。日本の四国、九州とほぼ同じような気候のようだ。

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エントロンカメント駅

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エントロンカメント駅のホーム


 午後8時25分、大西洋近くを走る車窓に、西の海に没する赤い夕日を見る。太陽が再び昇るのは東の海からだ。

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オレンジ色の実をつけた枇杷の木

 4月16日の早朝、ユーラシア大陸東端の釜山で、日本海から昇る朝日を見てから、ちょうど1カ月。ユーラシア大陸を鉄道で横断し、今まさに西の大西洋に沈まんとする夕日を眺めながら、西端の町リスボンの地に着こうとしている。

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窓越しに見る、西の大西洋に沈まんとする太陽

 コロンブスアメリカ大陸発見500年記念祭の年に、地球半周に近い2万キロを旅して、日の出る東端で朝日を、日の没する西端で夕日を見ることになるとは、まるでこの旅が1日で終わったような気持ちになる。しかし、この「1日」は長かった。多くの出会いと、目にしてきた数々の出来事や自然現象、そして様々な人々の生活様式を想い、万感の思いが込み上げてくる。

「ありがとう、ありがとう」

 大西洋に沈まんとする夕日に手を合わせ、無事に来られたことへの感謝の気持ちが込み上げ、胸が震えた。

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終着駅近くで二等車内の筆者

 やがてあたりは夜の帳が下りて闇に包まれたが列車は走り続け、この旅の終着点、リスボンのサンタ・アポロニア駅に、午後9時18分に無事に到着した。そして、駅近くのティボリ・ホテルに宿を取った。

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リスボンのサンタ・アポロニア駅に着いた直後の筆者

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着いた翌日、サンタ・アポロニア駅舎前での筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊲ パリ→マドリード(スペイン)

 5月14日午後6時半、パリのノルマンディ・ホテルからスペインのマドリード行きの列車が出るオーステルリッツ駅に向かった。車の渋滞でセーヌ川沿いで30分以上もかかり、駅には7時過ぎに着いた。

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オーステルリッツ駅舎

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オーステルリッツ駅構内

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駅構内の切符売り場

 すでにマドリード行きのTEE(Trance Europ Express)は、ホームに入っていた。64号の56番で、1等の2人部屋寝台であるが、相客はいなかった。

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オーステルリッツ駅のプラットホーム

 TEEは、午後8時2分、定刻通り出発の合図などは何もなく、静かに動き始めた。私にとって何となく感動のない、味気ない出発であった。

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マドリード行きの列車

 パリの南西に広がる平地は一面の麦畑で、フランスの大穀倉地帯のようだ。このあたりの岩盤も石灰岩なので、土壌は白っぽい砂地で、保水力が弱いようだ。広い畑の至るところでスプリンクラーを使って散水している。

 30分もすると、平らな麦畑の彼方に夕陽が赤い風船のように浮かんでいた、。360度見渡せる平地なので、「月は東に日は西に」という言葉通りの情景で、月は東に昇っており、日は西に没しようとしている。

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西の大地に沈みゆく太陽

 食堂車のバーでワイン”RIOJA”0.375ℓ入りボトル1本(30フラン)を飲んだ。バーはカウンター式で、雰囲気がよい。食堂も豪華で良い雰囲気だが、私はラーメン・ライスで夕食を済ませていたので入らなかった。

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食堂車内

 スペイン製の車両は最新式で豪華に作られている。寝台車は2人部屋で、下のベッドは折りたためるようになっている。椅子は、ベッドを出すと下に入る。各々にランプと電話が設置され、衣服掛けと大きな鏡がある。洗面所は湯が出るし、板を下すとテーブルになる。冷暖房付きで、窓にはジャバラ式のカーテンがかかっている。隣室との間に扉があり、2部屋が1つになるようにもなっている。

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1等寝台車内

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1等寝台車のベッド

 トイレはフランスの列車のように、下からの吹き上げはなく、静かで座り心地がよい。水は押ボタン式で5、6秒出たあと、自動的に止まる。1等の寝台車は大変豪華で気持ちよくベッドに横になれる。

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1等寝台車のトイレ

 翌15日、午前6時半に夜が明けた。列車はピレネー山脈を越え、カスティーリャ高地の グァダラーマ山地を通過して、マドリード盆地へと下っていった。

 大地は褐色の岩山で樹木は生えていない。遠くに残雪の高い山が見える。やがて、コルクの木が散見し、牧場が見えるようになった。列車が下るに従って、辺りはほとんど牧草地帯になり、牛が多く見られる。谷間の川を堰き止めたダム近くまで下りると、小石を積み上げた垣を境界とする牛の放牧地帯となる。

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マドリード盆地

 列車は徐々に下り、遠くにマドリードの町を望み、さらに下ってコルクの保護林を抜けると、標高650メートルにあるマドリードの町に入る。マドリード郊外の新駅シャマルチン駅に着いたのは午前8時54分であった。

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マドリードシャマルチン駅

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プラットホームのポーター

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マドリードシャマルチン駅のホーム

 すぐにインフォメーションオフィスに行き、リスボン行きの切符売場を尋ねた後、構内の銀行で円をスペインの貨幣ペセタに交換した。100円が75ペセタ、1米ドルが99・6ペセタであった。

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駅構内のインフォーメイション

 切符売場の窓口には8人並んでいた。順番がきたが、受付番号を持っていなかったので切符を買うことができなかった。受付番号を発行する機会でカードを手にして再び20分ほど待って、やっと順番がきたのだが、すでに、1等室はなく、2等の禁煙席の切符を買うことができた。リスボン行きは13時55分発で、座席は21号の31番のVであった。なんと値段は245ペセタ、約300円と安かった。

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駅構内の店

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駅構内の休息所

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駅構内のバー

 荷物を構内のコインロッカーに預けて町に出る。コーヒーショップ兼食堂で食事をする。ピザ、ポテト、オレンジジュース、ヨーグルトを注文して1600円であった。現在のスペインは、ECの統合によって、対米ドルや日本円との交換率が高くなっており、物価が安いはずのスペインやポルトガルでも、非EC諸国民にとっては高くなる。

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シャマルチン駅

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シャマルチン駅舎

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駅周辺の建物

 ましてやスペインは、今年(1992年)7月にはバルセロナでオリンピック大会が開催されるので、物価が急上昇しているとのことだった。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㊱ 白い街パリ

 パリ東駅から乗ったタクシーの運転手は、カナリア諸島出身で英語を話した。私はフランス語が話せなかったので、言葉が通じると気が楽になった。夕暮れのパリを眺めながら、ルーブル美術館近くのノルマンディ・ホテルに10数分間で着いた。このホテルは、昔から日本人がよく泊まる古い立派なホテル。ところが予約していたはずなのに、満室だと言う。受付係の男性は英語を話すので、もう1度確認するように頼むと、「モリタ」の名前で予約はあったが、誰かがすでにチェックインをしているという。どうも受付係のミスのようで、いいかげんな人の多いフランスらしいこと。マネージャーにクレームをつけると、屋根裏部屋が1つ空いているというので、7階の最上階に泊まることにした。

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ノルマンデイ・ホテル前のカフェテリア

 私は、25歳の頃、ロンドンのケンジントンチャーチ横の屋根裏部屋に下宿していたことがあり、懐かしかった。屋根裏部屋の低いところは頭がぶつかるが、値段は安い。部屋はきれいで広いし、バス・トイレ付き、一泊ならこれで十分だ。

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大理石の建物

 ホテルの近くには日本料理店「大阪」「たから」がある。300メートルほど離れて「祭」という回転寿司屋があった。久しぶりに寿司を食べる。カリフォルニア米の江戸前寿司は味がよいというものではなかったが、6皿食べる。1皿に2個盛られて22フランなので、合計3360円となり、安くはなかった。パリにはもう4回来ているが、来る度に日本人観光客が多くなり、日本語をよく耳にし、隣国のように身近になっている街だ。

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工事中のルーブル美術博物館

 翌日、5月14日は快晴であった。夕方6時まで時間があるので、久しぶりにパリ見物をすることにした。まず、ホテルのすぐ隣にあるセーヌ川沿いのルーブル美術博物館を訪れた。

 古代から現代に至る世界の美術史が一目で分かる人類最大の財宝と讃えられている、20万点もの美術品もさることながら、私の興味は、1667年から125年も要して建築された、世界最大の宮殿である大理石の建物自体である。ところが来てみると、大改築中で、汚れた建物を水で洗っていた。敷地内は建設工事中で地下深く掘られている。大地の地下は石灰岩で、石灰質の強い土壌に覆われている。

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白亜の殿堂ルーブル美術館の一部

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大理石による博物館の上層部

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ルーブル美術館を見物に来た子供たち

 セーヌ川にあるシテ島ノートルダム寺院コンコルド広場、パリ大学、ブルボン宮、凱旋門と見てまわる。建物も記念建造物も、大地もみな白かった。パリは「白亜の都」とよく言われるが、その通りであった。

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白い岩壁のセーヌ河

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セーヌ河にかかる橋の上での筆者

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セーヌ河の遊覧船

 これまで、パリがなぜ「白亜の都」なのかよく理解していなかった。それに、パリの水が飲めない本当の理由も分かっていなかった。

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白い大理石の石像

 パリの大地を掘り下げる工事現場を何か所も見たが、どこも岩盤は白い石灰岩なのだ。建築用に切り出される石も、石灰質の高い大理石。パリは石灰岩の上に、石灰岩を使って家が建てられた白い街であり、地下水は、石灰質のアルカリ度が高い硬水で、飲料水には不適なのである。

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コンコルト広場

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石造りの建物

 青い空と新緑の中に白亜の建造物と装飾用の赤色が、実によく映えてパリらしい光景を醸し出している。パリの街は、白いがゆえに豪華で美しく、古くて堂々としている。

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白い大理石のモニュメント

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白い石造りの建物

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排気ガスで汚れた石造り凱旋門

 ところが、この石材は、今日の酸性雨や自動車、工場などの排煙、排気ガスなどに弱く、溶けたり灰黒色に汚れてしまう。近代化が進んだ今日、パリの街全体が汚れてくすんでいるので、真水で洗い清めることが必要になっている。

 人間は古代から今日に至るまで、大地の色に合わせた生活文化を培ってきた。家や道具、衣類や食生活文化も、大地の色に似せるという。人間は、身近にあって最も手っ取り早く、簡単に利用できる材料を使用するせいである。パリの人々が白い街を好んで作ったのではく、身近にある白い大理石を使ったので自然に白亜の街ができ上がり、パリの色となり文化となっているのだ。

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白い石造りの街並

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白亜の街頭のカフェテリア

 夕方スペインのマドリード行きの列車を待つまでの1日中パリの街を歩いて、白亜の建造物を眺めながら、フランス人が白い街を好んだのではなく、そうせざるを得なかったことに気づかされた。

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街頭の椅子に休む白い老夫婦

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉟ フランクフルト→パリ(フランス)

 ライン川の支流マイン川下流の西岸に発展した、人口70万以上もの大都市フランクフルトの駅舎の構内は、天井が高くて大きいカマボコ型。しかも柱がないので広々として明るく気持ちが良い。

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フランクフルト駅構内

 構内には乗り降りの客が多く、モダンな売店が並んでおり、必要なものは何でも揃う。食堂・バー・カフェテリア・書店・雑貨屋・服屋・写真屋・八百屋・果物屋・菓子屋などの店があり、まるで百貨店のようだ。

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パリ行きの標識

 ここは国際線の発着駅なので、プラットホームが10本、20番線まであり、乗り継ぎの待ち合い客も多い。様々な国の客に対応できるように、英語・フランス語・日本語の出来る係員がいる。

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パリ行きの列車

 構内の店を見ているだけでも楽しく、ドイツの繁栄が伺え、目を見張る思いがし、食事も忘れ、あっという間の1時間であった。

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列車に乗りこむ乗客

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パリ行きの出発ホーム

 午後2時52分、13番ホームのパリ行き国際列車は、静かに扉が閉まり、車掌の「ピー」と吹く笛の合図で発車した。101号15番の座席で窓側。ベルリンからと同じく6人用コンパートメントで、相客は若い男性2人だけ。2人とも通路側に座っており、1人は学生風で雑誌を読み、もう1人は背広姿のサラリーマン風で、革製のカバンから書類を出して見入っている。

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食堂車での料理

 3時20分、進行方向左側の丘の南斜面は葡萄畑。丘は茶褐色の大地が広がっている。このあたりは葡萄の産地で、ロマン街道のような風景が続く。

 3時43分、ライン川沿いのマンハイム駅に着く。ここで相客2人が降り、私は1人になった。2、3分停車し、車掌が笛を吹くと扉が閉まって発車。線路沿いには葡萄畑が続き、茶褐色のレンガ造りの家が散在する。

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マンハイムのプラットホーム

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マンハイム

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マンハイム駅のプラットホームに立つ筆者

 4時過ぎにニュウスタドを過ぎると、これまでの平地から山間に入った。トンネルが多く、シラカバ、ブナ、ナラ、アカマツ、ニレ、ドイツ杉などの森林地帯を走る。

 用を足そうと便所に入って便器に座ると、下から風が吹き上がり、尻がやけに涼しい。車輪の音もうるさいことながら、吹き上げが強く、落ち着いてはいられない。この車両の便所は、そこがなく大地に直結する垂れ流し式なのだ。これまでの列車の便所は大地が見えず、こんなに風も吹き上げてはこなかった。山間部でそれほどスピードは出ていないのに、吹き上げはかなり強く、紙がなかなか落ちないので後始末が大変であった。西欧にしては旧式すぎる。

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下から風が吹き上げるトイレ、落とし物をしたらそれまで。

 やがてゆるい斜面を上がった頂上にあるドイツの国境の町サルブルケンに着いた。駅の時計は午後5時12分。この駅でも停車は2分ほどですぐ出発。5時26分にはフランス側のフォルバチに着いた。だが、税関員も移民官も来ない。EC(ヨーロッパ共同体)統合によって、国境の出入国手続きが不要になったからだ。街の様子はあまり変わらないので、国旗を見なければ、国境を越したことさえわからない。

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ドイツ側のサルブルケン駅

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サルブルケン駅のプラットホーム

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サルブルケンの町

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フランス側のフォルバチ駅

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フォルバチの町

 フォルバチは高原の町で、森が多く、褐色の屋根の家々が緑に映えて美しい。列車はこの町から西へ徐々に下って行く。次のベニングの町も、青空の下で森の中に赤褐色の屋根の家々が並び、おとぎの国のような風景が見られた。

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ベニング駅

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ベニング駅のプラットホーム

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フランスの女性車掌 ベニング駅で

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ベニング近くの農村

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ベニング駅での筆者

 やがて山を下り、6時17分、メッツ駅に着く。約10分間停車して機関車が取り換えられ、進行方向が逆になった。この駅で中年の男性1人と若い女性2人が乗って来たが、いずれも座るなり雑誌を読みふけった。

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メッツ近くの農村

 メッツを発つと、あたりは素晴らしい農業地帯であった。麦畑、菜種畑、牧草地など、豊かな大地に、人間の営みが心地よい。フランスが農業国であることは知られていたが、ドイツにも勝る豊かな大地が広がっている。フランス人の自信は、このような大地からきているのだろう。

 列車は時速200キロで2本の鉄路の上を「シャーッ」という快音とともに走る。揺れや音も少なく、ゆったりとして快適だ。

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メッツ駅

 午後8時、太陽が地平線近くになった。両側のなだらかな斜面には葡萄や桃の畑が続いている。このあたりの岩山は、白っぽい石灰岩が多く見られるので、大地はアルカリ性で、果物の栽培には適しているのだろう。

 列車は、メッツ以後は止まることなく、沈み行く太陽を追いかけるように西のパリへと快走した。やがて、モンマルトの丘やエッフェル塔が夕陽に映え、一幅の絵のように見えて来た。

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パリ東駅舎

 列車は定刻の9時2分、パリ東駅に着いた。夕暮れのせいか、構内は人出が少なく、閑散としていた。モスクワ、ワルシャワ、ベルリン、フランクフルトと同様に、パリ東駅も改札口はなく、ホームに自由に出入りできる。ヨーロッパでは車内で厳しく検札し、改札口は重要でないようだ。

 駅舎の撮影をしてから、駅前からタクシーでノルマンディ・ホテルへ向かった。

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宿泊先のノルマンデイ・ホテル

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉞ ベルリン→フランクフルト

 5月13日、午前6時に起床し、ホテルから歩いて10分ほどのツオ駅に行く。以前ベルリンを訪れた時、小さな駅に過ぎなかったが、今は駅ビルが建ち、大変モダンになっている。プラットホームは2本だが、西ベルリン当時から中心街に最も近い、国際列車の発着駅であった。

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ベルリンのモダンなツオ駅

 窓口を訪ねて「ユーレイルパス」の使用開始のスタンプを押してもらう。ユーレイルパスとは、欧州16ヶ国を1カ月間自由に汽車旅行のできるフリーパス。西ヨーロッパで安く旅行するため、日本で買っておいた。

 フランクフルト行は2階の4番ホーム。プラットホームで若い女性駅員に尋ね、32番で待つ。

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駅二階への階段

 7時40分、汽車はプラットホームに入り、44分の定刻通りに発車。発車のベルや放送などなく、静かな出発。

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フランクフルト行きのホーム

 しばらく街中を走る。レンガ造りの住宅が続き、ライラック、サクランボ、スモモ、桃等の花が咲き、シラカバの淡い緑の新芽が美しい。ここにも春が訪れ、草木の語らいが聞こえるようだ。

 やがて高速道路と平行に走る。車とほぼ同じようなスピードだが、汽車の方がやや速い。汽車はガタンゴトンという、線路の継ぎ目で発生する音がなく、大変静かで、左右の揺れも少ない。

 8時から食堂車で朝食をとる。パン・ジャム・バター・コーヒー、ヨーグルトがセットされていて14・8マルク(1200円)。食事中にもほとんど振動は感じられず、コーヒーさえ揺れなかった。

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食堂車の朝食セット

 コンパートメントは禁煙になっており、3人掛けの6人部屋。やはり客が少なく、4人しかいない。通路側もガラス張りであり、窓は大きく明るいが開かない。窓側に座って外の光景を見る。花と緑が美しく、タンポポの黄色い花が多いのには驚かされた。

 ベルリンの街を出て間もなく、松や樺の林の中に湖があり、たくさんのヨットが係留されていた。9時27分、マクトボイカル駅で3分間停車し、放送があってから1分後に発車した。

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マクトボイカル駅での女性車掌

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マクトボイカル駅のプラッとホーム

 線路沿いにはサクランボの木が多くなった。すでに花は散っている。これから少しずつ南に下って行くので、行く先々の春はすでに満ち満ちているのだろう。

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車内の通路に立つ乗客

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寝台車内

 10時22分、ヘルムステド駅に着く。ここから電気機関車になる。10分ほど停車するので、プラットホームに降りた。ガラス張りの売店では商品がきれいに陳列され、便利で衛生的だ。大変合理的ではあるが、中央アジアのような人間味やゆとりが少ない。フランスの哲学者テガルトは「近代化とは合理主義であり、欲望的人間に対応すること」と言っている。

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ヘルムステド駅

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ヘルムステド駅でホームを見る車掌

 出発案内の放送があり、しかも、出入り口の扉の内側で「ピーピーピー」と音がしてから閉まる。すべて自動だが、扉の内と外に青と赤のボタンがあり、緊急時には青を押すと開くようになっている。

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一般車両内の様子

 ヒゲ面で眼鏡をかけた太った車掌が乗車券を調べに来たが、ユーレイルパスをちらっと見ただけで返してきた。

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ひげ面の乗務員

 11時過ぎ、ブラウンシュウェイグを過ぎたあたりから、旧西ドイツに入ったのか、大地がよく整地され、耕作されていた。村も大きく、家々の屋根はカラフルで明るい。畑の隅々まで耕し、大地の価値を高めている農民の心意気が感じられ、農業国としてのドイツの一面が窺われる。

 11時30分、ハイデシェイム駅に着く。ここからドイツは昨年、ハンブルグミュンヘン間951キロを7時間27分で走るICE(インターシティーエクスプレス)を登場させた。時速170キロで「シャー」という快音を発しながら走る。

 向かいの座席の上の鏡を見ると、私の頭上の荷物棚が見えるようになっている。こんなところにも細かな配慮がされていた。

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車内で窓際に座る筆者

 起伏のゆるやかな大地には、青い麦畑や黄色い花が咲いている菜種畑が広がっている。牛や羊が草をはむ牧草地、赤褐色の屋根に白い壁の家々。春たけなわのドイツの自然は、心を弾ませてくれる。

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緑に覆われた大地

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広大な菜の花畑

 12時3分、ゲッチンゲン駅着。2分停車して発車。天気がよくなり青空が広がっている。冷暖房は窓側のボタンで自由に調整できる。

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カセル駅

 12時30分、カセル駅を過ぎる。もうかなり南に下がったようで、新緑の草木が目に心地よい。フルダに午後1時に着く。しばらく走ると、白と褐色の大きな盛土があった。石灰でも掘っているのだろうか。汽車は、カシ、ブナ、アカマツ、樺などの林の中を走る。

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フルダ近くの白と褐色の盛り土 黄色の花は西洋タンポポ

 この汽車は速い。駅に停車しても2分間くらいなので、せわしくなく、面白味がない。ただひたすら目的地に向かって快走するだけ。

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フランクフルト駅

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フランクフルト駅の構内

 目的地のフランクフルト駅には定刻の午後1時58分に到着した。私は、1時間の待ち合わせで、パリ行きの汽車に乗り継ぐことになっているので、構内で待つことにした。

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フランクフルト駅舎

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フランクフルト駅前広場

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉝ ベルリン風情

 ベルリンに着いて、ホテルで2時間も横になって休んでいると疲労感は取れた。その代わり、屋台の拉麺の香りが懐かしく、無性に食べたくなった。

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ベルリン中心街の噴水池

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ベルリン街頭の花屋

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クルフェルステンダム街

 ホテルを出てタウエンツイン通りを歩く。西ベルリン一の繁華街クルフェルステンダムに出た。東京の銀座にあたるような人通りが多く、華やかな通り。歩道沿いに並ぶガラス張りの華やかなショーウインドウはベルリン名物の1つ。立派なホテルやレストランが並び、街頭のカフェテリアでは旅行者風の客たちが明るいテラスに座って、コーヒーか紅茶を飲みながら道行く人々を眺めている。

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ベーカリ パン屋

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街頭のカフェテリア

 1989年11月、民主化を求めて数万人の群集がブランデンブルグ門に集まった。その民衆の力が東西ベルリンの壁を破壊した。そして翌年の90年10月に東西ベルリンが統合され、今は壁のないベルリンとなって、町は明るくなごやかで、心なしか平和なムードがあふれている。

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ベルリンの壁

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破壊されたベルリンの壁

 第2世界次大戦中に破壊されたガイゼル・ウィルヘルム一世記念教会のある広場には、若者が集まっている。ギターを演奏しながら歌っている者、スケートボードをしている者。おしゃべりをしている者、抱き合っている者、布の上に自家製のアクセサリーを置いて売っている者もいる。

 通りには多くのレストランがあり、うまそうな西洋料理が陳列されている。だが、私は食欲をそそられなかった。ただ、無性にラーメンが食べたかった。

 10年ほど前、ヒマラヤ山中で民族踏査をしていた時、雪で10日ほど閉じ込められ、無性にみそ汁とめざしが欲しくなった。その時までは、世界中を旅行して何でも食べていて、食物を気にすることはなかったが、めざしやみそ汁が恋しくなった自分が、心身ともに日本人になったことを痛感したが、今も学生時代からよく食べた拉麺が食べたい。

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中国料理店「揚子江」の看板

  やっと「揚子江」という中国料理のレストランを捜し当てて中に入った。一階はアダルトショップで、2階に上がる。大きなガラス窓から通りや広場が見下ろせる。まだ夕食には早いので、女性客が2人いるだけ。中国人のウェイターに、野菜入りのヌードルスープと、米飯を頼んだ。つまり、ラーメン定食。

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中国レストランに座る女性たち

 しばらくすると、大ドンブリに入ったチャンポンのような麺とご飯が運ばれた。味は日本のものとは少々違うが、野菜やきのこ、メンマの入ったラーメンに近い東洋料理と言ってよく、食欲がそそられ、一気に食べ終えた。

 驚いたことに、食事後、胃の具合がよくなり、全身に活力がみなぎってきた。カザク共和国の食堂車で食べて以来の米飯に、やっと「飯を食った」という満足感を得た。このところ、ずっとパンと肉、ハム、ソーセージ、じゃがいもの料理ばかりで、胃が疲れていたのだろう。

 ホテルから東京へ電話を入れ、ベルリンに無事到着したことを知らせる。直通のダイヤルで、00813を押したあと相手方の電話番号を押せばよかった。鉄道を乗り継いでここまで来るのに約一ヶ月を要したのに、国際電話だとわずか10秒足らずで通じた。日本へ送った5分間のメッセージ代は、50マルク、3800円であった。

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ベルリン中心地

 大正14年から昭和15年頃まで、「東京発ベルリン行き」のシベリア経由の鉄道の切符が、当時の貨幣で三百数十円であった。のちには「ロンドン行き」や「パリ行き」の切符も売られていた。作家の横光利一が昭和11年頃に、シベリア鉄道に乗って書いた「旅愁」から、すでに半世紀以上も経っている。そして今、シベリア鉄道とは違ったユーラシア大陸の中央部を横切る新しい鉄道が開通した。私は、その1番乗りをして、ベルリンまで来た。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉜ ワルシャワ→ベルリン(ドイツ)

 ワルシャワに1泊した翌5月12日、午前5時に起床。どんより曇っていたが、部屋に運ばれた朝食を急いて食べ、直ぐにタクシーで中央駅に向かう。

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ベルリン行きの乗客たち

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ベルリン行きのプラットホーム

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古い友人のステフアニアさんが見送りに来てくれた

 6時5分、3番ホームにベルリン行始発列車が入ってきた。306号の76番、窓側の席だった。荷物を座席に置いて、出発風景を撮影しようとプラットホームに出ていると、6時20分発の定刻1分前、ベルの音もなく扉が自動的に閉まった。驚いて扉に手をかけて開けようとしたが開かない。再度扉に手をかけるとスーッと開いたので飛び乗った。これまで手動の扉の国ばかり旅してきたので、うっかりしていた。自動は便利だが、手動の方が人間味があってよいなどと思いつつ、6人用のコンパートメントに戻る。

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6人用のコンパートメントの部屋

 相客は3人だが、向かいの太った男が、発車早々タバコをうまそうにふかし始めた。車掌に禁煙席を頼んだが、聞き入れてもらえなかった。ポーランドの旅行会社「オルビル」の係員が、私の意向も聞かずに喫煙室の切符をホテルに置いていた。

 これからベルリンまで8時間の旅を考えると気がめいるが、列車はモダンな車両で、車窓は大きく明るい。通路側もガラス張りで通路を歩く人が見え、座席は赤色のベルベット張りでゆったりしているので気持ちがよい。

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列車内の通路

 7時20分、線路沿いの畑はよく区画され、麦が10センチほど伸びている。菜の花畑があり、ポプラ並木もある。のどかな農業地帯が続く。ときどき見える建物の屋根は、赤・黄・白・黒・褐色・灰色など多彩で、景色全体がロシアとは比較にならない明るさがある。

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そこ蓋のあるトイレ

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車内の洗面所

 私の隣の背広姿の男が英語で話しかけてきた。木製品を外国に輸出する会社の社長で、48歳のポーランド人で彼の話を聞く。

 ポーランドの土地が、ロシアに比べて大事に扱われているのは、70%の土地が個人所有になっているからだそうだ。それは、第二次世界大戦以後、ずっと変わっていないと言う。

 ロシアは70年間、ポーランドは40年間社会主義であったが、ものの考え方や意識が違い、ロシアの村は眠っており、ポーランドの村には活気があるのだそうだ。

 ポーランドから西ドイツへは20年前から行きやすくなり、彼は15年前から西ドイツへ品物を運び、米ドルとの交換率の違いによって稼いでいたが、4年前から外貨交換率が自由化になって稼げなくなった。その代わり、2年前からロシア人がポーランドで物を売り、米ドルの交換率で稼ぐようになったのだと言う。 

 彼の月給は約800万ズロチで、平均月給の6倍だが、税金が収入の2、30パーセントと高い。給料は、年齢や学歴とは関係がないので、青少年たちは学歴を得るための勉強をしないし、熱心に働かない傾向にあるが、今や西欧に近づき、スペインやポルトガルよりも物価が高くなっていると、いろいろな情報を話してくれた。

 線路沿いにはタンポポが一面に咲いている。菜の花とは違った黄色の美しさが地面に広がっている。

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ポズナニ駅のプラットホーム

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ポズナニ

 9時50分、ポズナニ駅に着く。同室の3人の客はこの駅で降りた。曇っていた空は晴れわたり、明るくなっていた。

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ポズナニ駅で見送る人たち

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ポズナニ駅の線路

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女性車掌

 12時30分、ドイツとの国境クノビスを発車。ポーランドの税関と出入国係官が部屋に来たがパスポートに出国スタンプを押しただけだった。

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クノビス駅

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クノビス駅のプラットホーム

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クノビス近くの湖

 15分でドイツのフランクフルト・オーデルに着く。オーデル川沿いの町は、1368年から15世紀半ばまでハンザ同盟都市の1つで、機械や家具、紡績、靴などの製造工業が盛んであった。1945年以来ポーランドとの国境都市で、昨年までは東ドイツの町であった。

 ここでポーランドの係官は下車し、ドイツの係官が乗り込んできたが、パスポートをちらりと見ただけでスタンプも押さず、「ダンケシェン、バイバイ」と言って立ち去った。

 間もなくドイツ人の客が乗り込んできたが、数は少なく、私の部屋の相客はいなかった。やはり、旅は自動車や飛行機の時代になってしまったのだろうか。しかし、豪華なワゴンの汽車旅行こそ、自然な時の流れに従って、人間らしくゆったりとしたぜいたくな旅が出来るのではあるまいか。

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フランクフルト.オーデルの線路修理

 ポーランドとドイツの間には時差がなく、午後1時3分にオーデルを出発した。線路沿いには春の活気が感じられるが、東ドイツであった農地は荒れ果て、働く人の姿や作物もなく、麦畑は作付けされないままである。放牧地の棚は壊れ、牧畜の数も少ない。大地がどことなく淋しそうだった。大地は人類にとって宝物であり、真理だ。そのことを忘れた社会はやがて衰退に向かう。

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フランクフルト.オーデル駅プラットホーム

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フランクフルト.オーデル駅プラットホーム

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フランクフルト.オーデル

 旧東ドイツは、ロシアほどではないが、大地を粗末に扱っていたようだ。西ドイツに併合され、統一ドイツとなったこの大地が、春の華やかさを取り戻すのはいつのことだろう。

 午後3時10分、ベルリン駅着。広い駅は閑散としていた。1米ドルが1・58マルクで300ドル交換して外に出る。駅を撮影してからパレス・ホテルまでタクシーに乗る。街には車が多く、久しぶりに渋滞に巻き込まれた。日本を出発して約1カ月になる。ベルリンまで来れば、鉄道の旅は成就したも同然だと思うと、安堵感とともに疲労がどっと押し寄せてきた。

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ベルリン駅へ

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ベルリン駅のプラットホーム

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ベルリン駅の掲示

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ベルリン駅構内

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ベルリン駅舎

 カイゼル・ウィルヘルム一世記念教会近くのタウエンツイン通りにあるパレス・ホテルは、繁華街の中にあって、落ち着いた雰囲気の立派なホテル。4階の40号室に入り、そのままベッドの上に横になると、脱力感に襲われ、2時間も横になってまどろんだ。

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カイゼル・ウイルヘルム一世記念教会近くの街頭

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉛ モスクワ→ワルシャワ(ポーランド)

 5月10日午後2時半、ワルシャワ行きの国際列車の発着駅であるベラルースキー(白ロシア)駅に着く。大きな駅で入口が2ヵ所あり、人が多い。特に2番ホームのワルシャワ行きのプラットホームは、たくさんの荷物を持った人で混雑している。

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ベラルースキー駅

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ベラルースキー駅入り口

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ベラルースキー駅前広場

 駅員に尋ねると、ワルシャワ行きの列車は、昨年までの1日3本が今年から6本に増便になったというのに、何と向こう40日まで予約で満席だという。

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国際列車「スラッシュ290号」の機関車

 ワルシャワ行きの国際列車「スラッシュ290」の車両はポーランド製の2人用と4人用のコンパートメントがあるが、ほとんどが2人用で「ワゴン」と呼ばれている。私が乗った227号4番の2人用の部屋に相客はいなかったが、乗客のほとんどがロシア人の「担ぎ屋」で、各部屋は荷物が溢れんばかりになっている。

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荷物をたくさん持った担ぎ屋たち

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モスクワ‐ワルシャワ間の国際列車「スラッシュ290号」

 ロシアの貨幣ルーブルは、ソ連時代には1米ドルが1ルーブルであったが、今では110ルーブルだ。国内はインフレで物価が高くなっているが、外貨では10分の1である。

 例えば、モスクワで110ルーブルのワイシャツが、ポーランドワルシャワでは10米ドル(1100ルーブル)で売れる。その代金を米ドルで持ち帰れば、1米ドルが闇値で1500ルーブルにもなる。そのため、知人、友人、親族一同が金を出し合って商品を仕入れ、ワルシャワへ運ぶ「国際的担ぎ屋」が横行しており、外国人はほとんど飛行機でしかワルシャワに行けない現状なので、私が乗れたのは珍しいことだそうだ。

 私がプラットホームで撮影していると、車掌が手を振って合図したので急いで乗ると、発車のベルはなく、定刻の3時20分にガタンと音高く動き始めた。

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私が乗車したワゴン内

 モスクワ郊外に出ると、アカマツやカラマツ、モミ、シラカバなどの林が続いた。沿線の風景はどことなく淋しい。駅の建物や家々は古び、鉄製の建物は赤茶け、土地の使い方がいいかげんで畑は荒れている。

 午後7時15分、ビヤズマ駅に着くと、列車の客に物を売るため、老若男女が手に物を持ってプラットホームに溢れ出た。

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ビヤズマ駅

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プラットホームでビールを売る少年

 レモネード、ミネラルウォーター、ビール、ウォッカ、タバコ、ライター、カメラや大工道具などを掲げ、商品名を連呼しながら歩いている。カバンの中からシャンパンの頭だけ出し、そしらぬ風で歩いている者もいる。一番元気なのは子どもたちだが、彼らの瞳には安らぎがない。しかし、表情は明るい。ロシアの豊かな大地は、この子らを見捨てることはないだろう。

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車窓から眺めた夕暮れ

 午前1時半に目覚めると、ベラルーシミンスク駅に止まっていた。車掌に水を頼むと、冷たいミネラルウォーターを1本持って来てくれたが無料だった。カザクスタン号の車掌とは雲泥の差で、明るくサービスがいいし、写真もご自由にといって、記念撮影までしてくれた。しかし、後で見ると手ぶれがしてボケていた。

 5月11日早朝、車掌が扉を叩く音で目覚め、間もなく国境のブレストに着く。税関吏と出入国管理官が1部屋ずつチェックする。

 ここはベラルーシポーランドとの国境。ソ連が崩壊して独立国になったばかりなので、ロシアとの区別が明確ではない。食堂車より前の11両はポーランドの車両、後の5両はロシアの車両なので、ここで切り離す。外は寒く、吐く息が白いが、中は暖房で暖かい。

 午前6時15分、車両の台車交換のため車庫に入った。乗客はそのまま車内にいるが、私は外に出て交換風景を撮影した。フラッシュを付けたので現場の人が嫌がり、2枚で止めた。

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ベラルーシポーランドの国境での台車交換

 7時5分、台車交換を終えて出発し、やがてロシア文字ではなくローマ字で“Brest”と書かれた、ポーランド側の駅に着いた。国境をはさんだ同じ町のようだが、時差が1時間あるので7時20分を6時20分に変更する。

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ブレスト駅のプラットホーム

 ポーランドへ入国し、太陽が地平線を離れ、緑の大地が輝いている。朝の農村は静かで落ち着いているようだし、ロシアよりも民家が大きく、様々な形をし、農地はよく整備されていて美しい。ポーランドは、やはりロシア圏ではなく欧州側なのだ。

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早朝のポーランドの村

 7時40分、入国管理官が車内にやってきたが、パスポートを見ただけ。8時半、最初の駅、“SLEDLECE”着。モスクワからの担ぎ屋の一部が荷物をたくさん持って降りた。

 列車は麦畑の続く農村地帯を走る。線路沿いの墓地には、墓石に十字架を刻んだものが並んでいる。ポーランドカトリック系の強い国で、共産主義政権下で宗教活動がわずかに容認されていた唯一の国であった。

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ワルシャワ郊外で見たカトリック系の墓地

 午前9時、何の説明もなく駅でない所に停車する。線路沿いにライラックやスモモの白い花が咲き、土筆やタンポポが生えていた。農家からの鶏の鳴き声が聞こえる。どこかでスズメの鳴き声もする。

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線路沿いのスモモの白い花咲く村

 驚いたことに窓が開いた。当たり前のことなのだが、北朝鮮以来、中国、カザク、ロシアと続けて来た長い旅の間、窓が開かないようになっていた。開けられたことが嬉しく、快感であった。

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ワルシャワ近く、線路沿いの村

 列車は間もなく発車し、東ワルシャワに9時半に着いた。ここで、モスクワからの担ぎ屋の多くが下車した。プラットホームでは、「売りたいものはないか」とか「アメリカシガレットを買うよ」などと大声で叫ぶ人がいた。

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ワルシャワ駅で下車した担ぎや

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ワルシャワ駅のプラットホーム

 10時5分、ワルシャワの中央駅着。時計を見ると9時5分であった。不思議に思って駅員に尋ねると、モスクワとは2時間、ベラルーシとは1時間の時差だった。私はベラルーシ時間に合わせていた。

 プラットホームは、担ぎ屋でごった返していた。センターホールに出ると、天井が高く広々として明るかった。換金を済ませ、駅のビュッフェでコーヒーとパンの朝食をとる。

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ワルシャワ駅のセントラルホール

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ワルシャワ駅のビュッフェー

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ワルシャワ駅舎

 駅からタクシーでビクトリア・ホテルへ向かう。料金は何と7万ズロチ。桁が大きいのだが、換算すると700円であった。

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ワルシャワの食堂での筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉚ モスクワ

 カザン駅から乗ったタクシーは、モスクワの中心地であるクレムリン広場から北西に延びる、ゴーリキ通りのインツーリスト・ホテルまで行く約束だったが、今日は、1945年5月9日の「対独戦勝記念日」で休日。ゴーリキ通りは歩行者天国になっており、広い道に人出が多くて通れず、2つ手前の角でタクシーを降りて歩いた。

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歩行者天国になっていたゴーリキ通り

 22階建てのインツーリスト・ホテルのフロントで手続きしたあと、明日のワルシャワ行きの切符について係員に尋ねたところ、予約してはいるが未購入とのことであった。

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インツリスト・ホテルの窓からの眺め

 今日中に切符を手に入れるよう交渉するが、予約を入れても切符は買えないのだから仕方ないと、至極なげやりな態度。アルマ・アタでも大変困難であったが、オーバーなことを言って彼女を少々威すと、上司に電話した。しばらく待っていると、今日中に切符を手に入れる確認がとれたと笑顔で告げてくれた。

 不安と緊張感がスーッと抜け、カメラを持って外に出た。10月革命広場には大きな野外ステージが組まれ、ロシア民謡やロック調の生演奏が、ボリュームをいっぱいにして大音響を上げ、大観衆がうごめいていた。

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10月革命広場の野外ステージ

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野外ステージでの歌舞

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広場の大観衆

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野外ステージで歌う歌手

 広場の周りには露店が並び、サンドウィッチ、ソーセージ、ポップコーン、ペプシコーラなどが売られており、人々が列をなしている。市場経済になったロシアの新しい顔が溢れている。広場の群衆は、気ままに歩き、自由な雰囲気を楽しんでいるようだ。

 1971年5月に初めてモスクワを訪れて以来、これで6度目になるが、以前にはこんな雰囲気ではなかった。1991年8月にクーデターがあり、12月にはソビエト連邦が崩壊し、戦勝記念日が国家のためではなく、人民のためのものになった最初の年だ。そのことをかみしめながら、今日1日、思い思いに過ごしているのだろう。

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赤の広場にたむろする人々

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広場にたたずむ人

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広場での一杯

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広場の出店

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広場でスケボーを楽しむ若者たち

 8時過ぎ、ホテルに戻り、切符を取りに行くと、ワルシャワ行きの切符購入は大変困難であった旨を告げられ、明日の午後3時20分発の切符を渡してくれた。

 翌5月10日は日曜日であった。朝は雲が多かったが、昼前から青空が広がり、町が明るくなり、人出が多くなった。

 今回のユーラシア大陸横断鉄道の旅を計画中、ソビエト連邦が崩壊した。「ソ連邦崩壊で、ロシアには物がなく、冬を越せない人が多いのではないか。特にモスクワは物資不足でひどい状況である」という情報が流れ、多くの人が心配して、旅行を延期するよう忠告してくれた。しかも、中央アジアやモスクワとの連絡がうまくとれずに困ったが、私は世界中を旅行して旅には慣れていたので、現地まで行けばなんとかなると、予定通り決行し、何とかモスクワまでやって来た。

 今のところ栄養失調や食料不足で死にかけているような人を見かけない。物不足はあるが、精神的自由を得て、人々はそれなりに努力・工夫しているようだ。その典型的な現象が、日曜日の自由市場。 

 自由広場はプーシキン広場近くの小さな通りにあり、警察官が立っているが見張りではない。幅8メートル、長さ300メートルほどの通りに人々が群がり、1万以上の人々の大半が品物を持っている。

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日曜日の自由市場の通り

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自由市場の人込み

 シャツ・ズボン・コート・ジャンパー・靴下・カミソリ・歯ブラシ・タバコ・ボールペン・サンダル・靴・化粧品・チューイングガム・シャンペンなど、なんでのかんでもを各々が持ち寄り、売りたい物を売り、買いたい物を買っている。中には物々交換もある。まるで古代と現代が同居するような自由市場には、ソビエト連邦政府から裏切られた民衆の知恵と意気込みがあり、自力で生きようとする逞しさが溢れ、むなしさよりも明るさがみなぎっている。

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自分が使っていたのか、大きなブラジャーを持つ女性

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物見する人々

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ほしいものを物色する人たち

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手にするのは化粧品かな

 物を売る声、客を呼ぶ声、値段を交渉する声、談笑する声、雑多な言葉が飛び交う。佇む人たちの顔もさまざまだ。ロシア系、スラブ系、アラブ系、モンゴル系、アフリカ系。髪の色も黒・赤・栗毛・金・銀・褐色と、なんとまあ多彩なことか。これがモスクワの素顔なのだろう。

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広場でくつろぐ多種多様な人々

 ソ連邦が崩壊してソビエト政府からロシア政府になっても多種多様なモスクワ市民は、大地とともに生き抜く知恵と力を身につけている。彼らは単一民族、単一文化に近い日本国の人々よりもはるかにたくましく、生命力が強く、個性的だ。これだけ雑多な社会にもまれて生き抜いてきた人たちは、どんな社会状況でも生きられる資質を十分身につけているようだ。

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モスクワの象徴ポクロフスキー聖堂

 この自由市場に肉がないわけではないが、殆ど見かけなかった。昼食に街頭で食べたソーセージは、大変美味かった。市民は1食30ルーブルあればなんとか食べられるが、平均月給1,500ルーブルではとても足りない。だから、彼らは自由市場で小銭を稼いでいる。本業よりも多くの収入を得ている人もいると言う。どのようなからくりがあるのか知らないが、1日に500から1,000ルーブルも稼ぐ人がいるそうで、自由市場は活気があって、見ている分には楽しかった。

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉙ ウラリスク→モスクワ(ロシア)

 5月8日、午後8時50分に、カザク共和国のウラリスクからロシア共和国最初の駅、アジンカに着いた。モスクワ時間ではまだ6時前。

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ロシア最初のアジンカ駅

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アジンカ駅の出口

 列車はロシアに入ってからも平原を北西に走る。麦畑の中に村々が点在し、野焼きの煙がたなびくのどかな夕暮れが続く。

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通路で夕日を眺める乗客

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寝台車内の親子孫三代

 ロシア正教の教会があり、鉄柵に囲まれた墓地に十字架が並んでいる。カザク共和国のイスラム教のドーム型の墓とは違い、まさしくロシアに入ったことを実感させられる。 

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ロシアの平原を西北に向かって走る列車

 10時55分、太陽はまだ西の地平線上にある。列車は西の赤い夕陽を追いかけているように走る。緑の多いのどかな農村風景が、大地の豊かさを象徴している。

 11時10分、すでに北緯52度まで北上しているので、日の出から日の入りまでが長く、いつまでも太陽が地平線上にあったが、ついに没した。私の時計はまだカザク時間のままだったが、モスクワ時間では8時10分。長い1日中、窓の外を観察し続けていたのでいささか疲れた。外はやっと暗くなったので早目に休むことにした。

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ロシアの大平原に沈む夕日

 5月9日、モスクワ時間の午前5時半、車内放送が始まり、外はまだ薄暗いので、6時半まで横になっていた。

 6時50分無名の駅に着く。ソ連邦崩壊後、地名や駅名の変更が多く、ここまで来る間にも無名の駅がいくつもあった。発車後、建物の壁に“タンボフ”と書いてあるのが見えた。

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タンボフの駅舎 

 列車は小さな村々を走り抜ける。車内にはロシア民謡のカチューシャが流れ、早朝から賑やかな雰囲気。

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タンボフ駅で見かけた大きな機関車

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早朝に見かけた平原の中の村

 午前8時5分、ミチュリンスク駅着。車掌がプラットホームに降りている。また注意されるにちがいないので、窓から密かに撮影し、カメラを持たずに降りる。プラットホームで撮影できたのは、一昨日通ったトルキスタンの駅だけ。

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ミチュリンスク駅のプラッチホームで列車を待つ家族

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ミチュリンスク駅に着いたプラットホーム

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ミチュリンスク駅舎

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プラットホーム反対側から発車する通勤列車

 ここの駅は市場も兼ねているようだ。人々は自由に出入りできるので、現地の人々でごった返している。仔豚、鶏、野菜、果物、魚、雑貨類など、生活必需品はたいてい揃っている。ソビエト連邦崩壊後の昨年の秋以来、ロシア、特にモスクワは食料不足で困っているとのニュースが流れていたが、この駅市場の活況を見る限り、食料に困っている様子はない。

 隣のプラットホームの始発電車には勤め人、農民、工場労働者などが乗り込んでいる。人だけではなく、自転車、乳母車、農具などや、豚、鶏、アヒルまで持ち込まれている。その電車は、木製の椅子に座った人々を乗せて発射した。

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通勤列車の乗客

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始発列車の乗客たち

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通勤列車に自転車を持ち込む乗客

 私たちの列車は、機関車を取り換え、ここから進行方向を逆にして走った。すでに北緯53度にもなっているが、大地は冬の眠りから覚め、木々には春が訪れ、リンゴ、スモモ、ユキヤナギライラック、サクランボなどの花が咲き、シラカバの黄緑色の新芽などが美しい。汽車の走行と共に時は流れ、車窓に映える光景は、春のきざしが満ち溢れている。

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ミチュリンスク駅近くの線路沿いの人々

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ロシアに入ってからの車内の売り子

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林の中の村

 午前11時55分、リヤザニ駅着。この駅はモダンで都会的であり、プラットホームが広い。もうモスクワは近い。天気も良いので、カメラを首にさげてプラットホームに出る。

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リャザニ駅

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リャザニ駅の広いプラットホーム

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広いプラットホームにたたずむ乗客

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プラットホームの一角で食べ物を売っていた

 記念にと思い、カメラのシャッターを押してくれるように頼むが、皆黙って逃げてしまう。6人目にしてやっと中年の紳士がシャッターを押してくれた。幸運にも車掌の姿がなかったので、プラットホームの様子も撮影した。

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プラットホームで撮影してもらった筆者

 リヤザニ駅を出発して北西に進む。線路沿いの畑に鍬やスコップで大地を耕す人がよく見られるようになった。自由経済ペレストロイカによって、住民の多くが自給自足を兼ねて耕作するようになったのだろう。

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リャザニ駅を出発した列車

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線路沿いの大地を耕している人々

 12時50分、アカマツやヒマラヤスギが生えている林を抜け、大きな鉄橋を渡るとコロムナだ。ここには古城があり、窓から身を乗り出して撮影した。文化財の保護がまだ十分されていないので、手入れもされず崩れかけてはいるが、立派な城塞だ。

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川沿いのコロムナ古城

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放置されているコロムナ古城

 アカマツやシラカバ、楊柳の林の中に建物が多くなり、通過する駅にも人が多くなってきた。3泊4日の間、楽しく過ごすことのできた同室のバシリは荷物を片付け始める。私も、いつでも降りられるように準備した。

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寝台車の通路に立つ親子

 カザフスタン号は、午後3時45分、無事にモスクワの東郊外にあるカザン駅に到着した。大きな駅でプラットホームが8本ある。いずれにも汽車が入っている。まさしく長距離列車の発着駅らしく、列車はホームに突っ込むようにして止まっている。

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列車はモスクワのカザン駅に入る

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モスクワ東郊外のカザン駅のプラットホーム

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モスクワのカザン駅に無事着いた筆者

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アルマ・アタからの到着時刻の表示

 ドーム型の構内は広く、駅の天井の高いのには驚かされた。薄暗い構内を大勢の人が行き交っている。久し振りの大都会の喧騒が懐かしい。

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天井の高いカザン駅の構内

 私はバシリと握手して別れ、1人で駅前に出る。車が多く、タクシーが並んでいる。

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カザン駅舎

「インツーリスト・ホテル」

 タクシーの運転手に告げて乗り込んだ。まだ長い旅の途中だが、困難な地域を何とか通過して、無事にモスクワまで来ることができた。

 

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉘ カザリンスク→ウラリスク

 5月8日、午前9時に車内放送が始まった。現地時間に合わせて放送が始まるので、昨日は8時だった。1日の北西に向かう走行距離約1000キロで1時間ずっと遅くなる。カザク共和国の時間は、中国とは1時間、ロシアとは3時間の時差がある。

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アクチュビンスク近く

 すでにウラル山脈の南端に入り、麦畑が広がっている。このあたりはカザク共和国の大穀倉地帯で、農業用の軽飛行機やヘリコプターなどが駐機し、機械化が進んだ大規模農業。窓を開けて撮影していると、車掌に注意された。

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アクチュビンスク駅の穀物を運ぶ大型ワゴン

 午前9時10分、ウラル山脈の南端の標高500メートルほどにあるアクチュビンスクに着く。約30分停車するので、多くの乗客がプラットホームに降りて朝食用の食材を買う。

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アクチュビンスク駅に留まっていた小石を運ぶ長い貨車

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アクチュビンスク駅の売店

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アクチュビンスク駅のプラットホーム

 プラットホームの売店を撮影した途端、女車掌ナジャクか大きな声で「ニエッ、ニエッ」と叫んで駄目だという。私の行動を監視しているのか、なかなか厳しい。プラットホームにも線路上の横断橋にも警官が数人ずついる。治安がよくないのだろうか。

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アクチュビンスク駅で買い込んだ食糧

 アクチュビンスクを過ぎて11時頃には空がどんより曇ってきた。まだあちこちに残雪があり、北緯50度を越え、樺太(サハリン)中央部に位置するので、空気がひんやりしている。樹木は芽吹いたばかりで、遅い春がやっと訪れかけた様子。

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線路沿いの村

 午後1時、雪でも降りそうな雲行きで、日本の3月中旬のような気配。大地には、やっと芽吹いた黄緑色の麦が伸び始めている。

 線路沿いに三重に植えてある防風林が数キロにわたって立ち枯れしている。ウラル山脈南部にはさまざまな実験場があるので、外国人はウラル地方を通る列車に乗せなかったとも言われている。この樹木の立ち枯れは、何か化学的反応によるのではないだろうか。

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線路沿いの枯れた防風林

 線路はカザク共和国から北に出て、しばらくロシア共和国内を走り、午後1時30分、ソリイレック駅に着く。ここから5,60キロ北には、ウラル山脈南部の大きな町オレンブルグがある。列車はソリイレック駅を出ると徐々に高地を下って、平地を西へ進む。

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ソリイレック駅のプラットホームでの売り子たち

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ソリイレック駅

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ソリイレック駅で食料を売る婦人たち

 午後2時15分、食堂車へ行く。がら空きで誰もいない。食べ物は味も悪くないし、今はまだ涼しいので腐る心配もないのに、利用者が少ない。私一人なので、女給のタマラのサービスが過剰気味で、アルマ・アタの住所や電話番号まで私のメモノートに書いてくれた。

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食堂車での食べ物 飯はカザク米

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女給のタマラさん

 午後3時過ぎには低地に下り、再びカザク共和国に入って明るい平原を走る。畑の麦はもう青く伸び、緑の平原が続く。

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緑の平原の放牧地

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ロシアからカザク国へ再入国した最初の駅カザクスタン

 午後4時半、無名の小さな駅で、赤いトレンチコートにハイヒールを履いた若い金髪の美女が乗り込んできた。彼女は通路に立ち、時々窓に寄り添ったり、壁によりかかったりして、窓外を眺めているだけ。

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無名の駅

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名駅から乗り込んできたトレンチコートの美女

 午後6時20分頃、小さな町ウルスクに着いた。彼女は、小さな手荷物を1つだけ持って降りて行った。窓外の平原には、赤・ピンク・黄・白色などの野生の小さなチューリップの花が咲きみだれていた。

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車内での筆者


 6時35分、ウラル川沿いの町ウラリスクに着く。カザク共和国最後の停車駅。カメラを持ってプラットホームに降りようとすると、降り口に立っていた車掌にカメラの携帯を禁じられたが、駅舎を密かに撮影した。

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ウラリスク駅のプラットホーム

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ウラリスク駅

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ウラリスク駅舎

 午後8時5分、カザク共和国側の国境の小さな町、シボア駅に着く。客が降りることも乗ることもなく直ぐに発車し、何のチェックもく出国した。そして、8時50分に、ロシア共和国側の町、アジンカ駅に着いた。モスクワ時間ではまだ午後6時前であった。

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ウラル河

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カザク共和国最後のシボア駅

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列車はカザク共和国を出てロシア共和国に入る

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車内の通路で休む筆者

ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉗ チムケント→カザリンスク

 チムケントを過ぎ、西北に進路を向け、平原を走り、アリスの町には午前9時40分に着いた。

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アリス近くの平原

 プラットホームでは、頭には白い布を巻いたカザク族の女たちが、肉饅、パン、チョコレート、落花生、ネギ、赤カブやキュウリの漬物などの食料品や雑貨を売っている。 通路の窓を開けて彼女たちを撮影すると、女たちがカメラを指差して大きな声を発した。すぐに女車掌ナジャクがやってきて、きつい目をして「ニエッ、ニエッ」とロシア語で強く注意された。私は撮るのを止めたが、フィルムを取り上げられることはなかったので、笑ってすませた。

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アリス駅の売り子

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アリス駅プラットホームでの売り子

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アリス駅のプラットホーム

 ちなみに、部屋の窓は開かない。そのうえガラスが二重になっており、すき間に目張りがしてあるので、内側が曇って外がよく見えない。通路の窓が開くのは二カ所だけで、他は鍵がかかっている。開けられる窓から外を見ていると、ナジャクがやってきて閉めてしまう。彼女はソ連時代のままのようで、独立国家共同体になっているのに、少しも変っていないようで、うるさく取り締まっている。

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アリス駅前の様子

 列車はアリスを過ぎると山のない大平原を北西に向かって進む。中央アジアは砂漠か荒野を想像していたが、線路沿いは麦畑と放牧地で、緑に覆われている。

 11時40分、トルクメスタンに着いた。プラットホームに降りて、500mlの瓶入り牛乳を8ルーブル(約8円)で買う。

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大平原での放牧

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トルクメスタン近郊

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トリクメスタンの町

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プラットホームのないトルクメスタン駅

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トルクメスタン駅の売店

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トルクメスタン駅の筆者

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トルクメスタン駅に停車していた機関車

 12時50分ごろ、ヨシの密生地を通過する。竹のない中央アジアでは、ヨシは大事な建築材、家具材で牧畜民たちはこれを編んだすのこを作り、敷物にしたり、移動式住居“包”の腰部を巻いたりする。

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ヨシが密生していた地域

 線路が大きくカーブしているところで、窓から顔を出して数えると、なんと23両も連結していた。中国では15両であったが、カザクスタン号は長すぎて、プラットホームからはみ出したり、プラットホームのない駅もある。

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23両も連結した長い列車

 午後1時12分、プラットホームのない小さな駅に止まった。乗客は飛び降りていたが、踏み台がないので、女や子どもは大股開いたり、お尻を押されて乗り込む。

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プラットホームのない無名の駅

 白いトタン屋根に白壁の小さな画一的な家が並んでいる小さな町はずれに、ドーム型のイスラム教徒の特徴的な墓があった。

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イスラム教徒の墓地

 この辺は、湿潤地によく生える植物、タマリスクが多い。アキニレやヨシ、それに野生のナツメなどが見られる。線路の西側にはアラル海に注ぐシルダリア川があるはずだが、見えない。

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シルダリア河近くの水たまり

 1時30分に食堂車へ行く。テーブルクロスをかけ、ライラックの花を飾った席に着くと、ビア樽のように太った30代のウェイトレスが、ニコニコしながら注文をとりに来た。彼女は、自ら“タマラ”と名乗った。

 定食はカザク料理で7種類あり、その1つにカザク米のご飯の上にハンバーグが乗っているのがあり、それを頼んだ。このところパンばかりだったので、ご飯は日本米のようで美味かった。ほかに幅の広い麺が入ったスープ、黒パン、ペプシコーラがついて50ルーブル(約50円)であった。

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寝台車の通路

 2時40分ごろから線路の周りは乾燥して砂漠化してきた。この南西方向にはキジクム砂漠がある。キジクムとは「赤い砂」を意味する。

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寝台車の弁所

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寝台車の赤と青い取っ手のある洗面所

 午後4時、クジルオルダに着く。プラットホームではジャガイモ、パン、ソーセージ、燻製の魚、ヨーグルト、アイスクリームなどが売られている。乗客の多くは降りないが、私は1日1万歩を目標に、車内でもプラットホームでも歩くことにしているので降りた。

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クジルオルダ駅

 どの駅にも列車に水を補給する高い貯水塔がある。その周囲にはポプラやニレの大木がある。まだ葉が茂っていないので、カラスやカササギの巣が鈴なりになっている。まるで大きな実がついているようだ。

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駅のそばにある貯水塔

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カササギの巣

 5時過ぎると、線路沿いの大地に白く塩分が噴き出ているのが目に付く。この辺は砂漠か荒野であるはずなのに、灌漑用水路が発達して麦畑が続く。穀倉地帯で小さな村にも大きな貯蔵庫があり、こぼれた穀物をついばむ鳩が多い。

 午後6時30分頃、テレメン・テペ近くで初めてシルダリア川が見え、しばらく川沿いに走る。水は濁ってゆったり流れている。

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テレメンテペ駅

 平原はもう見飽きているのだが、本当に真平な大地に、宇宙ロケット用か、軍用なのか、大きな円形レーダーが3、4個並んでいる。広いので、まるでおもちゃのセットのように見える。

 8時45分、小さな駅に止まる。牧畜民の村で牛や羊が多い。太陽はまた地平線上にある。

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平原の線路沿いにある牧畜民の村

 午後9時10分、カザリンスク駅に着き、しばらく停車した。この辺の川や沼、湖、それにアラル海でとれるのか、大きなフナのような魚の燻製を売る女たちが車内に入ってきた。羊毛や山羊の毛の臭いの強い手編みのセーターやチョッキなどを売る女たちもやって来て、車内はにぎやかにになった。

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カザリンスク

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カザリンスク駅

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カザリンスク駅舎

 カザリンスクを出発し、10時15分、進行左前方に白く光るアラル海の水面が見えた。近年、灌漑の用水路が発達して麦や綿の畑に給水するため、アラル海に流れ込む川の水が減り、アラル海の水位が下がって、大きな問題になっている。

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地平線上の夕日

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遠くに白く見えるアラル海

 地平線の赤い残照と、暗くなりかけた大地に白く開けるアラル海の輝きが、徐々に失われてゆき、大地は見る見るうちに暗くなった。

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沈む夕日を追いかける列車