ユーラシア大陸横断鉄道の旅㉚ モスクワ
カザン駅から乗ったタクシーは、モスクワの中心地であるクレムリン広場から北西に延びる、ゴーリキ通りのインツーリスト・ホテルまで行く約束だったが、今日は、1945年5月9日の「対独戦勝記念日」で休日。ゴーリキ通りは歩行者天国になっており、広い道に人出が多くて通れず、2つ手前の角でタクシーを降りて歩いた。
22階建てのインツーリスト・ホテルのフロントで手続きしたあと、明日のワルシャワ行きの切符について係員に尋ねたところ、予約してはいるが未購入とのことであった。
今日中に切符を手に入れるよう交渉するが、予約を入れても切符は買えないのだから仕方ないと、至極なげやりな態度。アルマ・アタでも大変困難であったが、オーバーなことを言って彼女を少々威すと、上司に電話した。しばらく待っていると、今日中に切符を手に入れる確認がとれたと笑顔で告げてくれた。
不安と緊張感がスーッと抜け、カメラを持って外に出た。10月革命広場には大きな野外ステージが組まれ、ロシア民謡やロック調の生演奏が、ボリュームをいっぱいにして大音響を上げ、大観衆がうごめいていた。
広場の周りには露店が並び、サンドウィッチ、ソーセージ、ポップコーン、ペプシコーラなどが売られており、人々が列をなしている。市場経済になったロシアの新しい顔が溢れている。広場の群衆は、気ままに歩き、自由な雰囲気を楽しんでいるようだ。
1971年5月に初めてモスクワを訪れて以来、これで6度目になるが、以前にはこんな雰囲気ではなかった。1991年8月にクーデターがあり、12月にはソビエト連邦が崩壊し、戦勝記念日が国家のためではなく、人民のためのものになった最初の年だ。そのことをかみしめながら、今日1日、思い思いに過ごしているのだろう。
8時過ぎ、ホテルに戻り、切符を取りに行くと、ワルシャワ行きの切符購入は大変困難であった旨を告げられ、明日の午後3時20分発の切符を渡してくれた。
翌5月10日は日曜日であった。朝は雲が多かったが、昼前から青空が広がり、町が明るくなり、人出が多くなった。
今回のユーラシア大陸横断鉄道の旅を計画中、ソビエト連邦が崩壊した。「ソ連邦崩壊で、ロシアには物がなく、冬を越せない人が多いのではないか。特にモスクワは物資不足でひどい状況である」という情報が流れ、多くの人が心配して、旅行を延期するよう忠告してくれた。しかも、中央アジアやモスクワとの連絡がうまくとれずに困ったが、私は世界中を旅行して旅には慣れていたので、現地まで行けばなんとかなると、予定通り決行し、何とかモスクワまでやって来た。
今のところ栄養失調や食料不足で死にかけているような人を見かけない。物不足はあるが、精神的自由を得て、人々はそれなりに努力・工夫しているようだ。その典型的な現象が、日曜日の自由市場。
自由広場はプーシキン広場近くの小さな通りにあり、警察官が立っているが見張りではない。幅8メートル、長さ300メートルほどの通りに人々が群がり、1万以上の人々の大半が品物を持っている。
シャツ・ズボン・コート・ジャンパー・靴下・カミソリ・歯ブラシ・タバコ・ボールペン・サンダル・靴・化粧品・チューイングガム・シャンペンなど、なんでのかんでもを各々が持ち寄り、売りたい物を売り、買いたい物を買っている。中には物々交換もある。まるで古代と現代が同居するような自由市場には、ソビエト連邦政府から裏切られた民衆の知恵と意気込みがあり、自力で生きようとする逞しさが溢れ、むなしさよりも明るさがみなぎっている。
物を売る声、客を呼ぶ声、値段を交渉する声、談笑する声、雑多な言葉が飛び交う。佇む人たちの顔もさまざまだ。ロシア系、スラブ系、アラブ系、モンゴル系、アフリカ系。髪の色も黒・赤・栗毛・金・銀・褐色と、なんとまあ多彩なことか。これがモスクワの素顔なのだろう。
ソ連邦が崩壊してソビエト政府からロシア政府になっても多種多様なモスクワ市民は、大地とともに生き抜く知恵と力を身につけている。彼らは単一民族、単一文化に近い日本国の人々よりもはるかにたくましく、生命力が強く、個性的だ。これだけ雑多な社会にもまれて生き抜いてきた人たちは、どんな社会状況でも生きられる資質を十分身につけているようだ。
この自由市場に肉がないわけではないが、殆ど見かけなかった。昼食に街頭で食べたソーセージは、大変美味かった。市民は1食30ルーブルあればなんとか食べられるが、平均月給1,500ルーブルではとても足りない。だから、彼らは自由市場で小銭を稼いでいる。本業よりも多くの収入を得ている人もいると言う。どのようなからくりがあるのか知らないが、1日に500から1,000ルーブルも稼ぐ人がいるそうで、自由市場は活気があって、見ている分には楽しかった。