新制中国の望郷編⑰ 福建省 南山畲族の稲作文化
浙江省南部の景寧畲族の村は訪ねたが、最も畲族の多い福建省北部の寧徳地方をまだ訪れていなかった。
1995年10月9日の夕方、北京から福州へ飛んだ。翌日の朝、通訳兼案内人の陳凡氏(25歳)と、劉建輝氏(38歳)運転の車で、139キロ北の寧徳へ向かった。


人口37万人の寧徳は、畲族の人々が多い大変古くからの港町で、唐時代には福寧府と呼ばれていた。私たちは、海岸近くの閩東大酒店に泊まった。北京を出る前に、古い友人の国家旅游局次長何光偉氏に福建省に行く旨を伝え、協力をお願いしておいた。省旅游局から寧徳旅游局に連絡があったそうで、午後6時前に、雷愛花女史(33歳)が訪れた。そして、彼女が全責任を持って、明日から南山地方を案内すると告げてくれた。

翌10月11日、雷さんが9時にホテルへ来て、すぐに出発した。途中、南山地方管理事務所に立ち寄って、外国人の私が、村に滞在(宿泊)できる許可を取った。

午後1時に南山村に着いた。南山村はこの辺7カ村の中心的村で、26軒、120人が住んでいる。山奥のシャ族は、まだ漢民族との混血はあまりなく、比較的純粋な越系民族の末裔である。

南山地区共産党委員会書記の雷細木氏(49歳)の指示で、近辺の村人が呼び集められ、歓迎用に歌や踊りを披露してくれた。




世界中どこに行っても歌がある。楽器は感情を表現し、歌詞は心を表現する。彼らの歌の中には「田植え歌」もあった。

“4月22日には田植えする人がいっぱいいて、左手に苗を持ち、右手で田圃に苗を植えます。5月9日になると、すべての田に苗が植えられて、緑がいっぱいになります”

彼らの暦は旧暦(農暦)で、田植えの時と方法を歌にして伝えている。村人たちが、年間の稲作労働の作業中によく歌うのは”造田歌”である。


南山村には平地は少ないが、山のゆるやかな斜面に棚田が広がっている。旧暦4月に植えて8月に収穫するので、すでに刈り入れは終わっている。

村の全ての家の収穫・脱穀を終えた後、7ヶ村の村長が集まって、年に一度の“ギー”と呼ばれる祭りの日を決める。その日は、まず自分の家で新米を炊いて神座に供え、家族全員が一緒に御馳走を食べる。その後、村人たちが集まって歌ったり、踊ったりして楽しむ。これは、日本の皇室にもある、天皇が神と共に新米を食べる“新嘗祭”に共通する祭りである。

餅つきは、旧暦11月1日に一度だけ行う。3月3日は“サンゲサン”と呼ばれ、木の葉に包んだ飯を皆で一緒に食べ、5月5日には“モチョン”と呼ばれる粽をつくって食べる習慣がある。

南山村では雷細木さんの家で世話になった。彼の家は木造の2階建てで、1階を増改築していたが、その部屋を1つ与えてくれた。彼の家族は、妻と78歳の父親、子ども2人、娘の夫と孫が1人の合計7人。

彼の家で昼食も夕食も、大勢の村人たちと一緒に食べた。畲族の料理は日本人の口に合う味で、漢民族料理のように脂っこくはない。

夜遅くまで村人が集まり、焼酎を飲み、たばこを吸って、楽しげによく話す。通訳が1人なので、情報は私の好みによって制限されるが、村人たちは私に何かを伝えたいのだろうが、全部は聞けない。




彼らは日本を知っていた。繁栄国日本のイメージが強く、私に大変な興味と関心を持ち、日本人を見たくて、話がしたくて、次から次にやって来る。彼らは私を見て笑い、驚き、「なんだ、同じ顔をしているではないか」といわんばかりに近づいて手を握ったり、話しかけたりしてくる。



私からすると、彼らは皆、日本人と同じような、稲作農耕民の顔。40数年前の故郷の人のような人々ばかりで、なんとなく懐かしく、親しみがある。そのせいか、私もつい笑って親しく手を握ってしまう。時間が少ないので気は焦るが、酔いも回って調査や取材などできないまま、時が過ぎた。

新制中国の望郷編⑱ 武夷の崖墓と祖霊信仰の起こり
江南地方には、古くから懸崖(人が登ることのできない絶壁)の高い所に棺が安置されていることはよく知られていた。懸崖の棺は、一般的に懸棺と呼ばれ、その場所は崖墓と呼ばれいた。




崖墓の最も古いものは、福建省武夷山市の大王峰にある崖墓。最初に武夷山市の崖墓を見たのは、1995年1月。それ以来、崖墓と祖霊信仰と稲作文化のかかわりについて考えるようになった。そして、1997年10月29日、再び武夷山市を訪れた。





大王峰の上から見た手前道教の建物の道灌と武夷宮の中にある博物館
私は、10月23日から28日まで、江西省の南昌で開催されていた「第2回農業考古国際学術討論会」に出席し、多くの専門家たちから情報を得た。


討論会が終わった後、南昌から車で武夷山市に入った。ホテルは国家旅游局直営の玉女大酒店。通訳は、寧徳地方の畲族を訪れた旅に同行し、すでに2回も私を案内している福建省青年旅行社の陳凡さん。

翌30日、朝一番の飛行機で、この辺の崖墓の専門家である林忠于教授が、私を案内するために福州からやってきた。彼とは旧知の仲で、すぐに武夷宮にある博物館を訪れた。館長の鄭さんは林さんの友人で、私たちは陳列品を見ながら、崖墓について話し合った。

林忠干教授と筆者
武夷地方でいちばん古い崖墓は、武夷博物館の後ろにそびえ立つ岩山「大王峰」にあったもので、炭素14で木棺を調べた結果、3000年以上古いとされている。武夷山市に崖墓は多いが、いちばんよく見えるのは、九曲下りで有名な九曲渓を竹の筏で下り、四曲にある大蔵峰の崖墓である。筏から下りて、懸崖の対岸の山に登り、望遠鏡で見れば、穴の中までよく見える。




崖墓のなかにある棺の残骸

私たちは昼まで話し合い、館長も交えて昼食を共にした。


午後2時から、武夷宮から15キロ離れた大廟村にある、巨大な岩壁になっている蓮花峰の白岩崖墓を訪ねた。


私達は、高いところにある崖墓を見上げながら、何故こんな高いところに棺を引き上げたのかについて話し合った。


武夷地方にある葫芦山頂上に、四角形の祭壇の遺跡が発見されている。これは3000年ほど前の西周時代に、天を祭る儀式用に使われたものとされている。

当時の人々は、神は天にいるものと思い、天に近い高い山を恐れた。すべての現象は神のなせる業と思い、自然災害を防ぐ方法として、60歳以上長生きした生命力の強かった先祖の霊を天に遣わし、神との連絡役をしてもらおうと考え、他人に暴かれない、より高い安全な所に長命であった親の棺を安置することに、最善の努力を尽くした。



人々は、先祖の霊が天に行き、神との連絡役をしてくれれば、子孫に災害が及ばなくなり、平和に安心して暮らせると思ったようだ。しかも、先祖霊が天の神に会えなかったとすれば、それは子孫の努力不足であったと思わざるを得なかったのである。


人々は、神に祈るとき、高い祭壇を設けたり、高い山に登ってより近いところに参上した。当時の人々の天神崇拝の工夫と努力が、懸崖に棺を引き上げる行為を神聖化したとされている。
当時の稲作農耕民たちは、自然災害は天の神によるものと考え、天により近い高い山を神聖化し、雨乞いなどの神への連絡役ができるのは、生命力の強かった祖霊であると考えることによって、天(神)、山(自然)、祖霊(人)が一体化することを願った。それこそ、天・地・人の道理を確立する基本理念だ。その理念を応用した社会生活の知恵が「天の時、地の理、人の和」なのだろう。

祖霊とは、家族または血縁集団の祖先の霊魂のことだが、生者との相互依存関係によって、祖先崇拝が強く現れる社会状態を「祖霊信仰」と呼んでいる。

自然の営みの中で生きる稲作農耕民たちは、自然の偉大さ、怖さ、豊かさを全身に受けとめ、自然と先祖霊をほぼ同じものとして考え始めた。だからこそ毎年新しい米を収穫すると、まず祖霊に供えて新嘗の儀式をし、感謝の祭りをする。




こうした考えから、先祖崇拝という「祖霊信仰」の精神世界が発展したのだろう、と林教授と話し合った。


2022年4月5日追記
新制中国の望郷編⑯ 舟山群島 舟山の古代稲作遺跡
私は、1993年1月3日の午後3時、普陀山から舟山の定海に渡った。宿泊先の華僑飯店では、以前にも会っている博物館長の陳金氏(57歳)、民話研究者の方長生氏(64歳)、それに舟山市文連秘書長の応光照氏(52歳)の3人が待っていた。



通訳は、私と共に旅をしている姜娜女史と石建新氏(35歳)の2人。地方弁の通訳石氏は、私の知人で聖徳太子の研究家であり、日本古代の文献学に詳しい、杭州大学の王勇教授の教え子だった。


中国では、1964~65年にかけて全土で歴史調査がなされた。その時、舟山では三方を緩い丘のような山に囲まれた水田地帯で、“白線十字路稲作文化遺跡”と名付けられた文化遺跡が発見された。

そこでは、たくさんの陶器片や石斧、石鍬などが発掘されたが、あまり重要視されず、排水溝以外の所は埋め戻され、もとの水田と化していた。その後、ここで発掘された陶片から炭化籾が発見され、炭素14で調べると、約5000年前の籾と判定された。

舟山では5000年前に稲が栽培されていたことが判明し、浙江省の多くの学者や研究者が注目するようになった。そして、次々に稲作文化遺跡が発見された。


白泉鎮のやや西の海岸の馬香にある“唐家墩文化遺跡”が4000年前、石礁の“河𫋠墩文化遺跡”も4000年前、白泉鎮の少し南にある“苦竹嶺文化遺跡”が3000年前。そして、北隣の岱山でも3~4千年前の遺跡が発見されていた。

日本列島に近い東シナ海の舟山群島では4~5000年前には水稲が栽培されていたことが判明した。舟山群島から九州西岸へは帆船では一昼夜で到達することが、戦時中日本人によって証明されている。



私は、応氏の案内で現場の水田地帯を歩いた。そして、排水溝の断面に遺跡の地層が露出しているのを発見した。小さな金具で10個以上の陶片を掘り取った。その一つの陶片に穴があり、米粒のようなものが中に入っていた。
「まちがいなく壺に米が付着していたものでしょう」



応氏はあっさりと言い放って、日本でなら大ニュースになる出土品をごくあっさり見捨ててしまったので、何ともったいないことかと文句を言った。
「馬香の唐家墩遺跡はもっとたくさんの陶片があります」

応氏は笑いながら言った。その彼が、白線鎮で昼食した後、馬香に案内してくれた。
海岸との間に長く土手を築いている。その近辺に多くの具や土器片が散在している。レンガ焼用の粘土をとるために表土を取り除いている所には、無数と表現してもよいほどの黒褐色や褐色、灰褐色などの陶器のかけらが散在している。これらは歴史的に価値のあるものだが、まるで石ころと同じだ。



掘られた断面に4000年前の土器片が見える
「中国には4~5千年前の遺跡がいっぱいありますが、保存する費用がないのです」
彼は冷ややかに言った。



応氏や方氏は、たくさんの土器片を拾い集めた。私も大きくてよいものを10個ほど拾った。5000年も4000年も前の稲作文化遺跡が、こんな風に野ざらしになっていることは、歴史的、学問的にも良いことではない。



日本では各地にいろいろな遺跡が発掘され稲作の歴史がどんどん古くなっている。はっきりしたことは言えないが、舟山群島から人々が稲(籾)を携えて日本列島へ渡った歴史が、5000年前までは不思議ではなくなった。そんな思いに駆られながらホテルに戻った。


2022年4月2日追記
新制中国の望郷編⑮ 舟山群島 観音菩薩の普陀山
徐福の島岱山から普陀山を訪れた。元旦を観音菩薩の霊場、普陀山で迎えたかったので、12月31日の夕方着いた。ホテルは1991年春に完成した普陀山で一番良い”普陀山息来小荘“。3年前の5月にも来訪しているので、今回は2度目。



普陀山は、日本の留学僧慧鍔によって、紀元916年に開山された観音菩薩信仰の本山である。



平安時代の留学僧慧鍔は、山西省の五台山から観音像を招来して、紀元916年に浙江省東端の寧波から船で帰国の途についた。しかし、普陀山の沖合で嵐に遭遇し、漂流している間、慧鍔は菩薩像に向かって一心に祈った。

「もしも我が国の民衆が菩薩像に拝顔する縁がないとすれば、観音様が指示された所に寺を建てさせていただきます」

慧鍔は観音様に約束した。そして、舟は難破することなく普陀山の潮音洞の下に漂着した。そこには張という人が住んでいた。張は、慧鍔が抱いて嵐の海から上がってきた観音像を見て、大変不思議な感慨に打たれ、自分の家に慧鍔を招き入れ、観音像を安置させた。



その後、人々はその家を「不肯去観音院」と呼ぶようになり、観音菩薩信仰の霊場となった。



観音は観世音菩薩の略で、衆生の救いを求める声を聞くと直ちに救済することを意味している。別名救世菩薩とも呼ばれ、大変柔和な表情をしているので女性的である。
“観音様は女性”。救いを求める人にとってはそう思える相である。一説によると、慧鍔は、当時の皇后に女性の仏像を持ち帰るように依頼されていたとも言われている。

1993年1月1日、私は朝4時に起き、百歩浜の師石に座って、東海から昇る赤い初日を迎えた。海の水平線から静かに上るやわらかな表情の太陽は、温もりと希望と安らぎが満ちていた。






普陀山は、観音菩薩の住処といわれる南インドの甫陀落山の名をとって、補陀山と呼ばれるようになったが、時の流れと共に“普陀山”の地名になったとされている。



日本には仏教伝来とともに入り、極めて多くの観音像が作られ、やがて渡海思想が生まれた。平安末期に熊野信仰と結びついた補陀落渡海は、観音浄土に往生しようとする熱烈な信仰者が、熊野灘や足摺岬のようなところで、海に身を投じたものである。信者の中には、普陀山に来て死ぬ者さえいた。そのため「命を捨てる者は観音菩薩を冒瀆する」とした、自殺禁止の大きな碑が建てられている。


1月2日、午前の早いうちに標高280メートルの佛頂山に登った。頂上から東方の彼方に東福山らしい島を見た。訪問許可をお願いしたが、東福山だけは軍の基地があって外国人の立ち入りが禁止になっていた。





普陀山の住人は5000人だが、年間100万人もの訪問者がある。中国各地からの信者の他に、台湾、香港、フィリピン、シンガポール、インドネシアそして日本やタイからの信者も多い。そんなこともあって、舟山群島の中で普陀山だけは、早くから外国人の立ち入りが許可されていた。

2022年4月1日追記
新制中国の望郷編⑭ 舟山群島 徐福の岱山
上海―舟山の定期便は、途中泗礁山と衛山に寄港するが、岱山には寄らない。私は、1992年12月30日、泗礁から舟山の定海まで約130キロの船旅をした。低気圧が通過した後で、快晴で風もなく、海は静かだった。

唐時代の遣唐使船は、この舟山群島を南下して寧波に向かっている。昔の人は、九州南端からの航海で、海の色が青から黄土色に変わると、舟山群島に着いたことを知ってホッとしたと言う。

午後1時に定海に着いた。迎えに来た車で北の西碼に向かい、すぐに岱山の高寧鎮行のフェリーに車ごと乗り込んだ。約40分で着いた埠頭で案内人の胡徳氏(43歳)が迎えてくれた。


岱山本島の人口は約12万で、中心地の高寧鎮の町には5万人が住んでいるそうだ。私たちは街の中心地にある“岱山飯店”に着き、遅い昼食を取った。その後、島の案内人が3人もやって来た。



岱山地方史の専門家で、60歳の林通璵氏が、“岱山”の由来について説明してくれた。
「徐福は、秦の始皇帝の「仙薬」探捜の命を受けて、3000人の童男童女と共に船で山東省を出発して南へ向かって航海した。49日目に嵐に遭遇し、近くに山が見えたので上陸した。標高257メートルの磨星山に登ってみると、周囲に雲が湧き上がり、一面にたなびいて、まさしく仙人が住んでいる蓬莱仙島に違いないと思った。しかし、仙人は住んでいなかったが、磨星山が非常に高くそびえて見えた。




「まるで泰山のような山だ」
徐福は山東省の泰山を想い重ねて言った。その後、磨星山は泰山と呼ばれていたので、この辺の人々はこの島を“泰山”と呼んでいた。しかし、山東省の泰山に遠慮して次第に“岱山”の字を当てて呼ぶようになり、いつしか岱山という地名になった。
林氏は自信ありげに説明してくれた。

「徐福が来たのは春だったのでしょう。春には海から水蒸気が昇り、雲が沸き上がって磨星山にかかり、まさしく仙人が住んでいるようなところに思えます。しかし、仙人はいなかったので、彼は、この島に1000人の童男童女と食料のなつめを残して、さらに東に向かい、東福山に着いたのです。その後は記録がないが、多分東の日本に渡ったと思われています。岱山は徐福の島で、彼が命名したと言われているのです」
林氏は得意げな表情で言った。



私たちは、林氏たちの案内で磨星山中腹にある岱山十景の一つの慈恵庵を訪れた。徐福がこの地に立って東を見たという所から東の衛山を見る。そして、高寧鎮の町を見下ろした。高寧の前の岱山水道は、水深が10~12mあり、昔から船の航路になっていって、徐福の一行もしばらく停泊していたと言う。



舟山地方の人々は、東福山以後のことは知らないが、『史記』准南衛山列伝にはこう記されている。『始皇帝は童男童女3000人を遣り、五穀の種子と百工を携えて行かせたが、徐福は平原広沢を得て、王となって帰らなかった』



徐福は2度と戻っては来なかったと言うが、東へ東へと進むと、日本列島南端の屋久島にある標高1935メートルの宮之浦岳が見えるはずだ。

2022年3月31日追記
新制中国の望郷編⑬ 舟山群島 日本に一番近い花鳥山
東シナ海に散在する舟山群島は、1300もの島々からなっているが、人の住んでいる島は100にも満たない。全人口百数十万人といわれる舟山群島は、日本に最も近い中国であり、戦前には日本人も住んでいた地域でもある。


古来、中国では、あまり大きくない島は、海から突出した山という意味で、“島”の代わりに山がつく。例えば舟山群島の島々の名称が泗礁山、花鳥山、岱山、舟山、普陀山、東福山などである。


舟山群島の中でも九州に一番近い人の住んでいる島は花鳥山。どんな所なのかは情報、資料とも手に入らないので分からない。とにかく、北京政府から舟山群島の入域許可が取れたので、行くだけでよいから行って見ることにした。


私は1992年12月26日、上海から舟山群島の泗礁山に渡った。そして、12月28日早朝、泗礁山にある青沙村を訪ねた。この漁村には10トンから20トンくらいの木造船がたくさん集まっていた。しかし、低気圧のため海が少々荒れていることもあって、漁民がなかなか船を出してくれない。北京からやってきた通訳兼案内人,の姜娜女史が頑張ってくれ、9時頃になってやっと20トンほどのエンジンつき木造船の船長が同意してくれた。




港を出ると、2~3メートルの波で、船は前後左右に激しく揺れた。わずか30キロの距離なので普通なら1時間余で着くのだが、なんと2時間10分もかかって花鳥山の南突端にやっと着いた。

無線で連絡してあったので、島の兪優忠氏(41歳)が車で迎えに来てくれた。村は島の北東にある、やや低くなった尾根に広がっていた。

面積3、2平方キロメートルの島には平地はなく、山ばかりで砂浜もない。島には825戸の家があり2880人が住んでいる。このうち漁民は751戸で2737人。





島の北西の港には近代的な設備をもった水産加工冷凍工場があった。道は尾根に1本あるだけで、工場へは階段を歩いて下る。



島近辺では3~5月にはマナガツオ、5~7月にはイカ、8から10月にはカニが沢山水揚げされる。そのほとんどがこの工場で冷凍され、一昼夜のうちに船で長崎に運ばれる。だから、新制中国の僻地であるにもかかわらず、この島の労働者1人当たりの年収は1万元(約22万円)で、国内で一番高い。何より、ここで採れた魚介類の多くが長崎に運ばれ、日本人の胃袋の中に入っている。




この冷凍工場は日本の会社の援助で造られたとのことで、私たちは大歓迎され、工場での昼食では魚、カニ、エビ、貝などの海鮮料理中心に山のように盛られた皿が何皿も出された。

日本に一番近い島の人々は、長崎から多くの物資を得て、比較的豊かな文明的生活をしている。この島は、日本の経済圏の中にすっぽり入っている。

島の人々が話す「長崎」は直線距離にして680キロ。しかし、島民たちによると目と鼻の先なのだ。彼らにとっては200キロ先の上海よりも近く、しかも大事な町である。長崎の人々は花鳥山を知らなくても、この島の人々は子供から大人までが長崎の地名を良く知っている。




町中を見て回った後、島の南西端にある古い灯台を見て、午後4時前に村を出て泗礁山に戻った

2022年3月30日追記
新制中国の望郷編⑫ 浙江省 シャ族Ⅱ
翌5月3日の昼前、后降村村長雷さんの家の前の田圃に作られた苗床に、竹かごに入れた種籾を蒔いている人がいた。すぐ近くに田植えをしている人々もいた。4、5人が並んで植えているのに、苗はほぼ直線になって、前後左右一定間隔になっている。半世紀前には日本でもよく見かけた風景である。








農具である鍬は、日本のものとほぼ同じ。扁平なさらえ鍬は田の畦づくり用。厚い板状の唐鍬は固い土の掘り起こし用。熊手鍬(三つ鍬)は水田耕作用。熊手鍬の爪は普通3本だが、ここは4本ある。日本では、4本爪の鍬は、弥生前期のもので、大変古い型とされている。


牛に農具を引かせて、田面をならす農夫

村には棕櫚(シュロ)の木があり、竹林や雑木林があって、ヨモギやオオバコ、茅などが生えており、棚田と瓦屋根の家が織りなす風景は、日本の田舎のようである。




この辺では稲と菜種や豆類との二毛作で、今、菜種や豆の収穫を終えようとしている。水稲はたいてい4、5月に田植えをし、7、8月に収穫する。



“畲”は、田の上に建てられている家を意味する漢字で、“苗”と同じく、漢民族から見た水田稲作農耕民の一方的な名称。村人たちは、自分たちが何故に畲族なのか、その理由を知らなかった。しかし、今の自称は”畲哈(シャハ)”だそうだ。




畲族は、1982年の統計によると、総人口68万人とされている。畲族の分布は、浙江、福建、江西、安徽などの江南地方の広範囲にわたっている。江南地方の越系民族との混血漢民族が多くなった中で、今も頑なに越系稲作文化を保ち続けているのは、山間の僻地に住む畲族だけであるという。


私は、畲族の村を訪ねて以来気にしていた「先祖は犬」の伝説を確かめた。
「畲族は、昔から侵入してきた漢民族とよく戦った。そのため、漢人たちが『畲族は野蛮人で戦争好きな民族なので先祖は犬に違いない』という蔑視から、漢族が勝手に『畲族の先祖は犬』という伝説を作り上げたのです」
通訳兼案内人の雷振余氏が、畲族を代表して説明してくれた。

畲族独自の伝説や口承文化による「先祖は龍」だというのは、日本と同じような大蛇信仰のある、越系稲作農耕文化の流れをくむ人々であることは間違いないだろう。
私は2泊3日の滞在中に近在の暮坪湖村と大張杭村の畲族をも訪ねた


2022年3月29日追記
新制中国の望郷編⑪ 浙江省 シャ族Ⅰ
私は、古くからの知人である、江西省社会科学院の陳文華研究員に紹介された、浙江省博物館の汪済英副館長に会い、稲作文化の発祥の地についていろいろ話し合った。

「浙江省の山の中に“先祖は犬”という民族がいます。彼らは昔からの稲作農耕民で、今でも山間部で水稲栽培をしている人々がいる。彼らは“畲(シャ)族”と呼ばれているのだが、稲作文化を研究しているのなら、ぜひ彼らの村を訪ねなさい」


私が畲族という、古来の土着民族について聞いたのは、これが二度目であった。彼に、畲族の居住地を聞いたのが、土着の越系民族である畲族の村々を訪ねるきっかけになった。

1991年4月30日、私は東京から上海経由で浙江省の温州に飛んだ。浙江省南部は山が多く、平地は少ない。飛行場には温州旅行社の尤良泛氏(29歳)が迎えに来ていたので、彼の案内ですぐにホテルに向かった。

翌日5月1日、車をチャーターして、尤さんの案内で温州から景寧に向かった。約240キロの山間の道を走り、午後6時に景寧の町に着き、人民政府招待所に泊まることにした。

夕食に出た料理で大変珍しいものがあった。中国語で“赤子魚”と書く“ワーワーユ”のスープ。現物を見せてもらうと、日本では天然記念物の大山椒魚であった。
翌5月2日は晴れていた。景寧県の人口は17万人。この頃は漢民族との混血が多くなっているが、まだ山間部には純粋な畲族が多いので、数少ない畲族自治県である。



雷茂龍さん 藍明花さん夫婦
午前10時から、私たちは5キロ離れた畲族の后降村を訪れた。景寧畲族自治県人民政府から民族事務員会主任の雷振余氏(43歳)が、現地語と漢語の通訳兼案内人として同行した。




村では村長の雷茂龍氏(43歳)の家に泊めてもうらことになった。雷氏は奥さんの藍明花さん(38歳)との2人暮らし。一人息子の雷栄宋君(18歳)は町に出て家にはいなかった。





谷間の棚田の中にある后降村は、60家族298人が住んでいる。村に入ってまず最初に困ったことは、地図の村名の呼称が違うこと。それに名前が畲族語読みと漢語読みの違い。あらゆるものに呼び名が2通りあるので、どっちにするか迷ったが、畲族語読みにすることを、通訳の尤さんに伝えた。


后降村の畲族語読みは“ロイメオルン”であるが、漢語読みは“レイモーリュウ”。この漢語というのは、共通語の北京漢語ではなく、温州漢語なのである。“畲”の発音は一般的漢語では、“シャー”なのだが、現地語では“シェ”と短く発音する。“シャ”とも聞こえるので、ここでは“シャ”とする。


2022年3月28日追記。
新制中国の望郷編➉ 越王公践の“臥薪嘗胆”
1993年1月7日午前10時には雨が止んだ。2500年もの歴史がある紹興の街には、心が弾むような木々の茂る府山があり、その南麓には越王台と越王殿がある。越王勾践(在位紀元前496~465)が、閲兵したといわれる、越王台に立って南を見る。大地は平坦で、家々が明るい緑の樹の間に見える。ここ紹興は“会稽”と呼ばれ、古代越国の首都であった。





”呉越同舟“で知られた春秋時代の呉と越の国は、江南地方にあり、今日の杭州湾から銭塘江を境に向かい会っており、同族であるがゆえに絶えず戦っていた。北の呉の首府は現在の江蘇省蘇州に、南の越の首府会稽は浙江省紹興にあった。越王勾践は、紀元前494年に呉王夫差とこの地で戦って負けた。

戦いに負けた勾践の2人の大臣、文種と范蠡は、呉王夫差にたくさんの土産と越国一の美女西施を差し上げ、勾践の命乞いをした。夫差は、勾践に3年間の馬飼いの使役を命じた後、追放した。



勾践は会稽に戻り、文種や范蠡とともに働き、「会稽の恥」を忘れるなとばかりに、薪の中に臥して我が身を苦しめ、苦い肝を嘗めては屈辱を思い出す。まさに”臥薪嘗肝”の歳月を20年間過ごし、徐々に国力を高めた。


そして、勾践は再び夫差に戦いを挑み、紀元前473年に夫差を大敗させ、呉を滅亡させた。



越は、その後江南地方全土を支配する大国となっていたが、紀元前334年には西の大国楚によって滅ぼされた。そして、越国の多くの民は南へ逃げ、後に”百越”と呼ばれるほど多くの国々を興す。中には東の舟山群島に逃げた人々もいただろう。


こうした戦いの同じころの出来事として、日本への稲作文化の渡来がある。渡来の中心時代は紀元前400年前後とされているので、呉の国が滅びてから越の国が滅びる約150年の間に適応する時期である。大陸の古代の戦いには、多くの人や物を玉突き状に動かしたり、長距離の危険な移住や移動を促したりした。

越は銭塘江から東にあった国で、この紹興を中心とする余姚、寧波など、日本に最も近い中国大陸の江南地方の国であった。当時でも江南地方から東シナ海の舟山群島を経て、日本列島への集団移住は可能であったと思われる。
尚、紹興には、中国大陸における古代の治水の英雄”大寓"の陵もある。



2022年3月25日追記
新制中国の望郷編⑨ 浙江省 紹興酒のふるさと
私は、1993年1月6日、浙江省東端の寧波を夕方の5時35分の汽車に乗って去り、紹興駅には8時に着いた。プラットホームで案内人の唐毅氏(27歳)が迎えてくれ、すぐに紹興飯店に案内された。小柄な彼は、杭州大学で日本語を学んだそうで、なかなか上手に話す、よく気の利く男であった。

翌日は朝から小雨が降り、霞んで視界が悪かった。紹興酒で知られた紹興には醸造工場が多い。午前8時から紹興酒醸造工場を見学した。日本の造り酒屋の工場とあまり大差ないが、酒を入れる樽やガラス瓶はなく、陶磁器の瓶がたくさんあるのが違っている。




紹興酒の起こりは、昔、この辺の家では娘が生まれると、酒を造って陶磁器の瓶に入れて密封し、家の床下に埋めて置き、結婚する時に掘り出して祝い酒としたことによるとされている。



瓶の中の酒は、10数年前もの間に陶磁器の色が染み出て飴色に染まる。だから、日本酒と同じ醸造酒だが、老酒でまろやかになり、しかも飴色になっているので一種独特な味と香りのある酒になっている。

中国の酒は大きく分けると、白酒と黄酒であるが、紹興酒は黄酒に属する。糯米・酒葯、麦麴を原料とするが、アルコール含有量は日本酒とほぼ同じ16度前後。


老酒で最も有名な紹興酒は、2000年以上も古くから、米の生産地である紹興近辺でつくられる醸造酒。酒は稲作農耕社会につきものの生活文化。


今や紹興酒の名は東アジア全域に知られ、特に日本や台湾では有名。そのせいか、輸出用の生産に追われ、工場は多忙とのこと。それに、展示室以外は秘密保持のため撮影禁止であった。醸造そのものには大した特徴はないのだが、秘密保持が多く、もったいぶっているようで、取材協力もなかったし、早めに切り上げた。


2022年3月24日追記
新制中国の望郷編⑧ 浙江省 稲作文化の河姆遺跡跡
浙江省の東端にある寧波の町から60キロ西の河谷平原に、今から7000年前の稲作文化を伝える河姆遺跡跡がある。

河姆渡は余姚市内にあり、市の文物管理委員会の同行がないと現場に行くことができないので、まず80キロ西の余姚市を車で訪ねた。

余姚市は、日本でも江戸時代からよく知られている“陽明学”発祥の地であり、王陽明(1472-1528)の生誕地である。町の中央の岩山には、彼が創立したといわれる学校が、今でも記念館として残っている。

私は、文物管理委員会の叶樹望氏の同行を得て、約20キロ東へ引き返した。
余姚市と寧波市との間の河合平原の南側の姚江に架かる橋を渡って、水田の中を約9キロ走った姚江沿いに河姆遺跡はあった。


姚江と呼ばれる川の南には小高い網山がある。この山には、昔網を干す場所があったそうなので、漁村か半農半漁村があったのだろう。


とすると、河谷平原の大半が数千年前までは東シナ海に続く海であったのだろう。今では、北の海岸までは5・60キロも離れているが、古代にはこの辺が海岸近くであったはずだ。

河姆渡遺跡の現場は埋め戻され、姚江と用水路の間に1989年12月28日に博物館がオープンしていた。私が最初に訪れたのは90年2月5日で、日本人では2人目であった。

遺跡の総面積は4万平方メートルにも及び、7000年前から4000年前にかけての遺物が4層をなしており、深さが4~5メートルもあったそうだ。


説明によると、高床式の木製米倉が倒れて埋土したと思われる多量の炭化物は、ジャポニカの籾が4割、インディカの籾が6割で、当時は両方の稲が栽培されていたのだろう。私は、博物館に展示されている現物や複製品を撮影させてもらった。その中で、島の頭をデザインした器具が、何に使われていたのか分からず、叶氏に尋ねた。



「これは祭事用か儀式用に使われたもので、当時の人々は精霊信仰であったと思われる」

彼はこんな説明をしてくれたが、7000年前の稲作農耕民は、すでにかなり高度な文化を発展させていたようだ。それにしても、半世紀前の日本で使われていた日常的な器具の大半がすでに原型が出来上がっている。



鍬、鋤、漁具、紡具、矢尻、斧、土器、炊具、蒸し器、模様、笛、その他建築技術や家畜など、無数の出土品が当時の人々の生活を伝えている。




私たち人類は、もしかするとこの数千年来生活技術はたいして変化しておらず、生活文化はかえって衰退しているのではあるまいか。ただ科学技術によって、生活形態が少し変化し、楽に暮らせるようになっているだけなのかもしれない。


2022年3月23日追記
新制中国の望郷編⑦ 安徽省 銅陵
中国大陸の安微省銅陵市は、揚子江(長江)中下流域にある人口60万の工業都市。しかし、1950年頃までは、市の大半が葦原で、揚子江が増水するたびに冠水していた。

周囲の山々には金・銀・銅・鉄・硫黄などの鉱物資源が豊かなため、新制中国になって付近一帯は干拓工事がなされ、工業地帯になっている。




この近辺で古い青銅器が多く発掘されたことによって、「銅陵」つまり“銅の陵(みささぎ)”という意味で命名されたとのこと。今のところ中国大陸で最も古い銅鉱採掘の坑道遺跡があることで知られている。


私は、1992年10月上旬、この地で開かれた「アジア文明国際学術会議」に参加し、“金牛洞”と名付けられた遺跡を見学する機会を得た。


銅陵市中心部から東へ28キロ、鳳凰山の麓の稲作農村にある坑道遺跡は、小さな丘の下にあった。多くの炭化木が出土し、銅鉱採掘のための古い坑道が露出していた。この坑道は、紀元前770~475年頃の春秋時代の遺跡である。




この金牛洞の坑道遺跡から8キロ西にある「木魚山遺跡」は、3000年以上も前の、中国大陸最古の青銅器製造所跡の遺跡だとされている。


この地方で出土する青銅器は、種類が多く、最も古いものは紀元前16世紀から11世紀の時代とされている。
銅陵市から150キロほど下流にある蕪湖市は、古くから揚揚子江下流域の米の主産地として知られた稲作地帯。江南のこの地方は、紀元前3世紀の終わり頃、漢民族が侵入してくる以前には、呉や越の国であり、楚の国で、すでに稲作文化が発展して豊かになっていた。


当時すでに農民の雨乞いや豊作祈願、収穫祭などの祭祀具として、多種多様な青銅器が使われていたようだ。


それらはやがて、揚子江下流域の人々と共に、稲作文化の一つとして東海の日本列島に渡ったものと思われる。


日本の弥生時代の銅鐸や銅鉾のルーツは、銅鉱石の豊かな銅陵市のあたりにさかのぼるのかもしれない。

2022年3月22日追記
新制中国の望郷編⑥ 安徽省 黄山
世界複合遺産としての黄山は、72の奇峰からなる中国有数の景勝地で、1990年にはユネスコの世界文化遺産及び自然遺産に登録されている。





私は、世界遺産に登録された直後の、1992年10月に黄山を観光した。まだ観光客はそれほど多くはなかったが、北海賓館に1泊し、案内人もつけずに1人で歩き回った。





岩山の奇峰にはそれぞれ名前がついているのだろうが、どれがどの峰なのかも分からず、ただ素晴らしい岩山や奇峰に感嘆しながら撮影した。


標高1810メートルの天都峰、それに標高1680メートルにある玉屏楼と呼ばれる所には、樹齢800年の美しい有名な迎客松が岩肌に根生やしていたそうだが、私はそれらも確認することができなかった。










詳しくは説明できないが、世に知られた中国大陸の景勝地黄山の、一幅の絵のような山々の美観を、私が撮影した写真で堪能されたし。







2022年3月18日追記

新制中国の望郷編⑤ 江蘇省 徐福村
江蘇省連雲港の贛楡県金山郷に徐福村がある。神仙道の修行者である“方士”であった徐福は、紀元前3世紀頃、秦の始皇帝から不老不死の“仙薬”を捜すように命じられ、山東省から東海の日本列島の方に向かって出発し、帰って来なかったことで知られている人物であり、しかも日本各地には56ヵ所もの徐福遺跡がある。中国大陸に日本の民族的、文化的源流を探索する私にとっては、大変関心のあることである。



徐福村は、歴史学者など各界の考証を経て、徐福の故地とされた所で、ここには“徐福祠”があり、70代目の子孫である徐広法さん(75歳)が今も住んでいる。

私は、1993年10月16日に徐福村を訪ね、徐広法さんに会い、通訳を介していろいろと話を聞いた。



徐福が東海に船出したまま戻ってこなかったので、始皇帝は徐一族を皆殺しにするという噂が立ち、4人の子のうち3人は姓を母方の葦・王・張に変えたが、1人だけ姓を変えなかった。彼はすぐに上海の昆山県、そして浙江省の臨安県へと逃げ、やがて江西省へ逃げた。子孫は長い間、江西省にいたが、明時代に九江県からこの地に戻った。それが徐広法さんの先祖だそうだ。


この地には、西漢時代に徐福祠が出来たが、唐時代には仏教の興国寺となり、清朝時代には道教の徐福祠となった。1960年代の文化大革命中に破壊されたが、1988年5月に“徐福祠”として再建された。




気の遠くなるような歴史であるが、実在した人物とその子孫の伝説である。中国大陸における単なる伝説上の人物ではく、徐福は日本と大変深くかかわっている。


徐福は紀元前210年頃、3000人の童男童女と共に多くの船で東海に渡ったとされているが、どこに行ったのか確証はない。しかし、日本の各地には56ヵ所もの徐福遺跡があり、和歌山県には徐福の墓まであると言う。それに佐賀県金立山の金立神社の祭神は徐福だとされている。


不老長寿の仙薬を求めて、東海に船出した斉国人(漢人ではない)の徐福は、東シナ海文化圏の一員として、日本列島に新しい文化と文明を伝えた立役者であったのかもしれない。
“東海に 徐福来たりて 瑞穂立ち 弥生の里に 文化はぐくむ”


2022年3月17日追記
新制中国の望郷編④ 江蘇省 蘇州
蘇州は、江蘇省南東部の長江(揚子江)三角州の中心に位置し、運河に囲まれて縦横に水路が走る町。歴史は古く、春秋時代の紀元前514年に、呉王によって都城が築かれたのが始まりとされている。当時は呉州であったが、後の隋時代の紀元589年に“蘇州”に改名された。



中国大陸の長い歴史の中では、それぞれの民族が戦いを繰り返し、いろいろな王国の盛衰があった。蘇州は“呉越同舟”で有名な呉の都として長く栄えた町だが、“春秋時代”から幾多もの侵略を受け、街は敵や夜盗の侵入を恐れてか、中近東のアラブ諸国の街並みのように、高い白壁が続き、道は迷路のようになっている。





水路沿いに建ち並ぶ白壁の家
蘇州の近辺は、長江河口近くの水田地帯で、運河が多い。すでに1千年前、南は杭州から北は北京までの京杭運河が開通し、今も利用されている。





蘇州は、唐代以降にはシルク産業で発展し、宋代には、自然の立地条件を生かして、農業と商業が盛んで、北京や上海などよりも早くから栄えた町であった。



蘇州の街は、家も人も古代からそんなに変化してはいない。レンガ造りの家が並ぶ街頭に干した洗濯物は、赤・青・黄・紺・ピンク・白・黒・水玉模様と多彩だ。北京や上海よりも近代的ではないが、運河と柳とプラタナスの並木が美しく、落ち着いた静かな街。




天秤棒で果物を担ぎ売り、リヤカーで野菜を運び、自転車を走らせる。共同水場で水を汲み、水路に船を進め、木製の便器を洗う風景、それに、街頭に小さなテーブルを出してお茶を飲み、粥とメンとパンとザーサイと豚肉と鴨を好んで食べることは、新制中国になっても、あまり変わることなく続いている。




2022年3月16日追記