ミャンマー北部探訪㉙ ナガ族の町ラヘ
インド東北部のナガランドを2度訪ね、民族踏査をしたたので、ミヤンマー北西部の山岳地帯にあるミヤンマー側のナガ族の町、ラヘを訪れるために、カムティを訪ねた。
カムティからラヘへの道は、山坂が多い悪路で乗り合いバスはないし、乗用車では無理だとのことで、ゲストハウスの英語の話せる女性事務員に頼んで、オートバイで行くことにした。
翌日の11月27日、午前7時、頼んでおいた35歳のミンカツ(ビルマ族)さんがオートバイでやって来た。ラヘへは僅か50キロだが、山坂の多い大変な悪路なので、約5時間要ると言うのですぐに出発した。
朝霧に包まれた静かなチンドウィン川をフェリーボートで対岸に渡り、シンデ村には9時45分に着いた。この村からすぐに山岳地帯に入り、山の中の道を上ったり、下ったりと大変な行程。
10時15分に、峠のボンドエ村に着いた。少し休憩することにして、村の小学校を見学した。子どもたちは大声で教科書を読んでいた。20分程休憩し、再びオートバイにまたがった。
とにかく、山を幾つも越し、川をいくつも渡って、上ったり下ったりで平地は殆どない状態。オートバイの後ろで上下の振動は激しく、ヘルメットを被り、運転手の腰をしっかり握った。変化の激しい道を4時間以上も走り続け、午前11時20分、大きな谷の丘のようになった、少々平地がある、立地条件の良いところにできたラヘの町に着いた。
まず町中の仏塔のある小高い丘に上って町全体を眺めた。町の中心にはコンクリートの家もあるが、大半が木製の小さな家で、文明地から遠く離れたこんな山の中に、こんな大きな町があることが不思議であった。しかし、ビルマ戦線において、ナガランドのコヒマ攻略のために、日本軍はここにもやってきていた。私は、ナガランドと同じ人々が住んでいるこの町の現状を見るためだけにここまでやって来た。
ミンカツさんと2人で町を見て歩いた後、12時過ぎから、町の中央部にある、運動場近くの食堂に入って昼食をした。ここで英語の話せるナガ族のダビド・アキン(34歳)さんに会い、いろいろ情報を得た。
ラヘは4地区に分かれており、人口は約6千人で、殆どがナガ族。インドのナガランドとの国境までは45キロだが、その間殆ど車の通れる道はないと言う。
ここは国境に近い町なので、ミャンマー政府が、ナガ族をミャンマー化するために学校でミャンマー語を教えているそうだ。仏教徒が多くなっているが、本来アニミズムで、1月にはナガ族の大きなフェスティバルがあると言う。
彼と話している内に天候がおかしくなった。外に出て再び町を見ていると雨が降り始めた。小雨降る町を見て歩き、2時前には、ラヘを出て帰路に着いた。
なんと言っても4時間以上は要るので、オートバイで急いだが、途中工事中であったり、フェリー待ちなどがあり、6時前には暗くなった。
暗くなってからチンドウィン川を渡り、午後6時半、ゲストハウスにやっと無事にたどり着いた。彼に約束の8万チャット(約7,000円)を払って別れた。往復9時間近くもかかったラヘへのオートバイの旅は、心身ともに疲れた。
ミャンマー北部探訪㉘ カムティの朝市の朝食
カムティは午後10時に消灯し、その後は暗闇である。消灯後は何の音もないが、時々犬の鳴き声が聞こえるだけだった。
午前7時前に起床し、7時半からゲストハウス近くにある朝市に出かけた。ミャンマーでは朝市はどこも活気があるのだが、カムティの朝市も、人口3万人にしては大きくて活気があった。
中でも川魚を売っている場所は人出が多く活気があった。鯉のような大きな魚から、コハダのような小型の魚など、多種な魚が台の上に並べられていた。それに大きな川エビなどがあり、さすが大川のそばの町で、新鮮な川魚が売られていた。
朝6時半頃から開いている朝市には、人出が多い。市場の中で朝食する人がいるので、食事場も多い。レストランとか食堂などの名称はふさわしくない、屋台のような場所が多い。中には街頭で揚げ物を売っているので、立ち食いもある。
朝市の中でよく目にしたのは、米の麺、ビーフン料理であった。シャン・カウソエと呼ばれる一種のラーメンのようなものだが、一杯1000チャット(約73円)がよく食べられていた。
中には米の蒸しパンや上げ餃子のようなものを食べている人がいたが、とにかく忙しいのだろう、ゆっくり食べている人は殆どいなくて、数分で食べ終える人が多かった。
ミャンマー北部探訪㉗ 川沿いの町カムティ
ミャンマー西北部の山岳地帯にあるナガ族の町、“ラヘ”を訪ねるため、2017年11月26日に、マンダレーからカムティへ飛んだ。
カムティ空港に午後1時に着いた。初めての町で何も情報がなかった。空港のオフィサーに話しかけ、日本から来た旨を伝え、町までのタクシーと宿泊先を紹介してもらった。
町は空港から5、6キロで、直ぐに紹介先の“ミヤナンタウ・ゲストハウス”に着いた。ゲストハウス近くのレストランでチャーハンを食べ、午後2時半から一人で街を見て歩いた。
カムティはチンドウィン川上流の、川沿いの人口3万人の町で、川船による物資流通の拠点として栄えていたそうだ。もともとはシャン族中心であったが、今ではビルマ族も多くなっているとのこと。
川沿いの街には“琥珀”を売る店があった。琥珀は、大昔の樹脂が地中で化石のようになった宝石の一種なのだが、聞くところによると、この近辺は琥珀が出土することでも知られているとのことだった。しかし、上質の琥珀はマンダレーやヤンゴンの方に持ち去られ、観光客や人口の少ないここにはあまり高価なものは置いていないとのことだった。
午後4時頃から川沿いを歩き、川船が沢山停泊している様子を見た。大陸における川は、古来のハイウウェイで、船による物資流通にはなくてはならない道の役割をなしていた。
船上で生活する人も、陸上で生活する人も皆、川の水なくしては生きられないので、人々は日常的に川には馴染んでいる。この町には本来風呂もシャワーもなかったそうだ。彼らは年中川の水を使って生活していた。しかし、今、モダンな家にはシャワーはあるが、風呂はないそうだ。
夕方になると、タオルを肩に掛けた女性たちが、川岸に浮いた竹製の浮き台の上に、日本人が銭湯に入るように集まり、水浴びをしていた。まるで娯楽の一時のように、楽し気な活話が川面に響き、華やいでいた。
私は川沿の岸辺にころがっている、宝石のような青・赤・褐色・黒・白色などの珍しい石ころを見て歩いた。表面に凹凸のある鉄のように重い卵大の石ころを一つ拾い上げた。もしかすると“隕石”かもしれないと思い、ポケットの中に入れて持ち帰った。
ミャンマー北部探訪㉖ プーターオの子どもたち
私は、青少年教育団体の理事長をしているので、学校を見物したい旨を伝えると、ディンゴー君が、シャン族が住むカンキョ村にある“サーチ・ハイスクール”に案内してくれた。先ず女性校長のダケイ・チーチョさんに会い、私の英文の名刺を渡して、青少年教育の教育現場を見たい旨を伝えた。彼女は、日本から来たことに大変驚かれ、是非見て下さいと、2階建ての校舎を案内してくれた。
この学校には小学校から高校までがあり、15~17歳のクラス、11~14歳のクラス、そして8~10歳までのクラスが同じ校舎の中にあるそうで、まず8歳からのクラスに案内された。子どもたちは教室の中で騒いでいたが、校長に私が紹介されると、キョトンとした表情で黙り込んで私を見詰めているだけだった。
次には11歳からのクラスに案内され、授業中を参観させてもらった。担当の先生が日本について説明し、子どもたちの中に入って記念写真も撮らせてもらった。次には2階の15歳からのクラスで36名の学生がいた。そこでは、日本人を見るのは初めてだということで、生徒たちに挨拶させられ、握手を求められた。
1時間以上滞在し、校長に礼を述べ、記念品を渡してホテルに戻った。
翌日、12月1日は、プーターオから約16キロ西へ離れたアパーシャントン村を訪ねた。外国人が行ける西端の村。ここには約1,000人のロワン族が住んでいた。この村から山を越して、西へ向かうとインドのアッサム地方へ出る。山麓にあるこの村は標高が1,400メートルもあり、昔ながらの素朴な村で、小学校があった。丁度お昼時であったせいか、子どもたちが学校から帰宅途中で、よく見かけたので話しかけ、ロワン族の4人の女の子を撮影させてもらい、名前を聞き取った。
コム ローム、シーダーサル(11歳)、ラワン・サラ(10歳)、レダン・ワン(11歳)、ランプ―・ミンサン(10歳)たちで、初めは恥ずかしがって顔を隠したが、ポラロイドで撮影した写真を見せると大変驚き、10分もすると話かけてくるようになり、一緒に撮影までできた。
坂道を下っての帰路、ローワシャントン村で、小川に新しい橋をかけていた珍しい光景を見た。竹でかごを作り、その中に小石を入れて橋脚としての支柱を固定する橋のかけ方は、古代と変わりない方法なのだろう。
大変珍しかったので、橋づくりの共同作業を1時間ほど眺めた後、アンパン村にあったアワシャンカウ・ハイスクールを訪ねた。ジンポー族の校長ブラディー(46歳)さんと、シャン族の教師イクン・リン(35歳)さんの2人が応対してくれた。
ハイスクールと言っても、中学生くらいの子どもが多く、近辺のロワン族、シャン族、リス族の子どもたちが約200人通っているとのことだった。
授業は参観できなかったが、外で遊び回る子どもたちを撮影させてもらった。私が見た限り、姿かたちは皆同じようで骨格や衣服では区別できなかった。皆、学校で習うミャンマー語を話して、楽し気に元気いっぱい遊んでいた。
この後、案内人のディンゴー君の村を訪ね、彼の家に立ち寄ってからホテルに戻った。
ミャンマー北部探訪㉕ 朝市に多種の川魚
12月初めのプーターオの早朝は、濃霧がたなびいて摂氏12・3度と肌寒い。
午後10時から午前5時頃までは電気の明かりがない町だが、夜明けの午前6時頃から朝市が開く。昔ながらの素朴な朝市で、近くの村々からやってきた売手と、食材を求める人々が大勢やってくるので、特に6時半から7時半頃までは、人出が多く混雑する。
本来の4大民族が、今では言葉がなんとか通じ、衣服や風習も類似しているので、私には見分けができなかったが、現地の人々には見分けられるとのことだった。
とにかく、豊かな食材が所狭しと地上や長いテーブルの上に並べられている。高い山に囲まれたプーターオ平原には川が多く、エーヤワディー河の源流の1つでもある。その川にいる魚の種類が多いのに驚かされた。現地の人達に何度も尋ねたが、プーターオの川にいる魚だという。
海から1300キロも離れた山奥の高地に、海とはほぼ同じような魚がいる。サヨリ、チヌ(黒鯛)、コノシロ(コハダ)、ウツボ、ボラなど、私の故郷の海で見かけるような魚がいる。
海から遠く離れた内陸の山奥の川に、海とほぼ同じような新鮮な魚が朝市で売られている。今朝か、前日に獲った魚だと思うが、これらの魚たちは、川から海へ出たが、海から川をはるばる上って来たのだろうか。
いずれにしても、海と同じように、魚・カニ・エビなどの種類が多いのには驚かされた。人類と同じように、魚類も水を頼って遠くまで移動したのだろうか。プーターオで1番驚かされたのは、朝市において、新鮮な多くの海魚と同じような川魚が売られていたことだった。
ミャンマー北部探訪㉔ プーターオの高床式住居
プーターオではシャン族のディンゴ君(31歳)が、日本製の車パジェロで2日間案内兼通訳をしてくれた。
私は、いろいろな民族の住んでいる様子を見たかったので、彼に頼んでまず村々を訪ねることにした。彼は、プーターオから南へ10数キロ離れたマチャンボ地域まで行くことに同意し、午前11時半過ぎにホテルを出発した。
まず最初のミタンの村へは12時15分に着いた。ここにはミズー族が住んでいるそうだ。次のナンパー村もミズー族。12時25分に着いたナムカイ村には、ミズー族、シャン(タイ)族、ジンポー(カチン)族が混住しているそうだ。
12時30分に着いたマチャンボ村には、約5000人のジンポー(カチン)族が住んでいるそうで、かなり大きな村であった。この辺からはもうプーターオではなく、マチャンボ地区になる。
午後1時、水のきれいなムニカ川沿いのナムカイ村に簡易食堂があり、ビーフンのスープメンを500チャット払って食べる。
午後1時半にジンポー族のブンボー村、そしてすぐ近くのワイポ村に着いた。車を止めて眺めただけで通り過ぎ、1時47分にはナムカム村に着いた。ここにはラワン(ロワン)族が約1400人住んでいるそうだ。
外国人はこの村から遠くへは行けないと言うので、彼の案内で村を歩いて見ることにした。村の家は全て高床式だが、竹製と板製の2種類ある。屋根はトタンもあるが、“チンゴ”と呼ばれるパームヤシのようなヤシの葉で葺いている。トタン屋根は長持ちするが、家の中が夏は熱く、冬は寒くなる。昔からのチンゴは長持ちしないが、夏は涼しく、冬は暖かいので村人には好まれる。しかし、葺き替えに手間が要るので、若い人はトタン屋根にしたがるそうだ。
この辺の村では、6月に稲の苗を植えて、10月から11月初めにかけて収穫するそうで、田の近くや屋敷の中に“サパティ”と呼ばれる米倉があった。1月には、稲株が残る田園が広がっているだけであった。
ナムカム村からの帰り道、ムニカ川を渡ったすぐの村“マンコ”には、300人ほどのシャン族が住んでいた。その近くのドロンバン村にはラワン族が住んでいると説明されたが、ラワンとシャンの家は殆ど同じ型で、人も同じように見えたが、ディンゴ君によると女性の衣服や言葉使いが違うのですぐ分かるそうだ。
いろんな民族の村を見たが、私には家も人も区別がつかなかった。家は全て高床式で、何が違うのかよく分からないままだった。
帰りにプーターオへの別の道を通って、途中マリカ川沿いにある、この地方で最も古い黄金色のカムロン・パコタを見物した。ここから川の遥か彼方に雪を被った高い山が見えた。
プーターオに戻って、マナウの開催場所に案内された。5本が並んでいるマナウ用の柱(ムノーダイ)に、大きなサイ鳥の木彫が横たわっていた。オチンと呼ばれる大サイ鳥は、一度つがいになると、ずっと寄り添っているので、幸運に恵まれる鳥だそうだ。
午後5時半頃ホテルに戻り、プーターオの一日が終わった。
ミャンマー北部探訪㉓ 最北西端の町プーターオ
2017年11月24日から、ミャンマー北部の民族踏査に訪れ、マンダレーから北のミッチーナーに飛んだ。ここから更に北西へ約300キロ離れたプーターオへは、山また山の悪路で、外国人が陸路で行くことは禁じられている。
現地人も殆ど飛行機を利用するので、1日1往復の飛行便は、向こう3週間に空席なし。外国人はほぼ不可能に近いが、ミッチーナーの多くの人の協力を得て、特別に搭乗が許可されて、11月30日にプーターオを訪れ、3日間滞在することができた。
プーターオは、標高1200メートルで、周囲を山に囲まれた広い盆地で、シャン族中心に多くの民族が住んでいる、人口3万人の町。もともとはシャン族の大きな尊長がいた村“ブダオン”を、19世紀後半にイギリス軍が侵入して、“PUTAO(プーターオ)”と表記したための地名。とにかく、ミヤンマーでも最もへき地で、外国人などほとんど訪れることのない、最北西端の山の中の町プーターオの人々をまず紹介しよう。
シャン族も自称はタイ族なのだが、イギリス人たちが、“シャンとかシャム”と呼称。現在のプーターオの中心地は本来“タイ・ヤムティ”と呼ばれていた。“カチン”と呼ばれる、“ジンポー族”もイギリス人の呼称で、現地の人々は、シャンやカチンの意味は分からないと言う。
プーターオ地方には、大きく分けてシャン(タイ)、ミズー、カチン(ジンポー)、ラワン(ロワン)など4民族が混住している。イギリス軍が侵入して来るまでは、それぞれの民族が独立し、異なった言葉や風習があって、紛争が多かった。イギリス植民地時代になって、軍事力によって統合されて英語を話せる人が多くなり、紛争は少なくなった。
さらに独立後にはビルマ政府、そしてミャンマー政府の軍事力によって統合がなされ、今では学校でミャンマー語が教えられて、若い人たちは共通のミャンマー語を話せるようになっている。
ビルマ戦線において、旧日本軍は、こんな山奥の僻地までは来なかったのか、ここでは日本軍に関することは一度も耳にしなかった。
とにかく、多民族が混住する地域は、統合する軍事力がないと、不安・不信が強く、不安定な社会状態が続くのだが、今ではミャンマー政府の軍事力による統合が進んで、言葉・衣服・風習などが共通の生活文化となりかけている。
ミャンマー北部探訪㉒ カチン州の踊る祭典”マナウ”
ミャンマー北端のカチン州には沢山の部族がいる。カチンはビルマ語で、カチン州の人々は自分たちのことをカチンとは呼ばない。それぞれの部族、例えばジンポー、リスー、ロワン、タイ、アジン、トーチャン、ラショー、ザイワなどと呼ぶ。しかし、イギリス植民地当時に付けられたビルマ語、今日ではミャンマー語でカチン族などと呼んでいるし、カチン州が存在しているので、各部族を総称してカチン族としている。
そのカチン州で年に一度の踊る祭典“マナウ”が、1月5日から開催され、全カチン州から各部族の代表がミッチーナーに集い、踊りを披露するのを見た。
午前10時からマナウ会場の『カチン州立マナウ公園』を訪れた。中央から左側にはステージがあり、ファッションショーなどが催されたり、中国製などの商品展示会や物産展、販売店などがあり、いろいろな民族衣装の人出が多かった。
中央から右の方に円形に囲われた運動場があり、中央に大きな柱が一列に6本立ち、小さいカラフルな旗を結び付けたロープが四方へ無数に伸びて、上空が華やいでいる。
一列に並んだ柱の表にはステージがあり、マイクが7本立っている。柱の裏側には車輪のついた直径1メートル、長さ3メートルもある大太鼓が1つと、直径50センチほどの銅製の鉦(かね)が5個ずつ、2組吊るされている。
ミッチーナーから北へ300キロ離れたカオリコンシャン地方から来たノーチャン族の中に、コーウィンという21歳の可愛い娘がいた。顔立ちは日本人と同じだが、頭に黒っぽい布の帽子を被り、首に黄色と柿色のビーズの輪をかけていたので撮影させてもらった。
午前11時過ぎから各部族が会場に入り、開会のセレモニーがあり、11時半から1列になって踊り始めた。音楽はステージに立つ7人が一斉に歌う。その歌の伴奏は、大鉦や大太鼓の打ち鳴らす音。野外ではあるが拡声されて耳がはじけるように鳴り響く。
踊る人たちは右回りと左回りの二手に分かれて、歌や太鼓のリズムに合わせて踊りながら進む。先頭は司祭者なのか長さ1メートルほどの太刀を捧げ持ち、次の5人の男は太刀を日本の神主が用いる笏(しゃく)のように捧げ持って、リズミカルに歩いている。その後に踊る人たちが、足を交互に前に出し、反対の足を寄せてステップを踏み、次には後の足を前に出しながら、両手を交互に振り上げつつ前に進む。
男も女も同じように踊るのだが、参加者の数は女性が多い。どの部族も一般的に男の衣装は地味だが、女の衣装はカラフルで目立つ。男は弓矢、刀、槍などを手にしている人がいるが、女は素手か布を持っている人が多い。
一列縦隊の踊り手たちは、先頭に従って交差したり、円形や渦巻き状になったり、斜めに進んだりと行動様式は少々変化するが、1時間たっても休むことなく踊り続ける。
最初の1時間は、私自身興奮して撮影とリズムに陶酔気味であったが、さすが1時間半も過ぎると、雰囲気に飽きるというよりも、呆れ返ってしまった。
彼らは水も飲まないし、食事もしないで、歌や太鼓、鉦のリズムに乗って、休むことなく踊り続けている。共同体の集団的陶酔感によるのだろうが、歌う人たちの声帯や太鼓や、鉦を叩く人の腕の筋力がよく続くものだと感服させられた。踊りは3時間程続くそうだが、私は、他にも用事があったので途中で退席したので、最後まで見届けられなかった。
ミャンマー北部探訪㉑ ミッチーナーの路上マーケット
ミッチーナーは、エーヤワディー河沿いにある、人口30万人もの大きな町。川沿いには常設の大きなマーケットがある。人口増加が激しいので、それでは足りなくなったのか、夕方になると、川沿いのマーケット街から直角状に延びた、駅近くのZay Gyi St(ザイ・ギー街)と呼ばれる大通りの、川寄りの一部が交通止めになって、巨大な路上マーケットが開かれる。近郊の農民や漁民などが直接物を持ち込んで、直販的な市場。
ミャンマー北部では、私の知る限り一番大きな路上市場で、どのような具合に開かれているのか、取材できなかったが、とにかく午後4時頃から、広い道路の中央部に、あっという間に物がどんどんと置かれ、両側を人が行き交う、長さ300メートルほどの路上マーケットが発生する。
売られている物は新鮮な野菜、果物、川魚、それに食料品類などが多いが、とにかく日常生活に必要なものはたいてい何でもある。
午後5時頃から6時頃に人出が一番多く、夕暮れが近くなるとマーケットの人は徐々に少なくなり、路上の市場もあれよあれよという間に消えてなくなる。暗くなると、いつもと変わりない車の通る道になる。
ミッチーナーには2015年以来3度訪れたが、最も活気があり、人出が多かったのは、2016年1月に見た、この夕方に発生する路上マーケットであった。
ミャンマー北部探訪⑳ ジンポー族のケタプー村
ミッチーナー2日目の午前9時半、ラー・ターウンさんがホテルにオートバイで来た。今日は彼のオートバイでミッチーナー郊外を案内してもらうことになった。彼はヘルメットを被り、シャツの上にジャンパーを着て、腰下にロンジーと呼ばれる布を巻いてオートバイにまたがっている。私もヘルメットを被って彼の背後にのり、落ちないように彼の腰に両手をあてる。
いろいろ回って、午後1時過ぎにツオブンと呼ばれる観光地に着き、丘の上の展望塔に上がって周囲を見渡した。ミッチーナーの平原が一望できる見晴らしの良い所。日曜日なので若者が多かった。ラー・ターウンさんは高所恐怖症らしく、20メートルもの塔に上って来なかったので、若者たちに話しかけて記念写真を撮ってもらった。
ツオブンから町に帰る途中、道沿いの食堂で遅い昼食をした。そこの店の名物料理で野生の乾燥鹿肉のサラダを食べた。大変美味で、ビールのつまみに最高であった。他には焼きそばのようなビーフンを食べた。
午後3時前に、ミッチーナーの北2キロにあるジンポー族の住むケタプー村を訪れた。カチン州にはカチン族はいない。カチンはイギリス人がつけた呼称で、現地の人々はその意味や理由を知らなかった。
ラー・ターウンさんによると、カチン州の総人口は約150万人で、その中心地ミッチーナーには約30万人が住んでいる。そして人口の40%がジンポー族。ジンポー族はミッチーナー地方に多いが、各地に散在しているそうだ。
ラー・ターウンさんは、このケタプー村で英語教室を開いているので、教え子や知人が多かった。彼は私を自慢気に連れ廻っていたが、そのうちに、一般的な木製の高床式住居の家を訪れ、65歳のツオンさんに紹介された。彼女は、彼の教え子の母親で親しいのだそうだ。彼らが楽し気に話している内に、近くに嫁いでいる娘のターマイ(25歳)さんがやって来た。彼女は、10代の時に2年間英語を習ったそうで、彼とは親しかった。彼女は、日本人に会うのは初めてと、驚きの表情をしていた。しかし、彼女の母親のツオンさんは、日本の兵隊がこの村にも来ていたことを両親から聞いていた。若いターマイさんは何も知らなかったが、65歳の母親は日本兵のことを聞き知っていた。
近くの老人は、日本兵からいろいろなことを教えられたそうだ。
朝起きたら顔を洗って歯を磨き、部屋を掃除する。水ではなくお湯を浴びる。嘘をついたり騙したりしてはいけない。他人の物を盗んではいけないとよく叱られたそうだ。
その老人は、80歳過ぎても少年時代に教えられたことをよく覚えていると言っていたそうだ。
日本人にとってはごく普通のことなのだが、当時の少年にとっては、見たことも聞いたこともないことが多く、大変新鮮に感じられたのだろう。
ケタプー村はミッチーナーに隣接している村だが、道はまだ未舗装で、高床式の木や竹で作られた家が多く、昔ながらの田舎のような村で、人々は大変純朴で親しみやすかった。
ミャンマー北部探訪⑲ ミッチーナーの日本残像
ミャンマー北部を訪れるにあたり、北端の町ミッチーナーには、日本兵の慰霊碑があることを聞いていた。観光客などあまりゆく所ではないが、民族踏査もかねて行くことにした。
私は、2015年1月2日、マンダレーからミャンマー北端チン州の州都で、エーヤワディー河沿いのミッチーナーへ飛んだ。
マンダレーのホテルから“シン・ジャン・ホテル”に電話予約をしていたので、空港からタクシーを走らせた。夕方であったせいか車が多く、人出もあって活気はあるが、街の整備がまだ不十分で雑然としていた。
ホテルに英語を話せる人がいたので、明日から3日間の通訳兼ガイドを捜してくれるように頼んだ。
翌3日の朝、ラー・ターウンとういう40歳の男が来てくれた。彼は英語教室を開いており、政府公認の通訳だと言って身分証明書を見せてくれた。
ミッチーナーは人口約30万人の大きな町だが、ここにも日本軍が1942年ころから進駐していた。しかし、イギリス・アメリカ・国民党重慶の連合軍に反撃され、双方に多くの死亡者が出た。なんとしても死守せよと参謀本部から玉砕を求められていたが、1944年8月、ミッチーナー守備隊の最高司令官の水上源蔵少将は、部下をおもんばかり、全軍にミッチーナーからの退去命令を出し、自らは軍命令に違反した責任を取って、ミッチーナー対岸のノンタロー村で8月3日に自決した。
生き延びて帰国できた元兵士や遺族が、戦後この地を訪れて慰霊の寺院や碑、塔を建立していた。私は、その痕跡を確認することも兼ねてやって来た。
ラー・ターウンさんの案内で、市内を巡ることにした。まず対岸のノンタロー村跡を訪れてから、当時の激戦地の一つでもあったホテル近くの古いミッチーナー駅近辺を見て回った。
駅前には、現地語で“コッコ”と呼ばれるニセアカシアのような巨木が生えていた。もう100年以上も生え続けているそうなので、日本兵たちも見たことだろう。もしかすると、雨・霰とやってくる弾雨に晒されていたかもしれないし、この木の下で戦死した兵もいたかもしれない。
この後サイカ(三輪タクシー)で町の北西になる時計塔へ行った。大きな通りの十字路に、緑色の高さ10メートルほどの塔があり、4面に丸い大きな時計が設置されていた。これは、生き残った兵士たちが、戦友の慰霊碑として建立したものであった。その足元の銅板には、“第18師団(菊兵団))、第56師団(龍兵団)、軍直配属部隊”と記されていた。
時計塔を後にし、町の東北のエーヤワディー河沿いにあるスータ・ウンビー・パヤを訪ねた。ここには福岡県の坂口睦さんが寄贈した2000年4月に着工し、2001年1月に完成した巨大な寝仏があった。
私は寝仏に手を合わせ、この地で死せる兵士たちへの供養のつもりで、僅かであるが寄付させてもらった。我らが先輩たちは、この地でも大変な苦労をされ、尊い命を落とされていることを肝に銘じて、寝仏に別れを告げた。
ミャンマー北部探訪⑱ ラーショーの温泉と田園風景
ラーショーには温泉があるというので、着いた日の午後4時から、三輪タクシーを雇って行って見ることにした。旧ラーショーの中心街にあるホテル前の坂道を下って、西方の新市街を通り抜けて、大きな道を7~8キロ進んだ右側に、“ラーショー温泉”と英語で表記された看板と門があった。
そこを右折して小道に入り、田園地帯を3~4キロほど進んだ所に小さな森があった。温泉はそこにあり、入場料3米ドル払って森の中に入った。
温泉は、森を通り抜けた田園の中のやや低い所にあり、長さ200メートル、幅3~40メートルの池になっていた。その低い方の一番端をコンクリートで仕切り、長さ20メートル、幅10メートルくらいのプールのようにしている所が入浴場所。
入浴場の近くの平地は歓楽地のようになっているので、現地の人が多く訪れているが、外国人も入場料を払えば自由に入れる。広場の椅子に座って歓談したり、飲食している人、温泉に入っている人、岸辺で洗濯している人もいる。池の岸辺で洗濯しているのであまり感じは良くないが、はるばるこんな遠くまで来た思いがあり、記念にと思い、パンツ一枚になって入口近くの方で温泉に入った。
中は階段になって段々深くなり、3段目以下は背が届かなくなった。反対の広場のある方が段は緩やかで、現地の人はそちらで浸かっている。水温は40℃以上もあるようでかなり熱く感じられたが、泳いでいる人もいた。
15分ほど肩まで浸かっていたが、熱くなって外に出た。岸辺のコンクリートの上に座って、しばらくの間大汗をかいた。
温泉からの帰り、日本と変わりない爽やかな夕暮れに、田園の中の一本道を、三輪タクシーに揺られながら、この地に3年近くも駐留していた日本の兵隊さんたちは、この温泉に浸かったのであろうか、と70数年前の若い兵士たちが裸で戯れている残像を想像した。
温泉に浸かった後の解放感もあったであろうが、日本の田舎に似たような田園風景に、何とも言われない郷愁に駆られながら三輪車に揺られてホテルに戻った。
ミャンマー北部探訪⑰ 丘の上の町ラーショー
ピン・ウールインの町から乗り合いタクシーで、約250キロ北のラーショーに向かった。山坂越えて大変厳しい道を走り、約5時間で着き、町の中心部にある1泊20米ドルのロイヤル・グランド・ホテルに泊まることにした。
ミャンマーでも辺境の中国との国境に近いこの地に、今から73年も前に、日本軍が山や谷、川の多い大地を数日間で2~300キロも走り抜け、イギリス軍が駐留するラーショーを攻撃したと聞いていたが、当時としては信じがたい神業のような速さだ。
ラーショーは、人口15万人もの大きな町なのだが、最初は丘の上にできたシャン族の要塞化した村であったそうだ。今でも町の中心である旧市街地は丘の上にある。
イギリスが植民地化してできた新しい町は、旧市街から約3キロ西の平地にある。マンダレーから中国雲南省の昆明に物資を運ぶためにできた、鉄道のラーショー駅も3キロ余り南西の平地にある。
古くからの町と植民地化によって作られた町の2重構造的なラーショーは、駅近くの大ラーショーと丘の上の小ラーショーの2つの地区に分けられている。小ラーショーはシャン族の居住地域で、マーケットや商店街、病院、郵便局、消防署などがあり、今も人口が多く中心地になっている。
ラーショーは、古くから雲南地方への通商の中継地として栄えた町であった。特に、旧日本軍が1940年頃から中国大陸の東海岸地帯を占拠して以来、米英連合軍が蒋介石率いる中国国民党軍を支援する重要拠点になった。そのため、首都を南京から重慶に移動した国民党軍は、英米との話し合いの下にいち早くラーショーに派兵し、守備についていた。
1942年4月末にラーショーを占領した日本軍は、ここを拠点にして北の雲南地方にまで侵攻したが、1945年4月には、英米支連合軍に反撃され、南へと撤退したという。
ミャンマー(ビルマ)語でシャムとかシャンとか呼ばれる人々は、自称タイなのだが、タイ族は、北の中国大陸の方から移動してきた民族なので、国民党軍の兵士たちとは言葉は違っても顔形はほぼ同じ。そんなこともあって、シャン州、特にラーショー近辺の人々は、中央部のビルマ族を中心とした独立国ビルマ、1989年6月以後はミャンマーに対して、国民党の残兵と共に反政府運動が活発であった。そんなこともあって、ラーショーは数年前まで政情が不安定とのことで、外国人の立ち入りが長く禁止されていた。
ラーショーにはシャンと呼ばれる人々や国民党の残留兵もいて、街中に漢字が見られる。それにインド系のヒンズー教徒やイスラム教徒もいるし、仏教徒のビルマ族やキリスト教徒のシャン族もいるので、仏教寺院や仏塔、教会、イスラム寺院のモスクなどもある。
ラーショーは南北に続いた山の尾根にできた町。山の尾根から南西の斜面に家が密集している。赤褐色に錆びたトタン屋根の木造の2階や3階建ての家が密集する中にポツリ、ポツリと3~5階建ての近代的なビルがある。そして、旧市街の真ん中辺りに、大きな白亜のモスクがある。あちこちに仏塔や寺院もあるが、モスクが最も目立っていた。
ミャンマー北部探訪⑯ 桜並木のあるピン・ウールイン
1981年1月、マンダレーから70キロ東のピン・ウールイン(旧名メイミョー、日本軍の司令所があった町)へ向かった。「ヒロミ・イン」という名の宿泊所は日本人が経営しているというので、予約の電話を入れておいた。
ヒロミ・インに着くと小柄で中年の美女が応対してくれた。日本人かと思いきやミャンマー人で、10年間大阪で働いている時、日本人技師と結婚して、数年前にミャンマーに戻り、夫と2人でヒロミ・インを始めたという。しかし、夫は今病気療養のためヤンゴンに滞在中なので、1人で経営の切り盛りをしているそうだ。
標高1,100メートルのピン・ウールインは、イギリス植民地時代から避暑地として有名な町であり、早くから西欧化していた。
イギリス統治時代からの旧名“メイミョー”は、“メイの町”、すなわちここを切り開いたイギリス人のメイさんの名前の町名であったので、独立以後、“ピン・ウールイン”、“ピン”は高原を意味するので“ウールイン高原”という地名に変更された。
ヒロミ・インから馬車で中心地に出た。市場や有名な時計塔を見た後、午後1時半に市中心地から約2キロほど離れた町の東側の林の中にある、ヒロミ・インに歩いて戻ることにした。
その途中、何度か桃色に咲いた桜の花を見た。特にサーキュラ通りに面した両側に桜の木が多かった。ここの桜は、山桜に近く、花が小さくて桃色なので、信州高遠のコヒガン桜のようで美しい。“チェリーバン”と呼ばれる桜は、12月から1月にかけて咲くそうで、もう終わりかけているとのことだった。
ここは、イギリス人の避暑地として誕生した町なので、植民地時代の建物が林の中に多く点在するのだが、1942年5月にマンダレー地方を制覇した日本軍も、いち早くこの地に陸軍の戦闘指令所を設置し、撤退するまでの約2年半の間、ミヤンマー北部戦闘指令の中心地としていた。
道沿いの林の中には、かつての立派な豪邸があり、桜と古い大きな邸宅を見ながら、地図を頼りにゆっくり歩いて、午後3時すぎに、やっとヒロミ・インにたどり着いた。
ミャンマー北部探訪⑭ インワの遺跡
マンダレーからエーヤワディー河に沿って南に下り、インワ鉄橋を過ぎて真っすぐ延びる道を進むと、ラーショーの方から流れているミンツゲー川に突き当たって行き止まりになっている。そこの船着き場からボートに乗って対岸に渡った所がインワの町。
インワは、1364年にシャン族の都となったが、やがてビルマ族の都となって栄えた。しかし、1752年にはモン族の攻撃を受けて破壊された。そして、再びビルマ族の王都となって復活したが、1838年に発生した大地震で壊滅的な被害を受けた。そして、1841年には、近くのアマラプラへ遷都した。それ以来、インワが王都になることはなかった。
私は、船で渡った後、馬車をチャーターして2時間かけて、インワの遺跡を見て回った。
現在のインワは、いくつかの集落と化し、王宮跡は畑になっており、畑の中に立派な仏塔や壊れた寺院などの建物があり、林の中に厚い城壁があったり、王都の遺跡がいたるところに残っている。
最後に見たのは、1834年に建てられた総チーク材の立派なバガヤー僧院であった。建物全体が木彫りで装飾されており、暗いお堂の中には仏像があり、200年以上も静かに佇んでいるような神秘的な雰囲気があった。
それにしても、インワは多民族地域の王国の盛衰の激しさが思いやられる、歴史的証明のような場所だ。大陸における独立国の維持がいかに困難であったかの思いにかられながら、馬車にゆられて船着き場に戻った(残念だが、インワの写真が見当たらない)。