ミャンマー北部探訪㉙ ナガ族の町ラヘ 



 インド東北部のナガランドを2度訪ね、民族踏査をしたたので、ミヤンマー北西部の山岳地帯にあるミヤンマー側のナガ族の町、ラヘを訪れるために、カムティを訪ねた。

 カムティからラヘへの道は、山坂が多い悪路で乗り合いバスはないし、乗用車では無理だとのことで、ゲストハウスの英語の話せる女性事務員に頼んで、オートバイで行くことにした。

f:id:moritayuuzou:20210519192031j:plain

オートバイで案内してくれたミンカツさん

 翌日の11月27日、午前7時、頼んでおいた35歳のミンカツ(ビルマ族)さんがオートバイでやって来た。ラヘへは僅か50キロだが、山坂の多い大変な悪路なので、約5時間要ると言うのですぐに出発した。

f:id:moritayuuzou:20210519191841j:plain

朝もやの中、チンドウイン川の対岸に渡ったフェリーボートの上

 朝霧に包まれた静かなチンドウィン川をフェリーボートで対岸に渡り、シンデ村には9時45分に着いた。この村からすぐに山岳地帯に入り、山の中の道を上ったり、下ったりと大変な行程。

f:id:moritayuuzou:20210519191846j:plain

谷底の川にかかる途中の橋

f:id:moritayuuzou:20210519192058j:plain

峠の休息所にあるナガ族の小屋

 10時15分に、峠のボンドエ村に着いた。少し休憩することにして、村の小学校を見学した。子どもたちは大声で教科書を読んでいた。20分程休憩し、再びオートバイにまたがった。

f:id:moritayuuzou:20210519191855j:plain

山を越える急な坂道

f:id:moritayuuzou:20210519191859j:plain

山の上から見る谷底の道 これから下ってゆく

f:id:moritayuuzou:20210519191903j:plain

峠にあった学校

f:id:moritayuuzou:20210519191907j:plain

授業を受ける子供たち

f:id:moritayuuzou:20210519191912j:plain

先生の話を聞く子供たち

f:id:moritayuuzou:20210519191916j:plain

対面の山のジグザグ道路

 とにかく、山を幾つも越し、川をいくつも渡って、上ったり下ったりで平地は殆どない状態。オートバイの後ろで上下の振動は激しく、ヘルメットを被り、運転手の腰をしっかり握った。変化の激しい道を4時間以上も走り続け、午前11時20分、大きな谷の丘のようになった、少々平地がある、立地条件の良いところにできたラヘの町に着いた。

f:id:moritayuuzou:20210519191921j:plain

遠くに見えてきたラヘの町

f:id:moritayuuzou:20210519191926j:plain

”ラヘ”の標識

f:id:moritayuuzou:20210519191930j:plain

山の東斜面にあるラへの北側

f:id:moritayuuzou:20210519191935j:plain

ラへの中心地

f:id:moritayuuzou:20210519191943j:plain

ラへの南側にあるナガ族の家

f:id:moritayuuzou:20210519191957j:plain

茅葺のナガ族の古い家

 まず町中の仏塔のある小高い丘に上って町全体を眺めた。町の中心にはコンクリートの家もあるが、大半が木製の小さな家で、文明地から遠く離れたこんな山の中に、こんな大きな町があることが不思議であった。しかし、ビルマ戦線において、ナガランドのコヒマ攻略のために、日本軍はここにもやってきていた。私は、ナガランドと同じ人々が住んでいるこの町の現状を見るためだけにここまでやって来た。

f:id:moritayuuzou:20210519191939j:plain

ラへの中心近くにある丘の上の仏塔

f:id:moritayuuzou:20210519191947j:plain

丘から見た中心近くの運動場

f:id:moritayuuzou:20210519191952j:plain

ラへ中心地の南側の緩やかな谷の中にある家

f:id:moritayuuzou:20210519192001j:plain

丘から見たラへ中心地域

f:id:moritayuuzou:20210519192039j:plain

薪を運ぶ婦人

 ミンカツさんと2人で町を見て歩いた後、12時過ぎから、町の中央部にある、運動場近くの食堂に入って昼食をした。ここで英語の話せるナガ族のダビド・アキン(34歳)さんに会い、いろいろ情報を得た。

f:id:moritayuuzou:20210519192013j:plain

物を入れて運ぶかごを背負った老婆

f:id:moritayuuzou:20210519192035j:plain

ラへ中心地の食堂

f:id:moritayuuzou:20210519192023j:plain

ラへの食堂で食べたナガ料理

f:id:moritayuuzou:20210519192027j:plain

食堂であったダビド・アキンさんと筆者

 ラヘは4地区に分かれており、人口は約6千人で、殆どがナガ族。インドのナガランドとの国境までは45キロだが、その間殆ど車の通れる道はないと言う。

f:id:moritayuuzou:20210519192019j:plain

ラへ中心地のモダンな家

 ここは国境に近い町なので、ミャンマー政府が、ナガ族をミャンマー化するために学校でミャンマー語を教えているそうだ。仏教徒が多くなっているが、本来アニミズムで、1月にはナガ族の大きなフェスティバルがあると言う。

f:id:moritayuuzou:20210519192005j:plain

中心地にあるナガ族の祭り会場

f:id:moritayuuzou:20210519192008j:plain

小屋の中の大きな木製太鼓

 彼と話している内に天候がおかしくなった。外に出て再び町を見ていると雨が降り始めた。小雨降る町を見て歩き、2時前には、ラヘを出て帰路に着いた。

f:id:moritayuuzou:20210519192043j:plain

山の上から見たラへの中心地域

f:id:moritayuuzou:20210519192047j:plain

ラへを見下ろす山の上に立つ筆者

f:id:moritayuuzou:20210519192051j:plain

案内してくれたミンカツさんと彼のオートバイ

f:id:moritayuuzou:20210519192054j:plain

帰る途中、ラヘ近くの路上にいた牛たち

 なんと言っても4時間以上は要るので、オートバイで急いだが、途中工事中であったり、フェリー待ちなどがあり、6時前には暗くなった。

f:id:moritayuuzou:20210519192105j:plain

帰る途中道路工事に会い、暫く待たされた

 暗くなってからチンドウィン川を渡り、午後6時半、ゲストハウスにやっと無事にたどり着いた。彼に約束の8万チャット(約7,000円)を払って別れた。往復9時間近くもかかったラヘへのオートバイの旅は、心身ともに疲れた。

ミャンマー北部探訪㉘ カムティの朝市の朝食

 カムティは午後10時に消灯し、その後は暗闇である。消灯後は何の音もないが、時々犬の鳴き声が聞こえるだけだった。

f:id:moritayuuzou:20210519185252j:plain

カムティの夜明け、午前7時前

 午前7時前に起床し、7時半からゲストハウス近くにある朝市に出かけた。ミャンマーでは朝市はどこも活気があるのだが、カムティの朝市も、人口3万人にしては大きくて活気があった。

f:id:moritayuuzou:20210519185301j:plain

常設市場の外にある街頭の朝市

f:id:moritayuuzou:20210519185351j:plain

朝市で売られていたいろいろな米

 中でも川魚を売っている場所は人出が多く活気があった。鯉のような大きな魚から、コハダのような小型の魚など、多種な魚が台の上に並べられていた。それに大きな川エビなどがあり、さすが大川のそばの町で、新鮮な川魚が売られていた。

f:id:moritayuuzou:20210519185323j:plain

朝市の川魚売り

f:id:moritayuuzou:20210519191150j:plain

大きなナマズ

f:id:moritayuuzou:20210519185317j:plain

大声をあげて元気よく魚を売る女性

 朝6時半頃から開いている朝市には、人出が多い。市場の中で朝食する人がいるので、食事場も多い。レストランとか食堂などの名称はふさわしくない、屋台のような場所が多い。中には街頭で揚げ物を売っているので、立ち食いもある。

f:id:moritayuuzou:20210519185256j:plain

朝市で揚げパンを作って売る女性

f:id:moritayuuzou:20210519185305j:plain

街頭で立ち食いする女性

f:id:moritayuuzou:20210519185309j:plain

朝市で揚げ物を作る女性

f:id:moritayuuzou:20210519185313j:plain

街頭でいろいろな種類の揚げ物を作って売る女性たち

f:id:moritayuuzou:20210519185336j:plain

朝市で揚げパン作りの小さな工場

f:id:moritayuuzou:20210519185355j:plain

揚げパン作り

 朝市の中でよく目にしたのは、米の麺、ビーフン料理であった。シャン・カウソエと呼ばれる一種のラーメンのようなものだが、一杯1000チャット(約73円)がよく食べられていた。

f:id:moritayuuzou:20210519185327j:plain

朝市の屋台食堂

f:id:moritayuuzou:20210519185331j:plain

ビーフン料理、シャン・カウソエを食べる女性たち

f:id:moritayuuzou:20210519185345j:plain

屋台食堂で朝食をとる家族

f:id:moritayuuzou:20210519185400j:plain

ビーフン料理を作る屋台食堂の女性

 中には米の蒸しパンや上げ餃子のようなものを食べている人がいたが、とにかく忙しいのだろう、ゆっくり食べている人は殆どいなくて、数分で食べ終える人が多かった。

f:id:moritayuuzou:20210519185341j:plain

朝市で売られていた円状の扁平な餅

ミャンマー北部探訪㉗ 川沿いの町カムティ

 ミャンマー西北部の山岳地帯にあるナガ族の町、“ラヘ”を訪ねるため、2017年11月26日に、マンダレーからカムティへ飛んだ。

f:id:moritayuuzou:20210519184151j:plain

カムティ飛行場

 カムティ空港に午後1時に着いた。初めての町で何も情報がなかった。空港のオフィサーに話しかけ、日本から来た旨を伝え、町までのタクシーと宿泊先を紹介してもらった。

f:id:moritayuuzou:20210519184358j:plain

宿泊したミヤナンタウ・ゲストハウス

 町は空港から5、6キロで、直ぐに紹介先の“ミヤナンタウ・ゲストハウス”に着いた。ゲストハウス近くのレストランでチャーハンを食べ、午後2時半から一人で街を見て歩いた。

f:id:moritayuuzou:20210519184156j:plain

レストランで食べたチャーハン

f:id:moritayuuzou:20210519184345j:plain

カムティの商店街

f:id:moritayuuzou:20210519184349j:plain

カムティの中心街

f:id:moritayuuzou:20210519184354j:plain

竹製品を売る店

 カムティはチンドウィン川上流の、川沿いの人口3万人の町で、川船による物資流通の拠点として栄えていたそうだ。もともとはシャン族中心であったが、今ではビルマ族も多くなっているとのこと。

f:id:moritayuuzou:20210519184332j:plain

中心街の川近く 

f:id:moritayuuzou:20210519184336j:plain

中心街の万事屋

f:id:moritayuuzou:20210519184205j:plain

オートバイの修理屋

f:id:moritayuuzou:20210519184316j:plain

 民家の庭での宴会?

f:id:moritayuuzou:20210519184320j:plain

店番をする子供

f:id:moritayuuzou:20210519184325j:plain

雑談をする婦人たち

 川沿いの街には“琥珀”を売る店があった。琥珀は、大昔の樹脂が地中で化石のようになった宝石の一種なのだが、聞くところによると、この近辺は琥珀が出土することでも知られているとのことだった。しかし、上質の琥珀マンダレーヤンゴンの方に持ち去られ、観光客や人口の少ないここにはあまり高価なものは置いていないとのことだった。

f:id:moritayuuzou:20210519185525j:plain

川沿いの通り

f:id:moritayuuzou:20210519184201j:plain

川沿いの通りの店で売られていた琥珀

f:id:moritayuuzou:20210519184341j:plain

街頭で琥珀片のネックレスを売っていた婦人

 午後4時頃から川沿いを歩き、川船が沢山停泊している様子を見た。大陸における川は、古来のハイウウェイで、船による物資流通にはなくてはならない道の役割をなしていた。

f:id:moritayuuzou:20210519184249j:plain

チンドウイン川沿いの土手の上

f:id:moritayuuzou:20210519185807j:plain

川船の停泊場所

f:id:moritayuuzou:20210519184219j:plain

川岸にもやった川船

f:id:moritayuuzou:20210519184223j:plain

川船での生活者

f:id:moritayuuzou:20210519184214j:plain

船室にいる生活者

 船上で生活する人も、陸上で生活する人も皆、川の水なくしては生きられないので、人々は日常的に川には馴染んでいる。この町には本来風呂もシャワーもなかったそうだ。彼らは年中川の水を使って生活していた。しかし、今、モダンな家にはシャワーはあるが、風呂はないそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210519184210j:plain

川沿いで洗濯する婦人たち

f:id:moritayuuzou:20210519184232j:plain

川沿いの洗濯風景

f:id:moritayuuzou:20210519184228j:plain

水浴びする少年たち

f:id:moritayuuzou:20210519184236j:plain

舳先に,航江中の安全を願って、神柴を生けている川船

f:id:moritayuuzou:20210519184241j:plain

川岸から船にわたる板橋

f:id:moritayuuzou:20210519184306j:plain

物資満載の川船

 夕方になると、タオルを肩に掛けた女性たちが、川岸に浮いた竹製の浮き台の上に、日本人が銭湯に入るように集まり、水浴びをしていた。まるで娯楽の一時のように、楽し気な活話が川面に響き、華やいでいた。

f:id:moritayuuzou:20210519184253j:plain

川岸にもやった竹製の浮き台のそばで水浴びする女性たち

f:id:moritayuuzou:20210519184258j:plain

水浴びに向かう女性

f:id:moritayuuzou:20210519184302j:plain

水浴びしながら浮き台の上で談笑する女性たち

f:id:moritayuuzou:20210519184312j:plain

夕方、川で釣りをする男性

 私は川沿の岸辺にころがっている、宝石のような青・赤・褐色・黒・白色などの珍しい石ころを見て歩いた。表面に凹凸のある鉄のように重い卵大の石ころを一つ拾い上げた。もしかすると“隕石”かもしれないと思い、ポケットの中に入れて持ち帰った。

f:id:moritayuuzou:20210519184245j:plain

上流から流れ来て丸くなった、川辺のいろいろな小石。

ミャンマー北部探訪㉖ プーターオの子どもたち

 私は、青少年教育団体の理事長をしているので、学校を見物したい旨を伝えると、ディンゴー君が、シャン族が住むカンキョ村にある“サーチ・ハイスクール”に案内してくれた。先ず女性校長のダケイ・チーチョさんに会い、私の英文の名刺を渡して、青少年教育の教育現場を見たい旨を伝えた。彼女は、日本から来たことに大変驚かれ、是非見て下さいと、2階建ての校舎を案内してくれた。

f:id:moritayuuzou:20210513105803j:plain

カンキヨ村の”サーチ・ハイスクール”の標識

f:id:moritayuuzou:20210513105758j:plain

校長のダケイ・チーチョさん

 この学校には小学校から高校までがあり、15~17歳のクラス、11~14歳のクラス、そして8~10歳までのクラスが同じ校舎の中にあるそうで、まず8歳からのクラスに案内された。子どもたちは教室の中で騒いでいたが、校長に私が紹介されると、キョトンとした表情で黙り込んで私を見詰めているだけだった。

f:id:moritayuuzou:20210513105742j:plain

8歳からのクラス

f:id:moritayuuzou:20210513105746j:plain

8歳のシャン族の少女 顔にタナカの化粧水をつけている

 次には11歳からのクラスに案内され、授業中を参観させてもらった。担当の先生が日本について説明し、子どもたちの中に入って記念写真も撮らせてもらった。次には2階の15歳からのクラスで36名の学生がいた。そこでは、日本人を見るのは初めてだということで、生徒たちに挨拶させられ、握手を求められた。

f:id:moritayuuzou:20210513105733j:plain

11歳からのクラス

f:id:moritayuuzou:20210513105738j:plain

教科書を音読する子供たち

f:id:moritayuuzou:20210513105750j:plain

11歳からのクラスでの筆者

f:id:moritayuuzou:20210513105730j:plain

筆者が挨拶をした15歳からのクラス

 1時間以上滞在し、校長に礼を述べ、記念品を渡してホテルに戻った。

f:id:moritayuuzou:20210513105754j:plain

案内してくれた女性校長と筆者

 翌日、12月1日は、プーターオから約16キロ西へ離れたアパーシャントン村を訪ねた。外国人が行ける西端の村。ここには約1,000人のロワン族が住んでいた。この村から山を越して、西へ向かうとインドのアッサム地方へ出る。山麓にあるこの村は標高が1,400メートルもあり、昔ながらの素朴な村で、小学校があった。丁度お昼時であったせいか、子どもたちが学校から帰宅途中で、よく見かけたので話しかけ、ロワン族の4人の女の子を撮影させてもらい、名前を聞き取った。

f:id:moritayuuzou:20210513105807j:plain

アパーシャントン村の小学校

f:id:moritayuuzou:20210513110612j:plain

下校中の子供たち

f:id:moritayuuzou:20210513105811j:plain

下校中の少女たち

f:id:moritayuuzou:20210513105815j:plain

子犬を抱いていた少年たち

f:id:moritayuuzou:20210513105819j:plain

アパーシャントン村の道沿いの家と子供たち

 コム ロームシーダーサル(11歳)、ラワン・サラ(10歳)、レダン・ワン(11歳)、ランプ―・ミンサン(10歳)たちで、初めは恥ずかしがって顔を隠したが、ポラロイドで撮影した写真を見せると大変驚き、10分もすると話かけてくるようになり、一緒に撮影までできた。

f:id:moritayuuzou:20210513105824j:plain

11歳のレダン・ワンちゃん

f:id:moritayuuzou:20210513105829j:plain

アパーシャントン村の4人の少女と筆者

 坂道を下っての帰路、ローワシャントン村で、小川に新しい橋をかけていた珍しい光景を見た。竹でかごを作り、その中に小石を入れて橋脚としての支柱を固定する橋のかけ方は、古代と変わりない方法なのだろう。

f:id:moritayuuzou:20210513105835j:plain

ローワシャントン村で橋を架ける作業中の村人たち

f:id:moritayuuzou:20210513105845j:plain

竹で石を運ぶかごを作る人

f:id:moritayuuzou:20210513105850j:plain

大変珍しい古来の橋づくり

 大変珍しかったので、橋づくりの共同作業を1時間ほど眺めた後、アンパン村にあったアワシャンカウ・ハイスクールを訪ねた。ジンポー族の校長ブラディー(46歳)さんと、シャン族の教師イクン・リン(35歳)さんの2人が応対してくれた。

 ハイスクールと言っても、中学生くらいの子どもが多く、近辺のロワン族、シャン族、リス族の子どもたちが約200人通っているとのことだった。 

f:id:moritayuuzou:20210513105854j:plain

アンパン村のアワシャンカウ・ハイスクール

f:id:moritayuuzou:20210513105906j:plain

左ブラディー校長、右イクン・リン教師と筆者

f:id:moritayuuzou:20210513105858j:plain

校庭でゴムトビをする子供たち

f:id:moritayuuzou:20210513105902j:plain

廊下にたたずむ子供たち

f:id:moritayuuzou:20210513105910j:plain

教室から外に出た子供たち

f:id:moritayuuzou:20210513105914j:plain

休息中の子供たち

 授業は参観できなかったが、外で遊び回る子どもたちを撮影させてもらった。私が見た限り、姿かたちは皆同じようで骨格や衣服では区別できなかった。皆、学校で習うミャンマー語を話して、楽し気に元気いっぱい遊んでいた。

f:id:moritayuuzou:20210513105918j:plain

ハイスクールの女学生

f:id:moritayuuzou:20210513105923j:plain

先生と学校園を耕す子供たち

 この後、案内人のディンゴー君の村を訪ね、彼の家に立ち寄ってからホテルに戻った。

ミャンマー北部探訪㉕ 朝市に多種の川魚

 12月初めのプーターオの早朝は、濃霧がたなびいて摂氏12・3度と肌寒い。

f:id:moritayuuzou:20210513101000j:plain

夜明けの朝6時ころから始まる朝市

 午後10時から午前5時頃までは電気の明かりがない町だが、夜明けの午前6時頃から朝市が開く。昔ながらの素朴な朝市で、近くの村々からやってきた売手と、食材を求める人々が大勢やってくるので、特に6時半から7時半頃までは、人出が多く混雑する。

f:id:moritayuuzou:20210513101013j:plain

朝市で黙って座っている娘さん

f:id:moritayuuzou:20210513101008j:plain

朝もやの中の屋外朝市(常設朝市の外)

f:id:moritayuuzou:20210513101021j:plain

野菜を売る娘さん

f:id:moritayuuzou:20210513100837j:plain

屋内の常設朝市

 本来の4大民族が、今では言葉がなんとか通じ、衣服や風習も類似しているので、私には見分けができなかったが、現地の人々には見分けられるとのことだった。

f:id:moritayuuzou:20210513100948j:plain

道端に物を並べる屋外の朝市

f:id:moritayuuzou:20210513100944j:plain

道沿いに並ぶ朝市

 とにかく、豊かな食材が所狭しと地上や長いテーブルの上に並べられている。高い山に囲まれたプーターオ平原には川が多く、エーヤワディー河の源流の1つでもある。その川にいる魚の種類が多いのに驚かされた。現地の人達に何度も尋ねたが、プーターオの川にいる魚だという。

f:id:moritayuuzou:20210513101018j:plain

地上にビニールを敷き、魚を並べて売る女性たち

f:id:moritayuuzou:20210513100842j:plain

いろいろな川魚が並べられている

f:id:moritayuuzou:20210513100952j:plain

魚を並べて静かに客を待つ

f:id:moritayuuzou:20210513100956j:plain

魚を売っていたかわいい娘さん

f:id:moritayuuzou:20210513101000j:plain

テーブル上に魚を並べて売る人たち

f:id:moritayuuzou:20210513101005j:plain

とにかく魚を売る人が多い

 海から1300キロも離れた山奥の高地に、海とはほぼ同じような魚がいる。サヨリ、チヌ(黒鯛)、コノシロ(コハダ)、ウツボ、ボラなど、私の故郷の海で見かけるような魚がいる。

f:id:moritayuuzou:20210513100856j:plain

次から次に買い手が来るので、8時ころまでには売り切れる

f:id:moritayuuzou:20210513100900j:plain

海の魚と見分けがつかない

f:id:moritayuuzou:20210513100846j:plain

川の子魚

f:id:moritayuuzou:20210513100913j:plain

大きなマスか?

f:id:moritayuuzou:20210513100904j:plain

男たちがとった魚を、女たちが朝市で売る

 海から遠く離れた内陸の山奥の川に、海とほぼ同じような新鮮な魚が朝市で売られている。今朝か、前日に獲った魚だと思うが、これらの魚たちは、川から海へ出たが、海から川をはるばる上って来たのだろうか。

f:id:moritayuuzou:20210513100909j:plain

海から遠く離れた山奥の川魚

f:id:moritayuuzou:20210513100917j:plain

”はたはた”のようなな魚

f:id:moritayuuzou:20210513100921j:plain

”さより”のような魚

f:id:moritayuuzou:20210513100925j:plain

ナマズと”ゴンズイ”のような魚

f:id:moritayuuzou:20210513100929j:plain

大ウナギか?

f:id:moritayuuzou:20210513100934j:plain

”アナゴ”のような魚

f:id:moritayuuzou:20210513100940j:plain

大ウナギ

f:id:moritayuuzou:20210513104622j:plain

取りたての”コノシロ”の様な魚

 いずれにしても、海と同じように、魚・カニ・エビなどの種類が多いのには驚かされた。人類と同じように、魚類も水を頼って遠くまで移動したのだろうか。プーターオで1番驚かされたのは、朝市において、新鮮な多くの海魚と同じような川魚が売られていたことだった。

ミャンマー北部探訪㉔ プーターオの高床式住居

 プーターオではシャン族のディンゴ君(31歳)が、日本製の車パジェロで2日間案内兼通訳をしてくれた。

f:id:moritayuuzou:20210512193950j:plain

日本製の車パジェロで案内兼通訳してくれた、シャン族のデインゴー君

 私は、いろいろな民族の住んでいる様子を見たかったので、彼に頼んでまず村々を訪ねることにした。彼は、プーターオから南へ10数キロ離れたマチャンボ地域まで行くことに同意し、午前11時半過ぎにホテルを出発した。

f:id:moritayuuzou:20210512193953j:plain

プーターオ郊外、シャン族の高床式住居

f:id:moritayuuzou:20210512193959j:plain

シャン族の老夫婦

f:id:moritayuuzou:20210512194003j:plain

シャン族の木製の家

f:id:moritayuuzou:20210512194007j:plain

シャン族の代表的な高床式住居

 まず最初のミタンの村へは12時15分に着いた。ここにはミズー族が住んでいるそうだ。次のナンパー村もミズー族。12時25分に着いたナムカイ村には、ミズー族、シャン(タイ)族、ジンポー(カチン)族が混住しているそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210512194538j:plain

ナンパー村の仏塔

 12時30分に着いたマチャンボ村には、約5000人のジンポー(カチン)族が住んでいるそうで、かなり大きな村であった。この辺からはもうプーターオではなく、マチャンボ地区になる。

f:id:moritayuuzou:20210512194553j:plain

マチャンボ村、ジンポー族の市場

 午後1時、水のきれいなムニカ川沿いのナムカイ村に簡易食堂があり、ビーフンのスープメンを500チャット払って食べる。

f:id:moritayuuzou:20210512193850j:plain

ナムカイ村の食堂

f:id:moritayuuzou:20210512193853j:plain

ナムカイ村食堂の台所

 午後1時半にジンポー族のブンボー村、そしてすぐ近くのワイポ村に着いた。車を止めて眺めただけで通り過ぎ、1時47分にはナムカム村に着いた。ここにはラワン(ロワン)族が約1400人住んでいるそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210512193857j:plain

ナムカム村、ラワン族の家

f:id:moritayuuzou:20210512193902j:plain

ナムカム村、竹製の家

f:id:moritayuuzou:20210512193906j:plain

ナムカム村、竹で垣根を作る村人

f:id:moritayuuzou:20210512193914j:plain

ナムカム村、チンゴ(やし)の葉で屋根をふいた家

f:id:moritayuuzou:20210512193919j:plain

ナムカム村、ラワン族の家の軒下

 外国人はこの村から遠くへは行けないと言うので、彼の案内で村を歩いて見ることにした。村の家は全て高床式だが、竹製と板製の2種類ある。屋根はトタンもあるが、“チンゴ”と呼ばれるパームヤシのようなヤシの葉で葺いている。トタン屋根は長持ちするが、家の中が夏は熱く、冬は寒くなる。昔からのチンゴは長持ちしないが、夏は涼しく、冬は暖かいので村人には好まれる。しかし、葺き替えに手間が要るので、若い人はトタン屋根にしたがるそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210512193910j:plain

”チンゴ”と呼ばれる椰子の一種

f:id:moritayuuzou:20210512193924j:plain

ナムカム村、トタン屋根の家

 この辺の村では、6月に稲の苗を植えて、10月から11月初めにかけて収穫するそうで、田の近くや屋敷の中に“サパティ”と呼ばれる米倉があった。1月には、稲株が残る田園が広がっているだけであった。

f:id:moritayuuzou:20210514100546j:plain

12月初めの稲株が残る収穫後の田園と仏塔

f:id:moritayuuzou:20210512194015j:plain

アパーシャントン村のラワン族親子

 ナムカム村からの帰り道、ムニカ川を渡ったすぐの村“マンコ”には、300人ほどのシャン族が住んでいた。その近くのドロンバン村にはラワン族が住んでいると説明されたが、ラワンとシャンの家は殆ど同じ型で、人も同じように見えたが、ディンゴ君によると女性の衣服や言葉使いが違うのですぐ分かるそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210512194011j:plain

アパーシャントン村、建造中の高床式住居

f:id:moritayuuzou:20210512195631j:plain

アパーシャントン村の井戸

f:id:moritayuuzou:20210512195636j:plain

ローワシャントン村、古い高床式住居

f:id:moritayuuzou:20210512195639j:plain

ローワシャントン村、モダンなシャン族の住居

f:id:moritayuuzou:20210512195643j:plain

竹製のトタン屋根の住居

 いろんな民族の村を見たが、私には家も人も区別がつかなかった。家は全て高床式で、何が違うのかよく分からないままだった。

f:id:moritayuuzou:20210512195648j:plain

シャン族の村にあった、大木の下の祠

 帰りにプーターオへの別の道を通って、途中マリカ川沿いにある、この地方で最も古い黄金色のカムロン・パコタを見物した。ここから川の遥か彼方に雪を被った高い山が見えた。

f:id:moritayuuzou:20210512193933j:plain

プーターオで最も古いカムロン・パコダ

f:id:moritayuuzou:20210512193929j:plain

カムロン・パコダから北西に見える冠雪の高い山

f:id:moritayuuzou:20210512193938j:plain

カムロン・パコダのそばを流れるマリカ川

f:id:moritayuuzou:20210512193942j:plain

カムロン・パコダにある長い髪の女性像

f:id:moritayuuzou:20210512200213j:plain

マリカ川で長い髪を洗う女性

 プーターオに戻って、マナウの開催場所に案内された。5本が並んでいるマナウ用の柱(ムノーダイ)に、大きなサイ鳥の木彫が横たわっていた。オチンと呼ばれる大サイ鳥は、一度つがいになると、ずっと寄り添っているので、幸運に恵まれる鳥だそうだ。

 午後5時半頃ホテルに戻り、プーターオの一日が終わった。

f:id:moritayuuzou:20210512193946j:plain

マナウ用の柱の前に立つ筆者

ミャンマー北部探訪㉓ 最北西端の町プーターオ

 2017年11月24日から、ミャンマー北部の民族踏査に訪れ、マンダレーから北のミッチーナーに飛んだ。ここから更に北西へ約300キロ離れたプーターオへは、山また山の悪路で、外国人が陸路で行くことは禁じられている。

f:id:moritayuuzou:20210512185859j:plain

プーターオの飛行場

f:id:moritayuuzou:20210512185855j:plain

飛行場で賓客を迎えるプーターオの人々

f:id:moritayuuzou:20210512185903j:plain

飛行場から見たプーターオの平原

 現地人も殆ど飛行機を利用するので、1日1往復の飛行便は、向こう3週間に空席なし。外国人はほぼ不可能に近いが、ミッチーナーの多くの人の協力を得て、特別に搭乗が許可されて、11月30日にプーターオを訪れ、3日間滞在することができた。

f:id:moritayuuzou:20210512185906j:plain

プーターオの中心地から東側の通り

f:id:moritayuuzou:20210513182105j:plain

プーターオの中心地にあるホテル

f:id:moritayuuzou:20210512191437j:plain

ホテルのベッド

f:id:moritayuuzou:20210512185910j:plain

中心地から北側の通り

f:id:moritayuuzou:20210512191202j:plain

オートバイ修理屋

f:id:moritayuuzou:20210512191152j:plain

ガソリン売り場

 プーターオは、標高1200メートルで、周囲を山に囲まれた広い盆地で、シャン族中心に多くの民族が住んでいる、人口3万人の町。もともとはシャン族の大きな尊長がいた村“ブダオン”を、19世紀後半にイギリス軍が侵入して、“PUTAO(プーターオ)”と表記したための地名。とにかく、ミヤンマーでも最もへき地で、外国人などほとんど訪れることのない、最北西端の山の中の町プーターオの人々をまず紹介しよう。

f:id:moritayuuzou:20210512190048j:plain

プーターオの田園

f:id:moritayuuzou:20210512185929j:plain

プーターオ郊外の村にあったパパイヤ

f:id:moritayuuzou:20210512191143j:plain

標高が高く朝もやの中での朝市

f:id:moritayuuzou:20210512191139j:plain

早朝は摂氏13度くらいで肌寒い

f:id:moritayuuzou:20210512190003j:plain

プーターオで食べたビーフン料理

 シャン族も自称はタイ族なのだが、イギリス人たちが、“シャンとかシャム”と呼称。現在のプーターオの中心地は本来“タイ・ヤムティ”と呼ばれていた。“カチン”と呼ばれる、“ジンポー族”もイギリス人の呼称で、現地の人々は、シャンやカチンの意味は分からないと言う。

f:id:moritayuuzou:20210512191210j:plain

朝市での婦人たち、何族かな?

f:id:moritayuuzou:20210512191206j:plain

朝市で見かけたジンポー族の婦人

f:id:moritayuuzou:20210512191156j:plain

シャン族(左)とジンポー族の娘

f:id:moritayuuzou:20210512192030j:plain

ミズー族の女性か?

 プーターオ地方には、大きく分けてシャン(タイ)、ミズー、カチン(ジンポー)、ラワン(ロワン)など4民族が混住している。イギリス軍が侵入して来るまでは、それぞれの民族が独立し、異なった言葉や風習があって、紛争が多かった。イギリス植民地時代になって、軍事力によって統合されて英語を話せる人が多くなり、紛争は少なくなった。

f:id:moritayuuzou:20210512185952j:plain

顔にタナカの化粧水を塗ったシャン族の女性

f:id:moritayuuzou:20210512185956j:plain

ジンポー族の娘

f:id:moritayuuzou:20210512191147j:plain

シャン族の婦人

f:id:moritayuuzou:20210512192424j:plain

ナムカム村のラワン族の女性

f:id:moritayuuzou:20210512190007j:plain

アパーシャントン村のラワン族の女性たち

f:id:moritayuuzou:20210512190018j:plain

ローワシャントン村のラワン族の女性たち

f:id:moritayuuzou:20210512190021j:plain

ローワシャントン村のシャン族の女性

f:id:moritayuuzou:20210512190041j:plain

シャン族の老婆

f:id:moritayuuzou:20210512190044j:plain

ジンポー族の婦人

 さらに独立後にはビルマ政府、そしてミャンマー政府の軍事力によって統合がなされ、今では学校でミャンマー語が教えられて、若い人たちは共通のミャンマー語を話せるようになっている。

f:id:moritayuuzou:20210512185938j:plain

カンキョ村のシャン族中心の小学生たち

f:id:moritayuuzou:20210512185941j:plain

カンキョ村のシャン族の少女

f:id:moritayuuzou:20210512190031j:plain

ドロンバン村のラワン族の子供たち

f:id:moritayuuzou:20210512192915j:plain

プーターオの朝、登校中の女学生

f:id:moritayuuzou:20210512193016j:plain

霧で霞んだプーターオの朝、登校中の男子学生

f:id:moritayuuzou:20210512190012j:plain

アパーシャントン村のラワン族の少女

f:id:moritayuuzou:20210512190027j:plain

アンパン村の学校の先生と筆者、左ジンポー族、右シャン族

 ビルマ戦線において、旧日本軍は、こんな山奥の僻地までは来なかったのか、ここでは日本軍に関することは一度も耳にしなかった。

f:id:moritayuuzou:20210512185920j:plain

ブンボー村で柿を切って干すジンポー族の婦人

f:id:moritayuuzou:20210512185925j:plain

ナムカム村のラワン族の親子

f:id:moritayuuzou:20210512190037j:plain

井戸から水を運ぶシャン族の婦人

 とにかく、多民族が混住する地域は、統合する軍事力がないと、不安・不信が強く、不安定な社会状態が続くのだが、今ではミャンマー政府の軍事力による統合が進んで、言葉・衣服・風習などが共通の生活文化となりかけている。

f:id:moritayuuzou:20210512193403j:plain

道路工事をする人々

ミャンマー北部探訪㉒ カチン州の踊る祭典”マナウ”

 ミャンマー北端のカチン州には沢山の部族がいる。カチンはビルマ語で、カチン州の人々は自分たちのことをカチンとは呼ばない。それぞれの部族、例えばジンポー、リスー、ロワン、タイ、アジン、トーチャン、ラショー、ザイワなどと呼ぶ。しかし、イギリス植民地当時に付けられたビルマ語、今日ではミャンマー語でカチン族などと呼んでいるし、カチン州が存在しているので、各部族を総称してカチン族としている。

f:id:moritayuuzou:20210511170738j:plain

カチン州立マナウ公園の入口

f:id:moritayuuzou:20210511170741j:plain

公園内の物産販売て

f:id:moritayuuzou:20210511170745j:plain

公園内のレストラン

 そのカチン州で年に一度の踊る祭典“マナウ”が、1月5日から開催され、全カチン州から各部族の代表がミッチーナーに集い、踊りを披露するのを見た。

f:id:moritayuuzou:20210409175754j:plain

ノーチャン族のコーウイン女史と筆者

 午前10時からマナウ会場の『カチン州立マナウ公園』を訪れた。中央から左側にはステージがあり、ファッションショーなどが催されたり、中国製などの商品展示会や物産展、販売店などがあり、いろいろな民族衣装の人出が多かった。

f:id:moritayuuzou:20210511170756j:plain

踊る祭典マナウの始まり

f:id:moritayuuzou:20210511170759j:plain

マナウ先頭の人たちのいでたち

f:id:moritayuuzou:20210511170804j:plain

一列になって踊る人たち

f:id:moritayuuzou:20210511170808j:plain

ノーチャン族の人たち

 中央から右の方に円形に囲われた運動場があり、中央に大きな柱が一列に6本立ち、小さいカラフルな旗を結び付けたロープが四方へ無数に伸びて、上空が華やいでいる。

f:id:moritayuuzou:20210511171436j:plain

中央の華やかに飾った6本の柱

f:id:moritayuuzou:20210511170815j:plain

民族衣装の女性たち

f:id:moritayuuzou:20210511170823j:plain

銀飾りを身につけて踊る婦人たち

f:id:moritayuuzou:20210511170828j:plain

両手を交互に振りながら踊る

 一列に並んだ柱の表にはステージがあり、マイクが7本立っている。柱の裏側には車輪のついた直径1メートル、長さ3メートルもある大太鼓が1つと、直径50センチほどの銅製の鉦(かね)が5個ずつ、2組吊るされている。

f:id:moritayuuzou:20210511170837j:plain

銅製の鉦を叩き続ける男たち

f:id:moritayuuzou:20210511170832j:plain

長さ3メートルもある大太鼓を叩き続ける男

f:id:moritayuuzou:20210511170850j:plain

中央の舞台の上で歌う7人の人たち

 ミッチーナーから北へ300キロ離れたカオリコンシャン地方から来たノーチャン族の中に、コーウィンという21歳の可愛い娘がいた。顔立ちは日本人と同じだが、頭に黒っぽい布の帽子を被り、首に黄色と柿色のビーズの輪をかけていたので撮影させてもらった。

f:id:moritayuuzou:20210511170842j:plain

中年女性も休むことなく踊り続ける

f:id:moritayuuzou:20210511170846j:plain

リズムに乗って楽しげに踊る娘さん

f:id:moritayuuzou:20210511171432j:plain

両方からきて中央で遭遇した先頭グループ

 午前11時過ぎから各部族が会場に入り、開会のセレモニーがあり、11時半から1列になって踊り始めた。音楽はステージに立つ7人が一斉に歌う。その歌の伴奏は、大鉦や大太鼓の打ち鳴らす音。野外ではあるが拡声されて耳がはじけるように鳴り響く。

f:id:moritayuuzou:20210511171443j:plain

渦巻き状になる隊列

f:id:moritayuuzou:20210511171446j:plain

渦巻き状になった隊列

f:id:moritayuuzou:20210511171439j:plain

渦巻き状から出る隊列

 踊る人たちは右回りと左回りの二手に分かれて、歌や太鼓のリズムに合わせて踊りながら進む。先頭は司祭者なのか長さ1メートルほどの太刀を捧げ持ち、次の5人の男は太刀を日本の神主が用いる笏(しゃく)のように捧げ持って、リズミカルに歩いている。その後に踊る人たちが、足を交互に前に出し、反対の足を寄せてステップを踏み、次には後の足を前に出しながら、両手を交互に振り上げつつ前に進む。

f:id:moritayuuzou:20210511171450j:plain

太刀を持つ先頭の人たち

男も女も同じように踊るのだが、参加者の数は女性が多い。どの部族も一般的に男の衣装は地味だが、女の衣装はカラフルで目立つ。男は弓矢、刀、槍などを手にしている人がいるが、女は素手か布を持っている人が多い。

f:id:moritayuuzou:20210511171454j:plain

太刀を手にして踊る男たち

 一列縦隊の踊り手たちは、先頭に従って交差したり、円形や渦巻き状になったり、斜めに進んだりと行動様式は少々変化するが、1時間たっても休むことなく踊り続ける。

f:id:moritayuuzou:20210511171458j:plain

女性は布を手に、男性は太刀を手にして踊る人が多い

f:id:moritayuuzou:20210511171501j:plain

踊るコーウインさん

 最初の1時間は、私自身興奮して撮影とリズムに陶酔気味であったが、さすが1時間半も過ぎると、雰囲気に飽きるというよりも、呆れ返ってしまった。

f:id:moritayuuzou:20210511171505j:plain

1時間以上も踊り続けている娘さん

f:id:moritayuuzou:20210511171510j:plain

1時間半以上も休むことなく会場内を進み続ける隊列の先頭

 彼らは水も飲まないし、食事もしないで、歌や太鼓、鉦のリズムに乗って、休むことなく踊り続けている。共同体の集団的陶酔感によるのだろうが、歌う人たちの声帯や太鼓や、鉦を叩く人の腕の筋力がよく続くものだと感服させられた。踊りは3時間程続くそうだが、私は、他にも用事があったので途中で退席したので、最後まで見届けられなかった。 

f:id:moritayuuzou:20210511170819j:plain

1時間半以上も踊り続けている女性たち

ミャンマー北部探訪㉑ ミッチーナーの路上マーケット

 ミッチーナーは、エーヤワディー河沿いにある、人口30万人もの大きな町。川沿いには常設の大きなマーケットがある。人口増加が激しいので、それでは足りなくなったのか、夕方になると、川沿いのマーケット街から直角状に延びた、駅近くのZay Gyi St(ザイ・ギー街)と呼ばれる大通りの、川寄りの一部が交通止めになって、巨大な路上マーケットが開かれる。近郊の農民や漁民などが直接物を持ち込んで、直販的な市場。

f:id:moritayuuzou:20210511165436j:plain

午後4時ころから路上マーケットが始まる

f:id:moritayuuzou:20210511165440j:plain

準備をする人々

f:id:moritayuuzou:20210511165813j:plain

道路の中央に商品を置く

f:id:moritayuuzou:20210511165447j:plain

いろいろなものが売られている

f:id:moritayuuzou:20210511165443j:plain

午後4時半頃

 ミャンマー北部では、私の知る限り一番大きな路上市場で、どのような具合に開かれているのか、取材できなかったが、とにかく午後4時頃から、広い道路の中央部に、あっという間に物がどんどんと置かれ、両側を人が行き交う、長さ300メートルほどの路上マーケットが発生する。

f:id:moritayuuzou:20210511165450j:plain

午後5時頃

f:id:moritayuuzou:20210511165454j:plain

エーヤワデイー河で採れる魚

f:id:moritayuuzou:20210511165458j:plain

料理用の酢みかん売り

 売られている物は新鮮な野菜、果物、川魚、それに食料品類などが多いが、とにかく日常生活に必要なものはたいてい何でもある。

f:id:moritayuuzou:20210511165501j:plain

午後5時半頃

f:id:moritayuuzou:20210511165505j:plain

人出が多くなる

f:id:moritayuuzou:20210511165509j:plain

5時から6時ころまでがピーク

f:id:moritayuuzou:20210511165514j:plain

川魚売り

 午後5時頃から6時頃に人出が一番多く、夕暮れが近くなるとマーケットの人は徐々に少なくなり、路上の市場もあれよあれよという間に消えてなくなる。暗くなると、いつもと変わりない車の通る道になる。

f:id:moritayuuzou:20210511165521j:plain

午後6時頃

f:id:moritayuuzou:20210511165525j:plain

豆腐も売られている

f:id:moritayuuzou:20210511165530j:plain

6時ころまでは大変賑やか

f:id:moritayuuzou:20210511165534j:plain

6時を過ぎると徐々に人が少なくなる

f:id:moritayuuzou:20210511165538j:plain

6時半頃には客が去る

 ミッチーナーには2015年以来3度訪れたが、最も活気があり、人出が多かったのは、2016年1月に見た、この夕方に発生する路上マーケットであった。

f:id:moritayuuzou:20210511165541j:plain

市場近くで客を待つオートバイタクシー

ミャンマー北部探訪⑳ ジンポー族のケタプー村

 ミッチーナー2日目の午前9時半、ラー・ターウンさんがホテルにオートバイで来た。今日は彼のオートバイでミッチーナー郊外を案内してもらうことになった。彼はヘルメットを被り、シャツの上にジャンパーを着て、腰下にロンジーと呼ばれる布を巻いてオートバイにまたがっている。私もヘルメットを被って彼の背後にのり、落ちないように彼の腰に両手をあてる。 

f:id:moritayuuzou:20210511163252j:plain

観光地ツオブンの展望塔

f:id:moritayuuzou:20210511163243j:plain

展望塔から見るミッチーナ平原

 いろいろ回って、午後1時過ぎにツオブンと呼ばれる観光地に着き、丘の上の展望塔に上がって周囲を見渡した。ミッチーナーの平原が一望できる見晴らしの良い所。日曜日なので若者が多かった。ラー・ターウンさんは高所恐怖症らしく、20メートルもの塔に上って来なかったので、若者たちに話しかけて記念写真を撮ってもらった。 

f:id:moritayuuzou:20210511163248j:plain

ツオブンにいた娘さんたち

f:id:moritayuuzou:20210511163256j:plain

展望塔から降りるロンジー姿の少女たち

 ツオブンから町に帰る途中、道沿いの食堂で遅い昼食をした。そこの店の名物料理で野生の乾燥鹿肉のサラダを食べた。大変美味で、ビールのつまみに最高であった。他には焼きそばのようなビーフンを食べた。

f:id:moritayuuzou:20210511163301j:plain

乾燥鹿肉のサラダ

f:id:moritayuuzou:20210511163307j:plain

食堂の娘さん

 午後3時前に、ミッチーナーの北2キロにあるジンポー族の住むケタプー村を訪れた。カチン州にはカチン族はいない。カチンはイギリス人がつけた呼称で、現地の人々はその意味や理由を知らなかった。

f:id:moritayuuzou:20210511163312j:plain

ケタプー村の田園

 ラー・ターウンさんによると、カチン州の総人口は約150万人で、その中心地ミッチーナーには約30万人が住んでいる。そして人口の40%がジンポー族。ジンポー族はミッチーナー地方に多いが、各地に散在しているそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210511163317j:plain

ジンポー族のツオンさん

f:id:moritayuuzou:20210511163322j:plain

ツオンさんの家

f:id:moritayuuzou:20210511163329j:plain

ツオンさんの家の中

 ラー・ターウンさんは、このケタプー村で英語教室を開いているので、教え子や知人が多かった。彼は私を自慢気に連れ廻っていたが、そのうちに、一般的な木製の高床式住居の家を訪れ、65歳のツオンさんに紹介された。彼女は、彼の教え子の母親で親しいのだそうだ。彼らが楽し気に話している内に、近くに嫁いでいる娘のターマイ(25歳)さんがやって来た。彼女は、10代の時に2年間英語を習ったそうで、彼とは親しかった。彼女は、日本人に会うのは初めてと、驚きの表情をしていた。しかし、彼女の母親のツオンさんは、日本の兵隊がこの村にも来ていたことを両親から聞いていた。若いターマイさんは何も知らなかったが、65歳の母親は日本兵のことを聞き知っていた。

 近くの老人は、日本兵からいろいろなことを教えられたそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210511163333j:plain

ツオンさんの娘ターマイさん

 朝起きたら顔を洗って歯を磨き、部屋を掃除する。水ではなくお湯を浴びる。嘘をついたり騙したりしてはいけない。他人の物を盗んではいけないとよく叱られたそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210511163342j:plain

ケタプー村道沿いの家

f:id:moritayuuzou:20210511163347j:plain

庭に植えられたバナナ

 その老人は、80歳過ぎても少年時代に教えられたことをよく覚えていると言っていたそうだ。

 日本人にとってはごく普通のことなのだが、当時の少年にとっては、見たことも聞いたこともないことが多く、大変新鮮に感じられたのだろう。

f:id:moritayuuzou:20210511163338j:plain

ケタプー村の道

 ケタプー村はミッチーナーに隣接している村だが、道はまだ未舗装で、高床式の木や竹で作られた家が多く、昔ながらの田舎のような村で、人々は大変純朴で親しみやすかった。

f:id:moritayuuzou:20210511163351j:plain

ミッチーナーに戻ってからのぞいた夜店

ミャンマー北部探訪⑲ ミッチーナーの日本残像

 ミャンマー北部を訪れるにあたり、北端の町ミッチーナーには、日本兵の慰霊碑があることを聞いていた。観光客などあまりゆく所ではないが、民族踏査もかねて行くことにした。

f:id:moritayuuzou:20210510184331j:plain

ミッチーナー空港

 私は、2015年1月2日、マンダレーからミャンマー北端チン州の州都で、エーヤワディー河沿いのミッチーナーへ飛んだ。

f:id:moritayuuzou:20210510184841j:plain

ミッチーナー郊外のエーヤワデイー河

 マンダレーのホテルから“シン・ジャン・ホテル”に電話予約をしていたので、空港からタクシーを走らせた。夕方であったせいか車が多く、人出もあって活気はあるが、街の整備がまだ不十分で雑然としていた。

f:id:moritayuuzou:20210510184335j:plain

ホテルの屋上から見た北西側市街

f:id:moritayuuzou:20210510184340j:plain

ホテル屋上からの西側市街

 ホテルに英語を話せる人がいたので、明日から3日間の通訳兼ガイドを捜してくれるように頼んだ。  

 翌3日の朝、ラー・ターウンとういう40歳の男が来てくれた。彼は英語教室を開いており、政府公認の通訳だと言って身分証明書を見せてくれた。

f:id:moritayuuzou:20210510184345j:plain

カレン州ジンポー族の料理店

f:id:moritayuuzou:20210510184417j:plain

カレン料理を食べる筆者

 ミッチーナーは人口約30万人の大きな町だが、ここにも日本軍が1942年ころから進駐していた。しかし、イギリス・アメリカ・国民党重慶の連合軍に反撃され、双方に多くの死亡者が出た。なんとしても死守せよと参謀本部から玉砕を求められていたが、1944年8月、ミッチーナー守備隊の最高司令官の水上源蔵少将は、部下をおもんばかり、全軍にミッチーナーからの退去命令を出し、自らは軍命令に違反した責任を取って、ミッチーナー対岸のノンタロー村で8月3日に自決した。

f:id:moritayuuzou:20210510184314j:plain

水上源蔵少将の墓参当時の写真コピー

f:id:moritayuuzou:20210510184404j:plain

舟でエーヤワデイー河を渡り、水上少将の自死地を訪ねる筆者

 生き延びて帰国できた元兵士や遺族が、戦後この地を訪れて慰霊の寺院や碑、塔を建立していた。私は、その痕跡を確認することも兼ねてやって来た。

f:id:moritayuuzou:20210510184421j:plain

ミッチーナーの学校

f:id:moritayuuzou:20210510184425j:plain

ミッチーナーの散髪屋

 ラー・ターウンさんの案内で、市内を巡ることにした。まず対岸のノンタロー村跡を訪れてから、当時の激戦地の一つでもあったホテル近くの古いミッチーナー駅近辺を見て回った。

f:id:moritayuuzou:20210511162818j:plain

先に汽車が停車しているところがミッチーナ駅

f:id:moritayuuzou:20210510184327j:plain

ミッチーナー駅前の大樹”コッコ”

f:id:moritayuuzou:20210510184359j:plain

駅前通リの一部

f:id:moritayuuzou:20210510184355j:plain

駅前の店

 駅前には、現地語で“コッコ”と呼ばれるニセアカシアのような巨木が生えていた。もう100年以上も生え続けているそうなので、日本兵たちも見たことだろう。もしかすると、雨・霰とやってくる弾雨に晒されていたかもしれないし、この木の下で戦死した兵もいたかもしれない。

f:id:moritayuuzou:20210510184350j:plain

駅前通りの屋台

 この後サイカ(三輪タクシー)で町の北西になる時計塔へ行った。大きな通りの十字路に、緑色の高さ10メートルほどの塔があり、4面に丸い大きな時計が設置されていた。これは、生き残った兵士たちが、戦友の慰霊碑として建立したものであった。その足元の銅板には、“第18師団(菊兵団))、第56師団(龍兵団)、軍直配属部隊”と記されていた。

f:id:moritayuuzou:20210510184319j:plain

慰霊碑の時計塔(拙著写真のコピー)

f:id:moritayuuzou:20210510185526j:plain

時計塔の足元の銅板

 時計塔を後にし、町の東北のエーヤワディー河沿いにあるスータ・ウンビー・パヤを訪ねた。ここには福岡県の坂口睦さんが寄贈した2000年4月に着工し、2001年1月に完成した巨大な寝仏があった。

f:id:moritayuuzou:20210510184310j:plain

日本人が作らせたスータ・ウンビー・パヤの巨大な寝仏

f:id:moritayuuzou:20210611151541j:plain

寝仏に膝まづく現地の人々

 私は寝仏に手を合わせ、この地で死せる兵士たちへの供養のつもりで、僅かであるが寄付させてもらった。我らが先輩たちは、この地でも大変な苦労をされ、尊い命を落とされていることを肝に銘じて、寝仏に別れを告げた。

f:id:moritayuuzou:20210510185759j:plain

中国製のオートバイに乗るミッチーナーの若者たち

f:id:moritayuuzou:20210512135154j:plain

詳しくは、拙著をご覧ください。 

 

ミャンマー北部探訪⑱ ラーショーの温泉と田園風景

 ラーショーには温泉があるというので、着いた日の午後4時から、三輪タクシーを雇って行って見ることにした。旧ラーショーの中心街にあるホテル前の坂道を下って、西方の新市街を通り抜けて、大きな道を7~8キロ進んだ右側に、“ラーショー温泉”と英語で表記された看板と門があった。

f:id:moritayuuzou:20210507101409j:plain

ホテル前でチャーターした三輪タクシー

f:id:moritayuuzou:20210507101404j:plain

ラーショー温泉の入口

 そこを右折して小道に入り、田園地帯を3~4キロほど進んだ所に小さな森があった。温泉はそこにあり、入場料3米ドル払って森の中に入った。

f:id:moritayuuzou:20210507101400j:plain

小道に入った最初の橋の上

f:id:moritayuuzou:20210507101346j:plain

日本のような田園地帯

 温泉は、森を通り抜けた田園の中のやや低い所にあり、長さ200メートル、幅3~40メートルの池になっていた。その低い方の一番端をコンクリートで仕切り、長さ20メートル、幅10メートルくらいのプールのようにしている所が入浴場所。

f:id:moritayuuzou:20210507101335j:plain

田園地帯の低地が大きな池になっている温泉

f:id:moritayuuzou:20210507101339j:plain

池の一部を仕切って入浴用としている

f:id:moritayuuzou:20210507101343j:plain

仕切られた温泉池

 入浴場の近くの平地は歓楽地のようになっているので、現地の人が多く訪れているが、外国人も入場料を払えば自由に入れる。広場の椅子に座って歓談したり、飲食している人、温泉に入っている人、岸辺で洗濯している人もいる。池の岸辺で洗濯しているのであまり感じは良くないが、はるばるこんな遠くまで来た思いがあり、記念にと思い、パンツ一枚になって入口近くの方で温泉に入った。

f:id:moritayuuzou:20210507101331j:plain

温泉池のふちに座る現地の人たち

f:id:moritayuuzou:20210507101328j:plain

温泉池のふちで洗濯する女性たち

 中は階段になって段々深くなり、3段目以下は背が届かなくなった。反対の広場のある方が段は緩やかで、現地の人はそちらで浸かっている。水温は40℃以上もあるようでかなり熱く感じられたが、泳いでいる人もいた。

f:id:moritayuuzou:20210507101324j:plain

温泉に浸から筆者

 15分ほど肩まで浸かっていたが、熱くなって外に出た。岸辺のコンクリートの上に座って、しばらくの間大汗をかいた。 

f:id:moritayuuzou:20210507101320j:plain

壁に「ラーショー温泉へようこそ」と、英語で表記されている

f:id:moritayuuzou:20210507101317j:plain

夕方の温泉風景

 温泉からの帰り、日本と変わりない爽やかな夕暮れに、田園の中の一本道を、三輪タクシーに揺られながら、この地に3年近くも駐留していた日本の兵隊さんたちは、この温泉に浸かったのであろうか、と70数年前の若い兵士たちが裸で戯れている残像を想像した。

f:id:moritayuuzou:20210507101355j:plain

夕暮れ迫る温泉近くの田園地帯

f:id:moritayuuzou:20210507101350j:plain

日本の田舎のような温泉近くの村

 温泉に浸かった後の解放感もあったであろうが、日本の田舎に似たような田園風景に、何とも言われない郷愁に駆られながら三輪車に揺られてホテルに戻った。

ミャンマー北部探訪⑰ 丘の上の町ラーショー

 ピン・ウールインの町から乗り合いタクシーで、約250キロ北のラーショーに向かった。山坂越えて大変厳しい道を走り、約5時間で着き、町の中心部にある1泊20米ドルのロイヤル・グランド・ホテルに泊まることにした。

f:id:moritayuuzou:20210506195337j:plain

ピン・ウルチンからの乗り合いタクシー

f:id:moritayuuzou:20210506195341j:plain

ピン・ウルチんからラーショーまでに5,6か所あった検問所

 ミャンマーでも辺境の中国との国境に近いこの地に、今から73年も前に、日本軍が山や谷、川の多い大地を数日間で2~300キロも走り抜け、イギリス軍が駐留するラーショーを攻撃したと聞いていたが、当時としては信じがたい神業のような速さだ。

f:id:moritayuuzou:20210506195344j:plain

ラーシー旧市街地の一部

f:id:moritayuuzou:20210506195424j:plain

ラーショー中心街にあるロイヤル・グランド・ホテル

f:id:moritayuuzou:20210506195419j:plain

ホテル前の東西に続く緩やかな坂道

 ラーショーは、人口15万人もの大きな町なのだが、最初は丘の上にできたシャン族の要塞化した村であったそうだ。今でも町の中心である旧市街地は丘の上にある。

f:id:moritayuuzou:20210506195411j:plain

南北に長い丘に広がったラーショーの町

f:id:moritayuuzou:20210506195415j:plain

ラーシーの中心地(西側の丘から撮影)

 イギリスが植民地化してできた新しい町は、旧市街から約3キロ西の平地にある。マンダレーから中国雲南省昆明に物資を運ぶためにできた、鉄道のラーショー駅も3キロ余り南西の平地にある。

f:id:moritayuuzou:20210611151051j:plain

ラーショーの繫華街

 古くからの町と植民地化によって作られた町の2重構造的なラーショーは、駅近くの大ラーショーと丘の上の小ラーショーの2つの地区に分けられている。小ラーショーはシャン族の居住地域で、マーケットや商店街、病院、郵便局、消防署などがあり、今も人口が多く中心地になっている。

f:id:moritayuuzou:20210506195353j:plain

ラーショー中心街の夜店

 ラーショーは、古くから雲南地方への通商の中継地として栄えた町であった。特に、旧日本軍が1940年頃から中国大陸の東海岸地帯を占拠して以来、米英連合軍が蒋介石率いる中国国民党軍を支援する重要拠点になった。そのため、首都を南京から重慶に移動した国民党軍は、英米との話し合いの下にいち早くラーショーに派兵し、守備についていた。

f:id:moritayuuzou:20210506195357j:plain

街の屋台

f:id:moritayuuzou:20210506195400j:plain

屋台に並ぶ料理

 1942年4月末にラーショーを占領した日本軍は、ここを拠点にして北の雲南地方にまで侵攻したが、1945年4月には、英米支連合軍に反撃され、南へと撤退したという。

f:id:moritayuuzou:20210506195408j:plain

夜の屋台で食事する女性たち

f:id:moritayuuzou:20210506195404j:plain

ラーショーでの筆者の夕食

 ミャンマービルマ)語でシャムとかシャンとか呼ばれる人々は、自称タイなのだが、タイ族は、北の中国大陸の方から移動してきた民族なので、国民党軍の兵士たちとは言葉は違っても顔形はほぼ同じ。そんなこともあって、シャン州、特にラーショー近辺の人々は、中央部のビルマ族を中心とした独立国ビルマ、1989年6月以後はミャンマーに対して、国民党の残兵と共に反政府運動が活発であった。そんなこともあって、ラーショーは数年前まで政情が不安定とのことで、外国人の立ち入りが長く禁止されていた。

f:id:moritayuuzou:20210506195429j:plain

街の中のガソリン売り場の女性たち

 ラーショーにはシャンと呼ばれる人々や国民党の残留兵もいて、街中に漢字が見られる。それにインド系のヒンズー教徒やイスラム教徒もいるし、仏教徒ビルマ族キリスト教徒のシャン族もいるので、仏教寺院や仏塔、教会、イスラム寺院のモスクなどもある。

f:id:moritayuuzou:20210611151204j:plain

ラーショー中心街

f:id:moritayuuzou:20210611151047j:plain

ラーショー中心地の白いモスク

f:id:moritayuuzou:20210611152131j:plain

ラーショー中央部の学校

f:id:moritayuuzou:20210611152023j:plain

ラーショー西部にあるラーショー大学の入口

f:id:moritayuuzou:20210506195348j:plain

ラーショー郊外の仏塔

 ラーショーは南北に続いた山の尾根にできた町。山の尾根から南西の斜面に家が密集している。赤褐色に錆びたトタン屋根の木造の2階や3階建ての家が密集する中にポツリ、ポツリと3~5階建ての近代的なビルがある。そして、旧市街の真ん中辺りに、大きな白亜のモスクがある。あちこちに仏塔や寺院もあるが、モスクが最も目立っていた。

f:id:moritayuuzou:20210506195433j:plain

ラーショー郊外沿道のみかん売り

 

ミャンマー北部探訪⑯ 桜並木のあるピン・ウールイン

 1981年1月、マンダレーから70キロ東のピン・ウールイン(旧名メイミョー、日本軍の司令所があった町)へ向かった。「ヒロミ・イン」という名の宿泊所は日本人が経営しているというので、予約の電話を入れておいた。

f:id:moritayuuzou:20210506194028j:plain

ヒロミ・インの入口

f:id:moritayuuzou:20210506194041j:plain

ヒロミ・インの玄関に立つ筆者

 ヒロミ・インに着くと小柄で中年の美女が応対してくれた。日本人かと思いきやミャンマー人で、10年間大阪で働いている時、日本人技師と結婚して、数年前にミャンマーに戻り、夫と2人でヒロミ・インを始めたという。しかし、夫は今病気療養のためヤンゴンに滞在中なので、1人で経営の切り盛りをしているそうだ。

f:id:moritayuuzou:20210506194045j:plain

ヒロミ・イン入り口での筆者

f:id:moritayuuzou:20210506194036j:plain

筆者が宿泊したコテージ

 標高1,100メートルのピン・ウールインは、イギリス植民地時代から避暑地として有名な町であり、早くから西欧化していた。

f:id:moritayuuzou:20210506194032j:plain

西洋風の庭園

 イギリス統治時代からの旧名“メイミョー”は、“メイの町”、すなわちここを切り開いたイギリス人のメイさんの名前の町名であったので、独立以後、“ピン・ウールイン”、“ピン”は高原を意味するので“ウールイン高原”という地名に変更された。

f:id:moritayuuzou:20210506194050j:plain

ピン・ウールインの松の木

f:id:moritayuuzou:20210506194054j:plain

ピン・ウールインの竹

 ヒロミ・インから馬車で中心地に出た。市場や有名な時計塔を見た後、午後1時半に市中心地から約2キロほど離れた町の東側の林の中にある、ヒロミ・インに歩いて戻ることにした。

f:id:moritayuuzou:20210510154153j:plain

中心街の時計塔(拙著写真のコピー)

f:id:moritayuuzou:20210506194020j:plain

桜の街路樹

f:id:moritayuuzou:20210506194024j:plain

コヒガンサクラのような桜の花

 その途中、何度か桃色に咲いた桜の花を見た。特にサーキュラ通りに面した両側に桜の木が多かった。ここの桜は、山桜に近く、花が小さくて桃色なので、信州高遠のコヒガン桜のようで美しい。“チェリーバン”と呼ばれる桜は、12月から1月にかけて咲くそうで、もう終わりかけているとのことだった。

f:id:moritayuuzou:20210611151336j:plain

桃色のコヒガンサクラのような花

f:id:moritayuuzou:20210506194015j:plain

街路の桜の樹

 ここは、イギリス人の避暑地として誕生した町なので、植民地時代の建物が林の中に多く点在するのだが、1942年5月にマンダレー地方を制覇した日本軍も、いち早くこの地に陸軍の戦闘指令所を設置し、撤退するまでの約2年半の間、ミヤンマー北部戦闘指令の中心地としていた。

f:id:moritayuuzou:20210611151340j:plain

ミヤンマー国軍施設の中の平地にある日本軍の墓地

f:id:moritayuuzou:20210611151344j:plain

ピン・ウールインの国軍施設の中にある「陸軍墓地」の碑

 道沿いの林の中には、かつての立派な豪邸があり、桜と古い大きな邸宅を見ながら、地図を頼りにゆっくり歩いて、午後3時すぎに、やっとヒロミ・インにたどり着いた。

f:id:moritayuuzou:20210512135154j:plain

平成27年9月に出版した拙著

ミャンマー北部探訪⑭ インワの遺跡

 マンダレーからエーヤワディー河に沿って南に下り、インワ鉄橋を過ぎて真っすぐ延びる道を進むと、ラーショーの方から流れているミンツゲー川に突き当たって行き止まりになっている。そこの船着き場からボートに乗って対岸に渡った所がインワの町。

 インワは、1364年にシャン族の都となったが、やがてビルマ族の都となって栄えた。しかし、1752年にはモン族の攻撃を受けて破壊された。そして、再びビルマ族の王都となって復活したが、1838年に発生した大地震で壊滅的な被害を受けた。そして、1841年には、近くのアマラプラへ遷都した。それ以来、インワが王都になることはなかった。

 私は、船で渡った後、馬車をチャーターして2時間かけて、インワの遺跡を見て回った。

 現在のインワは、いくつかの集落と化し、王宮跡は畑になっており、畑の中に立派な仏塔や壊れた寺院などの建物があり、林の中に厚い城壁があったり、王都の遺跡がいたるところに残っている。

 最後に見たのは、1834年に建てられた総チーク材の立派なバガヤー僧院であった。建物全体が木彫りで装飾されており、暗いお堂の中には仏像があり、200年以上も静かに佇んでいるような神秘的な雰囲気があった。

 それにしても、インワは多民族地域の王国の盛衰の激しさが思いやられる、歴史的証明のような場所だ。大陸における独立国の維持がいかに困難であったかの思いにかられながら、馬車にゆられて船着き場に戻った(残念だが、インワの写真が見当たらない)。