ミャンマー北部探訪⑮ ミングオンの大鐘

 マンダレーから10キロほどエーヤワディー河をのぼった川沿いにあるミングオンは、王都になったことはないが、史跡があり、マンダレーから近いこともあって有名な観光地になっている。

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マンダレーから対岸のミングオンにわたる筆者

 私はマンダレーから船で半日間の観光に出かけた。マンダレーヒルの対岸にあるミングオンには、巨大な仏塔跡があることでよく知られている。

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 エーヤワディー河の船上から見たミングオン・パヤ(仏塔)の台座

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遠くからでもよく見えるミングオン・パヤの台座

 それは、ビルマ族のボートーパヤー王(1782~1819)が、世界最大の一辺140メートルの仏塔を造ろうとしたが、残念ながら建設途中に亡くなり、1790年から工事が中断したままになっているミングオン・パヤの台座のことである。

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巨大なミングオン・パヤ台座の入口

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壊れかけたミングオン・パヤの上部に上がる新設された階段

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ミングオン・パヤの上から北方への眺め

 ミングオン・パヤと呼ばれるこの仏塔は、1839年の地震で大きなヒビが入って、ところどころ崩れかけているが、補修されて上部に上ることができる。私は、仏塔の上に登って周囲を眺めた。

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ミングオン・パヤの上に立つ筆者

 この近くに、“ミングオンの鐘”と呼ばれる世界一巨大な鐘がある。これは、建設中の巨大な仏塔のために、ボードーパヤー王が1808年に造らせたのだそうだが、塔が完成しなかったので近くのお堂の中に吊られたままになっている。

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ミングオンの鐘が吊るされている建物

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世界一大きなミングオンの鐘

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ミングオンの鐘のそばに立つ筆者

 この鐘は口の外径が約5メートル、重さ90トンもある、ヒビの入っていない鐘では、今も世界最大級だそうだ。私は近づいて触って見たが、本当に大きな鐘で、当時の王の卓越した見識に驚かされ、近くに佇んでしばらく眺めた。その後、隣にあった白亜の仏塔シンピューメェを見た。

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シンピューメェの入口

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白亜の仏塔シンピューメェ

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横から見た、七段になっているシンピューメェ

 シンピューメェは、バーヂード王(1819-1837)が、王子時代に他界したシンピューメェ婦人を偲んで建てた仏塔で、須弥山の山並みを表現した、7段の回廊があり、本堂の正面には仏像が安置されている。 

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シンピューメェの中にある仏像

 2時間程見物し、熱かったので、果物を買って食べたが、甘くなく酸っぱかった。

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切り売りしているマンゴーやパイナップルなど

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ミングオンで見かけたコブウシの牛車

ミャンマー北部探訪⑬ 僧院の僧侶たちの食事

 ウー・ベイン橋を見終えて、車に10時に戻ると、運転手が、僧院の僧侶たちが10時15分から一斉に食事をするので、是非見るようにと勧めてくれた。彼の案内で橋の近くにあった大きなマハーガンダーヨン僧院を訪ねると、すでに沢山の観光客が取り巻いていた。

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マハーガンダーヨン僧院の僧侶の洗濯物

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マハーガンダーヨン僧院の中庭

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僧侶たちの宿舎

 マハーガンダーヨン僧院は、ミャンマー国内最大級、最高位の僧院のひとつで、約1,500人の僧が修行しているそうだ。その僧たちが大食堂で食事をする風景を見ようと沢山の人が集まって食堂を取り巻いていた。それではとばかりに私も、カメラマン意識が向上し、中に入って遠慮なく撮影させてもらったが、少々暗くてもフラシュは禁止されていた。

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小僧たちの食事

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食事中の小僧たち

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食後のわずかな間の団欒

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食後それぞれが食器を下げる

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大食堂での食事中

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大勢が一斉に食事をするので騒がしい

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広い食堂での大勢の食事は、修行中の僧たちでも賑やかであった。

 後で知ったのだが、1日に1回だけ、この僧院が開放され、僧たちの食事時が観光化されているので、誰もが自由に見られるとのことだった。それにしても、子どもから老人までの多数の僧たちが一斉に食事する光景は迫力があり、珍しいことであった。

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僧侶たちが使う食器類

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僧侶たちの洗面器

 

ミャンマー北部探訪⑫アマラプラのチーク材の橋

 マンダレーの周辺には、シャン族・モン族・ビルマ族などが都にした町が3カ所ほどあり、その1つがアマラプラの町。

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アマラプラのタウンタマ湖

 マンダレーから11キロほど南にあるアマラプラは、エーヤワディー河とタウンタマン湖に挟まれた所にある。ここにはいろんな民族が都としたが最後は、ビルマ族の王が1841年にインワから遷都した。しかし、1857年には次の王がマンダレーへ遷都した。主要な建物などは、マンダレーに運ばれてしまい、さらに地震の被害などもあって、今では都であったことを偲ばせる建物はほとんどない。

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160年も前に作られたチーク材の橋は今も健在

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硬いチーク材の柱

 残っている唯一の建造物は、“ウー・ベイン橋”と呼ばれる160年ほど前に作られたチーク材の橋。これは、インワからアマラプラへ遷都された当時の市長ベインさんが、インワの旧王宮からチーク材を運び、タウンタマン湖を渡るために造った全長約1・2キロの立派な木製の橋。

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全長1,2キロもある、タウンタマン湖上にかかるウー・ベイン橋

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所々修復されており、木材が新しくなっている。 

 私は、そのチーク材の橋を見るために、半日車をチャーターした。マンダレーから朝8時に出発し、約30分でウー・ベイン橋のたもとに着いて、すぐに橋を渡り始めた。

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橋は今も日常的に使われている。

 160年も前に作られた全長1・2キロもあるチーク材の橋は、今も修繕を重ねながら市民が日常的に使っているし、文化遺産になっているので国内外の観光客も多い。

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タウンタマン湖畔の水田

 朝日を浴びながら30分ほど歩いて対岸にある、チャウッド・ヂー・パヤーを訪ねた。ここには、上半身が女性、下半身がライオンの伝説の生き物「マヌーシャ」の像があることで知られている。

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橋を渡った村で、米を入れた竹筒を焼いていた。

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竹筒を焼いた飯は、竹の油がしみてうまい。

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村の女性
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村の中で糸を紡ぐ女性と米を選別する婦人

 帰りには橋から下りて大地を歩きながら、下から橋を見上げた。そして橋の側にあった露店で青いココナツの実を1000チャットで買った。イスに座ってココナツジュースを飲みながら、湖にかかる橋を眺めた。大変珍しいが、高くて長いチーク材の古い橋が、なんとも素晴らしく、史跡としての価値は十分にあるように思えた。

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橋下の露店でココナツ水を飲みながら眺めた。ここは雨季には水没する。

ミャンマー北部探訪⑪ ザガイン・ヒルの日本兵墓地

 マンダレー南部郊外のエーヤワディー河の対岸にあるザガイン・ヒルは、沢山の仏塔が建っていることで有名なのだが、日本人にとっては、旧日本軍兵士の墓地があることで知られている。

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マンダレー側から見たザガイン・ヒル

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ザガイン・ヒルの仏塔群

 ザガインの町は、エーヤワディー河にかかる大きなインワ鉄橋を渡った所にある。ここは、1322年にシャン族の王が都としたが、1364年にはインワに遷都している。その後、あまり顧みられることはなかったが、今では多くの仏教遺跡がある町といわれている。

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エーヤワデイー河にかかるインワ鉄橋

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マンダレー側からザガインへ渡るインワ鉄橋

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インワ鉄橋上の車窓から見たザガイン・ヒル

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ザガイン西郊外にあるカウンムード・パヤの仏塔

 ザガインの町北外れの、エーヤワディー河沿いにある小高い丘のザガイン・ヒルには、なんと150以上もの仏塔と僧院が点在している。その丘の一つの頂上には、日本兵の墓地があり、日本パコダもある。そのパコダの台座には、無数の戦没者の名前が記されている。

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日本兵墓地や日本パコダのある丘の上

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ザガイン・ヒルの日本人墓地

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丘の上にある「高知パコダ会」の慰霊碑

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四国の善通寺部隊鎮魂碑前の筆者
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鎮魂碑とその後ろに記されている言葉

 四国の善通寺部隊の墓碑もあった。高知県出身の私の父も善通寺部隊に所属し、中国大陸の戦いに出向いていた。父は2年後に無事帰還したので私が生まれた。私は、持参していた線香と日本酒やせんべいをもって供養し、死者の霊を弔った。

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日本パコダ この台座に無数の戦没者名が列記されている。

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無数の戦没者名の列記 心当りの氏名はないだろうか?。

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無数の氏名が列記されているが、よく見ると関係者名があるかも。

 今日の若い日本人の多くは知らないだろうが、1942~1945年までのビルマ戦線におけるミャンマー北部では、何千もの日本兵が戦病死し、今も帰還できない遺体が多い。私が訪れる北部のどんな町や村でも、既に多くの日本兵が訪れていた。そんなこともあって、ミャンマー北部は、中年以上の日本人の多くの方には、幼少時代に耳にした地名がある、関心のある地方なのである。

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亡き戦友への慰霊碑

 今、ミヤンマー国軍がクーデターを起こし、問題になっているが、国軍がビルマをイギリスから独立させたきっかけを作ったのは、死せる日本軍の兵士たちでもあった。その後ビルマ独立を守り続けたのは国軍であったが、今回のクーデターにはミヤンマーの空で悲しんでいるだろう。

ミャンマー北部探訪➉ 衣類の多様なデザイン

 マンダレーのゼーチョー・マーケットの隣りにあるショッピングモールの中の衣料品市場をのぞいてみると、通り狭しと衣類が陳列され、多くの女性で混雑していた。

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ショッピングモール「ミヤンマー・ラザ」の入口

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ショッピングモールの中の衣類街

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所狭しと並んだ衣類

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派手やかな布が並ぶ店

 市場の中では多種多様な出で立ちをした女性たちが活気にあふれ、暑い国らしく原色の明るいデザインの布が所狭しと吊るされたり、並べられたりしている。一般的に三ヤンマーの女性は、明るい色の布を腰に巻いている。腰巻(ロンジ)用の布は種類が多い。

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中高年用の地味な布

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若者用の明るい布

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明るい反物

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普段着用の布

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少女用の布

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上等な布

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柄物

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模様の入った布

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各種の布

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ワンピース用の布

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各種反物

 古来の女性は、ロンジーと呼ばれる布を腰に巻き、上半身はブラウスであったが、今

ではカラフルなワンピースを身につける若い女性が多くなっている。

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若者用のワンピース

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中年用か

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中年用

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若者用

  ミャンマーの女性は、明るい色彩の衣服を身につけるので、日本では見かけないはでやかな布が多く、市場全体が華やいでいた。

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カラフルなブラウス

ミャンマー北部探訪⑨ マンダレーの王宮

 マンダレーは、ビルマ族最後のミンドン王によって、1851年に建設され王宮のある古都。その王宮の敷地は一辺が2キロもある正方形で、高さ8メートルの赤いレンガ造りの厚い壁に囲まれている。その壁の外には水を湛えた幅70メートルもの大きな堀が巡らされ、東西南北の4カ所だけに橋がある。

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マンダレーの王宮を取り囲む幅70メートルもある東側の堀

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王宮の西側にかかるチーク材の橋

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王宮西側の堀

 1824年には、イギリスが東インドからビルマを侵略し、まず南にラングーン(現ヤンゴン)を建設した。そして、徐々に北へ侵攻し、1885年にはマンダレーを占領し、ビルマ王朝は滅びた。1886年には全ビルマが植民地となり、王宮はイギリス軍の施設となった。

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復元された王宮の本堂

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王宮の中庭

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王宮の東門入口にある尖塔

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らせん階段のある監視塔から見た尖塔

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監視塔から見下ろした、見事に復元された王宮

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らせん階段のある監視塔の上での筆者

 その後、1942年には日本軍がイギリス軍を追い出してマンダレーを占領し、王宮は日本軍の司令部となった。しかし、英米支連合軍との戦いに劣勢となった1945年3月には、イギリス空軍機の爆撃によって、チーク木材中心にてきていた王宮の建物は焼失し、残ったのはレンガ造りの城壁だけであった。

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監視塔から北のマンダレーヒルを見る

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監視塔から見下ろす僧たち

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王宮西側の建物

 1948年1月にビルマ(現ミャンマー)独立後は、王宮の跡地が国軍の施設として利用されていた。そして、1990年末に、今日の王宮の建物が再建され、観光地化して、入場料を払って内外の人々が新王宮内に入ることが出来るようになった。

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王宮東側の入り口近くの建物

   

ミャンマー北部探訪⑧ マンダレー・ヒル

 マンダレーの中心街から北へ5、6キロ離れたマンダレーヒルまでサイケ(オートバイタクシー)を雇って行った。

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1978年1月当時の王宮の堀から北を見上げたマンダレーヒル

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マンダレーヒルの下から中腹を見上げる

 ヒルの入り口には大きな2頭のライオン像があった。これを“チンテー・ヂー・ナッカウン”と呼んでいる。チンテーはライオン、ヂーは大きい、ナッカウンは2つを意味する。

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マンダレーヒル入口の巨大な獅子像
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サンダムニ・パヤの白亜の小仏塔群からヒルを見上げる、右は入口のライオン像

 階段の入り口で靴を預け、素足で階段を上る。マンダレーヒルは全山が仏教の聖地になっており、沢山の寺院があるので、有名な観光地でもあり、外国人が多いが、現地のミャンマー人も多い。車でも7合目の頂上近くまで行けるのだが、地元の人は皆、天気に関係なく登れる屋根付き階段を使って上る。階段を上っても上っても果てしなく続く。

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登る階段に屋根の付いた中腹

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屋根の付いた階段

 一千以上もの階段が続いているそうだが、一気には上がれないので、休み休み上った。行けども行けどもなかなか行きつけなかったが、しばらく上っていると急な階段を上がった頂上近くに、土産物を売る店が並んでいた。そこでしばらく息抜きをした。聖地の頂上に着くための苦労だと思えばよいのだが、なかなかそうは思えず、悟ることもなくやっとの思いで頂上に着いた。

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美しい大理石の壁

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仏像の前で休む人々

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仏像の前で祈る婦人たち

 階段を上り詰めた頂上は、全てきらめくように輝いているスタウンピー・パヤの寺院になっており、床は美しい大理石が敷いてあった。多くの人が、仏像の前に座っていたり、広間に座ったりして休んでいる。

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床の大理石が光っている

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寺院置かれた壺の中には飲み水が入っている

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頂上のスタウンピー・パヤ

 日本と違って小乗仏教ミャンマーでは、多くの人が毎日のように寺院に詣でる。一面に明るいタイルが貼られている寺院は、極楽のような雰囲気があり、人々は至る所に座って休んでいる。

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マンダレーヒルから見下ろした西側の光景

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ヒルから見下ろしたサンダムニ・パヤの白亜の小仏塔群

 私は、しばらく床に座っていたが、スタンウピー・パヤの展望テラスに出て、広い広い果てしもなく北や東方に広がる大平原を見下ろした。南の方には、王宮やマンダレーの町が一望できる。樹木の少ない褐色の大地がむき出しになった所でも、山のないのっぺらぼうの所でも、どんな所でも人々の生活が営まれていることを感じながら、夕方近くまで眺めていた。

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マンダレーヒルの夕景

ミャンマー北部探訪⑦ 市場で働く女性たち

 マンダレーにはいろいろな人々が住んでいる。ビルマ族、シャン族、カチン族、モン族、インド系、中国大陸系、バングラディシュ系など多民族の顔や衣装が溢れている。しかし、はっきり見分けるのはたいへん難しい。まずは、ゼーチョー・マーケットの市場で働いている女性の様子をご覧あれ。

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飲み物を売る婦人

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親子で買い物に来た婦人

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オートバイで買い物に来た人

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ミヤンマーの葉巻タバコを吹かす婦人

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バナナ売りの婦人

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トマト売りの女性

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子どもを背負った婦人

 私は、長い間中央アジアから東の少数民族とされる人々を踏査し、人々の表情を撮影してきた。そんなこともあって、昭和45年頃に日本では最初に“民族写真家”を名乗った。その後親しくなった京都大学梅棹忠夫先生が、私も“民族写真家”だと言うので、それでは先生が1号で、私が2号としましょうよと笑ったことがあった。

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川魚を売っていた婦人

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市場内で道路工事をしていた女性

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客と会話する婦人

 東南アジアの諸国では、男性より女性の方が働いている。特に市場では男性よりも女性が多く、よく働いている。マンダレーのゼーチョー・マーケットでも売り子や買い物をするのはほとんど女性で、男性はあまり見かけなかった。

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果物売りの婦人たち

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みかんを売る女性

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落花生売り

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花を売る女性

 私は、これまでにアジア大陸の沢山の人々の様子を撮影し、写真集「写真で見るアジアの少数民族」を出版しているが、ここではマンダレーのゼーヂョー・マーケットでよく働いていた女性の表情を紹介した。

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「アジアの少数民族」全5巻の2巻目



 

 

ミャンマー北部探訪⑥ ゼーチョー・マーケット

 私は、マンダレーには5度訪れ、便利なのでいつも旧市街にあるニュースター・ホテルに泊まった。ホテルの目の前には、マンダレーで一番大きなゼーヂョー・マーケットがある。

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ゼーチョー・マーケットでのバナナ売り

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オートバイタクシーは、人も荷物も運ぶ

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タケノコの漬物

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雑多な市場街

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調味料としての唐辛子の粉

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川魚売り

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竹筒で焼いたモチ米の飯

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みかん売り

 熱帯の果物や野菜、川魚や肉、雑貨など、何でも木の台の上や路上に直に並べて売っている。屋外市場は、日本の朝市を大きくしたようなものだが、多民族で人出が多く活気があり、異国情緒や雑多な雰囲気があるので、異国情緒に慣れていない日本人は、異文化と未知への旅心をくすぐられる。

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黒米と白米で作った餅(柔らかくてうまい)

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表の殻を取り去って、ココナツミルクを取り出すためのココナツ売り

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餅の量り売り

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サトウキビから作った砂糖菓子

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餅や芋を売る婦人

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路上の市場風景

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野菜売り

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鶏肉売り

 このようなオープンマーケットは、一般的にあまり衛生的ではないのだが、そんなことよりも町の心臓部の鼓動が感じられ、人間本来の生き様としての食の原風景の活気にのまれ、時の経つのを忘れがちになる。何度訪れても、ついつい魅せられて、長居をしてしまう。私は、どの町を訪れても、まず市民生活のわかる市場を見ることにしている。 

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物を頭にのせて売り歩く婦人

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街頭で食事をする人たち

 

ミャンマー北部探訪⑤ 古都マンダレー

 ミャンマー東北の町チャイントンからヘイホー経由でビルマ族の都であったマンダレーに飛んだ。

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モダンなマンダレー駅舎

 ミャンマー北部の中心地マンダレーは、もともとビルマ王国の首都であった。人口100万人だそうだが、その3分の1が中国大陸から南下してきた人々だと言われている。まずマンダレーの歴史に少し触れておかないと、どうして中国大陸系の人が多いのか、多民族社会の現状が分からないだろう。

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中心地の商店街での中国大陸系の葬式

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漢字ばかりの葬式会場

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ミヤンマーとは思えない葬式風景

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三ヤンマー文字がなく、全く中国大陸風

 1857年、ビルマ族ミンドン王によって建設されたマンダレーは、ビルマ最後の王都として栄えた。マンダレー周辺には、インワ・ザガイン・アマラプラなど、シャン族やビルマ族、モン族などの王朝の都があった。

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マンダレー中心地の市場街

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市場の混雑

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市場での餅の量り売り

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市場での食事

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市場での食べ物売り

 1885年にはマンダレーがイギリスに占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。イギリスはビルマ支配に華僑とインド人を使い、マンダレーには華僑が多くなった。 

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頭に荷物を載せて運ぶ女性

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インド系の婦人たち

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ビルマ族の食べ物売り

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飲み物を売るシャン族の婦人

 約半世紀後の1942年1月には、旧日本軍がインドシナ半島からタイ国を経て、ビルマ南部に侵入し、4月にはマンダレーに進出して、マンダレーまで南下していた蒋介石率いる国民党の重慶軍と戦い、5月初めには重慶軍は北に脱出した。

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中心地にある古い商店街

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町を走る自電車タクシー

 1944年7月には、旧日本軍はインパール作戦に失敗し、徐々にマンダレーから南に脱出すると、イギリス・アメリカ軍と共に国民党の重慶軍も再びマンダレーまで南下してきた。

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1978年当時の国軍

 日本の敗戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、ビルマ国軍の努力にって1948年1月に独立することができた。国民党の多くは北に引き上げたが、1949年10月には共産党中華人民共和国が建国されたので、台湾に移動した国民党の残留兵の多くは帰郷できなくなり、マンダレーやシャン州、カチン州等に残った。彼らの多くは、現地の女性と結婚し、今では2世、3世になっている。そんなこともあって、マンダレーには中国大陸系の人が多いのである。

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モン族系の楽団

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顔にタナカを塗った少女

 マンダレーにはイギリスと共にやって来たインド系のヒンズー教徒も多い。それにイギリスに教化されたシャン族のキリスト教徒、ビルマ族仏教徒バングラディシュ系のイスラム教徒なども多いので、マンダレーは多民族、多文化、多宗教のミャンマー第2の大都会なのである。

ミャンマー北部探訪④ 多民族が集う市場

 朝8時、“シャン・マーシェチジー”と呼ばれる、チャイントンの中央市場を訪れた。朝の市場には、周辺の山岳地帯から1万人ものいろいろな民族が集まると言われていたが、噂に違わず多種多様な民族が集まった活気のある、大きな市場があった。

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チャイントンの宣伝用民族写真(コピー)

 300メートル四方くらいの広さに、大小さまざまの小屋や長屋のような家が並び、中に十字路があり、通りには店が無数にあって、いろいろな姿形をした人がごったがえしている。

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唐辛子を売る山岳民族

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売られていたビーフ

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売られていたナマズ

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食材を売るシャン族の女性

 野菜や魚類、野生の獣物や鳥、鶏の肉などの生鮮食品から、各種乾物、嗜好品、雑貨、衣類、軽機械類、家庭用具等、人間以外は何でも売られている。

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市場近くのオートバイ駐車場

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閑散とした市場に残った女性

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糯米のビーフンを売る女性

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乾物を売るTAI-LONの女性

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買い物をする山岳民族の女性

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子供を背負う女性

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市場の中の通り

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市場の人込み

 一通り見て歩いた後、人通りの多い十字路の交差点に立ち、行き交う人々の姿をながめた。身長2メートルもある人から 140センチメートルの小さな人がいる。横綱のように肥えている人、やせた人も中肥りの人もいる。色の白い人、黄褐色の人、黒い人、鼻の高い人、低い人、モデルにしたいようなスタイルのよい女性など、本当に多種なのである(今日では多くの民族が同化して分かりにくいので、チャイントン博物館に展示されている民族人形を、許可を得て撮影したので紹介する)。

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チャイントン民俗博物館

 この町に最も多いシャン族にもいろいろある。彼らは自分たちのことを“タイ”と呼ぶのだが、TAI LAI やTAI NAY と言う北方系の人、TAI LOI やTAI LON と呼ばれる古くからシャン地方にいる人々、TAI KHUN と呼ばれるチャイントンで最も多いシャン族。TAI KHUN の彼らはタイ国人と同系の人々。TAI LON をジャインジーと呼ぶが、“ジー”とは大きい意味なので、同系でもタイ国系の人々を兄貴分と見なしているようだ。

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シャン族の一派TAI-LAY

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シャン族の一派TAI-LOI

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タイ国と同系民族とされるTAI-LON

 その他にはアカ・ワ、ラワ、ヤオ・エン、そしてモンやバーマ(ビルマ)などの民族。長年アジアの少数民族を踏査しているが、これだけ多くの民族を同じ場所で、ほぼ同時に見ることはなかったような気がする。しかし、正確には見分けがつかなかった。

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アカ族

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ワ族

 北方の辺境地であったこの地方では、5、60年前までは、これらの民族がお互いに住み分けて戦いが絶えなかったし、国民党の残党やシャン族とビルマ族政府軍とのゲリラ戦もあったが、南からやって来たビルマ族を中心としたミャンマー中央政府の武力と経済力、教育力によって、やっと統合され、今は、風俗習慣、宗教を超えて同化して市場に集まっている。この市場には、多民族の人々が、生きるために必要な営みが凝縮されている。それは、戦場のような光景でもある。

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左:シャン族 右:ビルマ族

 行き交う人々の中には、唇を赤くし、歯が黒くなっている人がいる。これはシャン語で“ビテル”と呼ばれる植物の葉で、ココナツと“トーフ”と呼ばれる石灰、“ナッセー”と呼ばれる液体の様な物を包んで、口の中に入れて噛む習慣があるからだ。一種の噛みたばこのようなもので、少々刺激がある。

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左:ラフ族 右:エン族

 周囲の山岳地帯から朝早くにやって来る人々は、午前10時半頃にはほとんど帰ってしまうので、市場は活気をなくし、しぼんだ風船のような雰囲気になる。

 ビルマ戦線時代、日本軍もこの町に2~3年駐留していたので、多くの日本兵がこのような少数民族に接したことだろう。

ミャンマー北部探訪③ チャイントンの街

 タチレイの町から約160キロ北のチャイントンまで、バスで4時間余りかかった。

 チャイントン郊外のバスターミナルに着いたが、一般的に外国旅行者が訪れることは出来なかった町なので、町に関する情報はない。ミャンマーはイギリスの植民地であったので、老人に英語が話せる人が多い。

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タチレイからチャイントン行きのバス(日本の中古車)

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車窓に見えるチャイントン近くの水田

 いろいろ尋ねていると、英語がよく話せる中年の男がやってきて、「外国人が泊まれるホテルを知っている。オートバイで案内する」と、小型トラックのタクシーに乗ってついて来いと言う。

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案内されたGolden World Hotel

 案内されたのは、中心街の“Golden World Hotel”であった。

 ホテルの隣にある食堂で遅い昼食をとる。この店の壁には漢字が書いてある。ここから中国との国境の町モングラまでは約80キロ、車で3時間だそうだ。店で食事をしていた40代の男2人の客は漢語を話していた。中華人民共和国に近い町なのだ。

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ホテルの隣の食堂

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食堂で食べたビーフンのシャン族料理

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漢字で書かれた寺院

 ここは越系民族の末裔シャン族の住むシャン州。シャン族はもともと中国大陸東南部に住んでいたが、徐々に移動してきた民族で、隣国のタイ族とほぼ同じ民族。

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丘から眺めたチャイントンの町

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チャイントンの住宅地

 標高787メートルにあるチャイントンは、なだらかな山岳地帯の町で、人口20万。ノントウン湖を中心とした高原の町なので朝晩は涼しい。

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チャイントンの中心地ノントウン湖

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マハーミヤツ・ムニ寺院

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丘の上のワット・ションカム

 ホテルでもらった地図を頼りに歩く。まず、ホテル近くのマハーミヤツ・ムニの寺院を見る。屋根は褐色で、壁は黄色の立派な寺院。丘の上のワット・ジョンカムを見た後、周囲の丘に囲まれた、低地のノントウン湖に下りた。周囲4キロくらいの小さな湖だが、湖畔には西洋風の立派な住宅が立ち並んでいる。湖には水垢が漂っているし、濁っているのでお世辞にもきれいとは言えないが、周囲の建物が水面に映えて、絵葉書のような美しい光景。

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ノントウン湖

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ノントウン湖畔の高級住宅

 町中には仏教寺院が多いが、イギリス植民地時代の布教によるキリスト教徒もいるので教会もある。

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町を見下ろす丘に立った仏像

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指を差している巨大な仏像

 町が一望できる丘の上に登り、山に囲まれた平和郷のような町を見ながら歩いていると、金色に輝く大きな仏像があった。立ち上がって右手で指差している仏像は珍しいので、近くにいた老人に尋ねると、平和・悟りを示しているのだと言った。戦争の多かった多民族社会の平和を祈念する象徴的な仏像なのだろう。この町には旧日本軍も一時駐屯していた。

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巨大な仏像の前に立つ筆者

ミャンマー北部探訪② タチレイの寺院巡り

 東南アジアのラオスやタイにも多い、小型トラックや小型三輪のタクシー”サイカ”は、安いが乗り心地は良くない。20代と思える人の良さそうな青年が、200バーツ(約650円)で半日市内観光するというので、彼の運転する車に乗った。

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華やかな色彩のダイアナ寺院

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ダイアナ寺院の入口

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ダイアナ寺院の太鼓

 まず町中の大きなダイアナ寺院を訪れた。褐色の屋根に尖塔のある大きな寺の広場に輪タク”サイカ”が沢山止まって観光客が多く、読経も流れていた。タイやラオスには立派な寺院が多く、もう見飽きていたが、大きな寺院なので40分近くも見学した。

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ダイアナ寺院の仏壇

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仏壇

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ダイアナ寺院の仏像

 次には中心地から少し離れた丘の上の金色に輝くスエダゴン・パコダを訪れた。パコだは修復中で、下部がブルシートで囲われていたが、頼みもしないのに、中年の女性が案内についてくれた。しかし、英語ではなく、タイ語ミャンマー語交じりでよく理解できない。運転手は入口まで案内してくれたが中には入らなかった。

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スエダゴン・パコダの標識

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スエダゴン・パコダの入口にあるドラ

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スエダゴン・パコダ・(工事中)

 床は大理石を敷き詰めてピカピカ。靴を脱がされて素足で歩くのだが、12月の乾季とは言え日差しが強くて床が熱い。素足の彼女は慣れているのか、熱がる私を笑う。私はいつも靴を履いているので足の腹の皮膚が柔らかくなっているのか、床が痛いように熱いのでなるべく日陰を歩いた。

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日曜から左回に一週間の礼拝所が指定されている。

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月曜日の礼拝所で両膝をついた筆者

 大きなパゴタの台座には、日曜日から右廻りの順にお祈りをする場所が決められている。今日は月曜で、西側のその場所で参拝するように勧められ、両膝をついて手を合わせた。

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バコダの横にある仏像に膝まづいて礼拝する人たち

 30分近くも案内してくれ、最後に10枚ずつの絵葉書を勧められた。彼女は正式の案内人ではなく、絵葉書や土産物を売りつけるのが目的であったので、断るのも悪い気がして200バーツで買った。

 パコダの丘を降りると、道は未舗装で凹凸が多い。車は埃を立ててバタバタと音高く走り木製の門の前で止まった。150バーツ払って民族村に入った。私は民族研究家でもあるので各民族について少々の知識はある。

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カリヤン族の娘

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首輪をする前のカリヤン族の娘

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首を長くしたカリヤン族の老婆

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アカ族の女性たち

 首長のカリヤン族やアカ族の娘たちがいた。ここは観光村なので土産物を売るのが中心。あまり関心が持てなかったので長くはいないで門を出た。門の前で待っていた運転手が次の場所へと車を走らせた。

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タンマーヨン寺院の金色の仏像

   次にはタンマーヨン寺院を案内してくれたが、寺院はもう見飽きてもいるので、20分ほどで金色に輝く華やかな仏像などを一巡して、ホテルに戻った。 

ミャンマー北部探訪① 国際都市タチレイ

 タイとの国境メーサーイ川にかかる幅50メートルほどの橋を渡ってミャンマー側の町タチレイに入った。

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タイ国との国境”メーサーイ川”

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国境事務所を越してミヤンマー側の町タチレイの入口

 毎日大勢のミャンマー人が給料の良いタイ側に出稼ぎに行き、沢山のタイ人や外国の旅行者が物価の安いタチレイへ観光や買い物に訪れるので、国境は大変活気があり忙しい。

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タチレイの町最初のロータリー

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丘の上から眺めたタチレイの全景

 橋の袂(たもと)にある国境事務所を訪れて、100メートル余り進むと大きなロータリーから四方に道が延びている。右側の市場への道の方が広場になっており、三輪車のタクシー”サイカ”が数10台止まっている。その運転手たちが、タイ国から次々にやってくる客を呼び込んでいるので、大変賑やか。大半の客は日帰りなので、2~3時間の買い物や市内観光。

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タチレイの中心街

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化粧用のタナカの木を売る店

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タチレイの中心街に立つ筆者

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タチレイ中心街の果物屋

 タチレイの中心地であるバザールには、路上に並んだ露天の店が無数にあり、なんでも売っている。ここではミャンマーの貨幣チャットよりもタイの貨幣バーツやアメリカドルが流通しており、言葉は英語、タイ語ミャンマー語ヒンディー語が飛び交い、どこの国なのか分からない。

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バザールの入口

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バザールの中

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バザールでは多種多様な物が売られている

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顔にタナカを塗った婦人

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焼き栗を売る婦人

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日傘を立てた露店

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雑貨を売るイスラム教の女性

 入国に関しては厳しいミャンマー政府が、タイと接したタチレイだけは、早くから国境で1日から数日間の簡易ビザを発行して、外国人を受け入れていた。そんなこともあって、ミャンマーでは1番活気のある国際都市になっていた。

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日差しの強いタチレイの繁華街

ミャンマー北部探訪 序章

はじめに

 私は1965(昭和40)年2月に初めてビルマ(現ミャンマー)を訪れて以来、日本の民族的、文化的源流を探捜する目的で、中国大陸東南部から南下してきたと思われる、ミャンマー北部の山岳地帯に住む、越系民族を踏査することもあって、これまでに8回訪れた。最近では、一昨年の2018年4月であった。

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西北部シュエボの稲作地帯で稲を運ぶ牛車

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北端の町ミッチーナでの少数民族と筆者

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カチン州ミッチーナでの踊る祭典”マナウ”

 今、ミャンマー国軍がクーデターを起こして、いろいろ注目されているが、日本とは深いつながりがある。1942~1945年までのビルマ戦線において、ミヤンマー北部へ日本軍の将兵が10万以上も参戦し、多くの人が戦病死しているが、日本人には知られていないことが多い。しかし、遺族や将兵の関係者には知りたいことが多いだろうと思う。西北部地方のビルマ族発祥の地、マンダレー周辺を中心に、写真と簡単な文章で40~50回紹介する。

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マンダレー近くのミングオン・パヤの上に立たす筆者

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ミングオンの寺院

 ついては、今回再度のクーデターを起こした国軍が、旧日本軍と関係が深く、日本軍の協力の下に独立できたと思っているビルマ族の人々は、今も日本に親しみを持っている経過を、簡単に説明しておく。

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マンダレーのゼーチョーマーケットで餅を売る婦人

 多民族社会のミャンマー(旧ビルマ)は、西北部のビルマ族を中心とするビルマ王国を建国していたが、その首都であったマンダレーが、1885年にイギリス軍に占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。今日のミャンマーは、イギリスの軍事力によって作られたビルマ国の領土をそのまま引き継いでいる。

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マンダレーの新王宮

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新王宮のらせん階段上からマンダレーヒル方への景観

 その後、1942年に旧日本軍がミャンマーに進駐し、日本で教育されて帰国していたアウンサン(スー・チーさんの父親)らが率いる、ビルマ独立義勇軍が立ち上がり、当時の植民地国イギリスに対して日本軍と共に戦い、インドに駆逐して、長年の支配から脱出した。そして1943年8月には日本軍の支援の下、再びビルマ国が建国された。しかし、日本軍は、インド東部のインパールに駐屯していたイギリス軍との戦いに失敗し、1945年に敗退した。

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インドのインパールに近い西北部の町、タムの市場で川魚を売る女性

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市街地を托鉢する尼僧たち

 戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、日本軍の指導を受けていたアウンサンやネ・ウインらが中心に独立運動を続けた。イギリスからの独立の道筋をつけたアウンサン将軍は、1947年7月に暗殺された(その後建国の父となる)。ビルマミャンマー)は、その翌年の1948年1月に、ビルマ族を中心とする国軍によって、ビルマ連邦国として独立することが出来た。しかし、その後、カレン、シャン、カチン族など他の民族の叛乱や内乱、政変などがあった。しかし、宗主権を握っていた国軍が独立を守り続け、1989年6月に国名をミャンマーへと変更した。そして、スー・チーさんが率いる政党(NLD)が、昨年、2020年11月の選挙で大勝したのだが、国軍はそれを認めなかった。

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ザガインの丘の日本パコダ

 今日のミャンマー国軍は、戦前の日本軍の指導を受けて誕生したビルマ独立義勇軍が基盤になっていることもあって日本色が強く、保守的でもある。いずれにしても日本軍に親しみを持っていたビルマ族の人々は、今も対日感情が良い。

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1939~1945年における戦没者の共同墓地

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共同墓地の中

 ミャンマー北部を紹介するに当たり、まず北東部のタイとの国境の町、タチレイから始め、西北地方へと移動することとする。

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北東部の町、タチレイのタイからの入口