ミャンマー北部探訪⑤ 古都マンダレー
ミャンマー東北の町チャイントンからヘイホー経由でビルマ族の都であったマンダレーに飛んだ。
ミャンマー北部の中心地マンダレーは、もともとビルマ王国の首都であった。人口100万人だそうだが、その3分の1が中国大陸から南下してきた人々だと言われている。まずマンダレーの歴史に少し触れておかないと、どうして中国大陸系の人が多いのか、多民族社会の現状が分からないだろう。
1857年、ビルマ族ミンドン王によって建設されたマンダレーは、ビルマ最後の王都として栄えた。マンダレー周辺には、インワ・ザガイン・アマラプラなど、シャン族やビルマ族、モン族などの王朝の都があった。
1885年にはマンダレーがイギリスに占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。イギリスはビルマ支配に華僑とインド人を使い、マンダレーには華僑が多くなった。
約半世紀後の1942年1月には、旧日本軍がインドシナ半島からタイ国を経て、ビルマ南部に侵入し、4月にはマンダレーに進出して、マンダレーまで南下していた蒋介石率いる国民党の重慶軍と戦い、5月初めには重慶軍は北に脱出した。
1944年7月には、旧日本軍はインパール作戦に失敗し、徐々にマンダレーから南に脱出すると、イギリス・アメリカ軍と共に国民党の重慶軍も再びマンダレーまで南下してきた。
日本の敗戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、ビルマ国軍の努力にって1948年1月に独立することができた。国民党の多くは北に引き上げたが、1949年10月には共産党の中華人民共和国が建国されたので、台湾に移動した国民党の残留兵の多くは帰郷できなくなり、マンダレーやシャン州、カチン州等に残った。彼らの多くは、現地の女性と結婚し、今では2世、3世になっている。そんなこともあって、マンダレーには中国大陸系の人が多いのである。
マンダレーにはイギリスと共にやって来たインド系のヒンズー教徒も多い。それにイギリスに教化されたシャン族のキリスト教徒、ビルマ族の仏教徒、バングラディシュ系のイスラム教徒なども多いので、マンダレーは多民族、多文化、多宗教のミャンマー第2の大都会なのである。