ミャンマー北部探訪⑰ 丘の上の町ラーショー
ピン・ウールインの町から乗り合いタクシーで、約250キロ北のラーショーに向かった。山坂越えて大変厳しい道を走り、約5時間で着き、町の中心部にある1泊20米ドルのロイヤル・グランド・ホテルに泊まることにした。
ミャンマーでも辺境の中国との国境に近いこの地に、今から73年も前に、日本軍が山や谷、川の多い大地を数日間で2~300キロも走り抜け、イギリス軍が駐留するラーショーを攻撃したと聞いていたが、当時としては信じがたい神業のような速さだ。
ラーショーは、人口15万人もの大きな町なのだが、最初は丘の上にできたシャン族の要塞化した村であったそうだ。今でも町の中心である旧市街地は丘の上にある。
イギリスが植民地化してできた新しい町は、旧市街から約3キロ西の平地にある。マンダレーから中国雲南省の昆明に物資を運ぶためにできた、鉄道のラーショー駅も3キロ余り南西の平地にある。
古くからの町と植民地化によって作られた町の2重構造的なラーショーは、駅近くの大ラーショーと丘の上の小ラーショーの2つの地区に分けられている。小ラーショーはシャン族の居住地域で、マーケットや商店街、病院、郵便局、消防署などがあり、今も人口が多く中心地になっている。
ラーショーは、古くから雲南地方への通商の中継地として栄えた町であった。特に、旧日本軍が1940年頃から中国大陸の東海岸地帯を占拠して以来、米英連合軍が蒋介石率いる中国国民党軍を支援する重要拠点になった。そのため、首都を南京から重慶に移動した国民党軍は、英米との話し合いの下にいち早くラーショーに派兵し、守備についていた。
1942年4月末にラーショーを占領した日本軍は、ここを拠点にして北の雲南地方にまで侵攻したが、1945年4月には、英米支連合軍に反撃され、南へと撤退したという。
ミャンマー(ビルマ)語でシャムとかシャンとか呼ばれる人々は、自称タイなのだが、タイ族は、北の中国大陸の方から移動してきた民族なので、国民党軍の兵士たちとは言葉は違っても顔形はほぼ同じ。そんなこともあって、シャン州、特にラーショー近辺の人々は、中央部のビルマ族を中心とした独立国ビルマ、1989年6月以後はミャンマーに対して、国民党の残兵と共に反政府運動が活発であった。そんなこともあって、ラーショーは数年前まで政情が不安定とのことで、外国人の立ち入りが長く禁止されていた。
ラーショーにはシャンと呼ばれる人々や国民党の残留兵もいて、街中に漢字が見られる。それにインド系のヒンズー教徒やイスラム教徒もいるし、仏教徒のビルマ族やキリスト教徒のシャン族もいるので、仏教寺院や仏塔、教会、イスラム寺院のモスクなどもある。
ラーショーは南北に続いた山の尾根にできた町。山の尾根から南西の斜面に家が密集している。赤褐色に錆びたトタン屋根の木造の2階や3階建ての家が密集する中にポツリ、ポツリと3~5階建ての近代的なビルがある。そして、旧市街の真ん中辺りに、大きな白亜のモスクがある。あちこちに仏塔や寺院もあるが、モスクが最も目立っていた。