ミャンマー北部探訪⑲ ミッチーナーの日本残像
ミャンマー北部を訪れるにあたり、北端の町ミッチーナーには、日本兵の慰霊碑があることを聞いていた。観光客などあまりゆく所ではないが、民族踏査もかねて行くことにした。
私は、2015年1月2日、マンダレーからミャンマー北端チン州の州都で、エーヤワディー河沿いのミッチーナーへ飛んだ。
マンダレーのホテルから“シン・ジャン・ホテル”に電話予約をしていたので、空港からタクシーを走らせた。夕方であったせいか車が多く、人出もあって活気はあるが、街の整備がまだ不十分で雑然としていた。
ホテルに英語を話せる人がいたので、明日から3日間の通訳兼ガイドを捜してくれるように頼んだ。
翌3日の朝、ラー・ターウンとういう40歳の男が来てくれた。彼は英語教室を開いており、政府公認の通訳だと言って身分証明書を見せてくれた。
ミッチーナーは人口約30万人の大きな町だが、ここにも日本軍が1942年ころから進駐していた。しかし、イギリス・アメリカ・国民党重慶の連合軍に反撃され、双方に多くの死亡者が出た。なんとしても死守せよと参謀本部から玉砕を求められていたが、1944年8月、ミッチーナー守備隊の最高司令官の水上源蔵少将は、部下をおもんばかり、全軍にミッチーナーからの退去命令を出し、自らは軍命令に違反した責任を取って、ミッチーナー対岸のノンタロー村で8月3日に自決した。
生き延びて帰国できた元兵士や遺族が、戦後この地を訪れて慰霊の寺院や碑、塔を建立していた。私は、その痕跡を確認することも兼ねてやって来た。
ラー・ターウンさんの案内で、市内を巡ることにした。まず対岸のノンタロー村跡を訪れてから、当時の激戦地の一つでもあったホテル近くの古いミッチーナー駅近辺を見て回った。
駅前には、現地語で“コッコ”と呼ばれるニセアカシアのような巨木が生えていた。もう100年以上も生え続けているそうなので、日本兵たちも見たことだろう。もしかすると、雨・霰とやってくる弾雨に晒されていたかもしれないし、この木の下で戦死した兵もいたかもしれない。
この後サイカ(三輪タクシー)で町の北西になる時計塔へ行った。大きな通りの十字路に、緑色の高さ10メートルほどの塔があり、4面に丸い大きな時計が設置されていた。これは、生き残った兵士たちが、戦友の慰霊碑として建立したものであった。その足元の銅板には、“第18師団(菊兵団))、第56師団(龍兵団)、軍直配属部隊”と記されていた。
時計塔を後にし、町の東北のエーヤワディー河沿いにあるスータ・ウンビー・パヤを訪ねた。ここには福岡県の坂口睦さんが寄贈した2000年4月に着工し、2001年1月に完成した巨大な寝仏があった。
私は寝仏に手を合わせ、この地で死せる兵士たちへの供養のつもりで、僅かであるが寄付させてもらった。我らが先輩たちは、この地でも大変な苦労をされ、尊い命を落とされていることを肝に銘じて、寝仏に別れを告げた。