東アフリカの野生動物たち(1970年7月)
東アフリカにあるナショナル・パークとは、野生の動物が人間から自由と生命の尊重を認められている広い地域であり、ここでは、人間が、車や檻の中に入って動物を見なければならないのである。パークといつでも、関東平野や四国の半分ほどの広さのものもあり、東アフリカに、大小14、5のナショナル・パークがある。ここは昔ながらの野獣王国がそのまま保存されている。
この他に、ゲーム・リサーブといって、政府の許可を得れば、野獣をハンティングできる地域もある。今日、この他の地域では、ほとんど野獣の姿を見ることはできない。アンボセリはこの地域の1つで、アフリカ最高峰キリマンジャロの麓にある、動物の豊富なところである。
私は、1970年7月に、ケニアの首都ナイロビの南約200キロの所にあるアンボセリ・ナショナル・パークに、ナイロビで車をチャーター(1マイルにつき1.3シリング。1シリングは50円)して、1人でやって来たのだが、見渡す限り広い平原。そして、まるで牧場に放牧された家畜のように草食動物の群れがいた。それにかげろうが立ちのぼって物が浮き上がって見える。
私は自分の目を何度もこすってみた。どう見ても道が湖にさえぎられていたし、湖面には、小さな黒い動物が沢山いた。それは時々かけたり、立ち止まったり、ふと見えなくなる時があった。
車の窓から身体を乗り出した。50メートルほど右前方をシマ馬と牛カモシカの群れが走っていた。その彼方には、標高6000メートルのキリマンジャロが、頭を雲にかくされてかすんで見えた。振り返ると、今、通って来た車のワダチが、彼方まで続いていた。
私は随分車を走らせたが、湖には着かなかった。動物たちが立ち止まって私の方を見ていた。お尻の白いガゼルが車の前を数頭、列になって横切った。もう少しで衝突しそうだった。
ふと前方を見ると、今まで見えていたはずの湖がなくなっていた。小さな黒い動物は、周囲にワンサといるシマ馬やガゼル、牛カモシカに代わっていた。
私は蜃気楼を見ていたのだ。水はちゃんとタンクに入れて持っていたし、喉もそれほど乾いてはいなかったのに・・・。しかし、蜃気楼に悩まされ、広い大地の上で、野生の動物にとり囲まれていると、解放感よりも、驚きや、喜びよりもたまらない孤独感が迫って来た。
「オーイ」と叫んでみた。
シマ馬がお尻を私の方に向けた。そして振り返って見てから“プイン”とおならを鳴らし、後足を高く蹴り上げてかけて行った。白いアゴヒゲを、仙人のようにはやした、長い顔に2本の角を持った牛カモシカが、大きな目玉を見開いて、車からそう遠くないところにたたずんでいた。5頭、6頭、、、10頭。何か話し合っているようでもあった。時々頭を 振って、「フフーン・・・・・・」と鼻を鳴らした。
「あの野郎、どこから来たのだ・・・」と話し合っているのかもしれない。
私は車から降りて行って、彼らのアゴヒゲをなでてみたかった。でもナショナル・パーク内では下車する事を厳禁されている。どこでどんな野獣に襲われるかもしれないからだ。
1時間ほど前に、草原の道を走っていて、象に出合った。待てばいいものを、かまうものかと象の近くを通った。象はキュアーと大きな奇声を発して、耳を立て、鼻を上げ、大きな牙をひんむいて、車に向かって来た。
私はデコボコ道をふっ飛ばした。砂煙が舞い上がった。バック・ミラーに象が走って来るのが見えた。でも象の足は、車の速さにはかなわなかった。ホッとしたが、もし車がエンコでもしていたらと寒気がした。あの大きな足で踏みつけられれば車もろともペチャンコにされていたに違いない。2ヵ月前には、道端から、突然出て来た象に衝突したドイツの新婚さんが、車もろとも踏みつぶされて、2人一緒にあの世へ旅立ったそうだ。
ナショナル・パークやゲーム・リザーブには車無しで入ることは、禁じられているので、少ない金をはたいで1番安いカブト虫形のフォルクスワーゲンを借りたのだが、こう広いと一層小さく、頼りなく思える。やはり、こんな大自然の中に入ってしまうと私一人では実に無力を感じ、誰か話し相手が欲しくなる。慣れてしまうとそうでもないだろうが、野獣よりも人が恋しい。
蜃気楼が消え緊張感がほぐれると、急にオシッコをしたくなった。車から下りることを厳禁されているとはいえ、生理をがまんするのは、野獣に囲まれているよりも辛い。こう広くては、パーク・レインジャーだって見ていないだろうから、かまうもんかと平原の中に車を止めた。
ライオンかヒョウ、象かバッファローでなければ人間様の命を簡単には奪えまいと、車から3メートルばかり離れ、両股を開いてオシッコをした。乾いた灰色の大地が黒くなった。
20メートルほど先にシマ馬が6頭いて、こちらを見ていた。そのうち一頭が後足を後にだして、腰を前にグイとおとし、私のようにオシッコを始めた。そのかなたに雪をかぶったキリマンジャロが見えた。
出すものを出すとスカッとした。青い空の真上で太陽がゲラゲラ笑い、陽炎が忙しげに腰ふりダンスをして、乾燥した大気が私の肌をカサカサにした。野獣とはいえ、こんな水のない大地によくすめるものだ。人間なら3日ともたないだろう。私は再び車を走らせた。
柵の中に他人を入れないカラモジャ族(1970年6月)ウガンダ
私は1970年6月、ケニアの首都ナイロビからバスを乗り継いで、隣国ウガンダの首都カンパラにやってきた。これからウガンダ北東部のカラモジャ地方を訪ねることにした。
カラモジャ族はこの数年前まで周囲の民族や文明人にとってかなり危険な民族であったそうで、ウガンダ政府は外人に対して、1968年11月までカラモジャ地方の立ち入りを禁じていた。
カンパラからカラモジャ州都のモロトまではバスもあるし、乗り合いタクシーを乗り継ぐこともできるので、普通の旅行者でもここまでは簡単に来られる。モロトには、レストハウスも一軒ある。しかし、これから北には普通の旅行者は行かない。私がウガンダに来た目的は、モロトから北への旅であるが、交通の便が悪く、安全の保障はなかった。だからこれから北に向かうためには、車とガイド、通訳が必要であった。
私は、カンパラのマケレレ大学から派遣されて、南カラモジャ地方に隣接しているソロティという村で、テソ族の調査をしていた長島信弘氏に紹介されていた、テソ族の青年アヅチョ君を訪ねた。モロトの農業組合で働いていたアヅチョに彼の上司のギヅツ氏を紹介されて、北カラモジャの旅行計画を相談したら、金さえ払えば同行しようということになった。そして、カラモジャ語の話せるアヅチョが通訳となって、フランス製のポンコツ車プジョーで、3人の3泊4日のカラモジャ旅行が始まった。
ウガンダはイギリスの植民地だったので独立した今でも学校の教科書は英語である。だから、学校教育を受けた者はみんな英語を話す。
モロトを出発すると山らしいものはなくブッシュが続いた。道は1968年に軍隊によって建設された軍用道路が、スーダンとの国境まで続いていた。
カラモジャ地方は乾燥のため常に食料が乏しい。だから、モロトのマーケットで、原住民にやるために黄色いバナナの大きな房を2個買った。一房に100本以上ものバナナがついていた。そして彼らがタムタムと呼ぶあめ玉を沢山買ってトランクの中に詰め込んでいる。
とにかく、21歳のアヅチョは、モロトから北に向かうのは初めて。42歳のギヅツ氏が仕事で2度行ったことがあるというので、案内はドライバーの彼に任せた。アヅチョは北テソの出身で、子どもの時から南部カラモジャ族の人とよく接していたのでカラモジャ語が話せる。私は言葉も地理も全然わからない。ただ分かっているのは、カラモジャ族の男は長い槍を持っていて非常に危険な人々であるということだけだった。
モロトに5日間滞在して色々と情報を集め、言葉を少し習ったが、一夜漬けなので使えそうにない。言葉はさておき、現地の情報によると、彼らは財産として大事な牛一頭に自分の命をかける民族性があって、敵に対して非常に勇敢に戦うのを常とし、敵を殺すことを英雄視する風潮があるらしいということだった。そのため文明人は彼らを恐れた。カラモジャ地方の南隣りに住んでいるテソ族やランゴ族は、戦うたびに見方が沢山殺され、ひどい目に遭っていた。そのため彼らはカラモジャ族の人々を人食い人種だとか野蛮人だと言いふらしたようだった。
カラモジャ族は死人を埋めることをせず、ブッシュのなかに置き去り、獣葬とするので、ブッシュの中には頭蓋骨が良く見られるそうだ。そのため、文明人は彼らを首狩り族とか人喰い人種のように思ったようだ。
カラモジャ族は現在、ウガンダの東北部に住んでいるが、もとは南スーダンに住んでいたとされている。彼らの古い歌のなかに、「むかしむかし、白い巨象と戦った」というのがある。「白い巨象」とはアラブ人を意味しているといわれている。
まず、100キロほど北のコテイドまで行くことにした。そこからさらに30キロ東にあるギエと呼ばれる最も原始的な種族が住んでいる村を訪ねた。
男たちは牛を追って1日に100キロも歩く遊牧民だが、女こどもは家に残って棒で畑を耕したり、水汲みをしていた。作物はトウモロコシとアワとヒエだが、彼らには貯蔵欲がなく、7、8月の収穫期を2ヶ月も過ぎれば、穀物は酒に化けてしまって底をついている。10月から3月までの乾期には牛の首の静脈を切って出す血と牛乳が主食である。
村にいる男たちは近くの木の下に槍を持って座っていた。海抜約1000メートルで北緯3度の太陽の日差しは強いが、日蔭は乾燥しているので涼しい。彼らにカメラを向けると、槍先をカメラの方に突きだした。牛1頭のために命を掛けて戦う彼らの胸には、殺した人の数ほど長い切り傷のあとがあざやかに刻まれていた。それは英雄の象徴でもある。
カペリモロという小さな村に着いた。ここにもギエ部族が住んでいた。彼らの家は、トゲのいっぱいついている木(ソーンツリー)で作った高さ2m、厚さ50cm、直径20mくらいの丸い柵の囲いのなかにあった。その入り口は人一人が、這って入れるほどである。しかも、内側からトゲのついたソーンツリーの枝を引き込んでいるので、外からは入れない。中に入れてもらおうと通訳のアヅチョに何度も交渉させたが、だめだった。彼らは柵の中に部外者を入れないそうだ。これならライオンや象、バッファローなども砦のような柵の中には入れない。この砦の柵が5、6個集まって村が構成されているようだが、中に何軒の家が、何家族が、何人が生活しているのか、部外者には分からない。ここでは完全な男尊女卑で、女の価値は牛20~30頭であり、妻は何人でも持てる。
道沿いの畑で上半身裸の女たちが10数名集まって棒で大地をついていた。いや耕していた。アヅチョが彼女たちにバナナを見せて呼んだ。彼女たちは口々に何かを言いながら近寄ってきた。非常ににぎやかだった。胸のボインもコインも、ダラリもいる。ズラリと半円形に並ばれると、いささか圧倒された。彼女たちの目は、カメラよりもバナナを追っていた。いつの間に、どこからやって来たのか子どもたちが降って湧いたように増えた。アヅチョは彼らにバナナ2本ずつ手渡した。子どもはすぐその場で食べてしまい、また手を出す。私は、その間撮影していた。騒ぎを聞きつけてか、遠くから走ってくる子どもや女たちがいた。
「アヅチョ、トランクを閉めろ、行くぞ」
私は原住民にとり囲まれているアヅチョに言った。長くいれば、どれだけ原住民が集まってくるかもしれない。そのうち男もやってくるだろう。それにバナナが無くなってしまう。
アヅチョが乗り込むと発車したが、子どもたちや女がついて走ってきた。車の横を走ってくる女の乳房がブランブランと上下に揺れていた。
彼女たちと別れてから10分くらい走った。道端に人間の頭蓋骨が3個転がっていた。白人のものか原住民のものか、私には分からない。もしかすると、私のような旅行者か探検家のものかもしれない。ギヅツに尋ねたら、戦争して殺された奴の頭だろう、とこともなげに言った。
原始的な生活をしている彼らとて、牛を貨幣に替えることをしったのか、裸の男が、大きなボックス型のトランジスタラジオをかかえて、ビートルズのはじけるようなメロディーを聞いていた。それは牛に代わる彼の財産であり権力の象徴であった。
カラモジャは死人をブッシュの中に置き去り、2日もしないうちにライオン、ヒョウ、チータ、ジャッカル、ハイエナなどによって獣葬となる。彼らは獣葬こそ人間が自然にかえる唯一の方法だと信じている。とは言っても生きている限り、彼らは槍1本でライオンやヒョウと戦う。
これまで原始的な生活をしてきた彼らが、文明人との接触によって文明という“多様なウイルス”におびやかされているが、彼ら自身はそれを知っていない。それは、あたかも先進文明国の人が、公害に知らず知らず蝕まれているのと同じ現象のようだ。
ルドルフ湖のツルカナ族(1970年7月)ケニア
ルドルフ湖にあるロッジマネージャーのエドモンドは、ここにもう1年半近くも滞在していた。パリ生まれでロンドン育ちのフランス人。彼はフランス語、ドイツ語、英語を話し、現地語も上手だった。それにしても現地人たちは、金と食料を持っている彼の命令ならば何でも聞き入れそうだ。
私は彼に、自分が民族調査のための来訪で、普通の旅行者でもナイルパーチを釣りにきたのでもない旨を伝え、取材協力を乞うたが、長い間ケニア政府から外国人の立ち入りを禁止されていたので、なかなか頭を縦に振らなかった。
フェルグソンガルフ(湾)には、1962年の初めに白人宣教師が入った。そして、1964年、ケニア政府は水産庁の役人をこの地に派遣し、世界一魚の豊富なルドルフ湖に漁村をつくる計画を立てた。
牛と共に生活する遊牧民であったツルカナ族は、ミッションとケニア政府にパンとミルクと缶詰食料を支給され、湖岸の荒野の砂の上にロクワカンコーレという村をつくるに至った。1968年にはわずか300人だったが、1970年現在では約2,000人のツルカナ族が集まってきている。政府は彼らにナイロンの漁網を与え、ボートとエンジンまで持ち込んだ。
フェルグソン(湾)は、ワニとカバは漁網を荒らすという名目で、政府派遣のプロフェッショナルハンターによって射殺され、今はもうほとんどいない。
1968年11月、フェルグソン湾に面する半島の突端に、LAKE・LUDOLF・ANGLING・CLUB(ルドルフ湖釣魚クラブ)のロッジができ、文明人がフィッシングに飛行機で来訪しはじめ、飛行場ができた。
ツルカナ族は牛の血とミルクと小便を混ぜて、おかゆのようにしたものが主食だったが、現在では定住し、マッコーマ(椰子の1種)の木とその葉で家を作り、サハニーという魚を主食としている者もいる。
ロッジは、砂丘のような半島の先の方にあった。ロクワカンコーレからはずいぶん離れており、周囲は砂地で木は1本も生えていない。ロッジのあるところだけが、文明地で、他は原始時代と同じような砂の世界だ。
ロッジの後方に2年ほど前からツルカナ族が徐々に住み着いた戸数3、40軒ほどのロングチエと呼ばれる新しい村が出来ていた。私は何とか、その村に入ってみたかった。
エドモンドがやっと同意して、チーフ(村長)のチョペル氏を紹介すると約束してくれた。しかし、チョペル氏は、英語もスワヒリ語も全然話せないとのことだったので、エドモンドが前もってこの辺の知識とツルカナ族とチョペル氏について教えてくれた。
翌日エドモンドがチョペル氏に紹介してくれた。
彼は大男で、腰に黒色を中心とする布を巻き、腕には大きな腕輪をしていた。手には権力の象徴なのか、黒色の短い棒を持っていた。首には赤いビー玉の首輪をし、頭にはこの辺ではよく見られるマラボストーク(コウノトリの一種)の喉の皮を切り取って、髪の上にタブサのように飾りつけている。肌は黒褐色に光ってつやがよい。
彼の父はツルカナ族の族長で、彼はこの村と、この対岸のかなたに見える山のふもとの村を手中に収めているそうだ。年齢は40歳前後としかわからない。彼らには戸籍がないので正確な年齢など必要ないのかもしれない。
私はカメラを3台さげて、彼の後について行った。お互いの共通語はスワヒリ語のハバナ(ノーという意味)という言葉だけである。
いよいよ、彼と2人の徒歩旅行が始まった。500メートルも歩くと、砂の上に椀を伏せたようなマッコーマの葉の家が沢山あった。村人はこの赤熱の砂の上に座って、痛いほど強い直射日光を浴び、肌が黒く光っている。
或る者は魚網を修理し、また或る者はサハニーと呼ばれる、扁平な白い魚を刃物で切っていた。或る者は大きな缶詰の空き缶に水を入れて、魚を煮ているのを火の側に座ってじっと見ていた。或る者は砂の上でたき火をして魚を焼いていた。
家の中を覗くとたいてい人が寝ている。彼らは牛皮を敷くか、砂の上にゴロ寝である。家の中の砂は涼しいので冷房用にもなる。外が暑いので、そう感じるのかもしれない。家の中には家財道具など殆どない。日中は外が暑いので、狭い家の中は満員なのだ。
彼らを撮影しようとしたが、或る者は砂を投げっけ、或る者は顔を隠し、或る者は魚を投げつけた。或る者は、怒って私に向かってきた。或る者は家の中に走り込み、或る者はカメラを不思議そうに見詰めていた。或る子供はカメラを覗き込んで顔を歪めた。
彼ら全てが、チョペル氏の一声で静かになった。もう少しでカメラを取られそうになった時もあったが、チョペル氏が大声でどなって止めてくれた。
チョペル氏には、横柄なところがある。黒棒をまるで指揮棒のように使って私に命令をする。多分言語の意味が通じたら、さぞ癪に障ったことだろうが、意味が通じないので我慢できた。さすが村のチーフともなれば、いかに非文明社会といえども貫禄がある。いやかえって非文明社会のチーフこそ人間的権威が高いのかもしれない。
チョペル氏は先に進んだ。彼の黒光りのする広い肩が、いっそう広く思えた。彼の後姿にはなんとなく男の威厳のようなものが感じられた。
「オイ!」
私は彼を呼び止めた。女がカンの中にサハニーという魚を入れて煮ていたので、撮影してよいかと指を指した。彼は私を見てアゴで合図した。撮ってもよいということだった。
「・・・・」
女の声がカン高くひびいた。ビックリして後ずさりしたら、チョペル氏が女を叱ったのか彼の一声で何も言わなくなった。彼は余程の実力者なのか、黒棒を向けてブッキラ棒に言う。そして黒棒を私に向けて撮れと指図する。煮たサハニーの味は淡白で塩でもつけないと食べ辛い。彼らは醤油など知らないが、醤油をつけると一層おいしくなるだろう。
ツルカナ族はもともと、砂漠とブッシュの中で牛を追う遊牧生活をしながら、牛の血とミルクを混ぜて、ちょっと酸っぱくした食物が主食だった。彼らはかつて、スーダンとの国境近くのウガンダ東北部地域(現在、カラモジヤ族が住んでいる)に住んでいたが、スーダン南部から南下したカラモジヤ族によって追い出され、ルドルフ湖岸の砂漠地帯には約150年ほど前に移動してきた。しかし魚を食べるのはフェルグソン湾のツルカナ族でもまだ一部の人々である。この村の人々だって、数年前から食べるようになった。彼らは魚の他にワニの肉も食べる。私も塩をつけて食べてみたが、ワニは煮ると魚とチキンの中間のようでなかなか美味である。煮ると皮も柔らかくなって食べられる。
なおも砂の上を歩いたが、熱くてぶっ倒れそうだ。もう汗なんかでないので肌はカサカサになっている。チョペル氏は、すこしも熟そうにないし、帽子もなければサングラスもかけてなかった。私は白い登山用の帽子にサングラスをかけているが、重いカメラになやまされているのに、彼は素足で短い棒1本さげて熱砂の上を気軽に歩いている。
彼は笑いを忘れたような表情で二コリともしない。顔立ちは、アラブ系の血が混じっているのではないかと思われるほど目鼻立ちが整って立派である。
殆どの家は半島の高台にあって、湖岸までは2、300メートルあった。これは、雨期になると湖面が5、6メートルも上がるし、岸辺はヘビやワニなどの危険もあるからである。砂地の半島には、この辺に多いマッコーマの樹は1本も生えていないので、日陰になるものは家しかない。朝夕ならまだよいが、正午前後では日蔭はどこにもないので熱い。
歩いているうちに、魚を円形のハンドナイフで切っている裸の男を見かけた。彼の背には人工的な傷痕であるイボイボが沢山あった。
ツルカナ族の風習として、子供の肌に多少の切り傷をつける。それは悪い病気にかからないようにと両親が愛をこめて魔除け用に切り傷をつけるからだ。子どもが何度か病気にかかった時には、それが上半身全体になる時もある。男の背中一面にその傷痕が小さなイボとなって残っていた。
習慣と言えば、彼らの埋葬も変わっている。男が死ぬと必ず草のあるところに運んで行って埋める。それは、彼らの牛を追う遊牧生活の名残でもあるが、牛を非常に大事にしていたことがわかる。なぜなら、準砂漠地帯では、命の次に大事な牛のはむ草が少ないので、男たちは草を求めて牛とともに歩く。だから草のあるところに埋めれば、牛はいつも彼のそばにいるという。あくまで男を尊重した風習である。その反面、女はどこに埋めてもよい。しかし。子供が死ぬと決して埋めない。それは子供を埋めれば、その母親はもう二度と子供が産めないという迷信があるからで、砂の上か木の下に置き去る。
彼らの名前は、生まれた時、場所(何の側で生まれたか)によってつけられる。たとえば、エボノイ(若草)という名は若い草の側で生まれたという意味、オモル(石)は石の側、メイェン(川)は川の側、ジナヤ(衣)は衣類の傍で、オドチ(鶴)は生まれた時鶴が近くにいたと言う具合に身近に存在するものの名前がつけられている。
イボイボの男は、のんびりと砂の上に座って魚を切り開き、それを女が近くの縄を沢山張った干し場に持って行って干す。砂がついていようが、そんなことはおかまいなしの天日干しである。空気が乾燥しているので腐ることはない。
彼らは、干し魚をロクワカンコーレの出荷場に持って行って、4kg1シリングで売る。この干し魚はコンゴに輸出しているのだそうだ。至る所に干し場があって、沢山の魚が掛けられてあった。一見のどかな風景だが、彼らの生活を見ていると、寝起きを共にしてきた牛が魚にかわって、毎日毎日魚との戦いのようでもあった。そこには文明社会のサラリーマンが毎日電車やバスに乗って、家と会社を往復しているような、そうせざるをえないという、この大自然の秘境ルドルフ湖には似つかわしくない生活態度がうかがわれた。
ケニア政府は彼らに、魚を食べるためではなく、売るために獲らせることを教えてしまった。そしてその魚はビールに、パンに、砂糖に、塩に、缶詰食品に化けた。今ではトランジスターラジオに、魚網に、エンジン付きのボートに化けようとしている。
すでに、かつて沢山牛を持っていた原住民は、牛を売って網を、ボートを買って、小さな企業家として、原住民を雇って魚をとらせている。チョペル氏もその一人だ。雇われることの嫌いな金のないものは、ビールを飲むために、政府から払い下げられた魚網を、マッコーマの手作りのイカダに乗って使っている。さもなければ、水深の浅い所で原始的なカゴで水中の魚を伏せて捕るしかない。彼らは自分が食べるために魚を捕るのではなかった。
部落をグルリと見て回った。チョペル氏のおかげで、このロングチエ村の人々には、一応顔見世することができた。中には親しくなって、私のカメラを手にしたり、ただわけもなく二コニコしたりした者もいた。これからあと三日間、いつでもこの村にやって来て、彼らの生活を観察できるきっかけはできたし、いざとなれば、この偉大なる、訳も分からぬチョンマゲ男チョペル氏を応援につけることもできる。しかし、招かざる客としては、少し強引な訪問でもあった。
秘境ルドフル湖(1970年7月)ケニア
「とにかく暑いですよ、それに原住民も危険ですから、1人では出歩かないで下さい」。ナイロビの旅行代理店で、ケニア北西部のルドルフ湖岸にあるロクワカンコーレ(地名)までの往復エアーチケットを買ったとき、オフィサーがこう言いながらチケットを渡してくれた。
ルドルフ湖周辺は、1970年7月1日までケニア政府によって外国人観光客の立ち入りが禁止されていた。だから地図上はまだ白紙の状態で、詳しい事は殆ど何も分かってはいなかった。ただ水産庁の小さな出先機関と魚釣り人用ロッジがあることだけは知られていた。湖の周辺は荒野と砂漠地帯で道はないが、魚を捕るツルカナ族が住んでいる。陸の交通手段はないので飛行機で飛ぶしかなかった。幸いにも欧米のツーリスト用飛行機があり、明朝出発すると言うE・A・A《イースト・アフリカ・エアライン》の不定期便のエアーチケットを買った。しかし、実は乗ってみると乗客は私一人だった。
1970年7月8日午前9時半、ナイロビ郊外にあるウィルソン空港を飛び立った。ケニア山は雲に隠れて見えなかったが、山麓のジャングルの中には象の群れがいた。パイロットのエドワードは隣の副操縦士の席に座っている私のために、かなり低空で飛んでくれた。気流が乱れているのか、時々激しく揺れる。プロペラがブルン、ブルンと妙に不安な回転をしているような気がする。このままジャングルに突っ込めば命の保障はない。
ナイロビ→サンブル45分、サンブル→ナンユキ25分。そして、ルドルフ湖のロクワカンコーレに向かって、午後1時半に出発した。
しばらくすると、起伏のあまりなかった大地が、まるでアフリカ大陸が亀裂したように大きな口を開いていた。それは巨大な怪物が這った跡のようであり、大地が陥没したようでもある。
東アフリカのこのリフトバレー《地溝帯》の幅は、32キロから64キロもある大きな谷で、長さはケニアの北端からタンザニア北部に及ぶもので、谷底の海抜は、これから行くルドルフ湖が一番低くて375メートル、一番高いところがナクル湖岸で約1,900メートル。
リフトバレーの中を北に向かって飛んでいると、やがてテレキ火山によって出来た小さな湖が見えた。それはバレーの中を流れている川の終点で、広く湿地帯になって草が生えていた。ここから褐色の岩山を一つ越すと、青い湖面がまるで海のように見えた。機は長いひょうたんのような湖の西側を飛んだが、湖岸から西側は灰褐色の荒野で、潅木のマッコーマ(椰子の一種)がところどころに生えているだけだった。
「ルドルフ湖だよ」
エドワードが鳥瞰図を膝において、右手で指差して教えてくれた。
飛行機から降りたとたん、顔面がカーと熱くなるような熱気が感じられた。目がカサカサするので強く閉じると涙がどっと出た。
ナイロビの旅行代理店から、フェルグソンガルフ(湾)の半島の突端にあるツーリスト用ロッジのマネージャーに、今日、私か飛来することは無線放送で連絡がきているはずだった。
飛行機の下に座って30分も待った頃、やっとロッジの車が、砂煙を立てて走って来て、飛行機の横に止まった。驚いたことにトヨタハイエースの新車だった。中から数人のアメリカンツーリストが出てきた。彼らは熱気に悲鳴を上げながら飛行機の中に走り込んだ。
「ミスターモリタですね」
「そうです」
「ナイロビから連絡がありました。私はロッジマネージャーのエドモンドです。」
まだ24、5歳と思える、髪の毛を短く刈り、褐色に陽焼けした半裸の男が握手をしながら言った。
「サァ、行きましょう」
マネージャーのエドモンドに促され、ロクワカンコーレの船着き場まで約7キロくらい、車の通ったあとがそのまま道になっており、砂煙を残して砂地の中を走った。
湖岸は粘土質の土が混じっている砂地で水気が多く湿っていた。遠浅になっているので船着き場から小さなボートで約100メートル沖の中型のモーターボートに乗り継いだ。快速のモーターボートで半島の先端近くにある約四~五キロ先のLAKE・RUDOLF・ANGRING・CLUBのロッジに行った。
ロッジは1968年11月に、ルドルフ湖のナイルパーチと呼ばれる1~2メートルもあるスズキ目の巨大魚を釣りに来るケニア滞在の特別なヨーロッパ系の人々のために建てられたのが最初。その後外国人の立ち入りが禁じられていたが、本年から解禁となり、巨大なナイルパーチを釣る目的の観光用にオープンし、誰でも泊まれる。
ロッジは細長い建物が並んであり18室もある。屋根はマッコーマの葉で葺いてあった。1泊3食付きで175シリング(8,730円)ほどあって、設備は整っておりバーもプールもあった。文明人はマネージャーのエドモンド夫婦だけで、あとは皆ツルカナ族。客は私一人で、夜になると静かだった。
リフトバレーの中にあるルドルフ湖には、流れ込む川はあるが、流れ出る川はないので海に接続していない。その面積は9,000平方キロメートルで、なんと琵琶湖の13倍以上もあり、まるで海のようだ。しかし水深は比較的浅い。平均13メートルで水温が年中高く、微生物の発生が多いので、魚の成長が比較的早く大きくなる。湖水はソーダ分を含んでいるので、飲みつけている現地人以外が飲むと下痢をする。湖の中央部には火山によって出来た大きな島、セントラルアイランドかおる。そこの浜はワニやスッポン、亀、水鳥等の産卵地であり、島の周囲には沢山の魚が群れなしている。特に巨大なナイルパーチが多い。
ロッジに来て2目目の午前中は、彼のボートでナイルパーチと呼ばれるスズキの一種である大魚を釣りに湖の中の無人島近くに行った。なんと、1~1.5メートルものナイルパーチを1時間くらいで5匹も釣り上げた。疑似餌でいとも簡単に釣れたので、大魚と格闘したような感じが残った。何より大きいので釣り上げるのに疲れてしまった。その夜、遅くまでバーで飲みながら魚釣りや旅行等についてエドモンドと話し込んだ。
ルドルフ湖はワニと野鳥と魚の豊富なことで有名だったが、魚網をあらすという名目でロクフカンコーレのフェルグソン湾近辺のワニは、漁村を作るための大きな障害となっていた。水産庁から派遣された、プロフェッショナルハンターによって何百匹も射殺されたので現在では、フェルグソン湾内には殆どいない。私の滞在中に僅か3匹だけ見かけた。数年前までは、カゴで魚を獲っていた原住民がよく喰われたそうだ。
7月12日の午後は一人で、湾と反対側の湖岸の砂地を歩いてみた。半島の外側なので人影は全然なかった。まだ一度も人間が足を踏み入れたことがないような気がした。砂丘は長く、湖は広かった。海のような波の音と、カモやちどり、ペリカン、コウノ鳥、鶴、サギ、ガチョウなど野鳥の鳴き声が絶えなかった。
波打ち際に怪魚のようなナイルパーチの頭の大きい白骨体があった。なおも湖岸を歩いていると、ワニの頭部が2個ころがっていた。肉がまだ腐っていなかったので、歯がなかなか抜き取れない。ワニの大きな歯をナイフを使って6本抜き取ったら、指に大きな水ぶくれができ、痛くてもうこれ以上は抜けなかった。蛇のような刃物がないと、刃渡り7~8センチのナイフで抜き取るのは大変な仕事であった。多分、このワニは原住民に殺されたものだろう。外来者は殺すことを禁じられているし、頭を残して行くはずがなかった。
いずれにしても、半島の外側にはまだワニがいる。かつては6メートルもある大ワニがいたと聞いていたので、生きた大ワニを見てみたいと、1人で岸辺をどんどん歩いて行った。大きな魚が水際でハネ上がっているのは見かけたが、ワニは1匹も見なかった。ずいぶん遠くまで歩いたが、誰にも会わなかった。この砂ばかりの半島は人間が住めるところではない。先端近くにロングチエというツルカナ族の村ができたのは、文明人用のロッジがあって、そこでこの過酷な自然を文明の利器によって克服し、そのおこぼれを頂戴して生活できるからだろう。だから現地人も半島の外側を遠くまで来ることは殆どないに違いない。
ナイル川上流への船旅(1966年10月)エジプト
1966年10月、エジブトの首都カイロから、南のルクソールへ汽車に乗った。第2エジプト帝国の栄えたルクソールにある、テーベの史蹟を2日かけてゆっくり見物した後、アスワンまで汽車に乗り継いだ。アスワンの町からアスワン・ハイ・ダムの作業場までは、ハイ・ダム建設中の労働者用のバスに便乗した。
ナイル川を上流へさかのぼる、エジブトからスーダン行きの船は、アスワン.ハイ.ダムができたために、ダムからの出発になっていた。スーダン行の船着き場に着いてみると、ルクソールで得た情報をどこでどう記憶間違いをしたのか、船は昨日出たばかりで、次の出発は3日後であった。
仕方なく桟橋で待つしかない。アスワン・ハイ・ダムは出来たばかりの、まだ作業が残っている状態なので、何の施設もできていなかったし、商店など一軒もない荒野。食物はアスワンの町まで買いに出なければならなかった。
船を待っていたのは私だけではなく、7人の西スーダン人の隊商がいた。彼らは日に4・5回ナイル川の水で手足を洗い清め、東のメッカに向かってお祈りをする回教徒。彼らは自炊による夕食後、まだ暖かさが残っている砂の上で、薪を燃やして沸かした紅茶を飲み、「インムーイー・インムーイー……」と歌いながら素足でパタバタと大地を踏みつけて踊る。彼らと仲良くなって、インムーイーダンスを習ったり、紅茶を一緒に飲んだり、彼らと同じようにナイル川の水で水浴をした。
彼らは、白くて長いアラビアスカートをはき、頭にちょこんとターバンを巻いて、左腕に短刀をさした勇壮な格好。彼らは、西スーダンで買った野獣や家畜の皮をエジプトまで運んで売る隊商で、熱砂のサハラ砂漠をラクダにまたがって渡り、アラブ連合のエジプトに越境して首都カイロの商人に生きたラクダ(一頭約3万円)をも売り払って、ラクダの小さなクラだけを持ってスーダンに帰国途中であった。
1966(昭和41)年10月13日、午後4時10分、アスワン・ハイ・ダムの新しい船着き場から、スーダンのワディハルファー行きの船が出港した。スーダンとエジプト間のメインロードの役目をなしている船は、山と積まれた郵送物と船客や手荷物でごったがえしていた。私は1,100円で3等の切符を買った。
これから3日間のナイル川上流への船旅。快晴で雨は降りそうにないし、気候が良いので、船室に入らずにデッキで寝ることにした。食事は買い込んでおいた物や船中で売られているものを買って食べる。夜は航行せず、午後8時から午前5時までは接岸されている。
上流に向かえば向かうほど川幅が広くなり、川という感じがしない。湖か海か、それともスエズ運河と同じように思える。その岸辺には、アスワン・ハイ・ダムのためにやがて水没せんとする神殿の石柱や石像があり、人気のない廃墟の村々がポツン・ポツンと見える。中にはもう家の半分が水没した村もあり、何か侘しい光景。
しかし、後数年してアスワン・ハイ・ダムに水が満杯になれば、水没してこのような中途半端な光景はなくなるので、今しか見られない光景なのかもしれない。そんな思いに駆られ、ナイル川沿いの歴史の一端を見届けておこうと思い、進み行く両岸をつぶさに眺めた。
緑色の植物というものがほとんど見えない川の両岸は、褐色の岩山の世界だ。まるでナイル川だけが人工的につくられたような幅数百メートルの溝になっている。昼間は、ギラギラ光る太陽が、岩肌や水面に映えて、キーンと張り詰めたような空気が感じられたが、夕方になると、川面は鏡のごとくになり、人里離れた原始時代のような感じがする。
2日目になると、川の流域は岩が侵食された段丘がなくなって、徐々に砂漠となり、ピラミッドのような人工的な美しい砂丘が見えた。
午後1時頃、左岸の水没する低い所の岩壁をはがして、クレーンで丘の上に吊るし上げられた、アブシンベル神殿の巨大な石像が丘の上に座っているのが見えた。そこには何千年もの間、人間とナイル川が織りなしてきた歴史を大きく変えてしまった新しいナイルの歴史が、巨大なアスワン・ハイ・ダムと共に刻み込まれている。人工的に手が加えられた丘の上のこのアブシンベル大神殿が、世界文化遺産の第1号なのである。
午後3時にスーダンとの国境に接岸された。今夜はここに停泊し、翌朝ワディハルファーに着くそうだ。もう岩山はなく、右岸の東にヌビア砂漠、左岸の西にリビア砂漠を眺める茫洋とした光景。この乾燥した白褐色の砂地の中を大量の水がゆったりと流れるナイル川が、不自然でなんとも異様な感じがする。
スーダン人たちは船から下りて砂の上に敷物を敷いて座った。夜になると隊商の人たちがたき火をし、紅茶(彼らはアルコールは飲まない)を飲み、インムーイーダンスに興じた。彼らを見ていると、砂漠に生きる人間のあり方を感じずにはいられなかった。
私は、甲板に寝袋を開いて横になった。砂漠の星空は大変美しく、夢・幻のようなナイル川の船旅を感じつつ眠りについた。
翌日、午前5時に国境を出発し、午前9時にワディハルファーに着いた。町はすでに大半が水没していた。イスラム教寺院の高い塔(ミナレット)が、パームヤシの木と共に、ここに町があったことを伝えるように水面にある。砂漠の中に臨時につくられたバラック建ての家が並ぶ町には、銀行も駅舎もなく、線路のみが続いている。
移民局の事務官たちの手続きが悪く、スーダンへの上陸は午前11時になった。砂漠の中に臨時にできた町から続く線路に午後3時、首都のハルツーム行きの汽車が来た。砂漠の中を走るおんぼろ汽車に揺られ、ほこりまみれになって、夜中の11時15分にハルツームに着いた。
*当時撮影したのは白黒フイルムであった。
シドニーのホンダイビーチ(1968年12月)
ヘソ、ヘソ、ヘソ、丸いヘソ、上向きや下向きのヘソ、とっても小さなヘソ、胡坐をかいた大きなヘソ、出ベソ…。セクシーなのもあれば、泣きベソをかいたのもある。
まるで小さな布切れを上と下にチョコリとくっつけたヘソの大群が、鼻先でユーモラスに動く。時には、かぶりをふり、時には、オイデ、オイデをし、又それがウインクまでする。それにつれて私の表情が実に奇妙な反応を示す。喜び、なげき、興奮し、投げやりになり、そして放心する。それはまたいかなるショーや記録にも勝る伸々とした人間の無意識なアクションでもある。それを青空の太陽にもう何時間もにらまれながら灰褐色の砂の上に腹ばいになってあくことなく、己の目、いや脳に記録している。
ここシドニー郊外のボンダイビーチにやってきたのは、1968年もおしせまった12月29日の日曜日だった。地球を1周した世界旅行では豪州には足を踏み入れてなかったので、旅行記(これが世界の人間だ)を書いた後、オーストラリアを探訪することにした。冬の東京から飛んだ南半球に位置するオーストラリアのシドニーでは真夏である。ビーチを訪れてまずあっけにとられたのは余りの人出、中でも若い女性が多かったことだ。それと長さ数キロもある広い砂場のかなたに、まるで絵を見ているような美しい家々の立ち並ぶ丘があったことだった。
空は青く、海も青い。色とりどりの水着がまるでモザイクのように敷きつめられている。これらすべてが私を驚かした。どうしてこうまで自然と人工が調和しているのだろう。オー・ソレ見よ、と叫びたくなる。よく考えてみると、これらすべてが、みせるためにあるような気がする。セパレートのオヘソだって、カラフルな水着だって、小麦色に陽やけした肌だって、そしてなまめかしい四肢だって、美しい顔だって、柿色の屋根だってあおい海や空だって、ホホずりしたくなるような砂浜だって、すべてがそれを見る者に快感を与えるような具合になっている。それがオーストラリア東南にあるシドニー郊外の夏の浜辺なのだ。
たしかに人は多い。しかしその多さが、日本の浜辺と違ってちっともいやらしくない。ビーチパラソルもなければ貸しボートもない。浜全体がスーツと見わたせる。それだって人の視線を遮るような物を故意に取り払っているような感じさえする。いったいどこまで視覚を楽しませるようになっているのだろう。
いずれにせよ、私は視覚動物である。ひょっとするとよほど好奇心が強く、視力も強いものと見えて、ボンダイビーチでその視覚力を右に左にためしては、我ながら得意になってヘソの動きに喜々としているのである。
あまりヘソを見詰めていると変になりそうなので上に昇ろうか…。おっといけない、大きなブレスト。それじゃあすこし下にくだろうか…。これまた視覚が麻痺しそうな布切れ一枚の姫様だ。やっぱり真中がよかんベエ。
目はどうしてもヘソにそそがれる。と言うのは或る日本のヘソ学の権威者が私に三つのヘソ型を書き示して説明してくれたことがあった。円いヘソは体格がよく、むこうみず、縦に長いヘソは背が高くて慎重型、横に長いヘソは精神力があって図太いなどと教えてくれた。それが本当かどうかは知らぬが、背の高い女性は確かにヘソが縦に長い。比較的ボリュームがある女性は大小にかかわらず、まるいヘソをしている。
ヘソの型による性格まではわからぬが、とにかくヘソ学の邪道知識が少し身についているばかりに、一層ヘソに集中させられる。
シドニーに着いた直後の一日中こうしてヘソを眺めて過ごした。そしてだんだんとヘソに関して、あまり興味を示さなくなった。だから美しいビキニ娘が目の前に横になっていても別にカツカツしなくなった。
夕方のボンダイビーチを陽焼けしたビキニ娘達がバスタオルと何がしかをアミカゴに入れ三々五々と散っていった。後には静かな夕やみが、波におしよせられてチリ一つない砂浜にやって来た。人の足跡だけが、そこにビキニ娘達がはちきれんばかりの四肢を持て余すようにたわむれ、そして寝ころがっていたことを伝えている。
少数の若者がまだサーフィンをやっている。時々笑い声が聞こえた。目の前を、サーフィンボードを頭に乗せた少年が横切って去った。彼の鼻先は白く塗られていた。それは陽焼け防止のためである。もううす暗くなっていた。丘の上の家々に灯が点り、海岸通りにも外灯がパツと点った。
「ジョニー、帰ろう」 誰かが友を呼んでいた。
その数日後、有名なシドニ湾を出発するヨットレースを見た。これもヨットと人の多さに驚かされた。何より、人も、街も、空も、海も、みんなきれいであった。
トラジャ族の米倉と崖墓(1987年1月)スラウェシ島
インドネシア北東部のスラウェシ島中央高地に、トラジャと呼ばれる民族が住んでいる。トラジャ族は、周囲の諸部族とは異なった風習があり、20世紀に入るまであまり知られておらず、謎の民族として、その由来は今もはっきりしていない。
私は、1987年1月8日、インドネシアのバリ島から飛行機で約1時間東北に向かい、南スラウェシの中心地ウジュンパンダという人口75万人の町に着いた。翌9日の早朝、ここから車で出発した。約8時間も走って300キロ程北のタナ.トラジャと呼ばれる高地に着いた。人口約35万人と言われるトラジャ族は、標高800~1,000mの地域に住んでいる。
ここは赤道直下でも比較的涼しく、雨季でも午前中に雨が降ることはない。年中初夏のような気候で、稲作は2、3回収穫できる。周囲に石灰岩の岩山が多く、谷間には棚田が続き、緑に覆われ、果物や野鳥が多く、大変豊かな地域。
この高原地帯に住む人々を、周囲の低地に住むブーキス族が、“山の人”という意味で“トラジャ”と呼んだのが名称の始まりだそうだが、トラジャ族の社会は王族・貴族・平民、そしてその下と4つの階級に分かれている。
上級階級の人々は大家族で、“トンコナン”と呼ばれる高床式の“家族の家”を中心に何家族もが共同生活をしている。トンコナンは屋根が南北に張り出し、船型をしている。他に”アラン“と呼ばれる高床式の4~6本足の米倉がある。
私は、サンボリンギ家、サルガロン家、ブンブガン家、サンペトリン家などの王家を訪れたが、王家の人々は比較的肌の色が淡く、目鼻立ちがよく、中国大陸南部のチュワン族やタイ族の人々に似ている。彼らの伝説によると、先祖は北からきたことになっており、神聖な方位は北で、忌むべき方角は南と西である。11王家の中でも歴史が古く、大きな家系であるサンボリンギ家は、今の当主が51代目だそうで、約700年前から続いているという。
私が、通訳のイヅロスさん(30)と一緒に1泊させてもらったノノガン地方の王家であるブンブンガン家は、サダン川にかかる橋の近くの小高い丘にあり、たくさんの米倉「アラン」が建ち並んでいた。
頭主のタンニ・ブンブンガンさん(65)は、トラジャ地方の議員であり、地主であった。
夕食は、彼の奥さんがトラジャ料理を作ってくれた。食材の野菜は全て畑から採りたてを使った。調味料はトウガラシが主で、少々ピリピリしてあっさりした味で食べやすかったが、食後は口の中が燃えるようで舌が痺れ、水を何杯も飲んだ。
夜は、娘のフィトレシアさん(17)が、王女の正装を身につけていろいろ説明してくれた。そして、歌ったり踊ったり雑談したりと、家族が夜遅くまで付き合ってくれ、楽しい一夜を過ごした。
トラジャ族は、もともと「アールック・ト・ドロ」と呼ばれる祖霊信仰であった。ところが、今から90年ほど前からオランダ人に強いられて、今ではキリスト教徒が多くなっているが、彼らは、今でも祖霊信仰の風習を変えず、葬儀は昔ながらの風習を守り続けている。
トラジャ族は、昔から南の彼方に「プヤ」と呼ばれる来世があり、死後も第2の人生を送ることができると信じていた。葬儀は来世へ行くための儀式で、生贄の家畜が多いほど来世で裕福に暮らせるのだという。だから、「ディラバイ」と呼ばれる王族の葬儀は、一次葬(アルクピア)と2次宗(マバラオ)に分かれ、水牛が何10頭も生贄になり、大変盛大に行われる。
「リアンパ」と呼ばれる、2次葬後に遺骨を安置する絶壁の墓“崖墓”は、高い岩穴に梯子を使って遺骨を安置し、副葬の“タウタウ”と呼ばれる木偶をバルコニー風の窓に、並べて立てる。
いずれも祖霊信仰の表現方法であるが、村を見下ろす断崖のバルコニー風の窓に並んだ木偶が、前に手を差しのべて何かを語りかけているような様子は、一見奇異に思われるが、先祖と共に生きる子孫たちの大いなる心の表現だと知ると、これこそ人間愛の最高の文化のようにすら思える。
彼らは、先祖たちの無数の木偶を、何年かごとに衣類の着せ替えをするそうだ。何より、絶壁に立つ木偶の2つの目は白く光って遠くからでもよく目につく。その目は、村への悪霊の侵入を防ぎ、しっかり働き先祖を敬いなさいと、村人たちに語り掛けているようでもある。
1日遅れの西サモア(1999年12月)西サモア
南太平洋の西サモアは、日付変更線のすぐ東側にあたるため、世界で最後に日か暮れ、日本との時差は20時間もある。
私は1999年12月9日の夜、トンガの首都トンガタプから約1時間30分の飛行で、西サモアのウポル島にあるフアレオロ空港に着いた。そこから首都アピアまで26km、車で30分弱を要してキタノ・ツンタラホテルに着くと、なんと1日前の8日午後11時55分だった。私はここに3泊4日間滞在する予定である。
翌日は12月9日を2度迎えることになり、日付変更線という人工的な時のマジックにかかって、なんだか1日得をしたようで、いささか楽しい気分になった。
南太平洋のほほ中央にあるサモア諸島の西半分を占める島々が、立憲君主制の国、西サモアである。ウポル、サバイイの両主島と7個の小属島からなり、面積は東京都の約1.3倍の2,934平方キロメートルで、人口は17万人。
近海にはカツオ、マグロの好漁場があり、南太平洋におけるマグロ漁業の基地としても古くから知られている。
翌10日、午前10時前から人口3万4千人のアピアの街を見て歩いた。中心街の路地裏に12~3歳の男の子10人ほどが楽し気に群れなしていた。近づいてみると、彼らはコインを賭けて遊んでいた。地面に線を引き、4mほど離れた所から10セネ(約45円)コインを投げ、線を越さない1番近い者が勝ちで、賭け銭を全部自分の物にすることができる。彼らは、何度も何度も繰り返してやった。これは、1種の賭博であるが、いずこでも老若男女を問わず、遊びの原点である。
私は、陽差しの強い建物の日陰で、夢中になって遊ぶ子どもたちを、子どもと同じような気分になって観察していた。
翌11日は日曜日であったが、6時に起床して300mしか離れていない海岸の魚市場へ行った。数10艘の双胴船などが岸壁に並んで結われ、多くの漁師がいた。どの舟にも甲板や箱の中に7、80cmのマグロが何匹もころがっていた。中には1m以上もある。摂氏23℃に朝日が差している。延縄で釣り上げられたマグロは、大きな目をうるませて黒紫色に輝いている。日本でなら1匹数10万円はするだろう。
「この魚、日本ではいくらする?」
肌の白っぽい2m近くもある巨大な魚を見ていた私に、50代の漁師が尋ねたが、魚の名前も値段もわからなかった。名前を尋ねるとマグロの一種だという。この魚の肉は特上で大変美味いそうだ。
「日本では半身が100万円以上はするだろう。」
男は私をからかうように笑った。漁師たちは、マグロが陸揚げされるのを待っていた。その中に10歳前後の子どもたちがいた。皆釣り糸を手にし、岸壁から糸をたらしていた。セイゴの様な魚や、アジ、イワシ等が釣り上げられた。子どもたちは食べるために釣っているので、魚をビニール袋の中に入れた。これは、遊びを兼ねた食料採取で、子ども本来の野外伝承遊びの1つである。
朝食後しばらく休み、午前10時、ホテルから4km離れたスキューバダイビングの発祥地とされている、“パロロの深み”で、シュノーケルをつけて、素晴らしいサンゴ礁のカラフルな美しい熱帯の魚たちと遊んだ。私自身、心身を解放する遊び心を感じることができた。私は、2月11日の午後3時過ぎに荷物をまとめてチェックアウトをし、その日のうちに飛行機でフィジーに着いたら、何と2月12日の夜であった。
ヤップの女性たち(1998年1月)ミクロネシア連邦
1998年1月30日、東京からグアム島経由で西太平洋に位置するヤップ島を訪れた。
空港のロビーで上半身裸の美女に迎えられた。しかし、とっさのことだったので、まるで子供のように急ぎ、いきなりシャッターを押したので良い写真はとれていなかった。いずれにしても、はちきれそうな美しい乳房を堂々と押し出して迎えてくれたヤップの女性には、入国早々から驚かされた。
直径50センチから三メートルもある巨大な石貨で有名なこの島には良質の石がない。島は火山岩で出来ているので良質な石がなかったこともあり、ヤップの男たちは、昔から500キロも南方のパラオのカーブ島までカヌーを漕ぎ、命がけでフエと呼ばれる石貨を運んできた。石貨は円形で、中央に棒を指して運ぶための穴が開いている。最も新しいものでも百年前とされる伝統的な石貨は、村と村、家と家の信用関係を深めるもので、今もまだ通用している。
州都コロニアから南西に約2キロ、ヤシやバイウチ、バナナなどの樹が茂るブラバーツ村の石貨銀行は、村の集会場である“ペバイ”前の道沿いにあり、大小30余個が陳列されていた。そこから更に歩みを進めていると、ジャングルの中からリズミカルな女性のハーモニーがかすかに伝わってきた。その響きに誘われて熱帯雨林の中の薄暗い小道を、1人で不安な気持ちで300メートル程進むと、空が大きく開け、石を敷き詰めた広場に出た。
広場には男は一人も居ないが、2~30名の女性が並んで座り、歌いながら両手を波のようにゆらして踊っている。身につけているものは、“ヌーヌウ”と呼ばれる髪飾りと、“オン”と呼ばれるバナナやヤシ、ニッパヤシの葉で造る腰蓑だけで、上半身は何も身につけていない。その向かいには10人程の中老婦人が座って踊りを見ながらビンローの実を噛んでいる。彼女たちは私の来訪に気づいても、知らぬ顔をしている。ヤップは伝統を重んじ、外国人の自由な振る舞いを許さないという情報を得ていたので、しばらく様子をうかがった。
通訳も案内人もいないので、迷いながら少しずつ近づいて、カメラを指し示しながら中年の女性に英語で話しかけた。
「撮影してもよろしいですか」
彼女は2~3人の女性と相談してから英語とヤップ語のチャンポンのような言葉で答えた。
「撮影は駄目です。見るだけならどうぞ」
「これは、何かの儀式ですか」
「いや、3月1日のヤップ・デーに皆の前で踊るための練習です」
やっとこれだけのことがわかった。それにしても、乳房の小さい子どもから大きな熟女まで順に並んでいる光景は、男にとっては大変珍しく壮観である。
6~9歳までの少女の胸は、少年と変わりないが、10歳の少女の胸は、ビワの実のようにふくらみ、11歳の少女の胸は乳首が突き出た円錐状である。12歳になると、小さな椀を伏せたように2つの乳房がぽっこりとふくらみ、13歳の少女の胸は椀状に突き出し、はちきれそうに輝いている。14歳はもうすっかり娘の胸になり、乳房がゴムマリのようにふくらんで光っている。15歳の乳房は風船のようにふんわりと持ち上がり、乳房がやや下向きになって、成熟した女を主張しているようだ。
16歳から20代後半までは子育て中で多忙なのか、28歳、29歳の2名のみである。
30代の熟女たちの胸は大きく、いろいろな形に垂れ下がってはいるが、いずれも子育てを果した立派な証拠である。
40歳以上は踊りの仲間には入らず、指導する側であり、中央のリーダー格の白髪の老女は63歳。
私は、これまで35年間、世界の多くの民族を踏査し、撮影してきたが、これだけ多くの異年齢の女性たちの乳房を同時に目の当たりにしたのは初めてのことだったので、最初は比較の面白さと女体に魅せられて興奮気味であった。男としての好奇心に駆られて見入っていたが、やがて平常心に戻り、上半身裸の女の身体がごく普通に見られるようになった。
30分もすると、彼女たちは立ち上がり、4人1組になってかけ声を発して手を叩き、中腰になって腰を激しく振り、足を踏み鳴らし始めた。手を波のようにゆらして歌い、踊る。“ツルサケイ”と呼ばれる立ち踊りは、動きの激しい活発な踊りである。
大人と共に踊る少女たちにとっては、これらの踊りが、大人を見習う一種の遊びであり、伝統行事である。だから、10数歳の少女や娘たちも、私が見ていても、近くの熟女が楽し気に振舞っているので、ごく自然に、恥じらうことなく大らかに踊っている。
1時間近くも見ていたが、やがてその場を去り、近くのブラバーツ村を訪ねた。村の子供たちが寄ってきて話し、しばらく一緒にいたので親しくなり、撮影させてもらった。2時間ほど村に滞在し、午後5時頃歩いてコロニアに戻った。
その翌日、観光客の一人として、椰子林の中にある海岸近くの村で行われた子供たちの踊りを楽しく拝見した。村での少女たちは、裸ではなく、ヤップの衣装を身に着けていた。
石造りの街バレッタ(2003年1月)マルタ
私は、2003年1月26日午後1時半発のJAL407便で成田を出発し、ドイツのフランクフルトでマルタ航空のKM329便に乗り換え、同じ日の午後10時にマルタ国際空港に着いた。日本よりも8時間遅いので、なんと16時間30分もの長い旅であった。
あいにくの肌寒い雨で、暗くて何も見えなかった。初めての訪問で地理がよくわからなかったが、すぐにタクシーに乗る。7キロ離れた首都バレッタの中にあるオスボンホテルの5階に泊まる。風が強く、1晩中ガラス窓を叩く音がした。
翌27日の朝にはまだ小雨が残っていた。9時に国営旅行センターを訪れると、若い女性が親切に対応してくれた。子どもこの野外伝承遊びの現状について調査したいので40代以上の通訳兼案内人を紹介してくれるように頼むと、彼女は何本か電話をしてくれた。20分もしないうちに人を捜してくれ、午後1時から市内を案内してもらうことになった。
小雨に濡れ、石造りの家が立ち並ぶ古い街を歩いて見る。正午前に雨が止ったのでタクシーをチャーターして約20キロ西のクレンディ地方にある5,000年程前のハガールキム神殿とムナイドラ神殿の遺跡を見た。
マルタ島は、「地中海のヘソ」と呼ばれて古くから知られており、紀元前3000~2500年頃の、世界最古のハガールキム石造神殿があり、巨石文化を築き上げた人々が先史時代から住んでいた。
有史以来、フェニキア人・ギリシア人・カルタゴ人・ローマ人・アラブ人・ノルマン人・カステリア(スペイン)人などが相次いで侵略して占領したが、長くは続かなかった。
マルタにとって重要な歴史は、キリスト教徒の「十字軍」の支援団体であったヨハネ騎士団が、1522年に、イスラム教徒のオスマントルコ軍によって、ギリシア南東部のロード島から追い出された後、神聖ローマ皇帝カール五世からこの地を貰い受けて移住してからである。
ヨハネ(マルタ)騎士団は、さっそく商業と交易を盛んにし、新しい病院や要塞の建設に力を注いだ。1565年には、トルコの大軍に3ヶ月間も包囲されたが、シシリア島からの援軍もあり、かろうじて勝利した。その後はマルタ騎士団によって支配されて繁栄したが、騎士団の士気や道徳が徐々におち、1798年にはフランスのナポレオン軍の侵入を許し、268年間も続いた騎士団のマルタ支配は終り、フランス領となった。しかし、その2年後の1800年には英国の保護領となって160年以上も続いた。そして、1964年に独立を宣言し、1973年にマルタ共和国となって憲法を発布した。
マルタは、イタリアのシシリア島の南96kmの地中海にある小さな島国で、面積は僅か316㎢、淡路島の半分余りの広さである。人口は約40万人で、北アフリカ系、中近東系、ヨーロッパ系の人々が住んでいるが、97%以上がカトリック教徒である。首都バレッタは、16世紀中頃に作られた古い城塞都市で、住民は石造りの家が多い古い市街からどんどん城外に出るので、今では人口7,000人である。しかし、政治的主府なので人々の多くは外からバスで通勤をしている。公用語はマルタ語と英語。5つの小さな島からなるが、いずれも砂浜は少なく、深い入り江が島を取り巻いている。
石灰岩が隆起したマルタ島には山も川もなく、最高地点が海抜275mの低い丘がいくつかあり、斜面には石を積み上げた段々畑が続いている。
年間降雨量は僅かに578mmで、平均気温は摂氏14度。気候は温暖で、一年中暖かな陽光がある。そのため、ヨーロッパ諸国から年間120万人もの観光客が訪れる。産業は古来からの農業と漁業の他には造船業と観光業があるだけで、経済力は弱い。
午後1時すぎにホテルに戻るとカルメン・ディフェサ女吏(46)がロビーで待っていた。すぐに打合せをし、私の取材目的を伝え、理解してもらった。しかし、今日は、天候が悪く、風が吹いて肌寒いので、子どもが外に出て来ないだろうとのことだった。 とにかく、2時過ぎには子どもが学校から家に帰ってくるからということで、街中を歩いた。しかし遊んでいる子どもは見かけなかった。そして、午後4時からマルサムシェツト地域の海岸にある子ども運動広場を訪れた。彼女によると、東南北の3方を高いマンションに囲まれ、西は海岸に通じた住宅地域のこの運動広場に、夕方は必ず子どもが集まるということで、数十分も待っていると、4名の小学低学年生が来て、ブランコや滑り台、吊り輪等の設置された遊具を使って遊び始めた。やがて2人の男の子が来て、運動広場の緑色に加工された地面に、白い線で描かれた図面の上を片足で跳びながら遊び始めた。それは、日本にもあるケンケンパ遊びの“片足跳び”である。
彼女に通訳してもらって尋ねると、“パシオ”という遊びで、男女混合でやるが、今日はマルキュオル君(13)とオリンスキ君(13)の2人だけだという。この遊びは常設された図があるので、いつでもやるが、今日は寒いので他の者はしないという。パシオはバレッタで最もよく知られていた遊びで、市が常設用の図を描いて奨励している。
他にどんな遊びがあるか尋ねると、“ノーリ”と呼ばれる、かくれんぼ、それに“ボッチ”というビー玉遊び、そして、日本の“かごめかごめ”と同じように円陣になって歌を歌いながら遊ぶ“デインイヅダッア・ミンタイレグ”があるという。
約1時間彼らの遊びを観察し、通訳のカルメン女史も交えて聞き書きをし、撮影した。マルタの子どもたちの遊びは、殆ど男女の区別がなく混合で行われるそうである。 肌寒い1日で、5時半には薄暗くなって、ホテルに戻った。
ベルリンの壁崩壊後の壁の様子(1990年5月)
第二次世界大戦後、戦争に負けたドイツは、東ドイツと西ドイツに分離されたが、首都であったベルリンも東西に分離された。
東ドイツは、1961年8月13日に、東西ベルリン間の通行を遮断し、西ベルリンの周囲を囲むベルリンの壁を建設した。実質、東ドイツ市民の西側への出国を阻止する手段であった。が、東ベルリンからこの壁を越えて西ベルリンに脱出しようとした多くの東ドイツ市民の犠牲があった。
そして、その27年後にもなると、抑圧された東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされた東ドイツ政府は、1989年11月9日に、やむなく出国の規制を緩和する改正案を決議して、事実上、ベルリンの壁は崩壊し、その日のうちに、国境検問所が開放された。
私は、その翌年の1990年5月14日に西ベルリンを訪れて、ベルリンの壁の崩壊半年後の現場を見た。壁には多くのメッセージが書き記されていた。
バルカン半島の不思議②(1973年7月)クロアチア
遺跡の上の街スプリット
クロアチア共和国のアドリア海沿岸にあった、ローマ時代の宮殿の上にできた町だと言われるスプリットとは、どんな状態の町なのか、大変興味があった。
私は、これまでに世界109ヶ国を歩いて、古代の遺跡や遺跡と関わる町を、いろいろな国で見てきたが、遺跡の上や中にできた町をまだ見た事はなかった。人間は新しいものを作る時、古い物を破壊しがちなので、残っているとしたら、大抵は町から離れた所に遺跡があるものだ。
私は、遺跡の上にできたアドリア海沿岸最大の町、スプリットを見ようと1973年7月頃、リエーカからアドリア海沿いに車を走らせた。
スプリットには午前8時半に着いた。さぞ変わった奇怪な町だろうと目を凝らして見たが、石やレンガで作られたイタリアやギリシアで見かける普通の家が多く、ちっとも変っていない。
しかし車を下りて、旧市街の中に一歩踏み込んでみると少し趣が異なっていた。海岸通りから横に入ったトンネル、いやトンネルではなく実際はパレスの広間なのだが、詳しいことを知らなかった私はこれをトンネルぐらいに考えていた。薄暗い中を50メートルほど歩き、階段を昇って外に出ると、そこにはローマ時代の遺跡が雁首を並べていた。宮殿の中庭であったようなところだ。しかしそこには家が建ち並び、カフェテリアがあり、周囲には人々が住んでいる。
大きな丸い石柱が居並ぶ中に古い教会があり、その側にはピサの斜塔を四角にしたような高い教会の塔がある。私は、入場料を払って登り、塔の上からスプリットを見下した。
馬車も人力車も通れないような狭い石畳の通りを歩いた。真中に歩行に差し障りのないような浅い排水溝が走っており、ところどころ流れが落ちる小さな穴があった。
狭い路地が交差し、高く厚い石を積み重ねた壁があった。パレスの入り口の一つであったダイヤモンドゲイトである。小さな草の生えた壁にはアーチ型の通路があって、広場に通じていた。その通路の横から壁に登る石段があった。16世紀もの長い月日に色々な人が踏みつけて角が丸くなった石段を上りつめると、壁の上に路地があり、古い石造りの壁をうまく利用した人家があった。窓から中をのぞき込むと、中年の婦人が白い糸で編み物をしていた。洗濯物が干してあり、下を見ると路地を歩く人々がいた。
私は、何階にいるのか分からない路地を歩いた。壁にさわり、石畳をなでてみた。車もオートバイも通らない、古代と同じような石畳の道を歩いていると、何となく心が弾んだ。どこをどう回ったのか地図を持っていないので分からないが、おかしなことに海岸通りに出た。出たといっても3階ほどの高さで、海辺の通りを見下ろしているのだ。入った時は確かに地下に潜ったような気がしたのだが……。
現在の市街の一階にいる私は、高いパームツリーの葉と同じ高さにある、カフェテリアに座ってコーヒーを飲みながら、この街はどうなっているのだろうと考えてみたが分からなかった。
ふと海岸通りに面した家の壁を見ると、ローマ時代のパレスのものと思える石柱が並んでいるのに気付いた。そうだ、この町の旧市街はディオクレティアヌス・パレスの遺跡の上にある、いや遺跡の中にもあるのだ。この下にパレス,宮殿があるはずなのだ。急いで階段を下りて海岸通りから入口を捜した。
入口は最初に私が入ったところだった。再び入ってみると、左側に博物館の標識があり、パレスの見取り図と原型の画が壁にはってあった。
伝説によると、ローマ帝国が滅亡した7世紀頃、近郊のサロナから追われた人々が頑強な宮殿内に避難して住み始め、宮殿の基礎部分はそのままにし、その上に建物を作ったのが始まりだそうだ。その後、色々な人々が住み着き、建物が増築されて町になったため、古代と中世の建物が立ち並ぶような独自の街並みが生まれたとのことだ。
皇帝の死後、多種多様な民族の移住や移動のうちに、このパレスは破壊されたり、利用され、一階は瓦礫や土を詰め込まれたまま存続し続けていたそうだ。そして、その後にやって来た人々によって、その残骸の上に家が次々に建てられた。しかし、その宮殿内の瓦礫を、1956年から63年までかかって、現代人たちが旧市街の西側の左半分だけを掘り出して、博物館としている。一番広い部屋は、石とレンガによる柱が並び、ビザンチン建築様式とされているアーチ型が巧みに作られている。今私が天井を見上げている小広間は、建設当時の四世紀頃の原形をとどめたまま千六百年間もの間眠っていたわけだ。
この宮殿の内部を見るまで、遺跡の上や中にうまく調和して建てられた町の光景がそれほど不思議ではなかったが、現在は博物館となっている、街の下(地下のようであるが、一階であった)の宮殿跡に入って、天井と青くサビた壁を見上げていると、人間の歴史の重みや文化的つながりが生々しく迫って来た。
故意にしろ、必然にしろ、無意識にしろ、古代遺跡の中にこうもうまく侵入してしまっては、古代も現代も人間のありようにはあまり変わったものが見受けられない。でも実際には現代のスプリットには冷蔵庫やテレビ、ラジオも電気も、車も洗濯機もある。
外来者にとっては遺跡の上の街は、物珍しくて非常にロマンティックに思えるが、実際住んでいる現地の人には、中世と同じような狭い石段や路地、それに石やレンガの古い建物、、など不便なところがあるのかもしれない。でもこれを現代文明によって破壊して新都市を再建すれば、人々は鉄とコンクリートの世界で、伝統文化としての故郷を失った流浪の民となるだろう。故郷としての遺跡と共に生きることの重みに耐えて生きるのも、また一つの生き方なのだ。
私はそんな思いでスプリットの中心街を歩いたが、外見的にはあまり変わった様子はなかったが、やはり不思議な路地や通りの多い、遺跡の垣間見える街であった。
バルカン半島の不思議①(1972年5月)スロベニア
ポストイナの鍾乳洞
私は、もうずいぶん前の1972年5月頃に、バルカン半島を車で旅したことがある。その時スロベニア共和国の首都リュブリヤーナから西南のポストイナの鍾乳洞を訪ねた。
ポストイナ鍾乳洞の入り口は、山の斜面に抱き込まれるように建っている、華やかな色彩の大きな家の中にあった。
長さ2.7キロもあるとされるこの鍾乳洞は、過去150年間に900万人以上もの訪問者があった、世界的に有名な長くて大きい洞窟だと言われている。
まず入場料を払って建物の中に入る。通り抜けた所に高さ十数メートルもある大きな鍾乳洞の入り口があり、その手前に十両ほど連結した、電気で走る小さな気動車が止まっていた。
私は、これまでにいろいろな国で鍾乳洞を訪ねたことがあるが、中にレイルを敷いて気動車で案内されるような鍾乳洞を見たことも聞いたこともなかった。
トンネルの入り口に沢山の人が待っていたのは、13時30分の出発時間を待っていたのだった。乗車場の扉が開かれると、皆が気動車に乗り込んだ。
やがて、ガタゴトと音を立てて動き始め、中に進むに従って、次々にイルミネーションが点されて洞内を美しく飾った。車掌が下りてはスイッチを入れ、進むに従って前方が明るくなる。通過すると自動的に消えるようになっているのか、後は暗くて何も見えない。
まだか、まだかと思いながら、巨大で長い洞内のイルミネーションに輝く様々な形の美しい鍾乳石の中を、12分ほども走ってやっと目的地に着いた。
洞内の温度は年中華氏80度(摂氏約25五度)だそうで、人が住むには適温とのこと。また、この洞内を流れる川にしか棲んでいない、人間の肌と同じ色をした類人魚“Human Fish”と呼ばれる、四つ足で、眼の退化した両棲類の珍しい魚が住んでいるそうだ。
洞内の鍾乳石が1㎜伸びるのに20年ほどかかるそうだがから、5メートルも10メートルもある大きな、床から天井まで届いている石柱などは、何万、何十万年も経っていることになる。
気動車を下りて、更に約2キロメートルの間、イルミネーションに映えた、カラフルで神秘的な美を秘めた天然の造形物である、キノコや燃え残りのローソク、鐘、大小の柱、板、皿、笛など、諸々の物に似た形の鍾乳石が林立していた。
とにかく、気動車を下りてから、2キロにも及ぶ長くて大きな鍾乳洞の中を、英・仏・独・伊、西の数か国語のグループに分かれ、それぞれにガイドがついてあちこちと迷路のようなコースを案内されるのだが、思ったより足早に進んだ。
私は撮影しながら歩いたので、グループからは遅れがちだった。ぐるっと回って引き返しにかかった時、入口でいっしょに入ったリユブリャーナの娘さんをモデルにして、石柱の側などに立たせて撮影していると、突然に、私たちがいる所を照明していたイルミネーションが消えて真っ暗になった。照明が消えると一メートル先にも進めないし、30センチ先の彼女の顔も見えず、2人で手を取り合い、大声を上げて、まだ私たちが残っていることを告げた。
洞内が反響して頭上で雷鳴が轟いているようだった。視界が消えて2分間ほど叫び続けていると、ガイドが気づいてくれてイルミネーションを点してくれた。
ガイドによると、イルミネーションは、一定の時間が過ぎると自動的に消えるようになっているので、時間内に急ぎ足で見て回るようになっているとのことだった。
「トム 君はトーチを持っていたか」
追いついて間もなく、アメリカ人のアクセントの強い中年の男が、笑いながら私に話しかけてきた。
「それはどういう意味か?」
私は彼に尋ねた。彼は笑いながらショートストーリーを語ってくれた。
“鍾乳洞にトムという青年が恋人と共に入って、途中でトーチを落とした。暗闇の中を2人で探しているうちに、彼女が「トム、トーチがあった」と叫ぶと、トムが「痛いよ、それは俺のだ」と叫んだ”。
彼がジョークを話してくれ、英語グループの皆が大笑いしたが、私がモデルにした若い娘さんは、意味が理解できずに、なぜ皆が笑うのかと不思議そうな表情をしていた。
私たちが歩いていた床の10数メートル下には、地下水の川が流れていた。床の割れ目を透かして覗くと、かすかに水の流れる音はするが、底なし穴のような不気味な闇があった。
地球は、未知なことの多い全く不思議な物体、いや生き物なのだ。私たちは地球の毛穴か汗腺のような洞窟の中に入って、空気を乱し、有害なウイルスのような炭酸ガスを吐き出し、靴を履いた足で勝手に踏みつけて歩いたり走ったり、しかも大声で笑ったり話したり叫んだりしているのだが、人間の勝手な行為によって地球が皮膚炎症を起こすようなことがありはしないだろうか……。
そんな思いをしながら、巨大鍾乳洞の中をグループと一巡して、再びオモチャのような気動車に乗って、地球の表面に引き返した。リュブリヤーナの娘さんにお礼を述べ、2時間の洞内ツアーを終えた。
分割されたニコシア(2003年1月) キプロス
私は、2003年1月28日の朝9時20分マルタ発の飛行機に乗り、ローマの新空港FUIUMICIONOに11時に着いた。しかし、キプロス航空のパイロットのストライキで5時間足止めをさせられた。午後4時30分に飛び立った飛行機は、2時間45分の飛行でキプロスのラルナカ国際空港に午後7時15分に着いた。キプロスは日本との時差7時間、イタリアより1時間早いので、現地時間は午後8時15分であった。入国手続は、入国カードに必要事項を記入するだけで、大変簡単であった。私にとって141番目の訪問国となったキプロスは、日本の大使館も領事館もなく、情報が大変少なかった。外は暗く、地理が判らなかったが、飛行場のタクシー乗り場でタクシーに乗り、約60km北の首都レフコシア(ニコシア)に走らせ、40分で予約しておいたカステルホテルに着いた。
キプロスは1960年8月16日、イギリスより独立してキプロス共和国となる。しかし、その後、少数派のトルコ系住民との間に対立が見られ、1974年にトルコ軍がキプロス北部を占領し、1983年に「北キプロス・トルコ共和国」として、キプロス共和国から一方的に独立を宣言し、今に至っている。そのため、16世紀に作られた首都レフコシア(二コシア)の円型城塞都市は北と南の半分ずつにグリーンベルトで分断され、南側には今も国連軍が駐留している。
人口約76万人のキプロスの主な産業は農業で、小麦・オリーブ・綿・果実が栽培され、ワインが生産されている。島の南側では観光業が発展し、キプロスの経済を成長させている。
翌28日朝、ホテルのカウンターにいた31歳のキリアゴ氏に話しかけた。彼は英語と片言の日本語を話した。子どもの遊びの調査をしたい旨を伝え、40歳以上の通訳兼案内人を捜してくれるように頼む。彼は大変明るく友好的な人で、キプロスに来てくれたことを感謝すると言いながら積極的に電話をかけて人を捜してくれた。その人は午後1時にホテルのロビーに来るという。私は午前中1人でレフコシアの街を歩いて見て回った。
午後1時、ジョージア・コンスタンチーと名乗る47歳の英語の上手な細身の女性と会った。黒髪で鼻が高く面長、少々クールな感じの彼女に取材目的を30分間説明した。そしてホテルから1kmくらい離れた新しいレフコシアにあるアイコースアンドレアヌ小学校を午後2時頃訪ねると10数名の子どもたちが水道のある校庭の一角で泥遊びをしていた。しばらく眺めていたが、係員に相談して撮影させてもらい、子どもたちに話しかけた。初めは緊張してなかなか話してくれなかったが、ポラロイドで撮影し、その写真を彼らに見せると、自分を撮るようにとポーズをとり、通訳との会話がスムーズになった。
彼らが時間をかけて作った“ラスポメニポ”と呼ばれている“泥の町”には、池や川、山があり、火口まで作ってあった。
午後3時半から、彼女の車で、旧市街の北東はずれにあるポリオスポロスパルコ(北極公園)を訪ねた。ここは彼女の夫の生地で、30年前は村であったそうだが、今ではレフコシア市で、立派な住宅地域である。しかし、その約500m北には北キプロスとの境である“グリーンベルト”が続いていた。そのために“北極公園"と呼ばれるのだそうだ。
午後4時頃から子どもたちが集まって来て走り回ったり、木登りをしたり、常設の遊具などで遊び始めた。どこでもそうだが、子どもたちは一般的に常設の遊具を使って遊びがちである。
しばらく様子を見ていたジョージアが、3人組の女の子たちに話しかけると、彼女たちは、キプロスの伝承遊びを次々に披露してくれた。
彼女たち、ステラ(12)、エレ(11)、ワサ(10)が、まず最初にしたのは“パチド”と呼ばれる“足踏み”であった。これは何人でもできるが、だいたい3~10人が歌を歌った後でお互いの足を踏み合い、踏まれた方が負けで、遊び仲間から離れる。最後に残った者が勝者である。大変活発な野外伝承遊びで、この辺の子どもが今もよくやる遊びだそうである。
30分もすると他にラファエラ(10)という女の子とディミトリ(9)という男の子も加わって、“リキケアリニヤ(狼と羊)”と呼ばれる追いかけっこをして公園内を走り回っていた。子どもたちは5つの遊びを次々にやってくれ、5時半にはうす暗くなり、皆が家路についた。
案内してくれたジョージア・コンスタンチー女史は、公園で遊ぶ子どもたちの姿を見ると表情をくずしてにこやかに話し、自らも子どもたちと楽し気に遊んでいた。
「今日は楽しかった。これで役目は果たせたでしょうか」
彼女は帰りの車の中で少女のような表情で笑いながら尋ねた。「ありがとう。充分です。子どもは世界中どこでも皆同じですね」と答えて笑い返した。
翌日、再びアイユーズアンドレス小学校を訪れた。そして昼前からタクシーを南のクリオンまで走らせ、ローマ時代のクリオン遺跡や古代劇場、アポロンの聖域等を見た後、夕方ホテルに戻った。
岩山のゲハルド修道院(1998年8月)アルメニア
1998年8月29日午前4時50分に、グルジアの首都トビリシからアルメニアの首都エレバンの飛行場に着いた。ところが、入国のチェックがなく、パスポート(旅券)にスタンプを押さない。係員にパスポートを見せて尋ねたら、「いいから外に出なさい」とばかりに手で合図する。世界広しといえど、入国手続きをせずに入国できた国はアルメニアだけだった。
不安を覚えながら空港ロビーに出た。すぐにタクシーを拾ってアルメニアホテルまで走らせた。
南の方にアルメニアのシンボルでもある冠雪した標高5,165メートルの朝かすみの中のアララト山を見ながら、七時前にホテルに着いた。予約をしていたのですぐ部屋に入れてくれた。
午前10時に国営旅行社の事務員スベタナさんがやって来て、アルメニアの旅行予定を知らせてくれた。彼女によると、今日は古都エチミアジンとスバルトノツの遺跡を、明日はガルニ城塞とゲハルド修道院を訪ねることになっているそうだ。私にはほとんど情報がなかったので、彼女の作った計画に従って行動することに同意した。
アルメニアは歴史の古い国だが、ペルシア(イラン)やトルコ、アラブなど他民族の侵入を受けて、国土も人口も定まらない苦難の道を歩んできた。現在のアルメニアの面積は29,800平方キロで、日本の九州よりも少し狭い。人口は約310万人。首都のエレバンは標高千メートルにあって、人口は約135万人と3分の1以上が集中している。
翌30日は快晴。午前10時から通訳兼ガイドのノーラさん(61)の案内で、65歳のフェリックさんの運転する車に乗り、エレバンから南東約28キロのところにあるガルニ城塞に向かった。
ガルニには紀元前3世紀にアルメニア王の夏の宮殿として城塞が建造された。アルメニアには紀元前1世紀頃から多くのペガン(太陽)を祭る神殿が作られた。この太陽神殿はミハラ(ミスラ)と呼ばれた。キリスト教が盛んになるに従ってミハラは破壊されたが、ガルニのミハラだけは破壊されずに残っていた。
ガルニ城塞は天然の要塞で、三方が地震による陥落で断崖絶壁になっており、一方だけに城壁を作ればよかったので難攻不落であった。
アルメニアは火山地帯で地震が多く、山の崩落がよくあるそうだ。アテネのパルテノン神殿を思わせる黒い玄武岩の太陽神殿ミハラは、17世紀の大地震で崩壊したが、1970年に再建されていた。
ガルニから更に10キロほど東北に向かって坂を上った岩山の中の標高1500メートルの所に、ゲハルド修道院があった。最初は紀元4世紀に建立されたが、その後改修され、現在のものは13世紀に建立されたという。アルメニアは石の国であり、石工たちが巨岩を掘り抜いて、聖堂、僧房、廟などを造っていた。
今日は日曜日でもあるので人出が多い。アルメニア正教を信じる信徒が、家族や仲間たちとバスや自家用車でやって来る。入口の街道には花や食物や土産物が売られており、生贄になる羊もいる。
人々がここに詣でるのは、羊や鶏を屠殺してもらうためでもある。生贄の肉は、安全、健康、融和などに役立つ清い食物になると思われているからだ。
羊を生贄にするには、まず修道僧に清めの祈りをしてもらう。一般的には、修道院を回ればよいのだが、ここは後の岩山と合体していて回れないので、庭に建立された特別の岩を四周すればよいことになっている。しかし、多くの人は修道僧に1000ドラム(約300円)払って岩の前でお祈りをしてもらう。その後、指定された場所で専門家によって屠殺されて解体される。人々はその肉を持って帰り、料理して食べるのだという。
この修道院の半分近くは自然石を掘り抜いて作っているので、洞窟修道院であり洞窟教会でもある。だから修道院の後は岩山に続いており、山と一体化した珍しい作りだ。
修道院の前は絶壁で、大変神秘的な自然環境の秘境にある。絶壁を掘り抜いた洞窟には教会や僧房や墓がある。岩山の谷間には清い流れの小川があり、人々が手足や顔を洗っていた。そして、聖水のようなうまい水もある。
誰もが自然の中に佇むことによって心持ちがよくなる所は聖地だ。この岩山の中腹に作られたゲバルド修道院は、古くから聖地としての条件を十分に満たしている。宗教を否定していた共産主義の長いトンネルを潜り抜けた人々が、さんさんとふりそそぐ太陽の下で、自由に聖堂の中に入ってゆく。
敬虔な信徒たちは、石造りの古い聖堂の中でローソクに火を点し、家族の安全や健康、平和を願って、静かに首をたたれていた。