バルカン半島の不思議②(1973年7月)クロアチア

遺跡の上の街スプリット

 クロアチア共和国アドリア海沿岸にあった、ローマ時代の宮殿の上にできた町だと言われるスプリットとは、どんな状態の町なのか、大変興味があった。

 私は、これまでに世界109ヶ国を歩いて、古代の遺跡や遺跡と関わる町を、いろいろな国で見てきたが、遺跡の上や中にできた町をまだ見た事はなかった。人間は新しいものを作る時、古い物を破壊しがちなので、残っているとしたら、大抵は町から離れた所に遺跡があるものだ。

 私は、遺跡の上にできたアドリア海沿岸最大の町、スプリットを見ようと1973年7月頃、リエーカからアドリア海沿いに車を走らせた。

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外から見たスピリット旧市街

 スプリットには午前8時半に着いた。さぞ変わった奇怪な町だろうと目を凝らして見たが、石やレンガで作られたイタリアやギリシアで見かける普通の家が多く、ちっとも変っていない。

 しかし車を下りて、旧市街の中に一歩踏み込んでみると少し趣が異なっていた。海岸通りから横に入ったトンネル、いやトンネルではなく実際はパレスの広間なのだが、詳しいことを知らなかった私はこれをトンネルぐらいに考えていた。薄暗い中を50メートルほど歩き、階段を昇って外に出ると、そこにはローマ時代の遺跡が雁首を並べていた。宮殿の中庭であったようなところだ。しかしそこには家が建ち並び、カフェテリアがあり、周囲には人々が住んでいる。

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ローマ時代の遺跡が立ち並ぶ旧市街の市場
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左は靴の店 右はローマ時代の通り

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左はローマ時代、右は中世の建物

 大きな丸い石柱が居並ぶ中に古い教会があり、その側にはピサの斜塔を四角にしたような高い教会の塔がある。私は、入場料を払って登り、塔の上からスプリットを見下した。

 馬車も人力車も通れないような狭い石畳の通りを歩いた。真中に歩行に差し障りのないような浅い排水溝が走っており、ところどころ流れが落ちる小さな穴があった。

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石畳の排水路
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左はせまい路地で遊ぶ少女たち 右は古い石の階段
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ローマ時代の建物

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ローマ時代の壁

 狭い路地が交差し、高く厚い石を積み重ねた壁があった。パレスの入り口の一つであったダイヤモンドゲイトである。小さな草の生えた壁にはアーチ型の通路があって、広場に通じていた。その通路の横から壁に登る石段があった。16世紀もの長い月日に色々な人が踏みつけて角が丸くなった石段を上りつめると、壁の上に路地があり、古い石造りの壁をうまく利用した人家があった。窓から中をのぞき込むと、中年の婦人が白い糸で編み物をしていた。洗濯物が干してあり、下を見ると路地を歩く人々がいた。

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遺跡の中の住まい

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遺跡の中のレストラン

 私は、何階にいるのか分からない路地を歩いた。壁にさわり、石畳をなでてみた。車もオートバイも通らない、古代と同じような石畳の道を歩いていると、何となく心が弾んだ。どこをどう回ったのか地図を持っていないので分からないが、おかしなことに海岸通りに出た。出たといっても3階ほどの高さで、海辺の通りを見下ろしているのだ。入った時は確かに地下に潜ったような気がしたのだが……。

 現在の市街の一階にいる私は、高いパームツリーの葉と同じ高さにある、カフェテリアに座ってコーヒーを飲みながら、この街はどうなっているのだろうと考えてみたが分からなかった。

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教会の塔の上に登った筆者

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塔の上から見下ろした旧市街

 ふと海岸通りに面した家の壁を見ると、ローマ時代のパレスのものと思える石柱が並んでいるのに気付いた。そうだ、この町の旧市街はディオクレティアヌス・パレスの遺跡の上にある、いや遺跡の中にもあるのだ。この下にパレス,宮殿があるはずなのだ。急いで階段を下りて海岸通りから入口を捜した。

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上から見たローマ時代の建造物

 入口は最初に私が入ったところだった。再び入ってみると、左側に博物館の標識があり、パレスの見取り図と原型の画が壁にはってあった。

 伝説によると、ローマ帝国が滅亡した7世紀頃、近郊のサロナから追われた人々が頑強な宮殿内に避難して住み始め、宮殿の基礎部分はそのままにし、その上に建物を作ったのが始まりだそうだ。その後、色々な人々が住み着き、建物が増築されて町になったため、古代と中世の建物が立ち並ぶような独自の街並みが生まれたとのことだ。

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ローマ時代の建造物の中のカフェテリア

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ローマ時代の壁

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ローマ時代の壁に寄り添う子供たち
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ローマ時代の建物を利用した民家とホテル

 皇帝の死後、多種多様な民族の移住や移動のうちに、このパレスは破壊されたり、利用され、一階は瓦礫や土を詰め込まれたまま存続し続けていたそうだ。そして、その後にやって来た人々によって、その残骸の上に家が次々に建てられた。しかし、その宮殿内の瓦礫を、1956年から63年までかかって、現代人たちが旧市街の西側の左半分だけを掘り出して、博物館としている。一番広い部屋は、石とレンガによる柱が並び、ビザンチン建築様式とされているアーチ型が巧みに作られている。今私が天井を見上げている小広間は、建設当時の四世紀頃の原形をとどめたまま千六百年間もの間眠っていたわけだ。

 この宮殿の内部を見るまで、遺跡の上や中にうまく調和して建てられた町の光景がそれほど不思議ではなかったが、現在は博物館となっている、街の下(地下のようであるが、一階であった)の宮殿跡に入って、天井と青くサビた壁を見上げていると、人間の歴史の重みや文化的つながりが生々しく迫って来た。

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宮殿跡への入口

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宮殿跡の天井

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宮殿跡のカフェテリア

 故意にしろ、必然にしろ、無意識にしろ、古代遺跡の中にこうもうまく侵入してしまっては、古代も現代も人間のありようにはあまり変わったものが見受けられない。でも実際には現代のスプリットには冷蔵庫やテレビ、ラジオも電気も、車も洗濯機もある。

 外来者にとっては遺跡の上の街は、物珍しくて非常にロマンティックに思えるが、実際住んでいる現地の人には、中世と同じような狭い石段や路地、それに石やレンガの古い建物、、など不便なところがあるのかもしれない。でもこれを現代文明によって破壊して新都市を再建すれば、人々は鉄とコンクリートの世界で、伝統文化としての故郷を失った流浪の民となるだろう。故郷としての遺跡と共に生きることの重みに耐えて生きるのも、また一つの生き方なのだ。

 私はそんな思いでスプリットの中心街を歩いたが、外見的にはあまり変わった様子はなかったが、やはり不思議な路地や通りの多い、遺跡の垣間見える街であった。

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ローマ時代の建造物の上に建てた建物

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スプリットの海岸での筆者

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講談社インターナショナルから1973(昭和48)年に出版し拙著(英文)