ナイル川上流への船旅(1966年10月)エジプト

 1966年10月、エジブトの首都カイロから、南のルクソールへ汽車に乗った。第2エジプト帝国の栄えたルクソールにある、テーベの史蹟を2日かけてゆっくり見物した後、アスワンまで汽車に乗り継いだ。アスワンの町からアスワン・ハイ・ダムの作業場までは、ハイ・ダム建設中の労働者用のバスに便乗した。

 ナイル川を上流へさかのぼる、エジブトからスーダン行きの船は、アスワン.ハイ.ダムができたために、ダムからの出発になっていた。スーダン行の船着き場に着いてみると、ルクソールで得た情報をどこでどう記憶間違いをしたのか、船は昨日出たばかりで、次の出発は3日後であった。

 仕方なく桟橋で待つしかない。アスワン・ハイ・ダムは出来たばかりの、まだ作業が残っている状態なので、何の施設もできていなかったし、商店など一軒もない荒野。食物はアスワンの町まで買いに出なければならなかった。

 船を待っていたのは私だけではなく、7人の西スーダン人の隊商がいた。彼らは日に4・5回ナイル川の水で手足を洗い清め、東のメッカに向かってお祈りをする回教徒。彼らは自炊による夕食後、まだ暖かさが残っている砂の上で、薪を燃やして沸かした紅茶を飲み、「インムーイー・インムーイー……」と歌いながら素足でパタバタと大地を踏みつけて踊る。彼らと仲良くなって、インムーイーダンスを習ったり、紅茶を一緒に飲んだり、彼らと同じようにナイル川の水で水浴をした。

 彼らは、白くて長いアラビアスカートをはき、頭にちょこんとターバンを巻いて、左腕に短刀をさした勇壮な格好。彼らは、西スーダンで買った野獣や家畜の皮をエジプトまで運んで売る隊商で、熱砂のサハラ砂漠ラクダにまたがって渡り、アラブ連合のエジプトに越境して首都カイロの商人に生きたラクダ(一頭約3万円)をも売り払って、ラクダの小さなクラだけを持ってスーダンに帰国途中であった。

 1966(昭和41)年10月13日、午後4時10分、アスワン・ハイ・ダムの新しい船着き場から、スーダンのワディハルファー行きの船が出港した。スーダンとエジプト間のメインロードの役目をなしている船は、山と積まれた郵送物と船客や手荷物でごったがえしていた。私は1,100円で3等の切符を買った。

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川沿いの水没しかけた村

 これから3日間のナイル川上流への船旅。快晴で雨は降りそうにないし、気候が良いので、船室に入らずにデッキで寝ることにした。食事は買い込んでおいた物や船中で売られているものを買って食べる。夜は航行せず、午後8時から午前5時までは接岸されている。

 上流に向かえば向かうほど川幅が広くなり、川という感じがしない。湖か海か、それともスエズ運河と同じように思える。その岸辺には、アスワン・ハイ・ダムのためにやがて水没せんとする神殿の石柱や石像があり、人気のない廃墟の村々がポツン・ポツンと見える。中にはもう家の半分が水没した村もあり、何か侘しい光景。

 しかし、後数年してアスワン・ハイ・ダムに水が満杯になれば、水没してこのような中途半端な光景はなくなるので、今しか見られない光景なのかもしれない。そんな思いに駆られ、ナイル川沿いの歴史の一端を見届けておこうと思い、進み行く両岸をつぶさに眺めた。

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左岸側に見えた水没しかけた村、今ではもう没して見えないだろう

 緑色の植物というものがほとんど見えない川の両岸は、褐色の岩山の世界だ。まるでナイル川だけが人工的につくられたような幅数百メートルの溝になっている。昼間は、ギラギラ光る太陽が、岩肌や水面に映えて、キーンと張り詰めたような空気が感じられたが、夕方になると、川面は鏡のごとくになり、人里離れた原始時代のような感じがする。

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ほとんど水没した村

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アブシンベル神殿を移転させた左岸の丘

 2日目になると、川の流域は岩が侵食された段丘がなくなって、徐々に砂漠となり、ピラミッドのような人工的な美しい砂丘が見えた。

 午後1時頃、左岸の水没する低い所の岩壁をはがして、クレーンで丘の上に吊るし上げられた、アブシンベル神殿の巨大な石像が丘の上に座っているのが見えた。そこには何千年もの間、人間とナイル川が織りなしてきた歴史を大きく変えてしまった新しいナイルの歴史が、巨大なアスワン・ハイ・ダムと共に刻み込まれている。人工的に手が加えられた丘の上のこのアブシンベル大神殿が、世界文化遺産の第1号なのである。

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手前の岩壁を削り取って、アブシンベル神殿の巨大な像を丘の上に吊り上げたところ

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水没する場所から丘の上に移転された巨大な神像

 午後3時にスーダンとの国境に接岸された。今夜はここに停泊し、翌朝ワディハルファーに着くそうだ。もう岩山はなく、右岸の東にヌビア砂漠、左岸の西にリビア砂漠を眺める茫洋とした光景。この乾燥した白褐色の砂地の中を大量の水がゆったりと流れるナイル川が、不自然でなんとも異様な感じがする。

 スーダン人たちは船から下りて砂の上に敷物を敷いて座った。夜になると隊商の人たちがたき火をし、紅茶(彼らはアルコールは飲まない)を飲み、インムーイーダンスに興じた。彼らを見ていると、砂漠に生きる人間のあり方を感じずにはいられなかった。

 私は、甲板に寝袋を開いて横になった。砂漠の星空は大変美しく、夢・幻のようなナイル川の船旅を感じつつ眠りについた。

 翌日、午前5時に国境を出発し、午前9時にワディハルファーに着いた。町はすでに大半が水没していた。イスラム教寺院の高い塔(ミナレット)が、パームヤシの木と共に、ここに町があったことを伝えるように水面にある。砂漠の中に臨時につくられたバラック建ての家が並ぶ町には、銀行も駅舎もなく、線路のみが続いている。

 移民局の事務官たちの手続きが悪く、スーダンへの上陸は午前11時になった。砂漠の中に臨時にできた町から続く線路に午後3時、首都のハルツーム行きの汽車が来た。砂漠の中を走るおんぼろ汽車に揺られ、ほこりまみれになって、夜中の11時15分にハルツームに着いた。

 *当時撮影したのは白黒フイルムであった。

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ヌビア砂漠でのスーダン人と筆者

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ワデイハルファーから首都ハルツームへの汽車の中でのスーダン人と筆者

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1968(昭和43)年12月に、青春出版社から出版した、アフリカ大陸縦断を記した最初の拙著